2018年1月22日月曜日

キンラン (2/6) 学名 Serapias falcate ツンベルク『日本植物誌』,伊藤圭介『泰西本草名疏』

Cephalanthera falcata
2004年5月 茨城県南部
キンランに最初に学名を付けて西欧に紹介したのは,長崎オランダ商館の医師として,1775 – 1776年滞日した,スウェーデン人の医師・植物学者カール・ツンベルク(ツユンベリー)で,商館長の江戸参府に同行した旅の途上,箱根で観察・採取したキンランに Serapias falcate と命名し,和名はキンラン,キサンランであると『日本植物誌』(Flora Japonica, 1784)に発表した(Serapias:セラピアス属,falcate:鎌のような,葉の形状からか).

一方,伊藤圭介がシーボルトの指導を受けて,このツンベルクの『日本植物誌』の和産植物の学名をABC順に並べ,それに対応する和名を記した本文を含む『泰西本草名疏』1829)では,Serapias falcate” の和名は「カキラン・サハラン」であり,Serapias erecta (ギンラン)の和名が「キンラン・キサンラン」であるとした.この誤りはシーボルトによるものと思われる.
現在,キンランの学名は,属が変わったために Cephalanthera falcata に,ギンランのそれは,Cephalanthera erecta  になっている(後述).

カール・ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) 1776年に,恒例となっていたオランダ商館長の将軍謁見の旅に同行し,”RESA UTI EUROPA, AFRICA, ASIA, FÖRRÄTTAD ÅREN 1770 - 1779. Tredje Delen, INNEHÅLLANDE RESAN TIL OCH UTI KEJSAREDÖMET JAPAN, ÅREN 1775 OCH 1776” (1791) に日本での見聞を記録した.また多くの日本の植物を観察・記録し,また採取・腊葉にして本国に持ち帰った.

★『日本植物誌』(Flora Japonica, 1784)に
Serapias (セラピアス属)の部には,
falcate. S. bulbis . . . ., foliis ensiformibus convolutis falcatis,
floribus erectis.
Japonice; Kin Ran.
Crescit in Monte Fakona, florens Aprili.
Caulis foliis vaginantibus tectus, spithamaeus.
Folia vaginantia, ensiformia, convoluta, acuta, nervosa,
integra, glabra, falcata, digitalia, circiter
quinque.
Flores terininales, spicati, erecti”
と,箱根山で四月に観察して,和名は「キンラン」であると,記されている(左図最下部).
また,幾つかの日本の植物の銅版画を納めた “Icones plantarum japonicarum”  (1794) にもキンランの収載されている(右下図右,BHL).

彼が箱根山で採取したキンランの腊葉は,後に学長を務めたウプサラ大学に現在でも保存されている(右下図左)
Thunberg's Japanese Plants - an image database
Specimen details, 21323. Serapias falcata Thunb,
Thunberg “Icones plantarum japonicarum (1794)” tab.5 

彼の旅行記の内,日本の部を和訳した ★CP・ツユンベリー,高橋文訳『江戸参府随行記』東洋文庫583 平凡社 (1994) の「島田/富士山/箱根(1776年)」の記事には,
「島田で二昼夜休み、四月二三日、再び出発した。
(中略)
翌日、箱根(はこね)山と呼ぶ難儀で険しい山越えの旅が、我々を待っていた。午前中いっぱいかかって高所へ登り、へとへとに疲れてそこで休憩した。それからさらに午後いっぱいかかって、山の反対側の麓へ着いた。
今日私は、乗り物でゆられて行くようなことはほとんどせず、潅木や野生の木が生い茂っている丘をできるだけ徒歩で登るようにした。これらの丘は、長崎の町郊外やその港を除いて、私が歩き廻って調査することができた唯一のものであった。しかし、私は乗り物の運搬人の重荷を軽減したのと引き替えに、交替で私の後についてくる通詞ととりわけ下級役人の両者に、苦労の多い旅を強いたのである。私は道をはずれて遠くへ行くような許可を持っていなかった。しかしかつてアフリカの山々で、私はその岩壁を駈け登って鍛えていたので、時に私を悩ませ、そして息せき切ってついてくる随員よりも、しばしばかなりの距離を先んじていた。そのため、相当数の珍しい植物を採集する余裕があった。花が咲き始めたそれらの植物を、私は自分のハンカチに入れた。
(中略)
五月二七日、我々は箱根山を越えたが、そこで往路と同じような事柄に出会った。箱根村で昼食をとり、往路に注文しておいた品物を受け取って、その支払いをした。それから山の反対側にある三島で夜の宿を取った。」とあるので,ツンベルクは江戸への往路, 1776年の4月24日に,箱根の山でこのキンランを採取し,腊葉とし,スウェーデンに持ち帰ったと考えられる.

また,採集場所は不明ながら,Serapias (セラピアス属)の部には白い花 S. erectaが記載され,和名は「クチナワイチゴ “Kutjinawa Itsigo”」であると記されている.この和名は誤りで,「ギンラン」と同定されている.
SERAPIAS.
ercta. S. bulbis . . . . . , foliis ovatis amplexicaulibus, floribus
erectis.
Japonice: Kutjinawa Itsigo.
Caulis erectus, subflexuosus, angulatus, glaber, spi-.
thamaeus.
Folia circiter quinque, alterna, amplexicaulia; duo
inferiora vaginiformia; duo intermedia ovata, acu-
ta, integra, nervosa, glabra, erecto-patula, pollica-
ria; supremum lanceolatum, nervosum.
Flores terminales, spicati, erecti, albi, minuti
(左上図最下部)

日本植物誌』(Flora Japonica, 1784)には,もう一つ「クチナハイチゴ(Kutsnawa Itsigo)」と読める植物が記録されている.
“POTENTILLA” 属に
grandiflora P. foliis ternatis dentatis utrinque fubpilofis, caule de-
cumbente foliis longiore.
Potentilla grandiflora. Linn. sp. Pl p. 715.
Japonice: Itsigo Gusa, Kawara Saika, Hebi Itsigo et
Kutsnawa Itsigo.
Kutsnawa Itsigo. Kaempf. Am. ex. Fasc. V. p. 787.
Crescit iuxta margines viarum et alibi vulgaris.
Floret Martio, Aprili.
と記されている(左図,BDL).
この植物の和名の一つが「ヘビイチゴ(Hebi Itsigo)」とされていることから,こちらが本来のクチナハイチゴと思われる.
現在のヘビイチゴの標準的な学名は,Potentilla hebiichigo Yonek. et H.Ohashiである.

伊藤圭介(1803 - 1901)の,このツンベルクの『日本植物誌』に記載された植物の学名をABC順に並べ,それに対応する和名を記したリストを含む★『泰西本草名疏』1829)においては,具体的な植物の同定に関してシーボルトの意見が取り入れられている.
この書に於いて,Serapias falcate” の和名は「カキラン・サハラン」とされ,一方 Serapias erecta (ギンラン)の和名が「キンラン・キサンラン」であるとされた(下図,NDL).この誤りはシーボルトによるものと思われる.

SERAPIAS
 ERECTA. TH.
キンラン
蛇苺クチナハイチゴハ上十四丁ニ出ツ
 キサンラン
 クチナワイチゴ
---------------
 LONGIFOLIA. LINN.
〇云詳カナラズ
 
 シキヤウラン シウラン
---------------
 FALCATA. TH
スヾラン
 サハラン
 キンラン

和名の項に〇があるのは,この同定にシーボルトが関与していることを示す.また,各植物の和名の脇の長方形の部分には,ツンベルクの “Japonice” から推定された和名を記した.
この書の「凡例」に「和名ノ下ノ○符ヲ載スルモノ多シ是本稚(ワカ)膽(井)八郎ノ説ナリ.ソノ説間春(マチェン)氏ノ説ト同ジカラザルモノアリ今併テ是ヲ擧載シ傍ニ□ヲ作リテ春(チェン)氏ノ舊ヲ存ス」とある.「春氏」とは,「春別爾孤(チユンベルク)」即ち,ツンベルクの事である.

『泰西本草名疏』(1829)が出版された時期は,シーボルトが所謂「シーボルト事件」を起こした時期で,伊藤圭介は直接この事件とはかかわりなかったものの,シーボルトの名前を書くことを憚ったらしく,「稚(ワカ)膽(井)八郎」の仮名を使い,なお,「稚膽八郎ハ伊豆ノ産.今死スト云」と記して,シーボルトの関与を隠した.なお,「稚」は「椎(シイ)」+「ノ」,「膽八」は「膽八樹(ホルトノキ)」由来で,「稚膽八郎」には「シーホルト」が隠されている.

国会図書館には,圭介の『泰西本草名疏 自筆草稿』が所蔵されているが,その表紙裏に旧所蔵者伊藤篤太郎は次のように記している.「此本ハ余ガ王父錦窠伊藤圭介先生ノ著書泰西本草名疏ノ原稿ニシテ実ニ先生ノ自筆ニ係ル。書中記入ノ朱書ハ先生ノ親友賀来佐一郎氏ノ筆ナリ。佐一郎氏ハ先生ト共ニ小石川植物図説ヲ著作セル賀来飛霞氏ノ兄ナリ。又ペンニテ記入セル欧字ハ有名ナルシーボルト氏(Dr, Ph. von Siebold)ノ自筆ナリトス。実ニ本邦博物学ノ進歩ニ関スル貴重ノ珍宝也。」



この草稿のSerapias erectaSerapias falcate の項には,それぞれ括弧内にツンベルクの “Japonice” に依った和名が書かれているが,線で消してある.更に付箋には,「蛇苺(クチナハイチゴ)frangaras ニ出ツ 且キンラン等ノ類ニ非ス」とある(上図,NDL).

一方,『泰西本草名疏』及び『泰西本草名疏 自筆草稿』における,「クチナワイチゴ」に関しては次のような記述がある.
『泰西本草名疏』 には
FRAGARIA STERILIS. LINN.        クチナハイチゴ
蛇苺〇蓬虆下ノ十七丁ニ出ツ
 クワンソイチゴ
 
POTENTILLA GRANDIFLORA. LINN.  キジムシロ
雞腿兒一種〇
 カワラサイコ
 『泰西本草名疏 自筆草稿』には
FRAGARIA STERILIS. LINN.        クチナハイチゴ
蛇苺〇(丸の中に「シ」)
 クワサウイチゴ
 
POTENTILLA GRANDIFLORA. LINN.  キヂムシロ
雞腿兒一種〇(丸の中に「シ」)
  タイヤウンカワラサイコ
 カワラサイコ クチナワイチゴ

とある.丸の中に「シ」は,前出の如くシーボルトのコメント・同定で,ツンベルクの和名を変更しているが,学名は欧州産の植物なので,正確に言うと誤同定.

キジムシロの現在の標準的な学名は,Potentilla fragarioides L.,カワラサイコのそれは,Potentilla chinensis Ser. である.「雞腿兒」及び「タイヤウンカワラサイコ」は不明.

キンラン (1) 2018年歌会始 天皇陛下のお歌,皇居二の丸庭園,花壇綱目,花壇地錦抄,大和本草諸品図,和漢三才図会,花形簿

2018年1月17日水曜日

キンラン (1/6) 2018年歌会始 天皇陛下のお歌,皇居二の丸庭園,花壇綱目,花壇地錦抄,大和本草諸品図,和漢三才図会,花形簿

Cephalanthera falcata
2007年5月 茨城県南部
 2018年,新年恒例の「歌会始の儀」が12日,皇居・宮殿「松の間」で,「語」をお題に行われた.
陛下はある春,皇后さまとともに皇居・東御苑を散策中,二の丸庭園の雑木林で絶滅危惧種のキンランの花を見つけたときのことを詠まれた.戦後間もない学習院中等科時代に東京・小金井で初めてご覧になった思い出もあるという.

天皇陛下
 語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

皇居二の丸庭園の雑木林は,昭和天皇のご発意により,都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年から3か年かけて造成された.平成14年には雑木林の範囲が拡張された.

高橋輝昌ら「表土移植工法により造成された皇居東御苑の雑木林土壌の理化学的性質の変化」日本緑化工学会誌,27 (2001) 2 p. 430-435 
によれば,この雑木林を造成する際には,森林土壌の表層部をできるだけ撹乱せずに造成緑地に移植する表土移植工法が採用された.二の丸雑木林は武蔵野の雑木林の復元を目的として,芝生広場であったところに,1982年から1985年にかけて50cmの深さまで耕耘し,赤土(火山灰土壌の心土)を造成前後の地形に応じて080cm盛土した上に町田市,相模原市で採取した雑木林の表土を構造をできるだけ保ったまま10cm程度の厚さに移植した.二の丸雑木林に移植した樹木は主として栃木県内で採取された武蔵野の雑木林を代表する落葉広葉樹(コナラ,ヤマザクラ,エゴノキ,クヌギ等)である.
表土には東京都町田市,神奈川県相模原市のコナラ,クヌギ,イイギリ,イヌシデ等が高木層を占める雑木林で10cm程度までの深さから,そこにある植物の根も含めてできるだけ構造を保ったまま採取し,浅い木箱(トロ箱)に入れて搬出・運搬したものを用いた.とのこと.
従って,雑木林の地被類も土壌ごと移植され,多くの草本も根付いたと考えられ,陛下が詠んだ「キンラン」もこの時の子孫の可能性が高い.
皇居東御苑花だより(平成29428日)には,二の丸庭園の雑木林に咲くキンランの画像がUPされている. 

キンランは,日本のランの仲間としては,珍しい鮮やかな黄色の花を咲かせる.キンランという名の初出は故磯野慶大教授によれば,小野蘭山著『房総常州採薬記』(1803)とされるが(未確認),それ以前からキラン,オウラン(黄蘭),キサンラン(黄山蘭,歸山蘭),アリマソウ(有馬草),アサマソウ(朝熊草)の名があるとされている.(以下文献図は NDL の公開デジタル画像より部分引用)

日本最古の園芸書★水野勝元『花壇綱目 巻上 春草之部』(1681) には
黄蘭(きらん)●花黄色也咲比まへに同*●養土はしら
けたる赤土に白すな等分合て用也奥に委
**●肥は奥之蘭の所***に委しるし置●分
植は八月末より九月節まて」
*咲比まへに同:櫻草の項に「咲比三月の時分」とある.
**奥に委記之,***奥之蘭の所:『花壇綱目 巻下 蘭植養(らんうえやしない)の事』の項に,
「一 蘭植土はしらけたる赤土に白沙等分に田にし生にてからともにくたき大豆を煮たする汁を俗にあめと云是を等分に交て四五日程置田にしくきり土になりたる時細末してふるい石とか加の残を去植へし焼物(やきもの)の鉢(はち)亦(また)は箱(はこ)に植置て宜し尤そこに水ぬきの穴(あな)あくへし常(つね)に土のしめり加減(かげん)を能見て二月中比より九月迄は雨にあて如露の水をそゝき時々日に當へし土かはくはてし過れば根くさる九月末十月初より土蔵へ入置へし蔵へ入る時土にしめりを打少かわかして棚箱等を上に覆にして氣の出る程あげて入置也倒春餘寒(よかん)暖氣(だんき)に成時取出して日に當土へしめりをそゝくへし十月より正月末迄土へしめりかくへからす根へ蚯蚓(みみず)の不付やうにすへし夏中は茶からを根に置も宜し外の肥(こやし)何にてもよろしからす」とある.

★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)の「△草花夏之部,〇蘭のるひ 夏末秋初」
には,「黄蘭(きらん)初中 葉はあつもり草といふ草のことし花黄色」とあり,花色だけではなく,葉の形状からもキンランと推定できる.

★貝原益軒『大和本草諸品図 上 巻十九』(1709) には,
黄山蘭(キサンラン)
花ノ中又一重アリ葉ハサヽ
ユリノ如シ花ノ内ニ紅アリ
-葉美-好可愛四月開
花〓山中ニ生ス」と,図と共にあり(左図),葉がササユリに似ている事,唇辧に赤い線が入る事が,記され,花も葉も美しく愛ずるに足るとその観賞価値を高く評価している.

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃),(現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫,『和漢三才図会』平凡社-東洋文庫(1991))の巻第九十四の末 濕草類には,「有馬草(ありまさう) 摂州有馬ニ之多キ故名ク
△按ズルニ、有馬草ハ高サ尺許リ、初生ノ椶櫚ノ葉ニ似テ小サシ。二三月ニ茎ヲ抽キ黄花ヲ開ク。形略(チト)蘭ノ花ニ似テ香(ニホ)ハズ。
(有馬草 〔摂州有馬に多くある。それでこういう〕
△思うに、有馬草(ラン科)は高さ一尺ばかり。葉は出はじめの椶櫚(しゅろ)の葉に似ていて小さい。二、三月に茎が抽ん出て黄花を開くが、形はほぼ蘭の花に似ていて、香りはない。)と,蘭と言えば香りが高い花を言うが,これは花の形は蘭に似ているが,香りはないとしている.

毛利梅園(1798 – 1851)は江戸後期の博物家.名は元寿,号は梅園,楳園,写生斎,写真斎,攅華園など.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.
その『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)の「春之部一」に美しいキンランの図が納められている(左図).
「漢名 芧蘭(ハウラン)
兒蘭(チゴラン)黄蘭(ワウラン)
和名 鈴蘭(スズラン)又 山蘭 大和本草曰 黄山蘭  三才圖會曰 有馬草(アリマサウ キンラン) 摂州有馬ニ多故國俗名トス
亍時文政六數末春三月終望日
集花樓眞模寫圖」

「亍」は「于」の誤字で,「于時」と書いて「時に」と読む.
文政六年:1823
望日:陰暦15日,もちのひ


★小原良直(1797-1854)は江戸時代末期の紀伊和歌山藩士.国学者・医師.通称八三郎,号は蘭狭・群芳軒.国学を本居大平・同内遠に,儒学を山本楽所に,本草・医学を祖父桃洞に学んだ.著書に『御国産物考』等がある.
その『花形簿』の「第四號 四季草花名寄花形附」には,

「一 有馬草 葉形笹ニ似タリ〓〓付ヱビネニ似テ花蘭ノ如ク黄白二種」とある(右図).「白い有馬草」はギンランと思われる.(〓は読解不明字

キンランは薬草としての価値が見出されていなかったためか,江戸時代の和書での記述は多くない.