ドドネウスの本草書は出島のオランダ商館を経由して何度か日本に渡来した.
★Wolfgang Michel, et. al., 「江戸時代・明治初期の輸入医薬品・医療機器の実態調査と現存資料の総目録の作成について」(2006) によると
オランダ国立公文書館(NA)に保管されていたオランダ東インド会社の送り状を解読したところ,出島開設初期から,幕府はオランダ商館に対して,輸入を希望する品のリストを送り,入手していた.1651年4月1日に将軍と老中が希望した品物のリスト(NA, NFJ 64, dagregister 3.8.1651)が商館長に届けられた.1652年夏のスミント号(Smiendt)によって舶来し,大目付井上筑後守政重(1585 - 1661)の手に渡った品物の中に,” Een
Herbarius van Dodoneus affesete voor d' H[ee]r Sickingodonne” (Een Case No 72 darijnne)という記録がある.これがドドネウスの本草書が輸入された最も古い記録と思われる.
〇井上政重は,安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名.江戸幕府宗門改役.下総国高岡藩初代藩主.高岡藩井上家初代.号は幽山.寛永9年(1632年)12月17日,江戸幕府の大目付(当時は惣目付という名称)となる.宗門改役に任ぜられ,幕府のキリシタン禁令政策の中心人物となった.井上の下屋敷が文京区小日向にあり,キリシタンを幽閉する施設(切支丹屋敷)として使用されていた.脇に切支丹坂という坂が残っている.
★アルノルドゥス・モンタヌス(ラテン語: Arnoldus Montanus,オランダ語: Arnold van
den Berghe,1625 - 1683)の著作『東インド会社遣日使節紀行(モンタヌス日本誌)』(1669)によると,1659年に二度目の江戸参府した商館長ザハリアス・ワーヘナール(Wagenaar, Zacharias.
Wagenaer, Wagener, WagenaarまたWagnerとも.1614 - 1668)が,老中稲葉正則(1623 - 1697)にドドネウスの植物書を贈ったが,挿図が小さく単色である事から,返却されたとある.第何版か明記していないが,1618年,ライデンで出版された蘭訳のライデン版か,1644年アントワープで刊行の蘭訳本であろう.いずれも原題は
“Herbarivs oft Crvyt-Boeck”である.他にも老中稲葉正則には,望遠鏡や地球儀を贈ったが,いずれも彼の気に入らなかったとある.
モンタヌスの著作『東インド会社遣日使節紀行』(蘭: Gedenkwaerdige
Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan ①, 英訳題『日本誌』Atlas Japannensis ②)のオランダ語の原書は5版に達し,また原書が出版された1669年のうちにドイツ語訳,翌1670年には英語訳とフランス語訳が出版されるなど,日本に関する当時最も知られた著作であった.ただし,モンタヌス自身は一度も来日しておらず,イエズス会士の報告書や,オランダ商館長の江戸参府紀行,ブレスケンス号事件の報告などに基づいて著したとされる.このため,誇張や不正確な記述が多く,特に多数挿入された挿図は,全くの想像に基づいて描かれたものである.
この書の 399 ページの商館長の大名への贈り物に関して次のような記述がある.
fCunocuni eifchte byzon-
dcrlyk zes getrokken loopen , welker
form , op een papier afgemaalt , aan
Wagenaar ter hand stelde. D'ontboo-
dene verre -kyker voor Minosamma ,
hem behoorlykcr wyze overgeleyert ,
wierd wederom gezonden: alzoo, ge-
lyk voor geest, te duister van glas is ;
doch’t hapert buiten twysel aan de qua-
de onderrechting der dienaars wegens
het recht gebruik. En even zoo is’t af-
geloopen met het heerlyk Kruid-boek
van Rembertus Dodonæus ; want hoe-
wel de bloemen , boomen en kruiden
boven gemein schoon zyn afgezet na
’t leven , heeft Minosamma het zelve
niet aangevaerd : ter oorzaak hy de
printen te klein en niet wel geschildert
keurde : verzocht derhalven een groo-
terboek, en netter afgezet. En immers
zoo weinigh word de schoone aerd- en
hemels-kloot , voor de Kaisar tot Am-
sterdam toegestéldt, gewaerdeert, de-
wyl niet weeten wat van’t een of’t an-
der zullen maken. Weinige evenwel
konnen op d’aerd-kloot de voornaamste
Koningryken, zelf in Europe , met
den vinger aanwyzen, en die noemen.
Maar wegens de vreemde afbeeldzels
der hemels-teikenen voedenze veel
vreemder gedachten ; want de meeste
meinen , dat waatlyk zulke mannen en
beesten onzichtbaarder wyze aan de
wolken kleeven : andere , datze den he-
mel bewoonen.
1670 年に Tho. Johnson? によって英訳された★“Atlas Japannensis: Being
Remarkable Addresses by Way of Embassy ... from the East-India Company ... to
the Emperor of Japan: Containing a Description of Their Several Territories
...” (冒頭図②)の 429 ページには次のようにある.
“Hollanders Presents are not accepted, and why
Moreover, the
Kings of Ouwarri, Cunocuni, and Mito, the Emperor's Uncle,
and also the Councellor Minosamma, ask'd for some Strings of Blood-Coral,
and six Caft of Loopen, the form of which was drawn on a piece of Paper,
and given to Wagenaer. Minosamma
requir'd also a Perspective- Glass, which be-
ing accordingly sent, was return'd again, the fame being, as he pretended, too
dark ; but indeed the fault was in the bad Informations of his Servants, who
knew not how to use it . And just so it was with the costly Book of Plants of
Rembert Dodoneus ; for although the Flowers, Trees, and Herbs were
extraor-
dinary handsom to the Life, yet Minosamma
sent it back again*1 , because he look'd
upon the Prints to be too small, and not well drawn , so desiring a bigger
Book, and one that was handsomer painted. And as little was the Globe
esteem'd, which with all the Art imaginable was made for the Emperor of Ja-
pan in Amsterdam, because they knew not the meaning thereof ; yet some of
them could find the chiefest Kingdoms in Europe upon it, and pointing to them
with their Fingers, name them : But as for the representation of the Planets,
they have many strange thoughts ; for most of them think, that certainly such
Men and Beasts do invisibly stick to the Clouds ; others, that they inhabit
the Heavens.”
?: Ogilby,
John, 1600-1676 [tr.] Johnson, Thomas, fl. 1642-1677 [printer.](The Library Company of Philadelphia)
★アルヌルヅス・モンタヌス編,和田万吉訳『モンタヌス日本誌:一名・蘭使紀行』丙午出版社 (1925) (冒頭図③)には,
「 蘭人の贈品返還せられし所以
又尾張、紀の國、エムペロルの叔父水戶の諸王、又閣員美濃樣は血色珊瑚珠の一連及ローペ(Loopen)鐵六片を請求せり。ローペの形は紙に書きてワゲナールに與へられたり。美濃樣は望遠鏡を請求せり。依りて直に之を送りしに、暗しとて返還せられたり。然るに是れ其家臣等が用法を知らざるに由りしなり。是と同じくレムベルト·ドド子ウス(Rembert Dodeneus)の植物書を贈りしが、書中の花卉植物の圖が寫生的にて精巧なるにも拘らず、美濃樣は之を返したり。印畫が餘りに小く、且よくも描かれあらずとて、大册にして美麗に描かれたるものを請求せり。又地球儀も餘り賞美せられざりき、是はアムステルダムに於て日本エムペロルの爲に爲し得る限りの技術を盡して作らしめしものなるが、彼等は其價値を知らざりしなり。但し或人は其球面に現れ居る歐洲の主なる王國を見出して指點せしもあり。然るに遊星を現したるものに關しては奇なる考を抱き、多數の人は斯くの如き人及動物が人目に觸れずして雲に附着せるものとし、他の者は實際かかる物が天に住すとせり。」と訳されている.
★新村出『南蛮広記』岩波書店(1925)「和蘭傳來の洋畫」には
「モンターヌス
A. Montanus の遣日本使節記 Gesantschappen
- - -aan de Kaisern van Japan (一六六九年寛文九年和蘭原版○翌年の英譯刊本あり)
に由るに、西暦一六五九年四月二十九日(萬治二年三月八日)甲比丹ワーヘナールZacharias Wagenaerが幕府に暇乞に登つた時、老中稻葉美濃守正則(蘭人はMinosammaと稱せり、當時小田原城主たり)より、曩に獻上せるレムベルト·ドドネウス Rembert Dodoneusの本草書(植物書)版本が、挿畫の草木花卉甚だ美なるにも拘はらず、印刷小に過ぎ構圖未だ巧ならずとして、之を返却し*1、更に大なる本にして尙美はしく畫いた本を寄越してくれと要求されたといふ記事が出てをる。(中略)
更に二十年程下つて天和二年(一六八二)には、一昨延寶八年に賀州侯より蘭人に注文したドドネウスの本草書(一六六四年刊本)が前田綱紀侯のもとに着したといふ事が松雲公傳*2に載つてゐて、編者は侯の意書物の本文を讀む爲にはあらで、寧ろ草木圖の參考の爲であらうと推定したが、予輩も上記モンターヌスの記事でも察し得るが如く、此時代の本草書はドドネウスにせよヨンストンにせよ一に插畫の爲に參考及賞翫されたものであると信ずるのである。插繪の美麗、銅版の精巧に引きつけられて本文を讀む路を開いたのが、將軍吉宗で、公の蘭學開始の直接の動機は本草書の插繪を解說することに外ならなかつたのである。」とある.
*1:商館長ヴァグナーは,本の返品を受けて,「なんという哀れな人々だ.著作の素晴らしさをほとんど理解できず,このような本が靴屋の靴と同じように,様々な種類を取り寄せられると思っている.」“wat aengaet ’t voorschreve g’eijste boeke ‘t selve was wel maer de kruijden darein afgebeelt waren te kleijn, en niet wel geschildert, souden sien off hem in ‘t aenstaende een grooter boeck, daerinne oock grooter figuren stonden, konden oordeelen, want meenen dat sulcke boeken van allerleij soot (gelijck in een schoemakers wickel de schoen) te becomen zijn” (出島商館日誌、1659年4月4日 (NA, NFJ 72. Dagregister Dejima, 4. 4. 1659)).
その後老中稻葉正則にはバシリウス・ベスラー(Basilius Besler, 1561 - 1629)が1613年に刊行した17世紀の最高傑作植物図譜とされる『アイヒシュテットの庭園』(Hortus Eystettensis)が贈られた.(Wolfgang Michel, 「シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について」九州大学学術情報リポジトリ 2006)).
*2:『松雲公御夜話』かもしれないが,出典未確認
〇ツァハリアス・ヴァグナーは,オランダ東インド会社のドイツ人社員で,第25代および第27代オランダ商館長(1657年と1659年に江戸参府)とケープ植民地総督を務めた.ヨーロッパ人好みの見本とオリジナルデザインを基にした日本の陶磁器を,初めてオランダ東インド会社納品用に発注した.
出島のオランダ商館長に初めて昇進した1657年には恒例となっている将軍謁見のために江戸に赴いたが,大目付井上政重の屋敷に招かれていた際,3月2日(明暦3年1月18日)に発生した明暦の大火に遭遇した(江戸東京博物館には彼によるスケッチが所蔵されている).一行は屋敷に留まるように言われたが,オランダ屋敷(長崎屋源右衛門邸)に戻ることを許可された.しかし火の勢いによりオランダ屋敷も焼失し,一行は一般の町民らと同様に,人の波に揉まれ,屋根に登り人を乗り越えて活路を開き,江戸の町を逃げ回った.この経験から,ヴァグナーは当時発明されたばかりの消防ポンプとホースを将軍に献上することを思いつき,次の商館長ヨアン・ボウヘリヨンによって実現され,大いに喜ばれた.
中国内の戦乱で景徳鎮での陶磁器生産が打撃を受け,ヨーロッパへの輸出が困難になっていた.また,有田に磁器窯はあったが製品の質は高くなかった.1659年に2度目の商館長を務めていた際には.ヴァグナーは中国から見本の陶磁器を輸入し,それを参考にしてヨーロッパ人の好みに合う製品を制作するように依頼した.コバルトブルーの素地の上に黄金のデザインを施した伊万里焼はヴァグナーの考案によるもので,現在でも香蘭社に受け継がれている.
〇稲葉
正則は,江戸時代前期から中期の譜代大名,老中,大政参与.相模小田原藩第2代藩主.初代藩主稲葉正勝の次男で,母は山田重利の娘.正成系稲葉家宗家3代.元和9年(1623年),江戸幕府老中・稲葉正勝の次男として誕生.元禄9年(1696年),江戸で死去した.享年74.
正室の父毛利秀元から茶の湯を学び,狩野探幽・小堀政一と親交を持ち,学問・宗教を通して林鵞峰,吉川惟足,鉄牛道機らと交流を深め,万治元年に隠元隆琦と対面してから黄檗宗へ傾倒,隠元の弟子の鉄牛道機を小田原へ招いて紹太寺と江戸弘福寺の創建を行った.また,長崎と江戸を取り持つ役目も負い,オランダ商館館長や随行員との物品の交流,藩の医者をオランダ人医師に学ばせているなど西洋文化導入にも取り組んでいた.
〇前田綱紀(1643 - 1724)は,江戸前期の大名。加賀藩第5代藩主。幼名、犬千代。藩政改革に尽力。また、学を好み、木下順庵を招き、図書の収集・保存・編纂にも努めて尊経閣文庫の基礎を築いた。
綱紀は稲生若水(1655 - 1715)を儒医として招き,若水は藩主前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、『庶物類纂』として編纂を開始した。その内容は、古今の漢籍より動植物、鉱物などの記事を調査し、それらの記事を種類・分類毎に26属に分けて再編集し、漢文にて記述するものであった。この編纂は『本草網目』や『大和本草』を遥かに凌ぐ博物学的な水準に達するものであった。若水自身は9属362巻を完成したところで病没したが、これを引き継いだのが弟子の丹羽正伯(1700-1752)であった。 正伯は1734年より編纂を継続し、4年後に残りの638巻を完成させて、加賀藩を通して幕府に献納した。さらに延亨2年(1745年)には幕府よりその増補編纂を命じられている。
★江戸城内の歴代将軍の蔵書を集積した「紅葉山文庫」に,1618版のドドネウスの本草書が収蔵されていた事は,1808 – 19年の間,書物奉行を務めていた近藤正斎(重蔵守重,1771 - 1829)が著わし,1826年に幕府へ献上した文庫の書籍リスト,『好書故事第八十』の〔書籍三十、蘭書三、本草〕に
「獨々涅烏私(ドヽネウス)本草集成 一冊 眞圖若干枚 俗呼ドヽネウス
原名コロイドブーク、ハン、レムペママルチュス、ドドネウス
入爾馬泥亞国レムベルチュース ドヽネウス撰、千六百十八年我元和四年戌午和蘭國平レイデンノ地ニ於テ其地ノ刷印家フランコイスハン、ラーへンゲン印行ス
按ニ此書巻中各編ノ終リニ本草諸家更ニ附言ヲナシ巻末ニハ東方諸國ノ草本ヲアツメ附録トナスコト同國ノ士カーロリエスクリユシウスノ手ニ出ヅ クリユシウスカ東方印度諸國ノ物産草木ノ全書ハ別ニ舶載アリ」(国書刊行会『近藤正斎全集 第3』国書刊行会刊行書(1905))
の文から分かる.この書が稲葉正則が受け取りを拒否した書か否かは分からないが,1618年にライデンで印刷された蘭語版という点では一致する.
〇近藤重蔵は,江戸時代後期の幕臣(旗本),探検家,書誌研究家.号は正斎・昇天真人.5度にわたって蝦夷地探検をおこなった.間宮林蔵,平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる.「大日本恵登呂府」の標柱を立てた人物として知られる.
このように,一般には蝦夷地探検家として知られる近藤重蔵だが,文筆家市島謙吉(春城)によれば,実のところ,書物奉行こそ彼にとって「ハマり役」であった.近藤は図書趣味の人であり,図書に関する多くの知識を有していたのみならず,大田南畝(蜀山人)や狩谷棭斎といった蔵書家ないし書誌学者とも交友関係を結んでいた.
近藤は,紅葉山文庫の蔵書をはじめとする幕府所有の図書について精査し,その来歴や考証を記録してデータベースをつくり,書物に関する著作も行っている.徳川氏の蔵書の多くが公けになっているのも,近藤の貢献によるところが少なくない.市島春城著『芸苑一夕話(上)』早稲田大学出版部(1922)
その他,開明派の大名や,本草家・博物家には所蔵されていて,一部の引用や,翻訳の試みもされていた.
〇特に白河藩主松平定信は1793年(寛政5)に石井当光(庄助)に,所蔵していたドドネウスの『本草書』(1618年版)の全訳を命じた.当光の死後に吉田正恭が翻訳作業を継続し,羽栗費(吉雄俊蔵)と荒井行順の協力を得た上で,1823(文政6)年頃に「遠西独度涅烏斯本草譜」の題で訳稿を完成させた.しかし,江戸の大火で訳稿の大部分が焼失した.
早稲田大学には,原稿や浄書版(版下本)の一部が保存され,デジタルアーカイブで公開されている.(後記事)
また,ドドネウスの『本草書』(1618年版)も早稲田大学に所蔵されているが,これが当該訳書の基になった書籍か否かは不明.
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