2025年9月30日火曜日

モミジアオイ(9)和文學-5 加藤武雄『砧村随筆』「紅蜀葵(べにあふひ)」,『郊外通信 : 随筆小品など』「紅蜀葵」,『加藤武雄短篇選集 落花の如く』「夏草」

Hibiscus coccineus

大正・昭和期に大衆小説を數多く著した加藤武雄1888 - 1956)は神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区)の富裕な農家に生まれ,尋常小学校で訓導(準教員)を務めながら,投書をつづけて,投書家として次第に名を知られるようになった.1911年,新潮社に入社し編集者となり,『文章倶楽部』などを編集.1919年,農村を描いた自然主義的な短編集『郷愁』で作家として認められた.1922年-1923年の『久遠の像』以後,通俗小説,少女小説の書き手となり,大正末から昭和初期にかけて,中村武羅夫,三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡し,三人あわせての『長編三人全集』28 新潮社,193032)が刊行された.戦時下には戦意高揚小説を書き,戦後はやはり通俗小説を量産した.
 生家は 1901 年,失火で焼亡したが,育った加藤家は養蠶,製糸,機織を行う半農半工の家で,そこには,近隣や遙か上總からも若い娘たちが製糸,機織の働き手として住み込んでいた.武雄はその内の一人の「田舍には珍らしい美しい娘」をひそかに愛し,家の「背の石垣の下に咲き亂れてゐた紅蜀葵の眞紅な花」に例えて慕った.
 明治-昭和初期の小説・随筆に紅蜀葵を記した例は多いが,殆どが点景としてで,紅蜀葵の特別な性状(「
竹のやうにすらりと伸びた莖、刻みの淺い眞靑な葉、單瓣の眞赤な花」)を受け止めて主題とした著作は,これ以外見つけられなかった.

加藤武雄『砧村随筆』玉川学園出版部(1932
紅蜀葵(べにあふひ)
 竹のやうにすらりと伸びた莖、刻みの淺い眞靑な葉、單瓣の眞赤な花紅蜀葵は、十五六
の田舍娘のやうに單純で無邪氣だ。
 此の花が咲く時分になると、養蠶が終つて、絲取りがはじまる。裏縁の雨戸がからりと
明け放たれて、そこに漏斗型の大きなこんろが十ぐらゐ並べられる。一つこんろに一つ
づつの鍋がかけられ、一つの鍋に一人づつの工女が坐る。繭を煮る鍋からは、もやもやと
烟が立ちのぼり、その烟の中に、赤くのぼせた頬を浮べながら若い工女たちは糸を取るの
だ朝暗いうちから、晩暗くなるまで、笑つたり歌つたりしながら工女たちはその作業を
つづける。―― 私はその賑かさが好きだつた。
 工女の中には未だ下手なのがあつて、外の者がみんな鍋を空にしてきりあげてからも、
カンテラの灯をたよりに殘りの仕事を續けてゐる。意地の惡いのが、
 「野中の、野中の、お地藏さん――。」
などと云ひながら、さなぎを投げつけたりする。名は忘れたが上總から來てゐた、瘠せ
た色の白い娘が「お地藏さん」にされて泣きながら鍋の前にすわつてゐた姿を、今でもあ
はれに思ひ出す。紅蜀葵を見る每に思ひ出す。」

加藤武雄『郊外通信 : 随筆小品など』健文社(1935)
  「紅蜀葵

 甲斐絹を織るを業とせし我が家には、年若き織子常に七八人を下らず、織屋の窓に機臺
をつらね、はやり唄など口ずさみつゝ、ひねもす織りくらし織りくらしき。おたま、おせ
ん、おてつなど、名は覺え居れど、面影は皆忘れぬ。唯おすみと云へる、色白く唇赤き小
女の、織屋の軒に咲ける紅蜀葵(べにあふひ)に似たりし姿のみは、今もあざやかに思ひ出づ。我が十三
なりし時、彼女は十五位なりけむ。父は酒呑みのあぶれものにて、小ばくちなどにうき身
をやつせるが、ある夜、醉を帶びて我が家に來り、糸を繰れるおすみと、その傍に『少年
世界』讀みつつありし我とを、かたみに見つつ、坊ちやん、もう三四年すればおすみはう
つくしき娘盛り、坊ちやんも亦世心つきたまふころぞ。おすみを側女(そばめ)にしてなり愛で給へ
おすみは坊ちやんが好きだと申して居りますと、ささやくやうに云ふに、おすみの頰見る
/\火のやうに赤くなり、我もまた頰の熱きをおぼえたりき。
 この醉ひどれの、何を云ふにや。坊ちやんあちらへまゐりませうと、つと立ちつつ、あ
たりを憚るやうにしておすみとわれに云へる時、羞恥に伏せられしおすみの眼に、つつま
しきなまめきの動くをわれは見たりき。その時ぞ我が、異性といふものを感じたる最初に
てありけむ。
 我が十五なりし時、おすみは故ありて我が家を去りぬ。おすみの母が、あだし男とちぎ
りて夫を捨てたりと聞きしもその頃なりき。おすみはかの女優ナナの如く、生れながら
に淫蕩の血を享けたりけむ。その後、あまたの男に弄ばれての果、橫濱にて娼婦の群に入
りぬと聞きし時、われはやる方もなき憂悶の、胸をとざすを覺えたりき。われ、おすみを
戀へりしや否やを知らず。しかも今になほおすみの事を憶ひ出づる事に、遠き笛を聞くや
うなる哀愁を感ずるは何故ぞ。――今年家にかへりて、斷礎のあとになほ紅蜀葵の一株の
咲きのこれるを見、花年々に同じうして人歲々に同じからざるのかなしみを今更の如く感
じぬ。このかなしみは平凡也。しかも人間のかなしみは、畢竟、この一つのかなしみに盡
くるにあらずや。

加藤武雄『加藤武雄短篇選集 落花の如く』大都書房版(1940)

夏草

 半農半工とでもいふのか、その頃、私の家では、農家として養蠶なんか盛んにやつてゐたが、
同時に又製糸をも機織をも兼ねてゐて養蠶が濟むと、製糸をやる。製糸が了ると、機織をやると
いふ風だつた。明治の三十年代だから、まだ家庭的な手工業の時代である。働き手は、いづれも
十五六から二十一三までの若い娘たちで、一年一季の雇人もあれば、二三年から四五年の年は
季奉公の者もあつた。上總(かづさ)の方から、糸機の道を習ひに來る娘たちは、みんな年季奉公の口で、
それを上總ッ子と云つてゐた。
 私は、その娘たちから『坊ッちやん』『坊ッちやん』と云はれて、女くさい空氣の中で幼年期
少年期を過したもので、か·その頃の事を回顧すると、今でも、赤い塗櫛を挿した黑い髪や、紫の
襷でかゞられた袖をぬけ出した白い手やらがちら/\と浮んで來るのだが、しかし一個の人間と
してのまとまつた印象を記憶にととめてゐる者は案外少ない。その中で今もはつきりと思ひ出す
事の出來るのはお粂といふ娘の事だ。くゝり顎の色の白い圓顏で、二重瞼の黑瞳勝の眼の片方が
いくらか斜視氣味な、少し厚日の唇に口紅でも塗つたやうに赤い十五六の娘――それが私の思
ひ出に浮ぶお粂だが、事實お粂は田舍には珍らしい美しい娘であつた。
(中略)

(中略)
    お粂は、二年の年季が了ると、又更に二年の年季を加へたが
その四年目の秋に、逃げ出して行衞をくらまして了つた。
 『おふくろの子だでな。こんな事だらうとは思つてゐやした。』
 榮次は、沈痛な顏附をして見せた。お粂は村中の若者に騒がれてゐた。そして、事實、かなり
多情な女らしく、誰彼との間に噂が立つてゐたが、しかし、お粂をおびき出したのは、矢張父親
の榮次に違ひ無いと思はれてゐた。それから間もなく榮次が村から姿を消した事が、何よりもの
證據であつた。
 『屹度何處かへ賣られたのだよ。あゝいふ親父を持つちや、お粂も浮ばれない。』
 私の母は斯う云つて溜息ついたが、それから二年の後、お粂がY市の遊廓にゐるといふ噂が
傳はつて來た。きらびやかな裲襠(しかけ)すがたで、店先に坐つてゐたお粂を、たしかに見て來たと告げ

る若者もゐた、そんな事を聞くと、私は、くわッと全身の血の湧き立つおもひがした。よッぽど
お粂に會ふ爲めにY市へ出かけて行かうかと思つたくらゐだつた。
 その當座十日ばかりの間、私は飯もうまくなかつた。その時になつて-私はもう二十になつ
てゐたのだが-私は、はじめて、自分がいかにお粂を愛してゐたかを知つた。文學靑年だつた
私は、お粂の追憶を一篇の文章に綴つた。題して曰く、紅蜀葵。あの背の石垣の下に咲き亂れ
てゐた紅蜀葵の眞紅な花に、お粂の面影を寓したのである。
 
ところが、それから十年ばかりの後、私は思ひがけなくもお粂に邂逅する事が出來た。あの大
震災の三月ばかり後の事である。もうそのずつと前から東京へ出て來てゐたが、私は、牛込に居
たので、無事だつた。ある日神樂坂の通りを步いてゐると、
 『坊ちやん?坊ちやんぢやありませんか?
と呼びかけたのがお粂であつた。
 『おゝ、お前は――?』
私は、しばらくの間口が利けなかつた。お粂は五六年前から淺草の方で小料理屋をしてゐたのださうで、震災の時は辛うじて命だけこは助かつたといふ事だつた。
 『まあ、宜かつた!なあに、命さへありや何とかなる。ところで、君のお父ツつあんはどう
してゐるね。』

『父は駄目で御座いました。』

『やられたのか?―― 一緒に暮らしてゐたのか?』
と私が云ふと、
 『えゝ、本當に仕方のない父でございますけど、近頃、年齡をとつてすつかりおとなしくなり
ましてね。一生懸命に店の仕事を手傳つてゐて呉れたんでございますが―― 實は、私が斯うして
命びろひをしたのも父のおかげでございますよ。』
 當時病氣で二階に寢てゐたので、逃げおくれて、慌て惑うてゐるうちに、火焰につゝまれ、も
ういけないと觀念したところへ飛び込んで來て呉れたのが父の榮次だつた。榮次はお粂を肩にか
けて二階から飛びおり、火焰の渦卷の中からお粂を抛り出した、と、その時遲し、どつと燒け落
ちて來た材木の下になつて、榮次はそこで即死して了つた
 『つまり私の身代りになつてれたわけなんですよ――
お粂は涙ぐんだ。
 罹災者のそぼろな姿ではあるし、痩せて、黑ずんで、お粂は見るかげもなくなつてゐた。もう
どこにもあの『紅蜀葵』のおもかげは見られないのに、かなり強い幻滅を感じた私の心も、その
話をきくと、頓(とみ)に明るくなつて行つた。
 『さうか。矢張ねえ。』

 『矢張、親は親ですね。私しみじみと感じたのでございますよ。』
 
お粂は眼をしばだたきながら云つた。」 

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