2025年10月19日日曜日

モミジアオイ(11)和文學-7 明治-昭和初期の散文-2.中里介山,岡本かの子,林芙美子

Hibiscus coccineus

中里介山1885 – 1944)明治・大正・昭和期の小説家,作品には,未完の大作『大菩薩峠』の他に『夢殿』『黒谷夜話』『百姓弥之助の話』などがある.

岡本かの子1889 – 1939)大正・昭和期の小説家,歌人,仏教研究家.漫画家岡本一平と結婚し,芸術家岡本太郎を生んだ. 若年期は歌人として活動しており,その後は仏教研究家として知られた.作品に『鶴は病みき』『母子叙情』『金魚撩乱』『老妓抄』などがある.

林芙美子1903 – 1951)本名フミコ.幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』で一躍人気作家となる.詩情豊かな文体で,暗い現実をリアルに描写する作風で,一貫して庶民の生活を共感をこめて描いた.作品に『風琴と魚の町』,『晩菊』,『浮雲』などがある.

中里介山『非常時局論』隣人之友社(1937
今秋の院展

今秋の院展は、二月の帝展失敗の後を承けて、謂はゞ出直しの院展であるだけになかな
かの責任ある展覽會になつてゐる。さうして我輩の概觀したところでは、立派に院展本來
の面目を揚げて、院展としても近來の好展覽會であることを思はせると共に、院展は失張
りこれでなければならない-といふ心持を持たせるに十分である。全體に於て舊來の覇
心、叛骨といふやうなものが隱れて、さうして底力のある落付きがにじみ出てゐるのを甚
だたのもしく思ふ。
 前田靑邨の「白河樂翁」も惡い出來ではない。山村耕花の「寒嚴主」これは東山時代の
有ゆるものを盛り込んで織り出した野心的の圖柄であるが、此の人、挿繪や端ものをやら
しては、さして出色ありとも見えないが、斯ういふ野心的の(野心的といふ意味はどうい
ふ意味だかよく知らないが、近頃さういふ文字を使いたがる人があるから假りに使用して
見たまで)大物を扱はせると、相當にこなす力を持つてゐるところが不思議である、以前
の「腑分け」などもレンブラントを化したといへば云へるが、容的に相當大きな收穫
を與へた作品であつた。一種の大もの食ひと謂うべし。
 橫山大觀の「野の花」これは、前の「虫の音」や「龍」と違つて特に人を考へさせたり
からかつたりするやうな氣味は少しもないし、花崗質と見える土坡に凡調を破つた描法は
見えるけれども、全體に人をおどすの匠氣はなく、さうして堅實無類の感じがする、
少しよく見て考へて見たならば何か云へるかも知れないが、少くともさういふ考へるタツ
チを與へずして、大家の筆だと、すつかり安心の出來るやうな、其の點に於で又大觀の一
進歩であるか、一心境であるか、何れにしても年々愈々老いずして、自由自在に融通の途を
持つところを看取せざるを得ない。
 

小林古徑の「紫苑紅蜀葵」山種美術館

しかし、今年の最大收穫といへば、小林古徑の「紫苑紅蜀葵」であらう、六曲二双の大

作で、一方には紫苑を畫面一杯に描き、茫洋たる波のやうに現はれ、一方には卓然たる紅蜀
を描いて巖の如く聳えてゐる、その一枝半葉の繊細なる筆づかいに至るまで、ごまか
しといふものが更になく、見てゐるうちに、襟を正すべき嚴肅な思ひに打たせるものがあ
る、特に松や紅葉や巖石や奔流を扱はずして紫苑や紅蜀葵の弱い草花をもつてしたのが古
徑らしい、借りに山樂の筆と比較して見ても、山樂を黃金とすれば此の人の筆をプラチナ
とも譬へたいほどの貴重さがある、然し、山業と古徑との器量を上下するわけではない、
山樂は桃山時代の權化である、其の規模に於ては古徑と比較にならないであらう、其の質
に於ては黄金であり白金であるとまで特に此の繪の前ではいへるとも思ふ。恐らく今年の
各展覧會でこれほどの産物はあるまい、其の他、大小不同に云つて見ると、第二室で加藤
淘綾の「春隻」などは院展らしからぬ穩健な作で、我輩も新別莊でも建てたら不取敢これ
を買ひ込んで新らしい畳の上に立てゝ見たいと思はれる、吾妻碧字の「松韻」なども特に
優れたとは云へないが、松風の響きが、そゞろに耳に響いて來ないでもない。長井亮の「砂
丘」などもよい意味での寫生であり、田中靑坪の花卉の色彩、洋書のあくどさを去つて又
一種爽快なる感じを興へないものでもない。岡本彌壽子の「課外稽古」も可憐な圖である。
(以下略)」

岡本かの子『随筆感想』人文書院(1938
十六、この秋の花
 秋立ちて花々のいろ落付くにひとつ燃ゆるは紅蜀葵はな
 紅蜀葵の張る花びらの隙(ひま)よりぞ秋空蒼くわれは見にけり
 百日紅空も染むがに高々と枝差し抽きて咲きひろごれり
 この秋の萩の幽(かそ)けさ遙なる國の戰(いくさ)をおもふ軒端に
 應召兵立ち寄り給ふわが門の芙蓉は今朝もあでに咲けるに
 (昭和一二、九)

林芙美子『紅葉の懴悔』版画荘(1937
 「    

 (略)
信之はすぐ障子を開けて、大きい聲で、女中に麩を澤山持つて來てくれと云ひつけた。障子の外は鄙びた庭で緣の下には廣い池が造つてあり、きびの惡い程な大きい鯉が澤山飼つてあつた。
 黃蜀葵、紅蜀葵、木槿、紫陽花の花のさかりで、かつと照りつけた雨あがりの陽が、花の上に針のやうな陽光を降りそそいでゐた。しいつと云つた音をたてゝ蟬が啼いてゐる。すみ子が小さい女中に案内されて這入つて來た。
 「早かつたかしら?」
 「まアいゝさ··」
 「だつて、約束の時間通りより、丁度、十分遲くれて來ましたのよ。加奈江さんまだ?
 「もう來るだらう····おい、早く麩を持つて來てくれ····」
 「厭ねえ····つつがなくおわかれつてことも、考へてみると、まるで芝居みたい····」
(中略)
「あツ!
と加奈江が聲を擧げた。信之が愕いて立ちあがるのと一緒だつた。義之が池へ墜ちた。
加奈江は廊下へ出て、「誰か來て下さいツ」と叫んだ。信之は裸足のまゝ芝生を走つてゆき、
少時/\紅蜀葵や、葉櫻の木蔭に、信之の白いY襯衣が見え隱れした。
 女中や下男が、四五人走つて行つた。義之はすぐ池の底へ沈んで行つたが、飛んでもない築
地よりの方へぽかりと浮いて、變な聲をあげた。下男がすぐ池へ這入つて義之を抱きあげた。
加奈江は腰がすくんで動けなかつた。池は淺くて、下男の胸の邊までしか水がなかつた。信之
が義之を抱いて部屋へ戾つて來た時には、義之はもうものをいつてゐた。
「駄目ぢやないか!一人でゐると、すぐ怖いことをするから」
緣で着物をぬがして、宿の浴衣を着せると、義之は生ぐさい濕つた兩手で、父親の首を抱き、
「池の中つて怖いよ····」
(以下略)」

林芙美子『女の日記』第一書房(1937
八月*日
   (略)             ―― 晝から、新聞に出てゐた、東伏見行き
の西武線へ乘つて、一人で郊外へ行つてみる。鷲の宮と云ふ處で降りてみた。驛のそば
の雜貨屋の店先きで、白いヱプロンをした十七八の娘が、店先きに水を撒いてゐた。わ
たしはその娘へ、「この邊に産婆はないでせうか。」と訊いてみた。訊きながらわたし
は自分で陰氣になつていつた。現實はもうここまで來てゐるのかと、わたしは、そのみ
しらぬ娘にさへおどおどしてしまつてゐる。
 「小學校の眞裏に、若いひとですけど、いい婆さんがあります。」と
云つて、その娘は、あの漬物屋を曲つて邸町をつつ切ると小學校だと指を差して教へ
てくれた。
 わたしは、小學校の裏にある
院を探がして行つた。白の看板には田坂りつと書いて
あり、お乳の相談と大きく書いてあつた。お乳の相談と云ふのが、いかにもほほゑまし
いので、この産婆さんは、きつといい人なのだらうと、わたしは彌生院としてある硝
をあけて案内を乞うた。
 お婆さんが出て來て、わたしに初めてですかと尋ねた。
 「ええ初めてです。」
と云ふと、わたしは庭向きの六畳ばかりの部屋に通されて少時く待たされた。
産婆さん
は二三軒赤ん坊に湯をつかはせに廻つてゐるのだと云つて丁度留守だつた。庭には大き
な柘榴の木があつて、赤い小さい花が咲いてゐた。ぱつと明る
い陽射しの中に、誰の丹
誠になるのか、躑躅や芍藥の花が水を吹くやうに鮮かな色をしてゐた。藪垣のそばに納
屋があつて、さつきのお婆さんが猫を抱いて畑を見てゐた。
松葉牡丹、紅蜀葵、スヰートピイなぞを植ゑてある。何か氣の澄むやうな清楚な庭だ
つた。京都の小柴の庭と違つて田舍びた處があつて、この小さい院が幸福氣におもへ
る。
 三十分位して田坂りつさんは歸つて來た。よく肥えてゐて、肌が子供のやうに綺麗な
ひとだつた。
 「まアまア、よくお待ちでしたこと······どうぞお樂にして下さいましよ。」
さう云つて
産婆さんははんかちで汗をぬぐひながら、次の間で足袋をぬいでゐる。四
圍は森としてゐた。時々蟬の鳴くやうなしいつと云ふ蟲の鳴く音がする。小學校からま
ぢかくピアノがきこえて來て、
  遠い遠い佐渡が島·······
と云つた風な唱歌がきこえて來た。わたしはいつぱい胸の中に綿を詰めたやうな切なさ
だつた。女一人が、かうして、天氣のいい日曜日の晝下り、郊外の院でぢつとしてゐ
あることを誰が知るだらうと、瞼の熱くなる思ひだつた。軈(やが)て診て貰ふと、もう四月。だ
らしのない自分を嗤ふばかりだ。
 「赤ちやんは生んでみるもの、生まなくちや嘘ですよ。お軀がいいのだし、樂々
とお
生みになるわよ·····。」
 「若いひと達は、赤ちやんが出來たら、すぐ里子にやつちまふなんて云つてますけど、
中々どうして、とても可愛くつて手離せませんわよ······。」
 若い婆さんは何もかもよく識つてゐて、ぢいつとわたしの眼を見てゐた。「なんと
かなるもンですから······ 怖いこと考へちやいけませんよ。もうすこししたら帶を締めて
あげませうね······。」 とも云つてくれた。
 食費共で一日五拾錢で置いてくれるとも教へてくれて、
鷺の宮の驛まで産婆さんはわ
ざわざ送つてくれた。
 四月と云はれてわたしは別に愕きもしなかつたが、これからの生活を考へると暗くな
つてしまふ。色んな冗なものを賣り拂つて、切り詰めた生活をするのはもとより、會社
の方も、出られるまで出ようとおもつた。

(中略)
瀨尾が訪ねて來てゐた。
 「明日の晩、小柴さんに一寸だけ逢つてあげられませんか。もしよかつたら、ここへ

來てもいいと云ふんですがね·····。」
 「え、逢つたつて仕方がないとおもふんだけど······
 「一寸だけ、氣にしていらつしやるし、逢はせてほしいとおつしやるんですよ。」
 わたしは、自分の貧しい部屋を見せて哀れ氣にするのが厭なので、外で逢ふことに約
束をする。瀨尾へ使つて頂戴と云つて五拾圓渡す。瀨尾は愕いてゐたが、うれしさうだ
つた。
 雨あがりのきらきら光る往來へ來て、瀨尾と別れ、鷺の宮へ行く。道々空間の札が眼
につく。いつそ、誰にも默つてこつちへ越して來てもいい。産婆さんはゐなかつたが、
おばあさんにところてんを御馳走になる。一時間ほど待つて田坂さん歸つて來る。空間
をみつけて越して來たいと話すと、
 「それ
なら、家へいらつしやいましよ。二階も廣いのですし、診てあげるのに樂です
もの·····。」
 と云つてくれた。越してもいい氣持ち。二階を見ると、四疊半の疊の新らしい涼しい部
屋があつた。庭が目の下で、窓から覗くと、昨日の嵐で、紅蜀葵も、向日葵(ひまわり)も、百合も
昨日の嵐で根が洗はれてむちやくちやだつた。
 「隨分ひどかつたんですね。」
 「ええ、手がつけられないのよ。」
 肥えた田坂さんは團扇をぱたぱたつかひながら、
 「本當に越していらつしやいましよ。」
と云つてくれた。わたしも「ええさうしませうか。」と返事をした。

(以下略)」

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