2024年12月26日木曜日

ムギセンノウ-13-2-9. シェイクスピア『リア王』-9,雑草の王冠-9 ドドネウス『本草書』(Crŭÿde boeck)の渡来-1


ドドネウスの本草書は出島のオランダ商館を経由して何度か日本に渡来した.

 ★Wolfgang Michel, et. al., 「江戸時代・明治初期の輸入医薬品・医療機器の実態調査と現存資料の総目録の作成について」(2006) によると
 オランダ国立公文書館(NA)に保管されていたオランダ東インド会社の送り状を解読したところ,出島開設初期から,幕府はオランダ商館に対して,輸入を希望する品のリストを送り,入手していた.165141日に将軍と老中が希望した品物のリスト(NA, NFJ 64, dagregister 3.8.1651)が商館長に届けられた.1652年夏のスミント号(Smiendt)によって舶来し,大目付井上筑後守政重1585 - 1661)の手に渡った品物の中に,Een Herbarius van Dodoneus affesete voor d' H[ee]r Sickingodonne” Een Case No 72 darijnne)という記録がある.これがドドネウスの本草書が輸入された最も古い記録と思われる.
 〇井上政重は,安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名.江戸幕府宗門改役.下総国高岡藩初代藩主.高岡藩井上家初代.号は幽山.寛永9年(1632年)1217日,江戸幕府の大目付(当時は惣目付という名称)となる.宗門改役に任ぜられ,幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった.井上の下屋敷が文京区小日向にあり,キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用されていた.脇に切支丹坂という坂が残っている.

アルノルドゥス・モンタヌス(ラテン語: Arnoldus Montanus,オランダ語: Arnold van den Berghe1625 - 1683)の著作『東インド会社遣日使節紀行(モンタヌス日本誌)』(1669)によると,1659年に二度目の江戸参府した商館長ザハリアス・ワーヘナール(Wagenaar, Zacharias. Wagenaer, Wagener, WagenaarまたWagnerとも.1614 - 1668)が,老中稲葉正則(1623 - 1697)にドドネウスの植物書を贈ったが,挿図が小さく単色である事から,返却されたとある.第何版か明記していないが,1618年,ライデンで出版された蘭訳のライデン版か,1644年アントワープで刊行の蘭訳本であろう.いずれも原題は Herbarivs oft Crvyt-Boeck”である.他にも老中稲葉正則には,望遠鏡や地球儀を贈ったが,いずれも彼の気に入らなかったとある.
 モンタヌスの著作『東インド会社遣日使節紀行』(蘭: Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan , 英訳題『日本誌』Atlas Japannensis )のオランダ語の原書は5版に達し,また原書が出版された1669年のうちにドイツ語訳,翌1670年には英語訳とフランス語訳が出版されるなど,日本に関する当時最も知られた著作であった.ただし,モンタヌス自身は一度も来日しておらず,イエズス会士の報告書や,オランダ商館長の江戸参府紀行,ブレスケンス号事件の報告などに基づいて著したとされる.このため,誇張や不正確な記述が多く,特に多数挿入された挿図は,全くの想像に基づいて描かれたものである.

この書の 399 ページの商館長の大名への贈り物に関して次のような記述がある.


Cunocuni eifchte byzon-
dcrlyk zes getrokken loopen , welker
form , op een papier afgemaalt , aan
Wagenaar ter hand stelde. D'ontboo-
dene verre -kyker voor Minosamma ,
hem behoorlykcr wyze overgeleyert ,
wierd wederom gezonden: alzoo, ge-
lyk voor geest, te duister van glas is ;
doch’t hapert buiten twysel aan de qua-
de onderrechting der dienaars wegens
het recht gebruik. En even zoo is’t af-
geloopen met het heerlyk Kruid-boek
van Rembertus Dodonæus ; want hoe-
wel de bloemen , boomen en kruiden
boven gemein schoon zyn afgezet na
’t leven , heeft Minosamma het zelve
niet aangevaerd : ter oorzaak hy de
printen te klein en niet wel geschildert
keurde : verzocht derhalven een groo-
terboek, en netter afgezet. En immers
zoo weinigh word de schoone aerd- en
hemels-kloot , voor de Kaisar tot Am-
sterdam
toegestéldt, gewaerdeert, de-
wyl niet weeten wat van’t een of’t an-
der zullen maken. Weinige evenwel
konnen op d’aerd-kloot de voornaamste
Koningryken, zelf in Europe , met
den vinger aanwyzen, en die noemen.
Maar wegens de vreemde afbeeldzels
der hemels-teikenen voedenze veel
vreemder gedachten ; want de meeste
meinen , dat waatlyk zulke mannen en
beesten onzichtbaarder wyze aan de
wolken kleeven : andere , datze den he-
mel bewoonen.

1670 年に Tho. Johnson? によって英訳されたAtlas Japannensis: Being Remarkable Addresses by Way of Embassy ... from the East-India Company ... to the Emperor of Japan: Containing a Description of Their Several Territories ...” (冒頭図②) 429 ページには次のようにある.


“Hollanders Presents are not accepted, and why

Moreover, the Kings of Ouwarri, Cunocuni, and Mito, the Emperor's Uncle,
and also the Councellor Minosamma, ask'd for some Strings of Blood-Coral,
and six Caft of Loopen, the form of which was drawn on a piece of Paper,
and given to Wagenaer. Minosamma requir'd also a Perspective- Glass, which be-
ing accordingly sent, was return'd again, the fame being, as he pretended, too
dark ; but indeed the fault was in the bad Informations of his Servants, who
knew not how to use it . And just so it was with the costly Book of Plants of
Rembert Dodoneus ; for although the Flowers, Trees, and Herbs were extraor-
dinary handsom to the Life, yet Minosamma sent it back again*1 , because he look'd
upon the Prints to be too small, and not well drawn , so desiring a bigger
Book, and one that was handsomer painted. And as little was the Globe
esteem'd, which with all the Art imaginable was made for the Emperor of Ja-
pan
in Amsterdam, because they knew not the meaning thereof ; yet some of
them could find the chiefest Kingdoms in Europe upon it, and pointing to them
with their Fingers, name them : But as for the representation of the Planets,
they have many strange thoughts ; for most of them think, that certainly such
Men and Beasts do invisibly stick to the Clouds ; others, that they inhabit
the Heavens.”
 : Ogilby, John, 1600-1676 [tr.] Johnson, Thomas, fl. 1642-1677 [printer.]The Library Company of Philadelphia

★アルヌルヅス・モンタヌス編,和田万吉訳『モンタヌス日本誌:一名・蘭使紀行』丙午出版社 (1925) (冒頭図③)には,
「  蘭人の贈品返還せられし所以
 又尾張、紀の國、エムペロルの叔父水の諸王、又閣員美濃樣は血色珊瑚珠の一連及ローペ(Loopen)鐵六片を請求せり。ローペの形は紙に書きてワゲナールに與へられたり。美濃樣は望遠鏡を請求せり。依りて直に之を送りしに、暗しとて返還せられたり。然るに是れ其家臣等が用法を知らざるに由りしなり。是と同じくレムベルト·ドド子ウス(Rembert Dodeneus)の植物書を贈りしが、書中の花卉植物の圖が寫生的にて精巧なるにも拘らず、美濃樣は之を返したり。印畫が餘りに小く、且よくも描かれあらずとて、大册にして美麗に描かれたるものを請求せり。又地球儀も餘り賞美せられざりき、是はアムステルダムに於て日本エムペロルの爲に爲し得る限りの技術を盡して作らしめしものなるが、彼等は其價値を知らざりしなり。但し或人は其球面に現れ居る歐洲の主なる王國を見出して指點せしもあり。然るに遊星を現したるものに關しては奇なる考を抱き、多數の人は斯くの如き人及動物が人目に觸れずして雲に附着せるものとし、他の者は實際かかる物が天に住すとせり。」と訳されている.

★新村出『南蛮広記』岩波書店(1925)「和蘭傳來の洋畫」には
「モンターヌス A. Montanus の遣日本使節記 Gesantschappen - -  -aan de Kaisern van Japan (一六六九年寛文九年和蘭原版○翌年の英譯刊本あり) に由るに、西暦一六五九年四月二十九日(萬治二年三月八日)甲比丹ワーヘナールZacharias Wagenaerが幕府に暇乞に登つた時、老中稻葉美濃守正則(蘭人はMinosammaと稱せり、當時小田原城主たり)より、曩に獻上せるレムベルト·ドドネウス Rembert Dodoneusの本草書(植物書)版本が、挿畫の草木花卉甚だ美なるにも拘はらず、印刷小に過ぎ構圖未だ巧ならずとして、之を返却し*1、更に大なる本にして美はしく畫いた本を寄越してくれと要求されたといふ記事が出てをる。(中略)
 更に二十年程下つて天和二年(一六八二)には、一昨延寶八年に賀州侯より蘭人に注文したドドネウスの本草書(一六六四年刊本)が前田綱紀侯のもとに着したといふ事が松雲公傳*2に載つてゐて、編者は侯の意書物の本文を讀む爲にはあらで、寧ろ草木圖の參考の爲であらうと推定したが、予輩も上記モンターヌスの記事でも察し得るが如く、此時代の本草書はドドネウスにせよヨンストンにせよ一に插畫の爲に參考及賞翫されたものであると信ずるのである。插繪の美麗、銅版の精巧に引きつけられて本文を讀む路を開いたのが、將軍吉宗で、公の蘭學開始の直接の動機は本草書の插繪を解することに外ならなかつたのである。」とある.

*1:商館長ヴァグナーは,本の返品を受けて,「なんという哀れな人々だ.著作の素晴らしさをほとんど理解できず,このような本が靴屋の靴と同じように,様々な種類を取り寄せられると思っている.」“wat aengaet ’t voorschreve g’eijste boeke ‘t selve was wel maer de kruijden darein afgebeelt waren te kleijn, en niet wel geschildert, souden sien off hem in ‘t aenstaende een grooter boeck, daerinne oock grooter figuren stonden, konden oordeelen, want meenen dat sulcke boeken van allerleij soot (gelijck in een schoemakers wickel de schoen) te becomen zijn” (出島商館日誌、1659年4月4日 (NA, NFJ 72. Dagregister Dejima, 4. 4. 1659)). 
 その後老中稻葉正則にはバシリウス・ベスラー(Basilius Besler, 1561 - 1629)が1613年に刊行した17世紀の最高傑作植物図譜とされる『アイヒシュテットの庭園』(Hortus Eystettensis)が贈られた.(Wolfgang Michel, 「シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」九州大学学術情報リポジトリ 2006)).
*2:『松雲公御夜話』かもしれないが,出典未確認

〇ツァハリアス・ヴァグナーは,オランダ東インド会社のドイツ人社員で,第25代および第27代オランダ商館長(1657年と1659年に江戸参府)とケープ植民地総督を務めた.ヨーロッパ人好みの見本とオリジナルデザインを基にした日本の陶磁器を,初めてオランダ東インド会社納品用に発注した.
 出島のオランダ商館長に初めて昇進した1657年には恒例となっている将軍謁見のために江戸に赴いたが,大目付井上政重の屋敷に招かれていた際,32日(明暦3118日)に発生した明暦の大火に遭遇した(江戸東京博物館には彼によるスケッチが所蔵されている).一行は屋敷に留まるように言われたが,オランダ屋敷(長崎屋源右衛門邸)に戻ることを許可された.しかし火の勢いによりオランダ屋敷も焼失し,一行は一般の町民らと同様に,人の波に揉まれ,屋根に登り人を乗り越えて活路を開き,江戸の町を逃げ回った.この経験から,ヴァグナーは当時発明されたばかりの消防ポンプとホースを将軍に献上することを思いつき,次の商館長ヨアン・ボウヘリヨンによって実現され,大いに喜ばれた.
 中国内の戦乱で景徳鎮での陶磁器生産が打撃を受け,ヨーロッパへの輸出が困難になっていた.また,有田に磁器窯はあったが製品の質は高くなかった.1659年に2度目の商館長を務めていた際には.ヴァグナーは中国から見本の陶磁器を輸入し,それを参考にしてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼した.コバルトブルーの素地の上に黄金のデザインを施した伊万里焼はヴァグナーの考案によるもので,現在でも香蘭社に受け継がれている.

〇稲葉 正則は,江戸時代前期から中期の譜代大名,老中,大政参与.相模小田原藩第2代藩主.初代藩主稲葉正勝の次男で,母は山田重利の娘.正成系稲葉家宗家3代.元和9年(1623年),江戸幕府老中・稲葉正勝の次男として誕生.元禄9年(1696年),江戸で死去した.享年74
 正室の父毛利秀元から茶の湯を学び,狩野探幽・小堀政一と親交を持ち,学問・宗教を通して林鵞峰,吉川惟足,鉄牛道機らと交流を深め,万治元年に隠元隆琦と対面してから黄檗宗へ傾倒,隠元の弟子の鉄牛道機を小田原へ招いて紹太寺と江戸弘福寺の創建を行った.また,長崎と江戸を取り持つ役目も負い,オランダ商館館長や随行員との物品の交流,藩の医者をオランダ人医師に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた.

〇前田綱紀1643 - 1724)は,江戸前期の大名。加賀藩第5代藩主。幼名、犬千代。藩政改革に尽力。また、学を好み、木下順庵を招き、図書の収集・保存・編纂にも努めて尊経閣文庫の基礎を築いた。
 綱紀は稲生若水1655 - 1715)を儒医として招き,若水は藩主前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、『庶物類纂』として編纂を開始した。その内容は、古今の漢籍より動植物、鉱物などの記事を調査し、それらの記事を種類・分類毎に26属に分けて再編集し、漢文にて記述するものであった。この編纂は『本草網目』や『大和本草』を遥かに凌ぐ博物学的な水準に達するものであった。若水自身は9属362巻を完成したところで病没したが、これを引き継いだのが弟子の丹羽正伯(1700-1752)であった。 正伯は1734年より編纂を継続し、4年後に残りの638巻を完成させて、加賀藩を通して幕府に献納した。さらに延亨2年(1745)には幕府よりその増補編纂を命じられている。

★江戸城内の歴代将軍の蔵書を集積した「紅葉山文庫」に,1618版のドドネウスの本草書が収蔵されていた事は,1808 – 19年の間,書物奉行を務めていた近藤正斎重蔵守重,1771 - 1829)が著わし,1826年に幕府へ献上した文庫の書籍リスト,『好書故事第八十』の〔書籍三十、蘭書三、本草〕に


獨々涅烏私
(ドヽネウス)本草集成 一冊 眞圖若干枚 俗呼ドヽネウス
原名コロイドブーク、ハン、レムペママルチュス、ドドネウス
 入爾馬泥亞国レムベルチュース ドヽネウス撰、千六百十八年我元和四年戌午和蘭國平レイデンノ地ニ於テ其地ノ刷印家フランコイスハン、ラーへンゲン印行ス
 按ニ此書巻中各編ノ終リニ本草諸家更ニ附言ヲナシ巻末ニハ東方諸國ノ草本ヲアツメ附録トナスコト同國ノ士カーロリエスクリユシウスノ手ニ出ヅ クリユシウスカ東方印度諸國ノ物産草木ノ全書ハ別ニ舶載アリ」(国書刊行会『近藤正斎全集 第3』国書刊行会刊行書(1905))
の文から分かる.この書が稲葉正則が受け取りを拒否した書か否かは分からないが,1618年にライデンで印刷された蘭語版という点では一致する.

〇近藤重蔵は,江戸時代後期の幕臣(旗本),探検家,書誌研究家.号は正斎・昇天真人.5度にわたって蝦夷地探検をおこなった.間宮林蔵,平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる.「大日本恵登呂府」の標柱を立てた人物として知られる.
 このように,一般には蝦夷地探検家として知られる近藤重蔵だが,文筆家市島謙吉(春城)によれば,実のところ,書物奉行こそ彼にとって「ハマり役」であった.近藤は図書趣味の人であり,図書に関する多くの知識を有していたのみならず,大田南畝(蜀山人)や狩谷棭斎といった蔵書家ないし書誌学者とも交友関係を結んでいた.
 近藤は,紅葉山文庫の蔵書をはじめとする幕府所有の図書について精査し,その来歴や考証を記録してデータベースをつくり,書物に関する著作も行っている.徳川氏の蔵書の多くが公けになっているのも,近藤の貢献によるところが少なくない.市島春城著『芸苑一夕話(上)』早稲田大学出版部(1922

その他,開明派の大名や,本草家・博物家には所蔵されていて,一部の引用や,翻訳の試みもされていた.

特に白河藩主松平定信1793年(寛政5)に石井当光(庄助)に,所蔵していたドドネウスの『本草書』(1618年版)の全訳を命じた.当光の死後に吉田正恭が翻訳作業を継続し,羽栗費(吉雄俊蔵)と荒井行順の協力を得た上で,1823(文政6)年頃に「遠西独度涅烏斯本草譜」の題で訳稿を完成させた.しかし,江戸の大火で訳稿の大部分が焼失した.
 早稲田大学には,原稿や浄書版(版下本)の一部が保存され,デジタルアーカイブで公開されている.(後記事)
 また,ドドネウスの『本草書』(1618年版)も早稲田大学に所蔵されているが,これが当該訳書の基になった書籍か否かは不明. 

2024年12月21日土曜日

Christmas Scene in 1977 – 78, Cambridge (U.K.) & Barcelona

 Christmas Scene in 1977 – 78, Cambridge & Barcelona

Cambridge (U. K.) Guild Hall, Market Place 

Cambridge. King's Collage Chapel, Long queue for Carol Service.  Illumination of Joshua Taylor & Co on Sydney Street 

Cambridge. Market Place, Salvation Army brass band, Santa Claus on a Chariot

Barcelona (Spain). Cathedral Christmas Market, Ornament, Street Illuminations

2024年12月6日金曜日

ムギセンノウ-13-2-8. シェイクスピア『リア王』-9,雑草の王冠-8 Fumiter, カラクサケマン-7. ドドネウス『本草書』(Crŭÿde boeck)Grysecom

カラクサケマン-7 ドドネウス本草書』(Crŭÿde boeckGrysecom
 16世紀には,欧州北部低地地方でも本草研究が盛んになり,レムベルト・ドドネウス(Rembert Dodoens, 1517 - 1585),カルロス・クルシウス(Carolus Clusius, A.K.N. Charles de l'Écluse, 1526 - 1609)),マティアス・デ・ロベル(Mathias de l’Obel, 1538 - 1616)の三名の学者が良く知られている.この三人は,アントワープのプランタン社から多くの著作を出版した.これら三人の植物学者は,張り合いや,ささいな嫉妬も起こさず,互いに肩を並べて仕事をし,そしてそれぞれの本草書に添える図版の版木は,事実上,プランタン社の責任において一括して保管されているものから充てられたので,同一の図版が彼らの著作に用いられている.


 レムベルト・ドドネウス
Rembert Dodoens, 1517 - 1585)はベルギー北部のマリーンに生まれた.ルーヴァンで医学を学んだのち,フランス,イタリア,ドイツで学業を続けた.マッティオリやド・レクリユーズと同じように,一時期,皇帝マクシミリアン二世に,のちにはルドルフ二世に仕えた.それからケルンとアントワープで働いた.1582年,没する三年前であったが,ライデンで医学の教授になった.
 最初の著書『本草書』(Crŭÿde boeck)はファン・デル・ルー(Jan vander Loe)社によって1554年に出版され.1563年には同社から再版された.挿入された715の図は大部分,レーオンハルト・フックス(Leonhard Fuchs, 1501 - 1566)の著書 ”De historia stirpium Commentarii insignes”『植物誌』(前記事参照)の図を剽窃した木版画であった.冒頭のカラクサケマンの図(左端:フックス,中央:本書図の鏡像,右端:本書)のように,比較すると左右逆になっているので分かる.プランタン社から刊行されるようになった著書からはプランタン社保有の図版が使われるようになった.
 この書は薬草を多く扱ったので薬学の書物として評価され1557年にCharles de L'Ecluseによりフランス語に翻訳され,1578年にHenry Lyteによって"A new herbal, or historie of plants"として英訳された.ラテン語にも翻訳され,当時としては聖書についで多く翻訳された書物となった.二世紀に渡って,参考文献として利用された.
 また,彼の死後には,後の本草学者の知見も付け加えられ,改訂版が何種か出版された.日本にも何度か渡来し,日本の本草家に大きな影響を与えた.特にプランタン社から1618年に出版された蘭語版は松平定信の提唱により『遠西独度涅烏斯草木譜』として和訳された(後述).残念ながらこの叢書は火災で版木が焼失したなどの影響で出版されなかったが,初稿及び浄書・版下稿が早稲田大学に所蔵されていて,ネットで閲覧できる.その翻訳の精度及び付された知見の広さ,見識の高さには驚かされる.

 ★『本草書』(Crŭÿde boeck1554年版の第一巻の14章には Grysecomとしてカラクサケマンが記載されている.この章には “Grysecom” (1) と類縁植物として cleyn Eerdtroock” (2) とが,図示され,それぞれの Naem(名称), Tfatsoen(記述), Plaetse(生育地), Tijt(性), Cracht en werckinghe(薬効) などが項目ごとに記載されている. 

以下に原文(フランドル語)と私邦訳(重訳のため自信なし)とを示す.薬効はディオスコリデスやプリニウスの記述が主であるように思われる(前記事参照).


Van Grysecom.   Cap. xiiij.

Tgheslacht.
Grysecom es twederlye van gheslachte (als Plinius in zijn historie int xxv.
boeck, xiii. cap. beschrijft) waer af dit ierste es die ghemeyne Grysecom die
van Galenus, Paulus, ende andere Griecxse meesters alleene bekent en-
de in der medecijn ghebruyckt gheweest es. Dat tweede es een ander cruyt
alleen van Plinius beschreven/ ende beyde dese cruyden worden hier te lan-
de ghevonden.

プリニウスが『博物誌』の第三十巻八章に述べた如くグリセコムには二種あり,一つ目は一般的なグリセコムでガレノス,パウルスと他のギリシャの医師にも知られている薬草である.二つ目の薬草はプリニウスにのみ記されている.どちらもこの国で見られる.

Tfatsoen
Capuos fumaia                                Capuos Plinij
 Grysecom                                       Cleyn Eerdtroock


1  
Die ghemeyne Grysecom heeft viercantighe steelkens/ met cleyne/ teere/ weecke/
seer ghesneden aschvervwighe bladerkens becleet/ den bladeren van Coriander
ghelijckende, maer veel mindere. Sijn bloemen zijn cleyn/ en staen veel by een ghedron-
ghen/ van coluere purperbruyn/ die welcke vergaende/ in cleyn knoppekens veranderen/ daer
in leyt dat saet dat seer cleyn es. Die wortel es slecht/ met luttel ende cleyn veeselinghen.
1.
一般的なグリセコムは,四角い茎をしていて,小さく柔らかい弱弱しい灰色がかったコリアンダーに似ているがより小さい葉を持つ.花は小さく紫色で房状をなして直立し,微細な種を内包する小さな莢を結ぶ.根は数少なく短く貧弱である.

2   Dat cleyn Eerdtroock heeft oock veele teere steelkens/ daer aen wassen cleyne ghe-
sneden bladerkens/ van coluere/ smaecke/ ende oock wat van fatsoene den voorgheschre-
ven Grysecom ghelijckende/ ende oock somnmighe cleyne teere draykens oft clauwier-
kens/ daer mede dattet hem al omme aen haghen ende andere cruyden vast maeckt. Sijn
bloemkens zijn cleyn/ en staen veel by een/ wit en luttel persch van coluere/ naer die welcken
voortcomen cleyn hauwkens/ daer dat saet in leyt. Die wortel es slecht en vinghers lanck.
2.
二つ目の種(cleyn Eerdtroock,矮性グリセコム)も,多くの柔らかい枝を拡げ,それには小さなまあるい葉をつける.色合いや味,形狀は前者に良く似ている.ある種の小さな糸や巻き鬚であらゆる場所で垣根や他の草に絡まって立っている.花は小さく,房状をなし,白や微かに青みを帯びる.花後種を内包する小さな莢が現れる.根は貧弱で指の長さほどしかない.

Plaetse

1   Grysecom wast gheerne in coren velden onder die gherste/ ende in die moes hoven/
in wijngaerden/ ende dijerghelijcken gheoeffende plaetsen.
1.
グリセコムは小麦や大麦の間で能くそだつ.また野菜畑やブドウ畑などの耕地に繁茂する.

2   Dat cleyn Eerdtroock wast onder die haghen aen die canten van den velden/ ende by
oude mueren.
2.
二つ目の種(cleyn Eerdtroock,矮性グリセコム)は耕地の境界の垣根の根元や古い壁の周りに生育する.

Tijt

Beyde dese cruyden bloeyen in Meye ende in Braeckmaent.
二種ともに五月から六月?に開花する.

Naem

1   Dat ierste van desen cruyden wordt in Griecx gheheeten Capnos Capnion en Ca-
pnitis/ In Latijn Fumaria en Capnium, In die Apoteke Fumus terre/ In Hoochduytsch
Erdtrauch/ Taubencropff/ Katzenkorvel/ In Neerduytsch Gysecom/ Duyvekervel
en Eerdtroock/ In Franchois Fumeterre.
最初の種は,ギリシャ語では Capnos, Capnion, Capnitis と呼び,ラテン語では Fumaria, Capnium.藥材店では Fumus terrae と云う.高地ドイツでは Erdtrauch, Taubencropff, Katzenkorvel と,オランダでは Gysecom, Duyvekervel, Eerdtroock と,フランスでは Fumeterre と云う.

2   Dat tweede wordt van Plinio Capnos en Pes gallinaceus ghenaempt/ ende mits
dijen zoo worddet van ons Capnos Plinij geheeten/ inder Apoteken eest onbekent. In duyt-
sche hebben wy tselve tot ondersceet van den anderen/ Cleyn Eerdtroock ghenaempt/
In Franchois mochtet wel naer den Latijnschen naem Pes gallinaceus/ Pied de geli-
ne gheheeten worden.
二つ目の種は,藥材店ではすでに知られているように(プリニウスに由来して)Plinio Capnos, Pes gallinaceus と呼ぶ.ドイツでは Cleyn Eerdtroock と呼び,フランスではラテン語にちなんで Pes gallinaceus, Pied de geline と呼ぶ.

Natuere

Grysecom es werm ende drooch tot volnaer in den tweden graet/ ende van ghelijcker
natueren es oock dat Cleyn Eerdtroock/ als uut zijnen scerpachtighen bitteren smaeck
kenlijck es.
グリセコムは「溫」で第二度の完全な「乾」であり,二つ目の種(Cleyn Eerdtroock もその刺激的な苦みで分かるように.同じ性を持つ.

Cracht en werckinghe

1 A   Tsap van Grysecom in die ooghen ghedaen/ scerpt dat ghesichte ende maeckt claer
ooghen/ ende met Gumme ghemenghelt ende op die wijnbrauwen ghestreken/ maeckt
dat het dobbel hayr niet meer en wasse.
カラクサケマンの搾り汁を点眼すると,刺激性で,視力を回復させる.樹脂と混ぜて瞼に塗れば,抜いた眉毛の再生を妨げる.

B   Grysecom in water ghesoden ende dat ghedroncken/ iaeht af met der urine ende met
den camerganck alderhande heete cholerijcke/ verbrande/ ende verergherde humoren en
de vochticheyt/ ende mits dijen es seer goet den ghenen die scorft zijn/ die quade seeric-
heyt en sweringhen hebben ende die ghebrekelijck vanden pocken zijn.
カラクサケマン水劑を服用すると,胆汁など体内の悪液を尿に排泄するので,これらによる疾病に悩む人にはよい療法である.foule scurffe, and rebellious olde sores, great Pockes(病名訳不明)にも大変薬効がある.

C   Dijsghlijck werck doet oock het sap van Grysecom ghedroncken/ ende es daer toe
stercker dan dat water daer die Grysecom inne ghesoden es.
カラクサケマンのジュースを服用しても,水劑と類似もしくはより大きい効果が得られる.

2 D   Dat cleyn Eerdtroock (als Plinius schrijft) es van den selven cracht ende werckin-
ghe ghelijck dat andere/ ende es een sonderlinghe medecijne seer goet wesende teghen
die scemeringhe der ooghen dat sap daer inne ghedaen.
二つ目の種も(プリニウスが記した如く)他の種と同様の性と薬効を示す.特有の薬効としては,ジュースを点眼すると,目がちかちかするような症状(白内障?飛蚊症?)に効果がある.