Erythronium
japonicum
江戸後期になると,盛岡南部の方言「カタクリ」が一般的に使われるようになり,また,その有用性からか,本草家や随筆家に注目されるようになり,広い範囲の地方でその存在が認められ,多くの方言も記録された.一方,漢名としては,いずれも誤用の「車前葉山慈姑」及び「旱藕」が本草家の間では頻用された.
花の美しさにも目が止められたと見え,実写と思われる精緻な画像が残されている.特に葉の斑点は,これまでの図とは異なり,自然である.
挿入資料画像は NDL 公開デジタル画像よりの部分引用.
岩崎灌園 (1786-1842) は,江戸時代後期の本草家.江戸出身の幕臣.晩年の小野蘭山に師事.多くの地方を旅して,薬草に限らず,植物全般の記録を残した.文政11年,約2000種の植物を収録した本格的彩色植物図鑑「本草図譜」96巻を完成.著作は他に「武江産物志」「草木育種」など多数.
★岩崎灌園『日光山草木之図 第二巻』(1824) 上図左端
「かたく里」
★岩崎灌園『武江産物志』(1824) 上図中央
「藥草
堀ノ内大箕谷*邉ノ産
フクワウサウ ヤハヅアキアサミ 石龍膽(つるりんどう) サジクサ
車前葉山慈姑(かたくり) 八幡山中 ナガサキ村ニモ 叡山ハグマ 赤山ニモ」
*堀ノ内大箕谷:多摩郡堀ノ内村,現 東京都杉並区堀ノ内か
★岩崎灌園『本草圖譜 第七巻』(1828 自序) 上図右端
「山慈姑
一種 かたく里 南部
武州大箕谷野州日光山にあり 南部尤(もつとも)名産也正月一葉を生す その二葉出るものは花あり
六辧淡紫色百合花に似て細し
日光産は花深紫色
根白色指頭(ゆびのさき)の如く煮て菜となし乾て粉となす
藏器の説に葉似二車前一といふこれなり」
描かれた開花時のカタクリの左の株は『日光山草木之図巻』とほぼ同じ.
毛利梅園 『梅園草木花譜』 春乃部 第三巻 |
度々本ブログで引用している,江戸後期の博物家で,画が巧みで,大半が実写である図を多く描いている★毛利梅園(1798 – 1851)の『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)『春乃部 第三巻』には,西暦1826年4月7日に武州大箕の八幡宮を望む山林で採取した5莖のカタクリの花を翌日写生した美しくも正確な図とともに
「地錦抄ニハ
カタコ 初百合草
フンダイ百合
多識編 山草類ニ曰
王孫 和土知恵名波利 異名 牡蒙(ボウモウ)弘景 黄孫 別録
黄昬(コン)同 旱藕(カンクウ) 長孫 海孫 白功(コウ)草
蔓延 王孫
予曰 牡蒙ハ与二紫參一同名也
黄昬ハ与二合歡木一同名
一莖一花二葉也
丙戌年*姑洗**初一日***
大箕八幡宮****望山林
折留四莖翌二日眞
寫
*丙戌:文政9年,1826年.**姑洗:陰暦3月の異称.***初一日:西暦1826年4月7日
****灌園『武江産物志』にある「堀ノ内大箕谷,八幡山中」か.
大和本草ニハ 雑艸 類ニ載
寿*考
本草綱目ニ曰ルハ王孫其葉生二ス
顛項一ニ似二リ紫河車一ニ又似二リト及已一ニ
云ル者ハ別物和漢三才圖會ノ
王孫ノ形又異リ以二王孫一爲二ス王(クチ)
孫(アサイ)一 一名两種王孫一種別種
本綱ニ所レ載ト同シ
*寿:毛利梅園の名,元寿,つまり本人と思われる.」
武江産物志に曰
車前葉山慈姑(かたくり)
異名分類聚に曰
王孫 かたかこの花
和名つちはり又云すはり草
本草の王孫 釋名 旱藕也云々
予考 つちはりは四月に有れ花者香子とは別物也王孫は俗に立葵と云者也ヱレン草とも云
和俗には かたくり かたこ 初百合 ぶんだいゆり ごんべいろう
此は土地に依て謂る歟〇旭山子文會禄に旱藕かたこ〇かたくり〇鼡百合
此者一花二葉花は山丹に●(イ+巨)て鼡の毛色と一般故に鼡百合と云其余名義
未詳根は藕に●(イ+巨)て細小く五六歳の小兒の指の如し長さ寸余り云々
大和本草に曰
カタクリ 本草紫參の條に曰旱藕なるよし謂り
萬葉集第十九 攀二-折堅香子(かたかこ)草の花一を哥云々古抄には猪舌とも言
春紫色の花さく今按に香多加子なる歟新撰にも堅香子の哥あり
予曰 萬葉集古今抄新撰六帖和歌六帖●も
武士乃八十妹乃加汲萬香無(もののぶのやそのいもじがくみまごふ)
寺井乃上乃堅香子乃波奈(てらいのうえのかたかこのはな)
又萬葉集の堅香子の花は似二る躑躅一に草也とは心得ぬ説なり〇小車乃師輪仁掛
堅香々乃何強人心哉(をぐるまのもろわにかくるかたかかのいつれもつよきひとこころかな) 堅子(かたこ)を堅香(かたか)と讀たる歟」とある.
茅原定『茅窗漫録上巻』 挿図は左下 |
★茅原定(茅窓,1774-1840))『茅窗漫録(ぼうそうまんろく)上巻』(1833)
「○カタクリ
旱藕
病人飲食進みがたく、至て危篤(キトク)の症になると、カタクリといふ葛粉(クヅ)のごとくなる物を、湯にたてゝ飲(ノマ)志む。近歳一統の風俗となれり。最初何者のいひ出せし事にや。是は本草綱目山草類王孫の釈名に出たる旱藕(カムグウ)といふ草の根(ネ)を製したるものにて、東國、北國より多く出し、奥州南部、加州山中及ヒ越前より出す物、最モ上品なり。
唐書方技傳に、開元ノ末、姜撫言フ、終南山ニ有リ二旱藕(カムグウ)一.餌バレ之ヲ延スレ年ヲ。状チ類ス二葛粉ニ一。帝作シテ二湯餅ト一賜フ二大臣ニ一。右驍衛将軍甘守誠能ク詺ス二薬石ヲ一。曰ク、旱藕(カムグウ)ハ牡蒙也(ナリ)。方家久シク不レ用。撫易テレ名ヲ以テ神ニスルレ之ヲ爾(ノミ)とあり。餌バレ之ヲ延スレ年ヲといひ、陳蔵器の説に、長生不レ飢エ黒ス二毛髪ヲ一といふにより、かゝる風俗となりしと見ゆ。
唐書方技傳に、開元ノ末、姜撫言フ、終南山ニ有リ二旱藕(カムグウ)一.餌バレ之ヲ延スレ年ヲ。状チ類ス二葛粉ニ一。帝作シテ二湯餅ト一賜フ二大臣ニ一。右驍衛将軍甘守誠能ク詺ス二薬石ヲ一。曰ク、旱藕(カムグウ)ハ牡蒙也(ナリ)。方家久シク不レ用。撫易テレ名ヲ以テ神ニスルレ之ヲ爾(ノミ)とあり。餌バレ之ヲ延スレ年ヲといひ、陳蔵器の説に、長生不レ飢エ黒ス二毛髪ヲ一といふにより、かゝる風俗となりしと見ゆ。
此草昔は堅香子(カタカゴ)といふ。一名猪(ヰ)の舌(シタ)ともいふ。萬葉集第十九天平感宝元年五月十二日*於テ二
越中国主館一大伴宿禰家持(トモノスク子ヤカモチ)作ルレ之ヲ。攀二折ル堅香子(カタカゴ)艸(クサノ)花ヲ一一首
(モノヽフノヤソノイモラガクミマガフテラヰノウへノカタカゴノハナ)
物部能八十乃●嬬等之挹亂寺井之於乃堅香子之花 ( ●=女ヘンに感)
萬葉目安*に、堅香子花(カタカゴハナ)は、つゝじに似たる草なりとて、
小車の諸輪(モロワ)にかくるかたかゞのいづれもつよき人心
かな コガ通音
(*天平感宝元年五月十二日:萬葉集原文では「天平勝寶二年三月二日」)
新撰六帖にハ堅香子(カタカゴ)を讀ミ誤りて、樫(カシ)とこゝろへ、木ノ部に入れて、萬葉下句を寺井のうへの堅(カタ)かしの花と出せり。此草の形チ、葉ハ和大黄の初生、またハ車前葉(オホバコ)のごとく、一根にたゞ二葉生じて相對す。其葉に淡紫色の斑点(ハムテム)あり。山生は四月頃(コロ)葉間に莖立て、莖頭に六辧の紫花を開く。長サ五寸許リ、径リ一寸五分許リ、唯一莖一花のみ俯(フ)してひらく。百合花のごとし。辧の末ハ上に翻(ヒルガヘ)る。希にハ白花もあり。根ハ葱白又ハ水仙のごとし。
北國能登邉にてハ、此根を採リ煮熟して食に供す。所在は寒國に多く生ずる物なれど、今ハ諸國往々にあり。京都近邉は、叡山、雲母坂(キラヽザカ)、篠原(サヽハラ)の中に多く生ず。嫩(ワカ)葉を摘(ツミ)て漬物となし、菜に充(アツ)。又播州神出山(カムデヤマ)、雄子尾(ヲコ)、雌子尾(メコヲ)の山中に多くある事、播州名所図會に載セたり。
此の根を採(トリ)て葛(クヅ)を製するごとくにし、餅(モチ)とするを堅子餅(カタコモチ)といふ。越前にて多く製す。南都にての製、東府へ献上せらる。又大和ノ宇陀(ウダ)葛屋藤助よりも、おなじく献上す。此ノ草、諸國方言多し。京師にてカタユリとも、初(ハツ)ユリともいふ。東府にてカゞユリとも、フムタイユリともいふ。佐渡にてカタハナといふ。
延年長生の語より事起りて、危篤の病人、一統に服餌(フクジ)する風俗となり、遂には進献供用の物となるも奇ならずや。
此の根を採(トリ)て葛(クヅ)を製するごとくにし、餅(モチ)とするを堅子餅(カタコモチ)といふ。越前にて多く製す。南都にての製、東府へ献上せらる。又大和ノ宇陀(ウダ)葛屋藤助よりも、おなじく献上す。此ノ草、諸國方言多し。京師にてカタユリとも、初(ハツ)ユリともいふ。東府にてカゞユリとも、フムタイユリともいふ。佐渡にてカタハナといふ。
延年長生の語より事起りて、危篤の病人、一統に服餌(フクジ)する風俗となり、遂には進献供用の物となるも奇ならずや。
茅窗漫録上巻終」