2019年6月27日木曜日

ヤナギラン-3 和文献-3 伊藤圭介編著『植物圖説雑纂【ヤ】』

Epilobium angustifolium
2008年8月 赤城大沼
★伊藤圭介(1803-1901)編著『植物圖説雑纂【ヤ】』(江戸末期 - 明治時代)には,ヤナギサウの項にヤナギランの多くの資料が収められている.彩色図二枚,輪郭図一枚,北海道産腊葉の印葉図一枚と共に,地方名として木曽地方のヤマボウキ・ヨリグサ・オウバナ・ヨリバナ・コンロンサウ・ナヽクラバナ,松前のクサハギ,アイヌ語のカンナツシなどが記録され,産地として,木曽王滝タカダナノ原*・藪原塩沢*2和田嶽・和田峠*3,日光赤沼ヶ原*4・中禅寺温泉*5,富士山麓,蝦夷が挙げられている.
また,興味深いのは,江戸の花戸(種苗店)では,山取りの根から得られた新芽を鉢に植えて「ヤナギラン」と稱して販売していたという事で,当時でも江戸の庭園で育てる事は難しかったことが伺える.
(和文献図は全て NDL の公開デジタル画像より部分引用)
*1 木曽王滝タカダナノ原:現御嶽山登山道王滝口七合目「田の原天然公園」か?
*2 藪原塩沢:木曽郡木祖村薮原及び塩沢
*3 和田嶽・和田峠:中山道の最難所,現長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある峠
*4 日光赤沼ヶ原:戦場ヶ原南戦場地の南東端、東戦場地の南西端付近
*5 中禅寺温泉:栃木県日光市,中禅寺湖の北岸の温泉

植物圖説雑纂』は,文政9年(1826)頃から明治前半に活躍した伊藤圭介(18031901)が,本邦産の植物および渡来植物について,古来の和漢文献や写生図・印葉図・一枚刷・小冊子などをできるかぎり収集し,品名のイロハ順に分けた冊子に掲載しようとした資料集である.最初は草部と木部から構成する構想だったらしいが,草部が『植物図説雑纂』の名のままだったのに対して,木部の方は圭介自身が『錦窠植物図説』の書名に改めた.ともに未定稿であるが・圭介逝去の時点で前者は計130冊,後者は164冊という大部の著作になっていた.(NDL デジタルコレクション『植物図説雑纂』の最終冊は現時点で第 254 冊.)
伊藤圭介がいつ頃からその編集に取りかかったかは,はっきりしない.ただ,『雑纂』冊一の扉一裏には次のように記されている.
  「此編二本ヲ命スルヤ,当時公私甚紛擾ニシテ,自ラ之ヲ訂正スルコト能
  ハズシテ,全ク佗入ノ手二委スルモノ多シ.故三順次ノ杜撰謬誤,亦少
  ナカラズ.他日,之ヲ校訂セントス.果シテ此志ヲ達スルヤヲ知ラズ.
  明治九年三月一日 錦窠老人識」
 これによると,明治9年(1876)には製本段階に一応入っているのだから,編集に着手したのはかなり前,おそらく幕末の頃ではないかと思われる.しかし,この『雑纂』は大事業であり,すでに老境に入った圭介一代で完成するかどうか心もとない.上記の文をしたためた頃は,三男謙にこの大業を継続させようと考えていたのであろう.しかし,明治12年(18798月に謙は29歳の若さで急逝してしまった.

植物圖説雑纂【ヤ】』

①卅九
ヤナギサウ
*貼付された彩色図

ヤナギサウ                                        木曽ヤナギサウ                  ヨウリンサウ 日光
 ヤマボウキ 木曽贄川                    コンロンサウ                      ヨリグサ 木曽西野
 ヤナギラン 江戸                           ハンゴンサウ                      ヨリバナ 木曽
オウバナ         木曽                       ナヽクラバナ     木曽奈川ノ内川浦ニテナヽクラトモ
                                                                                                                  ヤクラモ花咲クユヘ名クト云
柳葉菜一種
木曽王滝タカダナノ原ニ多シ同藪原塩沢

Lysimachia, Chamaenerion
Dicta,                            キソヤナギサウ ウェインマン* 688

ヤ 卅九

*ウェインマン:神聖ローマ帝国の薬剤師・植物学者★ヨハン・ウエインマン (1683-1741) の『花譜 薬用植物図譜』(Phytanthoza iconographia(1737-1745)

*貼付された彩色図,「尾張伊藤圭介之記」の朱印

*描かれた輪郭図


○ヤナギサウ                      木曽ヤナギサウ                  ヨツリンサウ 日光
              ヤマボウキ キソ                  ヨリグサ                          オウバナ
              ヨリバナ               (マ(サ?)クラバナ キソ十川
ヱピロビユム

柳葉菜    救荒       圭 和田峠ニテモ見シ □□□
深山ニ生 春舊根ヨリ苗ヲ生 葉形細長ニシテ鋸歯ナク互生シ
                         直立シ 梢ニ四弁ノ紅花ヲ開 後長莢ヲ結ブ


「艸本???????」ヤナギラン 日光にて四っりんさうといふ柳
葉菜の一種なり日光赤沼ヶ原中禅寺温泉の辺にあり
春宿根より生す今?下に驚くもの??年々山から新
???と造り出る.??花戸???根の白芽斗りをかき
とり鉢に栽?たる.春に??芽を生し花ありと??

こと思る???

冨士方言 ヤナキサウ
よつりん艸 日光
方言 ヤナギラン
木曽ヤナギサウ

キソヤナキサウ ヤナギラン 木曽 ????

*「尾張伊藤圭介之記」の朱印

ヤナギサウ

木曽山中和田嶽ニ多ク産シ其名尤高シ高二三尺葉互生
形柳葉ノ如ク居止(鋸歯)尤微ク夏梢上ニ四弁短梗?紅帯
紫色花ヲ穂状ニツク弁尖僅ニ缺刻アツテ山桜ノ如ク弁ノ
位置偏ニシテ下一斉ナラス下ノ二弁四方ニ披キ五弁花ニシテ一弁ヲ
缼クモノヽ如シ萼四片披針状ニシテ尖リ子室角様一桂(柱)
頭四裂ニシテ??シ垂レテ下弁??ノ間ニ挺出雄蕋八ニシテ黄
葯アリ
第一種

(欧文 解読できず)

卅九 キソヤナギサウ                      ヨツリンサウ

epilobium hirsutum
柳葉菜一種
*輪郭図 学名からするとオオアカバナ


枸那花    ヤナギラン
 桂海  虞衡志*
 枸那花葉瘦長畧似楊柳夏開淡紅花一朶數十萼
 至秋猶有之

ヨツリンサウ 日光 柳ラン 江戸花戸同名多シ ヤナギサウ クサハギ 松前
カンナツシ 蝦夷方言 レイシマシア 羅甸 ウェーデリ 和蘭
日光赤沼ヶ原又中禅寺温泉ノ邉ニアリ春宿根ヨリ生ス茎ノ高サ二
尺斗リ又ユワウサウ**ニ似テ互生ス?花アリ四辧大サ八九分紅色ニシテ白蘂
アリ

柳葉菜 四ッリン草ハ越後山中ニアリ葉柳葉ノ如シ莖高
二三尺葉莖ニ互生ス夏梢ニ枝ヲ分四辧ノ紅花ヲ開大サ
梅花ノ如シ           北越卉牒***
  
*『桂海虞衡志』(1175):宋 范成大(1126 - 1193) 著の桂州の地方志.その「志花 桂林具有諸草花木,牡丹芍藥桃杏之屬,但培不力,存形似而已。今著其土獨宜者,凡北州所有,皆不錄。」の部に「枸那花。葉瘦長,略似楊柳,夏開淡紅花,一數十萼,至秋深猶有之」とある.現代中国では
枸那花は夾竹桃に同定されている.
左図:和刻本 須原屋伊八刊(文化9 1812

**ユワウサウ:硫黄草,クサレダマ,古代中世の西欧でも,ヤナギランを含めたアカバナの類は,クサレダマと同類とされていた.

***『北越卉牒』源伴存(みなもと ともあり,1792 - 1859)著
江戸時代後期,紀州藩の本草学者・博物学者・藩医.
文政5年(1822年)に加賀国白山に赴き,その足で北越をめぐり,立山にも登って採集・調査を行った.その時の著作と思われる.東京国立博物館に田中芳男の写本が収蔵されている.

四ッ輪艸 一名ヤナギサウ ヤナギラン花戸 日光赤沼ヶ原
ノ名産高サ二三尺除葉ハヤナギニ似テ互生ス八九月
頃茎上ニ穂ヲナシ四弁ノ粉紅花ヲツク大サ七八分艶
美愛スヘシ後長莢ヲ結ブ子生シ難シ其花四
弁ナルヲ以テ日光方言ニ四ッリン草ト云東都ニテ
救荒本艸ノ柳葉菜ヲ充ル上方ニテハアカ花艸
ニ充ル本條ト同形ニシテ細小也山中溪間ニ多シ

蝦夷腊葉目彔
木曽ヤナギサウ

(廿一)
*腊葉標本の拓本

伊藤圭介は1803127日に医師西山玄道の次男として名古屋に生まれ,父の旧姓伊藤を継いだ).幼名は左仲,初め名は舜民,字戴冠,尭,のち名を清民,字圭介(けいかい)と改め,通称を圭介(けいすけ)と称した.号は錦窠・真逸,堂号花繞書屋・十二花楼・修養堂・太古山樵.
水谷豊文に本草を学び,豊文を中心とする尾張本草家・博物家の会として著名な嘗百社では,豊文門下の大河内存真(圭介の実兄)・大窪昌章(二代目薜茘菴)・吉田平九郎(雀巢庵)などともに有力メンバーの一人であった.
一方,蘭学は藤林普山・吉雄常三に教えを受け,文政10年(1827)にはシーボルトに師事,シーボルトの良き協力者ともなった.
シーボルトが帰国する前年(1828)に,伊藤圭介が長崎を去るにあたり,伊藤圭介はツユンベルクの著書『日本植物誌』(Flora Japonica1784)とツンベルクの肖像画一葉(ツンベルクの『旅行記』の口絵を切り取ったもの)を餞別として贈られた.この肖像は日本で銅版画に彫り直して『泰西本草名疏』を飾っている.
伊藤圭介はそこからリンネの分類体系を学び,これを翻訳注解して,リンネの分類体系を紹介した『泰西本草名疏』2巻(1829)を刊行し,生物分類の基本を「種」(species)という概念におくことを初めて日本語で示した.シーボルトの帰国後,伊藤圭介は多くの植物を各地で採集し,その600点以上の標本に目録を付けてシーボルトに送った
文久元年~3年(1861 - 63)には幕府の蕃書調所(洋書調所)物産方に出仕し,その後名古屋に戻っていたが,明治3年(1870)に政府から「大学」出仕を命じられて東京に転居する.翌4年から7年までは文部省に勤務し,8年からは小石川植物園(幕府の小石川薬園の後身)に移る.10年には東京大学員外教授となって引き続き小石川植物園を担当し,21年には日本最初の理学博士号を授与された.没したのは明治34年(1901120日,99歳の長寿であった.
日本を来訪した西欧の科学者との交流も多く,シーボルトとは勿論,サバティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 18301891),マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz, 1827 - 1891),モース(Edward Sylvester Morse1838 - 1925)らと,面会し或は標本の提供を行った.
大森貝塚の発見で名高いモースの 『日本その日その日』(Japan Day by Day (1917))には,圭介との面会の様子が,好意的に描かれ,また膨大な植物のコレクションを持っていると紹介されている.

JAPAN DAY BY DAY Vol. 1, p 136. FIRE-FIGHTING
The other afternoon a distinguished old Japanese by the name of Ito called on Dr. Murray, and I had the honor of being presented to him. He is an eminent botanist and was president of a Japanese Botanical Society in 1824. He had come to bring to Mrs. Murray the first lotus in bloom. He was in full Japanese dress, though he had abandoned the queue (fig. 114).
I regarded him with the greatest interest, and thought how Dr. Gray and Dr. Goodale would have enjoyed meeting this mild and gentle old man who knew all about the plants of his country. Through an interpreter I had a very slow but pleasant conversation with him. On his departure I gave him copies of some of my memoirs, of which he could understand only the drawings, and a few days after he sent me his work on the flora of Japan in three volumes.

Vol. 2, p 107. JAPANESE COLLECTORS
Dr. Ito, the famous botanist, whom I have already mentioned in the early pages of the journal, has a large collection of plants.

また,ミクェル(Friedrich Anton Wilhelm Miquel, 1811 - 1871)によって,シソ科シモバシラ属 Keisukea に献名されている.