2017年6月21日水曜日

カタクリ (1) 万葉集,古今和歌六帖,新撰和歌六帖,萬葉集註釈,萬葉考,牧野新日本植物図鑑,植物の名前の話,和泉晃一「草木名のはなし」,古今要覧稿

Erythronium japonicum
2009年4月 弘前城植物園
カタクリの花に関する現存最古の文献は,『萬葉集巻之十九』に収められた大伴家持の歌である事に,衆目はほぼ一致している.この歌は天平勝宝二年の春三月二日、家持が越中守として国府(現・高岡市伏木あたり)で詠んだもので,

「攀折堅香子草花歌一首(堅香子の草花を攀じ折る歌一首)
物部能八十乃●嬬等之挹亂寺井之於乃堅香子之花 ( ●=女ヘンに感)」
もののふの やそのをとめらが くみまがふ てらゐのうへの かたかごのはな
(現代語訳:「モノノフノ(枕詞)八十の処女達が汲みさわぐ寺の井のほとりの、かたかごの花かな。」土屋文明『万葉集私註』(1949-1956)筑摩書房)
左図:「活字萬葉集」(慶長年間刊,1596-1615)『万葉集』最古の刊本で,伏見版(円光寺版)の木活字を使用し,不足の文字を新雕し印行したものとされる.万葉仮名の本文のみで,無訓本と通称されるもの.

平安時代から鎌倉初期には,この「堅香之花」を「かたかの花」即ち「堅樫の花」と解釈していたらしく,『古今和歌六帖』(976-987 or -938)では,この歌が「第六 草」ではなく「第六 木」に,『新撰和歌六帖(新撰六帖題和歌)』(1243)でも,「かたかし」を詠った家良,為家,知家,行家,光俊の歌五首が「第六 草」ではなく「第六 木」に収められている.

古今六帖              第六 木
 武士の八十をとめらかふみとよむ
              寺井の上の堅かしの花                      大伴宿禰家持

新撰六帖              第六 木
妹かくむ寺井の上の堅かしの                                        衣笠内大臣家良公
              花咲ほとに春そなりぬる
誰か見む身をおく山に年ふとも                      前藤大納言爲家
              世に逢ことの堅かしの花
小車のもろ輪にかヽかる堅かしの                   九条三位入道知家
              いつれも強き人こヽろかな
かつはまた岩にたとふる堅かしも                   左京太夫行家
              つれなき人の心にそしる
人こヽろなへておもへは堅かしの                   右大辧入道光俊
              花はひらくる時もありけり

しかし鎌倉時代初期における天台宗の学問僧仙覺1203? – 1272 以降)が『萬葉集註釈(1269) において,「此歌の落句,古點にはかたかしのはなと點ぜり,是をかたかこの花と點ずべし,かしと點ずれば,樫の木にまがひぬべし,端作の詞に,堅香子草花とかけり,草と聞えたり,かたかこをば,又はゐのしりといふ,春花さく草也,その花の色はむらさきなり」
と,「子」を「シ」ではなく「コ」と読むべきであり,さらに草花とされている事から「堅香子=かたかこ(ゐのしり)=カタクリ」と考定して,以降定説となった.

右図:仙覺『萬葉集註釋』(写本,江戸時代, NDL

江戸時代中期の国学者,歌人賀茂真淵 (1697-1769) の ★『萬葉考』(賀茂真淵全集.1903-1906,吉川弘文館)「第三 巻之十九考」には,  
「〇攀堅香子草花カタカゴノハナヲタオレル)歌,  今云かたくりなるべし此花はすみれ草の花に似てもヽ色なるが見るかひ有花なればとりてめづべし越の國にてはかたかごといふ【越の國にて加多加呉といふよしいへば北國の方言ならん】近江安房のやまには多しといへり武蔵の王子てふ里にも有といへり叉陸奥南部にてもかたくりといへり下野二荒山にも有さてかたくりの久は古由の約にて加多古由利にて堅小百合なり加多加古といふ加多は堅にて加は古に通ひ下の古は久に通ふ其久は古由の約にて同言方言なり.

物部能, 冠辭

八十乃●嬬等之(ヲトメラガ)( ●=女ヘンに感),挹亂(ツミミダル) 今本に是を久美萬我布とよめるは未し挹は都美とよむべし字書には酌なりともあれども叉取也ともあれば都美と訓べし井によるは中々古意ならずと有は真淵考にていとよし諸成案るに亂を刀與牟と讀しはいかヾ義訓なれば物によりて亂は刀與牟とはよむべき義ながらこヽは多くのをとめをいふにて艶なるさまなれば刀與牟はいかヾあらん刀與牟は刀は都與の約にてやがて強呼する事なれば郭公などの高く鳴をとよむといふなりをとめは高い聲はせじなればこヽはみだれつむを上下していふ言として都美未太留と訓むべし.

寺井之於乃(ウヘノ)堅香子之花 」とある.

従って賀茂真淵の考えによればこの歌は,「もののふの やそのをとめらが つみみだる てらゐのうへの かたかごのはな」と読むべきであって,「多くの乙女たちが,てらゐの井戸の近くで,さんざめきながら美しいカタクリの花を摘んでいる」という情景を詠った歌となる.花も葉も山菜として利用されていたのであろう.
私は,こちらの解釈の方が華やかで,長い冬を堪えて,ようやく迎えた春のきらびやかさを詠う歌として納得できる.

なお,『萬葉考』は全九冊.1768~1835年刊.真淵は総論で万葉集の文学批評的研究を行い,自らが万葉集の原型と考える巻と巻序で,巻一・二・一三・一一・一二・一四の六巻に注釈を施した.新見・創見に富み,万葉集の研究史上最も重要な書であるが,いたずらに本文を改めた部分もある.残り一四巻は,のちに門人狛諸成(こまもろなり,1722~1802)が真淵の草稿本を基に完成.引用した十九巻は狛諸成の手になる巻.

一方,近代になって,この「カタカゴ」を「コバイモ」に考定する説が著名な植物学者によって唱えられた.
牧野富太郎1862 - 1957)は『牧野新日本植物図鑑』(1989,北隆館)の「かたくり(かたこ)〔ゆり科〕」の項で「(略)
〔日本名〕古名をカタカゴ、それからカタコの名も出た、これは傾いた籠状の花という意味であろうし、またカタクリは片栗でクリの子葉の一片に似ているという意味であろうが、本種にはぴったりせず、むしろコバイモがこれらの性質をよく示すからカタカゴの名はそれからこれへうつったものではないかという説がある。」と記す.

水谷豊文(1779-1833)  本草綱目紀聞
NDL
更に,元東大教授前川文夫1908-84)も『植物の名前の話(1994,八坂書房)の「10. カタカゴの正体」で,
「コバイモは、東北地方西南部から北陸・北国・東海・近畿地方をへて四国の山間部にわたって分布する、ユリ科の多年生草本。現在、その産地はまれであるが、時に人家近くに逸脱したり、庭に栽培されたりする。
早春期植物の一で、葉は披針形―広線形、花茎10-20cm。その先に1個、風鈴状の花をうつむき加減に垂れる。そのさまが文字通り『傾いた籠』に見えるところから、本草はカタカゴ(傾籠)の名をえた。
また、地下の比較的に浅いところ、ふつう2-3cmの深さに、直径11.5cmほどの円い玉がある。これが鱗茎で、ユリの百合根やカタクリの細長い根の部分(鱗茎)に当たるものである。この円い玉は、実は2個の半円球の鱗片からできていて、強く押せば2片に分かれる。その分かれた1片がクリの形に似ているので、『片栗』の名が起こった。

このようにコバイモは、地上部の花に着目してカタカゴと名付けられ、また地下部の鱗茎に着目してカタクリと名付けられたが、これらの名前は食糧植物としての必要性からつけられたものであった。言い換えれば、食糧となる地下部のカタクリを手に入れるため、目印としたのが地上のカタカゴの花だったのである。

元のカタクリ(コバイモ)は、鱗茎が丸く大きく、しかも地下浅くあるので、食糧植物としては格好のものであった。それで、元のカタクリは大量に乱獲され数を減らした。その結果、食料資源としての意義を失い、その名は世間から忘れられていった。
一方、これに並行して本州の中部以北では、今のカタクリが新しく食糧に用いられようになり、やがて、これがカタクリの名を専用するに至った.

なお、大伴家持の歌にでてくるカタカゴは元のカタクリ(コバイモ)である。家持は恐らく大和でアワノコバイモを知っており、任地の越中国府で類似のコシノコバイモに出会って、その感興を万194143の歌にしたという。」と記した(確認中).

これに対して,和泉晃一さんは,「草木名のはなし」」(1)(http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/)の「カタクリ」の項で,江戸後期の百科事典である屋代弘賢『古今要覧稿(1842) に「此この草くさはじめて生出て一とせ二とせのうちすべて片葉にて、状おおはこの葉に似てしろみを帯なかにわきて白き筋及び紫のまだらある故に、片葉鹿の子といひしなり。」とあることを引いて,若い葉は一枚で,花を着けるようになると二枚になる事と,斑の模様があることから「(カタクリは)カタコユリの約。幼草期のカタクリは、まだら模様(鹿の子模様)をつけた葉を1枚(片葉)だけ出し、経年成長を繰り返すので、「片葉鹿の子」と呼ばれた。このカタハカノコがカタカゴ(カタクリの古名)・カタコ(カタクリの別名)をへて、カタコユリ・カタクリとなったもの。」と語源を説明し,方言の分布も参考に,萬葉集の歌の「堅香子」はカタクリだと考定していて,説得力に富む.

0 件のコメント: