2019年7月28日日曜日

ヤナギラン-5. 和産標本 西欧の資料 オランダ国立標本館,都立大シーボルトコレクション

Epilobium angustifolium
2008年8月榛名,覚満淵
 ヤナギランは北方系の植物であるためか,出島の三学者ケンペル・ツンベルク・シーボルトの日本の植物に関する著作には記録されていない.しかし,シーボルトが採集者とされる腊葉標本が,ミクェルがオランダ ライデンの王立植物標本館“Rijksherbarium”に収蔵されていた日本産の植物標本を記録した『ライデン植物標本館標本目録1,日本植物』 “Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1Flora Japonica” (1870) に一点記載され,この標本を基にしたと思われるミクェルの記述が『ライデン植物園年報』 “Ann. Mus. Bot. Lugduno-Bat” に載り,和名は「ヤナギソウ」であると記されている(前記事参照).残念ながら,この標本はオランダ国立標本館(ナチュラリス生物多様性センター)の BioPotal データベースには,登録されていない.

一方,江戸・明治期に採集された和産ヤナギランの腊葉標本が,二つのコレクションに計六点ある事を確認した.
オランダ国立標本館 (ナチュラリス生物多様性センター)に二点,都立大シーボルトコレクションに四点で,前者の一点のラベルには “Janagi Soo” の和名が,他の一点のにはマキシモヴィッチの訪日時,その採集協力した須川長之助 1864 年に箱根で採取したと記されている.
都立大シーボルトコレクションの四点の内,一点には毛筆で「キソヤナギサウ 柳葉菜」などと書かれていて,日本人本草学者(伊藤圭介?)が作成したと思われ,また他の一点は,明治初期,箱館のロシア公使館の医師として赴任していたアルブレヒトが採取したことがラベルから分かる.

L.2558457, L.2559377


L.2559377, Label. enlarged
オランダ国立標本館コレクションの L.2559377 (上図,右側)のラベルには,“ Ex herb. horti bot. Peteropolitani. Maxomovicz. Iter secundum / Epilobium angustifolium L. / Japonia. Nippon. Hakone / 1864, 65 et 66 / leg. Tschonoski ” とあり,ロシア,サンクト・ペテルブルクのマキシモウィッチ・コレクションからの標本で,須川長之助が 1864 年に本州,箱根で採取したとある

ロシアの植物学者マキシモヴィッチ (Maximowicz. Carl Johann, 1827 - 1891) 1860 年(万延元年)918日に箱館に上陸し,北海道の植物調査に着手した.岩手県紫波郡下松本村で生まれた須川長之助 (1842 - 1925) を下僕に雇い入れ,採集家に育てた.1861 - 62年には長之助を伴い箱館,横浜で,1862 – 63 年には九州で標本を採集した.ちょうど伊藤圭介らがシーボルトの研究調査を手伝ったように,長之助はマキシモヴィッチを助け,外国人が入れない南部(岩手県)や信濃のような地域や,外国人排斥勢力の強かった九州などの植物を採集し,彼の研究を支援した.
マキシモヴィッチの標本は,すべて彼が研究に従事したサンクト・ペテルブルクのコマロフ植物研究所(旧ロシア帝室植物標本館)に収蔵されていたが,その後いくつかは標本交換などで各地の研究機関へ送られた.

コメツツジ 2007年7月 霧降高原
チョウノスケソウ 2018年5月 筑波実験植物園
マキシモヴィッチが須川長之助に献名した植物種は,ミヤマエンレイソウ (Trillium tschonoskii Maxim.),コメツツジ (Rhodendron tschonoskii Maxim.),イヌシデ (Carpinus tschonoskii Maxm.),ミネカエデ (Acer tschonoskii Maxim.),オオヒョウタンボク (Lonicera tschonoskii Maxim.)など数多くあるが、いずれも学名においてで,標準和名には反映されなかった.そのため後年になって牧野富太郎が長之助が 1889 年立山で採集し,初めて日本にも分布することが確認されたバラ科の汎存種 Dryas octopetala チョウノスケソウの標準和名を付けた (1891).現学名:D. octopetala var. asiatica

植物學雜誌第百四號 明治二十八年十月二十日發兌(388)
○繇條(ヨウ)書屋植物雜記(其二十)
牧野富太郎
Dryas octopetala Linn.日本ニ産ス
Dryas octopetala Linn. ハいばら科ニ屬シ歐羅巴、
亜細亞及ビ北米洲ノ寒帯地并ニ該三洲温帯地ノ諸高山
ニ産ス本邦ニ在テハ之ヲ越中立山ニ見ル然トモ固ヨリ稀
品ニ屬ス明治廿?年八月須川長之助氏ノ採收スル所ニ
シテ予ハ今之レヲちゃうのすけさう(長之助草)ト命名シ
以テ發見者ノ名ヲ永ク後世ニ傳ヘント欲ス

東京都立大学牧野標本館は,故牧野富太郎博士(1862 - 1957)の標本を中心に,約50万点(平成15年現在)の標本を所蔵している.この数多い所蔵標本の中に,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から交換標本として送られてきた所謂“シーボルトコレクション”があり (http://ameba.i.hosei.ac.jp/sbweb/doc/index.html),このコレクションの大部分はシーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)が滞日した1823 - 1829年および1859 - 1862年に収集した植物標本で,シーボルトがミュンヘンで亡くなった後に,マキシモヴィッチが未亡人より購入したものであるが,1860 - 1864年に滞日したマキシモヴィッチの収集品も多数含まれている.

シーボルトコレクションのヤナギラン 腊葉標本 MAKS0414, MAKS0415. MAKS0416, MAKS2079
このコレクションの MAKS0414   (上図,左端) のラベルには,毛筆で
「アカバナヤナギサウ/柳葉菜 アカバナ
キソヤナギサウ
Epilobium spicatum
とあり,日本人の本草家が採取したものと考えられる.


この毛筆の筆跡(上図,赤枠)を伊藤圭介(上図,右方,緑枠)及び水谷豊文(上図,青枠,左方)のそれと比較すると,「ウ」の字や,ラテン名の筆致から,水谷豊文 (17791833) の筆跡と考えられる.この標本がシーボルト経由で,マキシモヴィッチに渡ったとすると,『ライデン植物標本館標本目録1,日本植物』 Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1Flora Japonica (1870) に一点記録されていた,ヤナギランの可能性もある.

また,MAKS0415 のラベルには,
“Museum botan. Acad. Petrop.
Japonia Insula Jesso, circa Hakodate   Dr. Albrecht. 1861”
とあり,このヤナギランをアルブレヒト博士 1861 年に蝦夷(北海道)の箱館(函館)付近で採集したとわかる.また,MAKS0416 S0415 と一緒に採集した可能性があると,コレクションのコメントにはある.

アルブレヒト(ミハイロフ・ペトロフ,М. П. Альбрехт. 1812 – 1872 以降)はエストニアに生れ 1843年から 1849年までドルパト*で医学を学んだ.海軍軍医として勤務し,その後領事館付きの医師としてゴシケビッチ**と一緒に来日.箱館のロシア領事館の医師として勤務(1858 - 1863).1872年に生存の記録あり.
中井猛之進, 小泉源一『大日本樹木誌. 巻之1』(1935)
むらさきやしほつつじ
箱館滞在中,植物,貝,昆虫を採集して本国に送り,植物はマキシモヴィッチによって四種が新種として記載され,その内ムラサキヤシオツツジ(Rhododendron albrechtii)はアルブレヒトに献名された.
*ドルパト:タルトゥ(エストニア語 Tartu,ドイツ語古称 Dorpat:ドルパット,Dörpt:デルプト, ロシア語古称 Дерпт:デルプト,Юрьев:ユーリエフ)は現エストニア,タルトゥ県に位置するエストニアで2番目に人口の多い都市.古い歴史を持つタルトゥ大学 Тартуский университет (Дерптский, ドイツ語  Universität Dorpat) (1802 - 1893) がある.

**ゴシケーヴィチ:ヨシフ・アントノヴィチ(ベラルーシ語:Язэп Антонавіч Гашкевіч;ロシア語: Ио́сиф Анто́нович Гошке́вич1814 - 1875)は,ロマノフ朝ロシア帝国の外交官,東洋研究家.ベラルーシ人.ロシア帝国の箱館領事館の初代日本駐在領事を勤めた (1858 - 1865).姓はゴシケヴィッチとも表記される.

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