2021年11月18日木曜日

ダルマギク-4 西欧-1 学名原記載文献,マキシモヴィッチ.サバティエ&フランシェ

 Aster spathulifolius


現在も有効な学名 Aster spathulifolius (匙状の葉の)を江戸で栽培されていたダルマギクに拠って命名したのは,ロシヤで活躍したマキシモヴィッチ.1871年にペテルブルグで刊行した Bull. Acad. Imp. Sci. Saint-Pétersbourg Mél. Biol.に全く同文の記述で記録した.

お雇い外国人医師として横須賀造船所に1866年から1871年まで,また1873年から1876年に滞日したフランス人サバティエは,自ら横須賀や伊豆半島で植物採集を行った他,植物学者伊藤圭介や田中芳男などと交流し,また標本を入手した.帰国後,フランシェと1873-1879年に出版した『日本植物目録(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) には,田中芳男から提供されたダルマギクを記述し,和名を『草木図説』に典拠し “Darouma gikou” と記録した.

POWOでは,ダルマギクの正名(correct name)はAster spathulifolius であり,13 の異名(synonym)が記録されている.該当する和名は,ダルマギク,オオダルマギク,シロバナダルマギクで,属はシオン属,ハマベノギク属,ムカシヨモギ属の三属に帰属されている(次記事).

  現在の正名をつけたのは,ロシア人のマキシモヴィッチ Carl Johann Maximowicz18271891)である.彼は医学を修めるためドルパット(現在のエストニアのタルツ)の大学に入学したがアレクサンダー・ゲオルク・ブンゲ(Alexander Georg von Bunge , 1803 - 1890)の強い影響を受けて転身し,束アジアの植物を研究した分類学者で,ペテルブルクの帝国植物標本館の研究員となりアムール川地方や沿海州等の植物を3年間にわたり調査した.1858(安政5)年函館(当時は「箱館」と記した)に領事館が開設されたとの報に接し,1860(万延元)年9月函館に来日した.このようにマキシモヴィッチは来日前にアムール地方・満州を自分で踏査して束アジア温帯の植物について豊富な知見と体験をもっていた.彼のこの素養が日本の温帯植物の研究に十分に生かされたといえる.

 マキシモヴィッチは雇い人の須川長之助(1842 - 1925)に採集整理の技法を教え採集家に育て,函館山および近辺の植物採取をした.マキシモヴイツチの日本滞在は35ヶ月におよび(函館:14ヶ月,横浜:11ヶ月,長崎:12ヶ月滞在),長之助を伴い各地を調査旅行した.横浜を経由し長崎へ二度出かけ,英彦山・阿蘇・霧島・熊本・久住山・富士山・箱根などを広く植物採集した.長之助はさらに単独でマキシモヴィッチが入れない南部(岩手県)や信濃,近畿,山陰,白山・立山・八ヶ岳・浅間山・金峰山,四国,九州などで植物採集をして,その標本をマキシモヴイツチに提供した.
 また,マキシモヴィッチは 1862年,長崎鳴滝でシーボルトに直接会っていた(Alisa Grabovskaya-Borodina. J. Jpn. Bot. 91 Suppl.: 54–67 (2016)).これがシーボルトの膨大な収集遺品(標本)をロシアのコマロフ植物研究所に収蔵する一つの動機になったといわれている.1871年から1890年まで マキシモヴィッチはロシア科学アカデミーの植物博物館館長を務めた.彼は多くの日本人とも接触し,終生日本植物の,主に日本の温帯,北方地域の植物相の研究に専念し,飯沼慾麓の『草木圖説』をしばしば引用し340種もの植物を記載・発表をしているが,日本の植物誌をまとめるのをまたずに他界したのは惜しまれる.マキシモヴィッチの標本はロシア科学アカデミーコマロフ植物研究所に所蔵されている.
 牧野富太郎はマキシモヴィッチに何度も標本を送り植物の同定を依頼し,ロシア留学を企画したがマキシモヴィッチがインフルエンザで急逝したため実現しなかった.マキシモヴィッチに標本を送り,教えを請うたのは牧野冨太郎だけでなく,明治時代の植物学者:矢田部良吉,松村任三,田代安定,田中芳男,伊藤篤太郎,宮部金吾らも同様であった.その控え標本は今日でも東京大学や国立科学博物館に保有されている.マキシモヴィッチは,日本の植物に最も精通していた外国人で幼年期の日本植物学の‘育ての親’といってよいほどの貢献をした.
 彼は “Bull. Acad. Imp. Sci. Saint-Pétersbourg 16: 212 (1871)” 及び “Mélanges biologiques tirés du Bulletin de l'Académie impériale des sciences de St. Pétersbourg. 8: 7 (1871)” に全く同一の文で,訪日時江戸で栽培されていたダルマギクを Aster spathulifolius として記載した.内で葉が匙状の楕圓であり,江戸で栽培され花期は11-12月で,舌状花冠の色はライラック色であると記した.また,何れも青紫色の舌状花冠を持つ A. alpine 及び A. Wrightii に似ているとした.このダルマギクの学名は現在も有効な正名とされている.

Diagnoses breves plantarum novarum Japoniae

et Mandshuriae. Scripsit C. J. Maximowicz.

(Lu le 9 février 1871.)

DECAS NONA.”



Aster spathulifolius.
(Alpigeni N.E.) Humilis robustus
suffruticosus totus molliter villosus, a basi ramosissimus,
ramis arcuato-adscendentibus dense foliosis 1-
cephalis; foliis spathulato-obovatis brève alato-petiolatis
obtusissimis cum raucronulo (saepe obsoleto),
summis minoribus capitula ampla multiflora involucrantibus;
squamis involucri berbaceis 2-seriatis aequalibus:
exterioribus anguste spathulatis, interioribus
lanceolatis atque anguste membranaceo-marginatis;
ligulis 30—40 disci diametro brevioribus, linearioblongis
subintegris; pappo barbellato-scabro subbiseriali
sordido; achaenio villoso.
  Habui e Yedo cultum, Novembri et Decembri florentem.
Planta vix semipeclalis, caule pennam anserinam,
ramis pennam corvinam crassis, caulem aequantibus
vel imo caule longioribus, basi horizontalibus, dein
adscendentibus, hemisphaeram vel globum constituentibus.
Folia bipollicaria, 3/4 pollicis latiora, pube pluricellulari
molli subviscida utrinque sat dense villosa.
  Capitula 1—1(1/2)-pollicaria. Ligulae lilacino-coeruleae.
Ex affinitate A. alpini L., sed diversissimus; pappo,
foliis, capitulis amplis, ligulis numerosis cum A.

Wrightii A. Gray, e Texas, forsan comparandus, etsi
ob pappi setas haud complanatas sqnamasque involacri
minime cuspidato-acuminatas sectioni novae a Grayo
pro A. Wrightii constitutae, Megaiastro nempe. vix
adnumerandus.


left: A. alpini L., Illustration from “Curtis, W., et al., Botanical Magazine (Curtis) vol. 6, t. 199 (1793)
center: A. alpini L., Illustration from “Seboth, J., Graf, F., Alpenpflanzen nach der Natur gemalt vol. 1, t. 45 (1879)”
right: A. wrightii A. Gray = Xylorhiza wrightii (A. Gray) Greene, Big Bend woody aster. Image from “https://www.wildflower.org/gallery/result.php?id_image=10942”

サバティエ(ポール・アメデ・ルドヴィク,Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830 1891)はフランスの医師・植物学者で,お雇い外国人医師として横須賀造船所に1866年から1871年まで日本に滞在し,また1873年から1876年に再度滞日した.自ら横須賀や伊豆半島で植物採集を行った他,植物学者伊藤圭介や田中芳男などと交流し,また標本を入手した.帰国後,フランス国立自然史博物館のフランシェ(アドリアン・ルネ,Adrien René Franchet, 1834 - 1900)との共著で『日本植物目録(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) 1873-1879年に出版した.この書で,彼等はマキシモヴィッチの命名したラテン名を挙げ,日本に産するが産地は特定できず.江戸で栽培され,サバティエが田中芳男から得られた標本がある.田中によれば和名は “Darouma gikou” であるとし,図として飯沼慾斎著『草木図説』の「ダルマギク」(ダルマギク-2(http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2021/10/2-2.html))を引用している.

“221 EXUMERATIO PLANTARUM JAPONICARUM.


ASTER L.

825. Spathulifolios Maxim. Mél. Biol., vol. 8, p. 7.

HAB. in Japonià, locis haud indicatis. Ex urbe Yédo cultum
habuit cl. Maximowicz et ex botanophilo japonensi Tanaka
accepit Dr Savatier (n. 591). Flor. Nov. Dec.

JAPONICE. —Darouma gikou (Tanaka).
I
CON. JAP. —Sô mokou Zoussetz, vol. 17, fol. 8, sub : Da-
rouma guikou.”

0 件のコメント: