Tricyrtis
hirta
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ピエロー・コレクション
フユボダイシュ腊葉 |
ピエロー・コレクションの本州での採集地(下関より江戸まで)の中の, Miwara(三原),Satta(薩埵峠),Kifra-sawa について,1822年に当時のオランダ商館長ブロンホッフに随行して江戸参府したフィッセルの『日本風俗備考』に,これらの土地の言及がある.
特に,少なくとも 16 枚の標本のラベルに書かれており,頭を悩ませていた,Kifra sawa が,現静岡市清水区の西倉澤である事が,旅程及び日本語の和蘭語のローマ字表記法から確認できた.
以下欧書画像は Internet Archives より,和書画像は NDL の公開デジタル画像より部分引用.
フィッセル(ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール, Fisscher, Johan Frederik van Overmeer, 1800-1848)はオランダ商館員として文政3年(1820)から文政12年(1829)まで日本に滞在した.文政5年(1822)には商館長コック・ブロンホフ
(Jan Cook Blomhoff, 1779-1853)の江戸参府に,医師のニコラス・チューリング
(Nicholas Tullingh, 生没年不詳) と共に随行した.
この旅行中に多くの日本の産物を収集し,1830年に帰国し,1833年には ” Bijdrage tot de kennis van
het Japansche rijk.(直訳「日本国の知識への寄与」上図)” を刊行した.この書では,滞日中の記録や収集品を資料を日本文化を民族学的観点から記述したものであり,また,出島および江戸参府におけるフィッセルの体験についても生き生きと語られている.
この書は日本でも注目を集め,『日本風俗備考』の名で幕末に全訳されている.天文方山路諧孝(1777 - 1861)監修のもと,杉田成卿,箕作阮甫,竹内玄同,高須松亭,宇田川興斎,品川梅次郎が翻訳を分担した.
この書の “XII DIVERSEN(雑録)” の江戸参府の項 “REIS NAAR JEDO(江戸への旅)” の,1822年2月25日の記事には
“292 BIJDRAGE
TOT DE KENNIS
Den 25en.
Weer en wind toelatende om te vertrekken, scheepten wij
reeds
vroegtijdig alles in , en kwamen voorbij Miwara,
hetwelk van een
groot Kasteel
met verscheidene torens ????verzien is. Wat hooger , tegen den
berg, ziet men
eenen groeten tempel. De Japanners wierpen meest alle
een klein
tonnetje , met Sakki gevuld , en
dertien pitjes of duiten daarbij
gebonden, over
boord, om aan den God Kompira te
offeren. De visschers,
die deze
tonnetjes opvangen , verzuimen niet , dezelve aan hunnen patroon
of beschermheer
in den tempel van dien naam, daar kort bij gelegen,
te bestellen.
Wij zagen aan bakboord het dorp Tasima en het landschap
Firozima, en lieten den.”
とある.
宇田川興斎 (1821 - 1887) 譯 山路弥左衛門諧孝 (1777 - 1861) 校『日本風俗備考』
「江戸旅程記
二月
○第二十五日 本邦の四日 便風に放(まか)せて疾く三原の許に來る三原は佳麗の城なりて遙か粉壁礁櫓見へ又良く高く山に倚て大寺阿るを見た里此邊を通る時同船の人々各々酒を充たる小さき樽に銭十三文を結ひ附け「コムピラ」の神に獻ずるとて争いて海中に投入したり偖て漁人ども此樽を見れば輒ち拾い上て此神に捧ぐる事と聞けり此日北方に「タシロ」及び廣島の城下を見たり」
斎藤阿具 (1868 - 1942) 訳註『ヅーフ日本回想録,フィッセル参府紀行』異国叢書 (1928) 駿南社 「フィッセル参府紀行」
「二十五日、天候も風力も出帆に適するが故に、我筆問我等一同は朝早く乗込み三原を過ぎたり。此地にて櫓の多き大なる城廓を見たり。山に據りて更に高く一大寺院あり。日本人は皆酒を入れたる小樽に銭十三文を結び附けで琴平神に献納するため、之を海中に投ず。漁者は此等の樽を獲て、之を附近に在る琴平神社に於ける彼等の守護神に捧ぐることを怠らず。我等は後方に田島村と廣島地方とを見、(以下略)」.
庄司三男・沼田次郎訳注『日本風俗備考 2』東洋文庫 341 (1978)
「(二月)二十五日、天候と風が出帆可能の状態になったので、われわれは早目にすべての物を船積みして、三原(みはら)の側を通過したが、ここにはたくさんの塔のある大きな城が築かれていた。山腹のやや小高い処には一大寺院が見受けられた。日本人たちは、たいてい皆、酒を満たして小さい銅貨十三枚を結びつけた小樽を琴平(コンピラ)の神に捧げるために船側から海に投じたのである。この小樽を拾った漁夫たちは、近くにある同名の社の中に祭られている彼らの保護者すなわち守護神に、それを捧げることを怠ることはないのである。われわれは左舷に田島村と広島の地方を見た。」
とあり, Miwara はその風景や,田島や広島に近いことから三原である事が分かる.
また,同年の3月22日の記事
“Den 22en Maart
hielden wij het middagmaal te Okietz , en
vertoefden
naderhand in Kfoerasawa, heerlijk aan de zee en den voet
van het
Satatogies-gebergte gelegen. De ondertolk onthaalde hier het gezelschap
volgens een oud
gebruik , en wij reisden naderhand voort langs het strand
en zeer
vruchtbare rijst- en korenvelden. In het voormelde gebergte von-
den wij ook den papierboom zeer menigvuldig
en in vollen bloei.”
「○第二十二日 本邦の十九日 府中を発し中津にて午飯を喫し薩陀峠を越ゆ左右楮樹萌(発)甚だ夥し倉沢の茶亭に憩ふ即ち薩陀の山脚に據り前は海を控へ極景勝致を具へたり爰に先例に従例に従ひ小通事よ里同社を饗應せり夫れよ里我らは徐々に海濱に循て歩行し肥沃の穀田菜畒の間を通れ梨.」
「三月二十二日、興津にて晝食し、次で倉澤にて休息せり。此地は薩埵峠の麓に在りて、海上の眺望甚だ佳なり。小通詞は古き慣例によりて、此處にて一行を饗せり。我等は是より海濱に沿い叉米麥の耕作されたる沃野の間を通過せり。前記の山脈にて、我等は多く花の滿開せる三叉樹を見たり。」
「三月二十二日、興津(おきつ)でわれわれは昼食をとり、その後、海に而して薩埵峠の麓の美しい場所を占めている倉沢で休憩した。小通詞は、ここで古い慣習に従って一行の者を饗応した。そしてわれわれはそのあと海岸ときわめて豊穣な稲田と穀物畑に沿って旅を進めた。上に述べた山で、われわれはまた紙の木〔楮か〕が非常にたくさん、しかも満開の花をつけているのを見た。」
とある.注目するのは「倉沢」を原文では
“Kfoerasawa” と表記していることで,ピエロー・コレクションのラベルの “Kifrasawa” との類似が確認できたことである.
フィッセルは,この書で日本語の五十音や会話をオランダ語で表しているが,それでは「ク」を
“kfe” で表記している.Googl 翻訳でオランダ語で
“ku” を発音させるとむしろ「カ」に近く, “kfe” の方が「ク」に近い.
また,彼がこの書の “WETENSHAPPEN
(科学)” の冒頭に掲げている「片仮名文字による日本のアルファベット」の表では,「ク」に対して “kfoe”
を,「グ」に対して
”gfoe” を充てている.更にこの章の “JAPANSCHE
WOORDVOEGINGEN(日本語構文法)” には,多くの日本語による会話文が,オランダ語とオランダ文字とで対比されているが(次項),そこでも,例えば「わたくし」は
“watakfs” のように,「ク」は,
“ku” ではなく “kf” で表されている.従って,ピエロー・コレクションのラベルの
“Kifrasawa”は,余計な “i” はあるものの,地理的な相互関係も含めて「倉澤」として良いと思われる.
なお,この地で,フィッセルが見た満開の花を着けたpapierboom「紙の木」を,訳書では「コウゾ 楮(か)」としているものもあるが,花期が早春であり,花が目立つこと,また天保7年(1836年)稿の農学者大蔵永常(1768 - 1861)の『紙漉必要』に,ミツマタについて「常陸、駿河、甲斐の辺りにて専ら作りて漉き出せり」とある事(未確認)から,ミツマタの可能性がある.
“JAPANSCHE
WOORDVOEGINGEN. 日本語構文法
EERSTE
ZAMENSPRAAK. 第一対話
Verstaat gij mij
niet? . Omay wakaran ka? お前わからんか.
Men roept mij ,
geloof ik. Fito ga walakfs wo jobikoto , omoo. 人が私を呼ぶ事,思う.
Ik geloof, dat
men mij roept. Fito ga watakfs wo job to omoo. 人が私を呼ぶと思う.
Roept gij mij ? Omay wa watakfs-iwo jobikai? おまえは私を呼びかい?
Hebt gij mij
geroepen ? Omay wa watakfs wo joodaka? おまえは私を呼んだか?
Wie roept mij ? Darega watakfs wo job ka? 誰が私を呼ぶか?
Zie voor u. Anata wo miro. あなたを見ろ.
Ziet gij mij
niet ? Omay toa
watakfs wo mienka? おまえは私を見えんか?
Zijt gij blind? Omay wa meekfra de arka? おまえは盲であるか?
Wien zie ik ? Dare to watakfs wo mir ka? 誰と私を見るか?
Ha ! het is mijn
beste vriend. Kore wa watakfs no jooke hooju de atta. これは私の良け朋友であった.
Ik zag u niet. Watakfs
wa anata wo mien de atta. 私はあなたを見えんであった.”
薩埵峠及び倉沢については,秋里籬嶌『東海道名所図会 巻之四』(1791) に以下のような挿図と記事がある.
東麓
西倉澤
茶店
此所富士山
鮮に見えて
東海道第一の
風景なるべし
「薩埵嶺(さつたたうげ) 磐城山の峠也西の麓を洞村といふこれより登れば切り通坂女夫(めうと)坂
葛籠坂午房坂山神平これが峠也貳軒茶屋.蜂か澤.弐番坂.
壹番坂を經て東の麓西倉澤に至中古地蔵薩埵の像此濱より
漁夫の網にかヽりて上りしより薩埵山といふ此峠より左のほう五町
に薩埵むら在りて村中東勝院の地蔵堂に
此尊像を安置すといふ
薩埵眺望 (漢詩,略)
それ此嶺(たうげ)は絶景にしてまづ寅の方には富士の高根白妙にして時しらぬ
雪をあらはし卯の方に愛鷹山巳の方には伊豆の岬酉の方には三保の
松原皆鮮かに見えわたりて前には江海渺然(べうぜん)として長閑き春の波間に
鮑とる海士栄螺掘(つく)漁夫夏は磯邉の蛍飛かふけしき初鳫の渡る
影は雲と水との中に消えて浦の苫屋の秋の夕ぐれにこヽろを傷しさヽ
波にむれゐる小夜千鳥の聲すごく氷と見ゆる冬の月かげいと寒し
こヽはむかし観應(くわんおう)の頃かとよ足利のおヽとひ此山に戦ふ直義のぬし利
なくして數十萬騎の兵(つはもの)を一時に鏖(みなごろ)しょの計(はかりごと)にのりて二三里のあいだは修羅
道の巷(ちまた)になりて叢(くさむら)腥(なまぐさ)く屍(かばね)は路を填(うづ)めしと太平記にも署(しる)してこれを
薩埵山の合戦といふ其中に書し櫻野も此山續きとかや叉小田原北條と
甲斐の武田と争ひしも此山嶽なり抑(そもそも)薩埵峠の崔嵬(さいくわい)たるは向井清見
關の要涯(えうがい)なりと云傳へしも宣ならん今は太平を凱(うた)ふ聖代なれば
干戈(かんくわ)の音永く絶て禮樂(らいがく)と變じ貴となく賤となく足を躊躇(ちうちょ)してこヽの
風色を賞じ歌よみ詩つくりて過行(すぎゆく)人も多かるべしとしられる.
名産栄螺鮑(さヾえあはび) 薩埵山の麓西倉澤茶店に栄螺鮑(さヾえあはび)を料理て賈(あきな)ふなり
此茶店海岸に崖(がけ)造りにて富士を見わたし海面幽邈(うみつらゆうばく)に
して三保松原手に取る如く道中無双の景色也茶店の中に望嶽
亭(ばうかくてい)といふあり遠近人(おちこちびと)立寄て詩歌俳諧などをしるして此亭に遺す
事多し此ほとりの賤女(しづのめ)出汐(でしほ)を汲みあるは鮑拾ふ體風流に
して奇觀なり」
西倉澤の茶屋でオランダ商館員たちは饗応されるのが慣例であったので,1830年のメイランの江戸参府の際に,デ・フィルヌーヴにも十分な植物採集の時間があったと考えられる.
フィッセルの父,Jan Weyel van
Overmeer Fissche (1766 – 1814) は海軍大尉の肩書を持ち,後に推されてオランダ中部の町ハルデルウェク(Harderwijk)の町長となった.
1794年に Hester Maria Everts (1777 - 1819) と結婚し,十人の子供を儲けたが,その四男であるフィッセルは,1800年2月18日,ハルデルウェクに生れた.
彼は 1819年に蘭領インドに渡り,1820年6月17日,ニューウェ・ゼールスト号(de Nieuwe Zeelust)に乗船してバタビア (Batavia) を出帆し,同年7月23日に長崎に到着,オランダ商館の下級職員である一等事務官(de klerk de le classe)として出島における勤務が開始された.
それから約一年半の後,1822年2月6日から6月5日にかけて,当時の商館長ヤン・コック・ブロンホッフの参府旅行に随行して江戸を訪れている.その際東海道の各地で日本の工芸品や書籍,絵画などの収集に熱中し,日本文物の充実したコレクションを構築した.1823年夏には筆者頭(scriba)に昇進し,1824年12月7日に出島を発って,一旦バタビアに戻り,翌年の8月に再び出島に帰っている.この時彼は,過去二カ年ほどの間,代理を勤めていた荷倉役(pakhuismeester)に正式に任命されていた.
1829年2月24日,フィッセルは前年の颱風で岸に打ちあげられ,シーボルト事件の端緒を作った蘭船コルネリス・ハウトマン号(Cernelis Houtman)に乗船し,バタビアに送られる公文書を収めた箱を守って,九カ年の滞在を終えて日本を去った.
1830年4月20日,彼はバタビアにおいてJohanna
Cornelis M. Alvarrees という名の女性と結婚したが,その間に子供はなかった.
同年彼は祖国に帰り,自邸でコレクションの展示会を行い,詳細な目録も作成した.彼のコレクションはオランダ王家によって購入され,後にオランダ国立民族博物館に移り,現存している.そして1833年には,著書 “Bijdrage tot de kennis van het Japansche
Rijk”がアムステルダムのJ. Mueller & Comp. 社より出版されたのである.
それから三年たって,1836年,彼は再びバタビアに渡り,郵便局長のような職にあったが,1837年に帰国し,ついで1839年には恩給受給者となり,以後何処に住んでいたかは不明である.そして,1848年10月23日,短い期間病床にあった後,アントワープ(Antwerpen)で死亡したといわれるが,そのとき彼がそこに住んでいたのかどうかも確かでない.(庄司三男・沼田次郎訳注『日本風俗備考 2』東洋文庫 341 (1978) に負う)