2018年1月17日水曜日

キンラン (1/6) 2018年歌会始 天皇陛下のお歌,皇居二の丸庭園,花壇綱目,花壇地錦抄,大和本草諸品図,和漢三才図会,花形簿

Cephalanthera falcata
2007年5月 茨城県南部
 2018年,新年恒例の「歌会始の儀」が12日,皇居・宮殿「松の間」で,「語」をお題に行われた.
陛下はある春,皇后さまとともに皇居・東御苑を散策中,二の丸庭園の雑木林で絶滅危惧種のキンランの花を見つけたときのことを詠まれた.戦後間もない学習院中等科時代に東京・小金井で初めてご覧になった思い出もあるという.

天皇陛下
 語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く

皇居二の丸庭園の雑木林は,昭和天皇のご発意により,都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年から3か年かけて造成された.平成14年には雑木林の範囲が拡張された.

高橋輝昌ら「表土移植工法により造成された皇居東御苑の雑木林土壌の理化学的性質の変化」日本緑化工学会誌,27 (2001) 2 p. 430-435 
によれば,この雑木林を造成する際には,森林土壌の表層部をできるだけ撹乱せずに造成緑地に移植する表土移植工法が採用された.二の丸雑木林は武蔵野の雑木林の復元を目的として,芝生広場であったところに,1982年から1985年にかけて50cmの深さまで耕耘し,赤土(火山灰土壌の心土)を造成前後の地形に応じて080cm盛土した上に町田市,相模原市で採取した雑木林の表土を構造をできるだけ保ったまま10cm程度の厚さに移植した.二の丸雑木林に移植した樹木は主として栃木県内で採取された武蔵野の雑木林を代表する落葉広葉樹(コナラ,ヤマザクラ,エゴノキ,クヌギ等)である.
表土には東京都町田市,神奈川県相模原市のコナラ,クヌギ,イイギリ,イヌシデ等が高木層を占める雑木林で10cm程度までの深さから,そこにある植物の根も含めてできるだけ構造を保ったまま採取し,浅い木箱(トロ箱)に入れて搬出・運搬したものを用いた.とのこと.
従って,雑木林の地被類も土壌ごと移植され,多くの草本も根付いたと考えられ,陛下が詠んだ「キンラン」もこの時の子孫の可能性が高い.
皇居東御苑花だより(平成29428日)には,二の丸庭園の雑木林に咲くキンランの画像がUPされている. 

キンランは,日本のランの仲間としては,珍しい鮮やかな黄色の花を咲かせる.キンランという名の初出は故磯野慶大教授によれば,小野蘭山著『房総常州採薬記』(1803)とされるが(未確認),それ以前からキラン,オウラン(黄蘭),キサンラン(黄山蘭,歸山蘭),アリマソウ(有馬草),アサマソウ(朝熊草)の名があるとされている.(以下文献図は NDL の公開デジタル画像より部分引用)

日本最古の園芸書★水野勝元『花壇綱目 巻上 春草之部』(1681) には
黄蘭(きらん)●花黄色也咲比まへに同*●養土はしら
けたる赤土に白すな等分合て用也奥に委
**●肥は奥之蘭の所***に委しるし置●分
植は八月末より九月節まて」
*咲比まへに同:櫻草の項に「咲比三月の時分」とある.
**奥に委記之,***奥之蘭の所:『花壇綱目 巻下 蘭植養(らんうえやしない)の事』の項に,
「一 蘭植土はしらけたる赤土に白沙等分に田にし生にてからともにくたき大豆を煮たする汁を俗にあめと云是を等分に交て四五日程置田にしくきり土になりたる時細末してふるい石とか加の残を去植へし焼物(やきもの)の鉢(はち)亦(また)は箱(はこ)に植置て宜し尤そこに水ぬきの穴(あな)あくへし常(つね)に土のしめり加減(かげん)を能見て二月中比より九月迄は雨にあて如露の水をそゝき時々日に當へし土かはくはてし過れば根くさる九月末十月初より土蔵へ入置へし蔵へ入る時土にしめりを打少かわかして棚箱等を上に覆にして氣の出る程あげて入置也倒春餘寒(よかん)暖氣(だんき)に成時取出して日に當土へしめりをそゝくへし十月より正月末迄土へしめりかくへからす根へ蚯蚓(みみず)の不付やうにすへし夏中は茶からを根に置も宜し外の肥(こやし)何にてもよろしからす」とある.

★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)の「△草花夏之部,〇蘭のるひ 夏末秋初」
には,「黄蘭(きらん)初中 葉はあつもり草といふ草のことし花黄色」とあり,花色だけではなく,葉の形状からもキンランと推定できる.

★貝原益軒『大和本草諸品図 上 巻十九』(1709) には,
黄山蘭(キサンラン)
花ノ中又一重アリ葉ハサヽ
ユリノ如シ花ノ内ニ紅アリ
-葉美-好可愛四月開
花〓山中ニ生ス」と,図と共にあり(左図),葉がササユリに似ている事,唇辧に赤い線が入る事が,記され,花も葉も美しく愛ずるに足るとその観賞価値を高く評価している.

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃),(現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫,『和漢三才図会』平凡社-東洋文庫(1991))の巻第九十四の末 濕草類には,「有馬草(ありまさう) 摂州有馬ニ之多キ故名ク
△按ズルニ、有馬草ハ高サ尺許リ、初生ノ椶櫚ノ葉ニ似テ小サシ。二三月ニ茎ヲ抽キ黄花ヲ開ク。形略(チト)蘭ノ花ニ似テ香(ニホ)ハズ。
(有馬草 〔摂州有馬に多くある。それでこういう〕
△思うに、有馬草(ラン科)は高さ一尺ばかり。葉は出はじめの椶櫚(しゅろ)の葉に似ていて小さい。二、三月に茎が抽ん出て黄花を開くが、形はほぼ蘭の花に似ていて、香りはない。)と,蘭と言えば香りが高い花を言うが,これは花の形は蘭に似ているが,香りはないとしている.

毛利梅園(1798 – 1851)は江戸後期の博物家.名は元寿,号は梅園,楳園,写生斎,写真斎,攅華園など.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.
その『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)の「春之部一」に美しいキンランの図が納められている(左図).
「漢名 芧蘭(ハウラン)
兒蘭(チゴラン)黄蘭(ワウラン)
和名 鈴蘭(スズラン)又 山蘭 大和本草曰 黄山蘭  三才圖會曰 有馬草(アリマサウ キンラン) 摂州有馬ニ多故國俗名トス
亍時文政六數末春三月終望日
集花樓眞模寫圖」

「亍」は「于」の誤字で,「于時」と書いて「時に」と読む.
文政六年:1823
望日:陰暦15日,もちのひ


★小原良直(1797-1854)は江戸時代末期の紀伊和歌山藩士.国学者・医師.通称八三郎,号は蘭狭・群芳軒.国学を本居大平・同内遠に,儒学を山本楽所に,本草・医学を祖父桃洞に学んだ.著書に『御国産物考』等がある.
その『花形簿』の「第四號 四季草花名寄花形附」には,

「一 有馬草 葉形笹ニ似タリ〓〓付ヱビネニ似テ花蘭ノ如ク黄白二種」とある(右図).「白い有馬草」はギンランと思われる.(〓は読解不明字

キンランは薬草としての価値が見出されていなかったためか,江戸時代の和書での記述は多くない.

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