Erythronium japonicum
2000年5月 筑波山 |
貝原益軒『大和本草巻之九 草之五 雜草類』(1709)には,なんともつかない植物の図に
カタコ 高二尺許莖紫色葉面ニ有二黒點一花カサクルマノ
如シ紫色ナリ比睿山ニアリ正月ノ末開レ花尤美ナリ根ノ形
芋ノ如ク又蓮根ノ如シ若水云本草紫參下ニ出タル旱
藕ナルヘシ其粉如レ米ノ味甘シ食スヘシ人ノ補益スト云〇
萬葉十九攀二折堅香子(カタカゴ)草花ヲ一哥云云古抄ニ云香子ハ
猪舌トモ云春紫色ノ花サク今按是
カタコナルカ新選六帖ニモカ
タカコノ歌アリ」とある.花の色,葉の描写及び根(鱗茎)の利用法はカタクリに適合するが,高さ(60 cm)や根の形状はこれに合わない.
この益軒(篤信)の記述に対して,江戸後期の国学者★屋代弘賢(1758-1841)は類書『古今要覧稿』(幕命により 1821編纂開始,1842までに560巻を調進)の「第四百四 ●草木部 かたこ」で,「按に凡かたしは其莖高きものといへ共僅に六七寸に過ざるものなるに今二尺許といへるはおそらくは傳聞の誤りなるべし陸奥南部のものといへ共さはおい出ざるよしなればいかで比叡山あたりのものヽしか生出る事やはあるまた其花風車の如く根蓮根の如しといふもかなはず按に本草啓蒙に古説に此草を旱藕とするは穏ならずといへりこれはいとよき考なれども大和本草かたこの上に和品としるせしによれば其實は篤信も若水の説をよろしとせしにはあらざるべし」と,益軒は伝聞で書いたのだろうとしている.益軒は京都に在住していたので比叡山のカタクリを見ることは出来たのであろうが.
江戸の植木屋の一族として名高い★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)の「四 草花春之部」には
{初(はつ)ゆり (初中) 花紫にてひめゆりほとあり下はむきて花さく葉ハ行者(ぎやうじゃ)にんにくといふ草のごとく花一りんづゝ茎立て咲ク高さ四五寸ぶんたいゆりともいふ也」とある.また,
★伊藤伊兵衛『増補地錦抄』(1695)の「巻之六 草花春之部」には「初ゆり」の図がある.
★伊藤伊兵衛の『広益地錦抄』(1719)には
{初(はつ)ゆり (初中) 花紫にてひめゆりほとあり下はむきて花さく葉ハ行者(ぎやうじゃ)にんにくといふ草のごとく花一りんづゝ茎立て咲ク高さ四五寸ぶんたいゆりともいふ也」とある.また,
★伊藤伊兵衛『増補地錦抄』(1695)の「巻之六 草花春之部」には「初ゆり」の図がある.
★伊藤伊兵衛の『広益地錦抄』(1719)には
「カタコ 宿根より初春正月に葉出る車前の葉
紋(モン)あり葉二枚出て中より花出る六出にして紫
いろ花ひらそりかへりてゆりの花形なるゆへ
初百合(ハツユリ)草とよぶ五六寸ほどの小草之正月すへ
二月花開く珍らしく鉢にうへて愛すべし」とある.
実際に育てていたのであろう.葉や花の記述は正確で,鉢植えとして鑑賞していたことが分かる.図も簡略ながらよく特徴を捉えている.
西美濃養老の真泉寺住職玄香(?-1749)と推定される★毘留舎那谷の『東莠南畝讖』は,自序は1731年(享保16)であるが、本文中の年記は1723年(享保8)から1748(寛延元年)に及ぶ.植物377品・動物90品を写生していて,大半は特徴がよく描かれ,暖かみのある良い図が多い.散策あるいは近辺の寺院への往還での写生で,当時の植物相を知る好材料であろう.朱筆は後年に小野蘭山が書き入れたもので,図のうち433点が,後年飯沼慾斎画『本草図譜』に転写されている.(故磯野教授による)
「唐嶋百合草 三月土曜入 二三月咲始
自櫻至海棠ノ盛ナル時或ハ
斤(片?)繰(カタクリ)或ハ山慈菰
車前葉山慈姑カタクリ」朱筆は小野蘭山が品名を考定あるいは訂正した書き入れ(自筆).
と漢字表記は「斤(片?)繰」と片栗とは異なるものヽ「カタクリ」と,当時から西日本でも呼びならわされていたことが分かる.
「かたこ百合(ゆり)
芲エンジノグ
同クマ
ニホイ青」と色の指定がされ,更に
「かたこ草 かたこゆり 旱藕(かんぐう)
葉さゝ葉に似て花のかたちゆりのごとく色うす紅なり
万葉集(まんえふ志ふ)のかたくりこれなりもちあつかふこと久し
藝花家(げいくハけ)にて初ゆりといふ二月はなあり」
との記述がある.橘保国は実際には花も葉も見ていなかったのであろう.
★阿部照任 (生年不詳 – 1753) らの『採薬使記』(1758序,写本.森立之の旧蔵,白井文庫本)の「巻之上」には
「○重康*曰奥州南部ニカタクリト云フ草
アリ其形チ百合ニ似タリ花モユリニ似
テ紫色正二月此花咲ク其根ヲトリ葛ノ
如ク水飛シテ水ニテ子リ餅トナシ食フ
葛ヨリハ色白ク甚タミコトナル物トナ
リ土人専ラ久痢ニ用ヒテ益アリト云フ
ナリ
光生**按スルニカタクリ江東処々ニ生
イユリトモ云フ正月頃花咲ク故ニ初
ユリト称ス花萎(シホ)レテ後ニ葉ヲ生ス花
ノトキ花ナキユ故ニ姥ユリトモイフ葉
ノ形チ車前草ノ葉ニ似タリ葉ノ面ニ
黒キ斑アリ是レ萬葉集及ヒ新撰六帖
ニ詠スル所ノ堅香子(カタコ)ト云フモノナリ
或曰本艸紫參***ノ下ニ載スル旱藕****ナルヘシ
堅栗」とある.
やはり北国に多く見られ,鱗茎が食用とされる事もあった「ウバユリ」の記述が混入しているが,挿図では葉と花が描かれている.『画本野山草』と比べると,花はほぼ同じで「花モユリニ似テ」と上を向いて,かつ花被片が反り返っていないのが気になるが,葉には斑点があり,『画本野山草』より正確といってよいだろう.
「本書は厳密な意味での照任の著述ではない。照任と重康が、幕命を受けて、採薬使として全国各地をめぐり、発見した動植物について口述したことを、高大醇が筆録し,一七五八年に後藤光寧が編纂したものである。三十五国、百七品にわたり、陸奥国のものが四十種で最も多い。」(NDL, 『採薬使記』書誌情報より)
*松井重康,**後藤光寧
***本艸紫參:『本草綱目』では「紫參」の項にもあるが,「草之一 山草類」の「王孫」の項に
(《本經》中品)【校正】並入《拾遺》旱藕」とあり,旱藕=牡蒙=王孫 とされている.「王孫」はツクバネソウ(Paris tetraphylla
A. Gray)に考定されている.
***旱藕:本体不明,現代中国では食用カンナ(芭蕉芋,Canna edulis Ker Gawl.)をこう呼ぶ.