Scilla peruviana
ボタニカル・アートの全歴史においてもっとも人気のある画家,「花のラファエロ」として名高いピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redouté, 1759 - 1840)の『ユリ科植物図譜』”Les Liliacées” (1802 - 1816) にはユリ科植物だけではなく,多くの観賞価値の高い単子葉植物の図が収載されている.この叢書は有名な『バラ図譜』”Les Roses” (1817 – 1724) ほど知られていないが,これに劣らず見事な図譜を多数収めている.
この叢書の第三巻第28分冊(1807年5月刊行)167圖に,彼の図版の特徴である多色点刻彫版(ステップル・エングレーヴィング)によってオオツルボが描かれている(冒頭図).オーギュスタン・ピラミュス・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle, 1778 - 1841)が書いた記述文では,「古くは新世界より渡来したと考えられているが,現在ではバルバリー(Barbarie)の原野,ポルトガルの海岸に自生している.この美しいユリは植物園で広く育てられ,アマチュアの庭園でも観賞用の花として栽培されている.原産地(Barbarie)では冬に花が咲くが,当地の気候では,春の半ばに花が咲き,長く咲き続ける.」とある.
ベルギーのディナン(Dinant)出身で,父・シャルル=ジョゼフ・ルドゥーテ(Charles-Joseph Redouté, 1715-1776)は,パリのアカデミー・ド・サン・リュック(L'Académie de Saint-Luc)で絵を学んでいたところ,1743年にサン=テュベール (Saint-Hubert) の大修道院から修道院や教会の装飾を依頼され,サン=テュベールへと移住した.シャルル=ジョゼフはサン=テュベールの質素な庭付きの一軒家で妻(Marguerite- Josephe
Châlon, 1712 - ?)と暮らし,6人の子供をもうけた.
それら6人のうちのピエール=ジョゼフを含む3人の息子たち(長兄:アントワーヌ=フェルディナンド(Antoine-Ferdinand Redouté, 1756 -
1809),末弟:アンリ=ジョゼフ(Henri-Joseph Redouté, 1766 – 1852)は父親と同様,絵の道に進み,サン=テュベールの修道院の装飾を手伝いながら絵の修業をしていた.当時修道院で庭園の手入れを行っていた医師兼薬剤師の修道士,イックマン(Hickmann)が若き日のピエール=ジョゼフ・ルドゥーテに植物の世界との出会いをもたらしたといわれている.(前記事参照)
パリに移り住んだ長兄,アントワーヌ=フェルディナンドは舞台装飾のほか,フランスの現エリゼ宮やコンピエーニュ城などの内装を手掛ける装飾画家として,実績を残した.1782年,ピエール=ジョゼフは二十三歳とき,パリへ移住し,アントワーヌ・フェルディナンに協力することになった.二人は新しく完成したルーヴォア通りのイタリア座で一緒に働いたが,ピエール=ジョゼフは暇があると花を描いてばかりいた.その習作数点をド・マルトーが彫版したが,またこの人から多色印刷について教えを受けた.
ピエール・ジョゼフは余暇にめずらしい花を求めて王室植物園(Jardin du Roi)へ行くようになったが,ここでまもなく裕福な植物学者シャルル・ルイ・レリチエ・ド・ブリュテル(Charles Louis L’Héritier de Brutelle, 1746 - 1800) の目にとまり,この頑固なリンネ式分類法信奉者は,ピエール・ジョゼフを自分の館へ招いて立派な蔵書を自由に使わせ,植物学者が要求する植物画のさまざまな特徴を教授した.
この幸運な出会いによってピエール・ジョゼフの前途は開けていった.レリチエの『新植物』(”Stripes Novae”, 1784 - 1785, 全6巻,134図)の中の五十枚以上の図版はルドゥーテの原画をもとに彫版されている(上図). さらに,レリチエが 1786 年にロンドンを訪問した時,この画家も同行して,足掛け2年,キュー植物園で育っているめずらしい植物を研究した著作『イギリス稀少栽培植物誌』(”Sertum Anglicum”, 1788)の挿図制作に協力した.(上図.なお,原画を描いたのは,Jac. Sowerby. P. J. Redouté. J.G. Bruguíere. 彫版したのは Fr. Hubert. Maleuvre. Juillet. J. B. Guyard. Steph. Voysard. Juillet. Milsanとされている.)
彼に植物画で大きな影響を及ぼしたのは,オランダ人の大画家へラルト・ファン・スパンドンク(Gerard van Spaendonck, 1746 - 1822)であった.スパンドンクは 1774 年にパリの自然史博物館の花の絵画教授になった程で,画家としても教師としてもパリで相当の名声を独力でかち得ていた.植物画におけるルドゥーテの才能に感銘をうけたスパンドンクは,ルドゥーテと,動物画家としてやはり植物園で働いていた弟アンリ・ジョゼフ(Henri-Joseph Redouté, 1766 – 1852)を,あらゆる面で支援した.1793 年にこの二人の兄弟は自然史博物館の館員に任命された.アンリがナポレオンのエジプト遠征に随行した科学者,画家,文学者たちの一団に配属されたのは,おそらくファン・スパンドンクの推薦によるものであった.(前記事参照)
ルドゥテの絵画技法は,師のファン・スパンドンクによって 1783 年頃に開発されたものを摸したものである.透明の水彩絵の具を使って,非常に微妙なタッチで階調をつけていき,ときどき不透明絵の具を用いて光沢を表現する,というのがルドゥーテの多用した手法であった.
こうしたこのうえなく繊細な筆使いのゆえに,彼の作品には女性的な雰囲気が漂っている.非常に繊細で,美しい植物の画を描いたが,もしその作品がベラムに描かれたものだけに限定されていたならば,ルドゥーテは今にいたるまでも,やはり豊かな才能に恵まれた同時代のファン・スパンドンクやテュルパン(Pierre Jean François Turpin, 1775 - 1840)のように無名のままであったことだろう.忘れさられることなく,その名が人口に膾炙したのは,勤勉さもさることながら好運のおかげであった.
多色点刻彫版の応用と,それによる豪華で繊細な花の図譜は,王族の後援,強靭なエネルギー,および点刻彫版師と印刷師のみごとなチームワークのおかげであり,ルドゥーテはボタニカル・アート史上かってないほどの図譜を作ることができた.
点刻彫版(スティプル・エングレービング,stipple engraving)はフランスで十八世紀に発達し,イギリスでバルトロッツィ(フランチェスコ・バルトロッツィ,Francesco Bartolozzi RA,1727 – 1815, イタリア出身 )とライランド(ウィリアム・ウィン・ライランド,William Wynne Ryland, 1732 or 1738 - 1783,英王室御用達の版画家,後の英国東インド会社債権を偽造したために処刑された)が改良し,肖像画・歴史画などの分野で大成功を収めたが,英国では花の図譜に応用されることはなかった.
①William Wynne Ryland ”Duchess of Richmond” (1775)
②Francesco Bartolozzi “Queen Charlotte” as painted by William Beechey, (1799).
③Francesco Bartolozzi ”Cupid and Psyche” (1789)
④左図 部分 拡大
ルドゥテはレリチエに同行したイギリスでその版画技法の可能性を知ったのであろう.当時フランスの代表的な彫版工であったPierre Gabriel Langlois(1754 - c.1810)を筆頭とするラングロワ(Langlois)一族と共同で,独自の改良を行って,見事な多色刷り作品を生み出していった.
その工程は簡単で,線によるよりはむしろ点によるエッチングといったもので,版は針かルーレットで彫られることもある.微妙なぼかしやそれゆえの立体表現にはまことにふさわしい方法であった.多色印刷はふつう一枚の版でなされ,さまざまな色のインクがプーぺ(タンポ)などで版面につけられ,一回印刷するごとに版面に再びインクが盛られるのであった.イギリス人はまったく奇妙なことに実際には花の絵を彫版するときに点刻を使用しなかった.しかしフランスでは,多色印刷の新しい方法が完成したのであった.
ルドゥーテは,自分は独特を多色印刷術の発明者であると主張したが,他人の発明を盗用したのだと告発された.そこでルドゥーテは法廷で自己を弁護し,勝利した.「多色印刷をするためにわれわれが一七九六年に発明した工程は,独自のやり方で一枚の版に必要な色のインクを盛り分けることからなる.それによってわれわれは,『多肉植物図譜』,『ユリ科植物図譜』その他の作品に見られるように,水彩絵の具のもつあらゆる柔らかさと華やかさを印刷物に与えることに成功したのである.」ルドゥーテの発明の価値は認められ,ルイ十八世手ずからメダルが授与された.
この手法を用いた美しい図譜を多く刊行したことによって,ルドゥーテは世界最高の花の画家としての名声を得られたといっても過言ではない.
その図譜の一つ『百合図譜』(“Les Liliacees”, 1802 - 1815)は全八巻,80部,486図からなる大冊で,1 - 3 巻はオーギュスタン・ピラミュス・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle, 1778 - 1841)が,5 – 7 巻はフランセイズ・ドゥ・ドゥラロシュ(François de
Laroche, 1781 - 1813)が,8巻は アリレ・ラフノー・ドゥリール(Alire
Raffeneau-Delile, 1778 - 1850)がと,当時一流の分類学者が解説を担当した.
解説のスタイルはほぼ一貫していて,種の学名,アントワーヌ・ロラン・ドゥ・ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu, 1748 - 1836)による科名,リンネ分類大系による名称,先行文献と異名,フランス名,記述,来歴,観察記録,図版説明の順に続く.(参考資料:Grace Costantino "The Botanical Art of Redouté" BHL Blog,
https://blog.biodiversitylibrary.org/category/blog-reel,ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史 芸術と科学の出会い』森村健一訳,八坂書房 (1986),大場秀章『植物学と植物画』八坂書房 (2003))
この叢書の第三巻(1805 - 1807)には60種の植物が(#121 - #180)収載されているが,原図はすべてルドゥーテが描いており(P. J. Redouté pinx.),彫版(Sculp.)担当はde
Gouy が22 図,Langlois が21 図,Chapuy が8図,Chapuis が4 図,Allais が2 図,Gabrielle が1 図,H.
Feuchot が1 図,Marie が1 図となっている.
オオツルボがこの巻に掲載されているが,原図は勿論ルドゥーテであり,彫版はde Gouy が担当している(下図,右端).
ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ (Pierre-Joseph Redouté)”Les Liliacées”第三巻第28分冊 #167
SCILLA
PERUVIANA.
FAM. des ASPHODÈLES. JUSS. — HEXANDRIE MONOGYNIE. LIN.
(中略)
DESCRIPTION.
Une grosse bulbe ovoïde, solide, couverte
de plusieurs tuniques blanchâtres,
donne naissance à des feuilles étalées en large rosette sur la terre, linéaires
,
légèrement ondulées , un peu ciliées sur los bords, courbées en canal vers
leur base, longues de 1 à 3 décimètres sur 10 à 15 millimètres de largeur.
La hampe est cjlindrique, droite, plus
courte que les feuilles, terminée par
une grappe conique, serrée, composée d'un grand nombre de fleurs: celles-ci
sont ordinairement dun bleu violet, quelquefois bleuâtres ou blanches. Leurs
pédicelles sont cjlindriques, beaucoup plus longs dans le bas que dans le haut
de la grappe, accompagnés de bractées membraneuses, longues , pointues,
lancéolées, quelquefois changées en de véritables feuilles alongées et
pendantes.
Les six lobes du périgone sont étalés,
elliptiques, un peu pointus, persis-
tants. Les sixétamines sont de la même couleur que le périgone, un peu plus
courtes que lui, composées de filaments en forme d alêne, élargis à leur base, et
d'anthères d'un bleu violet, à deux loges pleines d'un pollen jaune. L'ovaire
est
arrondi, blanchâtre, surmonté d'un style court, filiforme, droit, terminé par
un stigmate simple. Le fruit est, comme dans toutes les Scilles, une capsule à
trois angles, à trois loges, à trois valves munies d'une cloison sur leur face
interne, à plusieurs graines dans chaque loge.
HISTOIRE.
Quoique la
plante dont nous donnons ici la description porte depuis long-
Temps le nom de Scille du Pérou, il
n'est rien moins que sûr qu'elle soit indigène
du Nouveau-Monde : ce qui est certain, c'est qu'elle est maintenant sauvage
en Barbarie, dans les champs et sur les côtes du Portugal. Une ancienne tr-
adition atteste qu'elle est autrefois venue de l'Amérique méridionale. ♃*.
. Cette belle Liliacée estasses répandue dans les jardins de botanique, et se
cultive même comme fleur d'ornement dans les jardins des amateurs. En
Barbarie, elle fleurit en hiver; dans notre climat elle fleurit au milieu du
prin-
temps. Sa grappe reste longtemps en fleur.
EXPLICATION
DE LA PLANCHE.
1. Etamine.
2. Le pistil.
*♃:リンネよるシンボル.Jupiter で perennial(多年生草本)の意
Grace Costantino “The Botanical Art of
Redouté” (https://blog.biodiversitylibrary.org/2017/06/the-botanical-art-of-redoute.html)
ではルドゥーテの生涯・作品が外観出来て,作品には
BHL の収められている図譜がリンクされている.ルドゥーテに関心ある人は訪れて頂きたい.
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