Hibiscus coccineus
種から育てたモミジアオイが二年越しに花をつけた.江戸時代末期に渡来した*1モミジアオイは,「紅蜀葵」の名前で明治以降広く栽培された.日本の植物には見られない,派手で大きな紅色の花は目立ち,俳句・短歌(次以降記事)を始め,多くの文学作品の題材になった.*1:磯野直秀『新渡花葉図譜』:幕末渡来植物の一資料:参考書誌研究・第67 号(2007 ・10)によれば文久3(1863)年渡来
谷崎潤一郎『病蓐の幻想』(初出『中央公論』1917)には,齒齦膜炎から寝付いた神経衰弱気味な男が、庭に咲くモミジアオイの真紅の花(「烈日の中にくるくると燃える,眞赤な,心臓のやうな大輪の紅蜀葵」)が,咲き終わったのち落ちる様は,「盛んに血を吸つて膨れて居る自分の心臓が,若しかするとあんな風に,いきなりほたりと崩壊する前兆ではあるまいか」と怯える.更に,「齒の痛みは音響に近いばかりでなく,それぞれ雑多な色彩を持つて居る」と感じ,ボードレール (Baudel.,;Charles-Pierre Baudelaire, 1821 - 1867)の散文詩『人工楽園』"Les Paradis artificiels" の「音響は色彩を發し,色彩は音樂となる」から,彼の齒痛は「眞赤な痛さだ.何か非常に赤い者が焰々と燃えて渦巻いて居る」で,紅蜀葵を連想する.また,齒の痛みを「呪わしい地獄、美しい花壇」と連想し,ランボー(Rimbaud.;Arthur Rimbaud, 1854 - 1891)の母音(文字)を色彩で表現したソネット『母音』“Voyell” を想起するが,その中の「I:赤」は,庭園に咲くモミジアオイの花の真紅であろう(冒頭図左右).
以下文献画像は NDL の公開デジタル画像よりの部分引用
『母音 “Voyell”』はアルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)が1871年に執筆したソネットで、自筆原稿に執筆時期は記されていないが,パリ上京後まもなくの時期(1871年秋から冬)に書かれたランボー最後のソネと推測され,1883年10月5日号の『リュテス “Lutèce”』に掲載された.
1884年に,ヴェルレーヌ(Paul-Marie
Verlaine, 1844 - 1896)の『呪われた詩人たち “Les Poètes maudits”』第1版が出版された.「隠れた名」トリスタン・コルビエール(Tristan Corbière, 本名:Édouard-Joachim
Corbière, 1845 - 1875),「ほとんど未知の名」アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud),そして「無視された名」ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 本名:Étienne Mallarmé, 1842 - 1898)を世に知らしめることになった書物である.他に取上げられたのは,コメディエンヌで詩人のマルスリーヌ・デポルド・ヴァルモール(Marceline
Desbordes-Valmore, 1785 - 1859),貴族詩人のオーギュスト・ヴィリユ・ド・リラダン(Auguste Villiers de l’Isle-Adan, 1838
- 1889),ポオヴォル・レリアン(Pauvre
Lellian – 「哀れなレリアン」とはヴェルレーヌの変名.アナグラム)の計6人.
ヴェルレーヌはこの書の「II.アルチュール・ランボー」の章に「母音(Voyelles)」「夕べの辞(Oraison Du
Soir)」「坐った奴等(Les Assis)」「びっくりした奴等(Les Effarés)」「虱捜す女(Les Chercheuses De Poux)」「酔ひどれ船(Bateau Ivre)」の全文とその他数編の抜粋を掲載した.とりわけ「Aは黒,Eは白,Iは赤,Oは青,Uは緑」と母音(文字)を色彩で表現した「母音」は若い象徴派詩人の関心を呼び,大論争となった.
1888年には風刺文芸誌『レ・ゾム・ドージュルデュイ “Les Hommes
d'aujourd'hui”』にランボーに関するヴェルレーヌの記事が掲載された号には,マニュエル・リュック(Manuel
Antonin Ildefonse Cypriano Luque de Soria, 1853/54, - 1924)作の表紙画に,文字に色を塗るランボーの戯画が描かれている.(冒頭図,中央)
ランボー作品の最初の本格的読者かつ紹介者となったヴェルレーヌは,1895年刊の初の『ランボー全詩集』への序文で,「母音」について,「この少々ふざけた,しかし細部はかくも見事なできばえの「母音」のソネ」と記している.
ランボー『母音
Voyelles』
A noir, E blanc,
I rouge, U vert, O bleu : voyelles,
Je dirai quelque jour vos naissances
latentes :
A, noir corset velu des mouches
éclatantes
Qui bombinent autour des puanteurs
cruelles,
Golfes d’ombre ; E, candeurs des
vapeurs et des tentes,
Lances des glaciers fiers, rois blancs,
frissons d’ombelles ;
I, pourpres, sang craché, rire des
lèvres belles
Dans la colère ou les ivresses
pénitentes ;
U, cycles, vibrements divins des mers
virides,
Paix des pâtis semés d’animaux, paix
des rides
Que l’alchimie imprime aux grands
fronts studieux ;
O, suprême Clairon plein des strideurs
étranges,
Silences traversés des Mondes et des
Anges :
— O l’Oméga, rayon
violet de Ses Yeux !
この詩は明治以降多くの日本の詩人や仏文学者たちに愛されて,種々の翻訳が著わされている.
蒲原有明(1875- 1952)が訳したランボー「母音」
出典:「有明詩集」アルス(1922)
母音
アルチユウル·ランボオ
母音(ぼゐん),Aア は黒,Eエ は白,Iイ は赤,Uウ は緑、Oオ は靑ぞ
我はその事の起りの秘密をばここに明さむ。
Aア、烈しき臭氣の中に飛び廻り、黑毛の胸當(むねあた)
装ひて羽ぶき光れる大蜻蛉(おほゑむば),陰の入海.
Eエ,天幕はた雲霧の色,威(ゐ)も猛き氷河の投槍,
素絹纏ふ眩(まばゆ)き羅?(ラアジャ)揺らめきて立てる撤形花(さんけいくわ),
Iイは示す紫の斑點,手弱女の瞋恚(しんに)に燃ゆる
微笑(ほゝゑま)ひ,喀血の痛み,悲しみに淫(たは)くる泥酔(でいすゐ)
Uウ、綠の海のこよなき息づかい、「天の命數」
家畜等の群れて遊べる牧(まき)の野の平和と,あはれ
錬金の博士が額(ぬか)を刻みたる年波のすぢ。
Oオ,峻巖の音にあやしく高響く至上の喇叭
諸(もろもろ)の世と天使等を聯(つら)ね和(やは)す静寂界(しゃうじゃくかい)や、
これぞ「オメガ」統(すべ)らぐ神が菫靑(きんせい)の眼(まなこ)の光。
注:ルビは一部省略
中原中也(1907 - 1937)が訳したランボー「母音」
初出:『ランボオ詩抄』昭和11(1936)山本書店
再録:『ランボオ詩集』昭和12(1937)・9 野田書房
現代仮名遣い:講談社文芸文庫『中原中也全訳詩集』(1990)
「 母音
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤*、母音たち、
おまへたちの穏密*な誕生をいつの日か私は語らう。
A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣(むなぎ)は
むごたらしい惡臭の周圍を飛びまはる、暗い入江。
E、蒸氣や天幕(テント)のはたゝめき、誇りかに
槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花**顫動、
Ⅰ、緋色の布、飛散(とばち)*つた血、怒りやまた
熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。
U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、
動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が
學者の額に刻み付けた皺の静けさ。
O、至上な喇叭の異様にも突裂(つんざ)く叫び、
人の世と天使の世界を貫く沈黙。
――その目紫の光を放つ、物の終末!」
*「Oは赤」:原文(“O bleu”)からすると「Oは青」.誤訳 or 誤植と思われるが,『ランボオ詩抄』(1936),『ランボオ詩集』(1937),『中原中也全訳詩集』(1990)で訂正はなし.一方,『新編中原中也全集・第三巻』角川書店(2006),これを底本とする『ランボオ詩集』岩波文庫(2013)では「Oは青」に訂正.また,同時に「穏密」を「隠密」に,「飛散(とばち)つた」を「飛散(とびち)つた」に訂正.
(上図:ハナウド Heracleum sphondylium var. nipponicum)
西條八十(1892 - 1970)が訳したランボー「母音」
出典:『西條八十全集 第十五巻,アルチュール・ランボオ研究』(2004)
初出:『アルチュール・ランボオ研究』中央公論社(1967)
《A(ア―)は黒、E(ウ―)は白、I(イ―)は赤、U(ユ―)は緑、O(オ―)は青。母音たちよ、
わたしはいつかお前たちの隠れた起原(みなもと)を語ろう。
Aはすさまじい悪臭のほとりに唸る
光った蝿たちの毛むくじゃらな黒の胸当(むなあて)。
小暗(おぐら)い入江。Eは靄(もや)と天幕(テント)の純白、
傲(おご)れる氷河の槍、白衣の王侯たち、繖形花(さんけいか)のそよぎ。
Iは緋色、吐かれた血、憤怒の中
または悔恨の陶酔の中の美しき唇の笑い。
Uは周期、緑の海の堅さ顕動、
家畜が点在する牧野の平和、錬金術が
黽勉(びんべん)な広き額(ひたい)に刻む小皺の平和。
Oは怪しき絶叫にみちた至上の喇叭、
諸世界と天使らを貫く沈黙。
―― おお、オメガ、「かの眼」の紫の光よ!》
注:ルビは一部省略
中地義和(1952 - )が訳したランボー「母音」
出典『対訳ランボー詩集-フランス詩人選(1)』岩波書店(2020)
[14] 母音
黒いA、白いE、赤いI、緑のU、青いO、母音たちよ、
ぼくは、いつの日か、お前たちの秘められた誕生を語ろう。
A、耐えがたい悪臭のまわりでぶんぶんと羽音を立て、
きらきら光るハエの、綿毛に覆われた黒いコルセット、
影の入り江。E、湯気とテントの純白、
高慢な氷河の槍、白装束の王たち、傘形花のおののき。
I、緋の衣、吐かれた血、怒りにかられた、
または悔俊に酔いしれた、美しい唇に浮かぶ笑い。
U、もろもろの周期、緑の海の神々しい震動、
動物たちが放たれた放牧地の平和、錬金術が
学究の偉大な額に刻印する皺の平和。
O、かん高い奇妙な音を響かせる(至高のラッパ)、
いくつもの世界と天使たちがよぎる静寂、
-オメガよ、〈かの方〉の〈眼〉の紫の光よ!