2025年8月3日日曜日

オオツルボ(3)William Curtis『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine)

Scilla peruviana


スペインなどの原産のオオツルボは,そのエキゾティックな花と育てやすさとが高く評価されて,欧州各地の庭園で育てられた.

現在でも出版が継続されている『カーチスの植物雑誌(Curtis’s Botanical Magazine, 1787 – x)』の第二十巻(1804)に, SCILLA PERUVIANA. CORYMBOSE SQUIL” の名称でオオツルボが収載されている.その記述には,「ポルトガル原産でルネ・デフォンテーヌによってアルジェリアとチュニジアの野原でも発見されている.極めて耐寒性があり、子株で自由に繁殖し,以前は今より多くの庭園で栽培されていた.」と記されている.種小名の perviana については,クルシウスがペルー産と誤って記したため,リンネの誤解につながったとしている(冒頭図).
 『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine 1787 年にウィリアム・カーチスによって創刊されたが,ほとんど中断することなく今日までずっと発行され続けている.こうして今やこの雑誌はイギリスの名物的存在となり,イギリス人が誇ってよいものであろう.


 ウィリアム・カーチス(William Curtis, 17461799)は,ハンプシャー州のアルトン(Alton, Hampshire)で生まれた.彼の家族はクエーカー教徒であった.カーチスの父ジョンは皮なめし業(tanner)を営み,裕福な家であった.書籍,鞄,小物,馬具など日常に使う様々なものに利用されていた皮革は,非常に重要な材料,素材であったといえる.カーチスの家系には,薬剤師になったものもあり,時代が下ると医者や博物学者などもいた.クウェーカー教徒としてのネットワークを生かし,カーチスの家族や縁者の多くは,何らかの教育を受けて専門的な技能を生かした職業に就いていた.アルトンには現在,カーチスが設立に尽力した小さな博物館(The Curtis Museum)があり,郷土博物館として特に自然科学や考古学の分野の収蔵に力を入れている(右図).
 カーチスはエッガー・グラマー・スクール Eggar’s Grammar School に通い,14歳になると祖父のジョン・カーチスの元に薬剤師の見習いに入った.しかし故郷の町では,彼が興味を持っていたそれ以上植物学を学ぶ機会はなかったようである.1766年,二十歳のとき,ロンドンに出た.最初,外科医であるジョージ・ヴォー(George Vaux)の見習いとなり,そのあとクウェーカーでシティの薬剤師であり薬局を営むトマス・タルウィン(Thomas Talwin の見習いとなった.やがてカーチスはこの薬局を継いだが,シティの薬剤師の仕事は良く儲かるものであったにも関わらず,短期間で店を売り払ってしまった.自分が本当にしたい仕事-植物の研究を続けるのに必要な時間を得るためであった.
 クウェーカー教徒たちは刑罰法 (いわゆるpenal law によって,公職や聖職に就くことができなかった.カーチスの家族に見られるように,彼らの多くは技能を伴う専門職となり,薬剤師や博物学者も多かった.クウェーカーの間では,植物学は特に推奨されたということであるが,それは自然の事物―鉱物から植物,動物まで―を研究することが信仰に叶うものと考えられていたからであった.自然を前にして虚心に観察するとき,人間は「内なる光」(inner light)に導かれて啓示を得るのであり,このような姿勢で自然の探究をすることは彼らの道徳に沿ったものと考えられたからである.カーチスは今や読書,採集,バーモンジーでの庭作り,同好の士との意見交換などに明け暮れするようになった.


 彼は薬剤師としてシティで働くことをやめ,育種や薬草学を学ぶ菜園を経営することを考え,1770年代の初め,テムズ川南岸のグランデ通り(Grande Road)に小さな薬草園を開いた.この時期,カーチスは聖トマス病院 St. Thomas Hospital)の薬草学の講師や,1772 年には二十六歳の若さでチェルシーの薬種協会(Worshipful Society of Apothecaries)の園芸教授と実地指導教授に任命された.この協会のチェルシー薬草園(Chelsea Physic Garden,左図,”The Physic Garden, Chelsea; a plan view.” Engraving by John Wellcome (1751))には,かつて『園芸事典』(Gardener’s Dictionary, 1731)の著者であるフィリップ・ミラー(Philip Miller, 1691 - 1771)が 1722 年から 50年間も Chief gardener として君臨していた.


カーチスは自分の知識を教授することに熱心であった.たとえば立案してもチェルシーでの講義がままならぬときには,自分が新しく開いた庭園で植物学や園芸学について私設講座を開いた.その庭園はロンドンのサウスバンクスにある「ランベス湿地(Lambeth-Marsh)」(上図)と呼ばれているところに独力で造ったものであった.ここでは6,000種ほどの植物も栽培した.
 

 しかしカーチスが一番興味をひかれたのはイギリスの植物相,ことにロンドンの近郊に育つような花々であった.ビュート侯(
John Stuart, Earl of Bute, 1713 - 1792)の支援で最初の意欲的な企画『ロンドン植物誌』(Flora Londinensis)の編纂にのりだした.これは首都から半径十マイル以内に育っている植物の図と解説からなるシリーズであった.(上図)
 『ロンドン植物誌』の最初の部は 1777 年に出されたが,その年カーチスは過労のためチェルシーでの職を辞した.そして十年間,自らの性分には合うが無報酬のこの仕事を根気よく続けた.1787 年までに,カーチスの労苦はみごとをフォリオ判二巻本となって結実したが,同時に大変な赤字を抱え込み,この冒険的事業を続けられなくなった.だが,なぜ赤字になるのかを考えたすえに,その解決策を見出した.つまり,道端に生えているつつましやかな植物の画集が売れないのなら,庭園に咲き誇る華やかな異国植物の工ングレーヴィング画を作れば購読者たちの引き立てにあずかれるだろう,ということだった.
 こうして,一七八七年に 『ボタニカル・マガジン』が誕生した.カーチス自身が言っているように,『ロンドン植物誌』は評価されただけに終わったが,『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine)は「実質利益」をもたらしたのであった.


 『ボタニカル・マガジン』の扉やまえがき(上図)に示された,この雑誌刊行の目的は,「栽培植物図譜(or Flower-Garden Displayed)」であり,それは「露地,温室,加温温室で栽培されているもっともあでやかな異国の植物(The most Ornamental Foreign Plants, cultivated in the Open Ground, the Green-House, and the Stove)」を図示し,解説を施すことであった.「その栽培に最も有益な情報(TOGETHER WITH THE MOST APPROVED METHODS OF CULTURE.)」も記され,彩色された図は「常に生きた実物をもとに描かれ,彩色は,たとえ完璧ではなくても許されるくらいに自然に近い彩色が(to illustrate each by a set of new figures, drawn always from the living plant, and coloured as near to nature, as the imperfection of colouring will admit.)」なされた.
 さらに「偉大なリンネの分類に従って,一般名,科,属.種,特性を;生育地,花期を記し」(Their Names, Class, Order, Generic and Specific Characters, according to the celebrated Linnæus; their Places of Growth, and Times of Flowering:)」と,植物学(Botany- Linnæus)と園芸(Gardening- Miller)を結びつける役割Botany and Gardeningso far as relates to the culture of ornamental Plantsor the labours of Linnæus and Miller, might happily be combined.)を期待して発行された.最初に刊行された第一部には図版が三点入っていて,1787 21日に刊行され,一部一シリングで三千部が売れた.後続本の価格と挿入される図版数は年によって変動したが,平均図版数は毎年四十五点ほどであった.

 『ボタニカル・マガジン』の図版は,ウィリアム・キルバーン(William Kilburn,1745 - 1818)とジェイムズ・サワビィ(James Sowerby, 1751 - 1822),一年後にシデナム・エドワーズ(Sydenham Teast Edwards, 1769 - 1819)の三人が,最初の二十八年間の全作品のほとんどを担当した - もっともそのうちの大部分はエドワーズがオランダ生まれの彫版師サンスム(Sansom, Fraccis, c.1797-1810)と一緒に制作したのである.1799 年にカーチスが世を去った後は,友人のジョン・シムズ(John Sims, 1749 - 1831)が運営全般と編集業務とを引き継いだ.シムズの編集のもとで多数の南アフリカの植物,ことにアヤメ科植物が図示された.

(参考資料:https://www.quakersintheworld.org/quakers-in-action/254/William-Curtis,石倉和佳『ウィリアム・カーティスの『ロンドンの植物』―自然と分類学のあいだ―』ガーデン研究会ジャーナル120153月,ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房 (1986)


Curtis’s Botanical Magazine
Vol. 19 (1804)

[ 749 ]
SCILLA PERUVIANA. CORYMBOSE SQUIL
Class and Order.
HEXANDRIA MONOGYNIA.
Generic Character. – Vid. Num 746.
Specific Characler and Synonyms.

SCILLA peruviana foliis lato linearibus, scapo longioribus,
       in orbem recumbentibus ; brafteis folitariis pe-
       dicellos fubaequantibus ; floribus numerosissimis
    in corymbum magnum subconicum congestis ;
       corolla stellato-patente, persistente ; filamentis lato-
       subulatis. G.
(中略)
   Bulb large, ovate, tunicate. Leaves many, broad-linear,
longer than the stem, round which they are spread recumbently,
channelled downwards. Scape terminated by a many-flowered
thickset somewhat conic corymb, the peduncles in which are
rather long, and each is supported by a single membranous bracte
of nearly the same length. Corolla persistent ; rotately patent,
with lanceolate, acute segments ; stamens shorter than these,
broad-subulate, of the same colour as the corolla; anthers short,
horizontally incumbent. Flowers in May and June.
  A native of Portugal ; found also in the fields of the Alge-
rine and Tunisian territories by D
ESFONTAINES. LINNÆUS
must have been induced to give the specific title of peruviana,
on the authority of CLUSIUS, who received it with the notice
of its coming from Peru out of the garden of E
VERARD
M
UNICHOVEN, a botanical dilettante of that day, but who
certainly was mistaken in supposing it to have been brought
from the above country, and has led both his friend, and through
him L
INNÆUS, into error.
  It is perfectly hardy, propagates freely by offsets, and was
formerly much more common in our gardens than at present.
We have seen a white variety of it. Our drawing was taken at
the Botanic Garden, Brompton. G.

この解説を書いた “G” とは,John Bellenden Gawler としても知られる英国の植物学者 John Bellenden Ker (1764 - 1842) と思われる.