庭に樹木が来てから,鳥の落し物由来と思われる,植えた覚えのない草木が樹下に芽生える様になった.木本で多いのはヤブコウジだが,他にもセンリョウやサンショウが大きくなってきた.このナンテンもその一つ.存在を確認してから4年ほど,今年初めて花をつけた.
その花の形状は風変わりで,乳白色の花被片は3枚1組で交互に重なり6列,5重で30枚ほどが数えられる.開花すると芽鱗状の花被片は速やかに脱落し,残った5〜8枚が6個の鮮やかなオレンジ色の葯を囲んで反転する.地面には落ちた花被片が白米をこぼしたように見られる.萼と花弁の区別は不明瞭で,残った大型の6枚ほどが花弁らしい.萼片を25個内外つける植物は珍しく,中井猛之博士はこの特徴からメギ科より独立させてナンテン科とした.秋には多くの赤い実をつけ,観賞価値が高いが,ヒヨドリなどがこの実をついばんで散布する.
「出雲風土記」「仁多郡」の産物として「南天燭(きしぶ)」として記載されているという説もあるが(倉敷市立自然史博物館「出雲風土記の植物」 http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/izumofudoki.htm),しかし『出雲国風土記,全訳注 荻原千鶴』,『東洋文庫 風土記 吉野裕訳』の「仁多郡」では確認できなかった.平安時代に,薬用或いは観賞用として中国から移入された可能性が高く,現在でも自生は人里近い野山が主である.確認されている初出文献は,鎌倉時代の公家で,歌人・書家としても有名な藤原定家の日記『明月記』(治承4年(1180年)~嘉禎元年(1235年))の,寛喜二年(1230)の六月二十二日の記に「昏レニノゾミ 中宮ノ権ノ大夫 南天竺ヲ選バレ 前栽ニ之ヲ植ウ」であるとされている.
江戸時代には薬用のみならず,観賞用としても価値を認められ,シロミナンテン・チモトナンテン・イカダナンテン・ササバナンテン・タキノカワ・フジミナンテン・チジミナンテンなど多くの品種が登場した.
ナンテン (2/4) 大和本草・和漢三才図会
ナンテン (2/4) 大和本草・和漢三才図会
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