2016年8月25日木曜日

ヒマワリ (6) 花壇綱目(刊本),花譜,大和本草,重刻秘伝花鏡,物類称呼,物品識名,梅園草木花譜,薬品手引草,草木図説前編,地方名・方言

Helianthus annuus
2001年7月
ヒマワリ (2/4) で,日本におけるヒマワリの記述資料「花壇綱目,訓蒙図彙,花壇地錦抄,草花絵前集,大和本草,廻国奇観,花木真写,滑稽雑談,絵本野山草」を紹介した.この記事では,それ以降に見出した資料を追記する.
特筆すべきは,毛利梅園の『梅園草木花譜』に描かれた花の裏側の図で,近代以前,日・漢でこの視点からヒマワリの花に美を見出した例は見当たらず,歐州でも,イタリアで活躍したドイツ人画家 Daniel Froeschl  (1563-1613) のテンペラ画一例を知るのみ(後述)

磯村直秀「明治前園芸植物渡来年表」によれば,ヒマワリの初出は水野元勝『花壇綱目』草稿本寛文4年(1664)であるヒマワリ (2/4)に既述が,★水野元勝『花壇綱目』延宝九 (1681) 年の刊本『花壇綱目』「巻中 秋草の部」には
「日向葵 ●花白大輪なり咲比*まへに同 ●養土肥**同前 ●分植は實をとり春可蒔なり
*咲比八九月(唐鶏頭)
**養土は田土用て宜し水をたむる也●肥はごみほこり根廻へ入てよし(水葵)」(左図 NDL)
とあり,「花は白」とし,「養土肥同前」は「同然」は直前の項の「水葵」と同じすると,疑問が残る.

貝原益軒『花譜(1694) 「下巻 七月」に「丈菊 (ひふがあおい) 花史曰,其くき一丈あまりありて,かたくあらし.其生ずる事すぐ也.頭に一大花をひらく.單(ひとへ)にして色黄色.尤下品なり.其花日にむかふ故,倭俗日向(こうじつ,ひふが)葵と云.」(右図 NDL)とあり,また

貝原益軒『大和本草 (1709) 「巻之七 草之三 花草類」には「向日葵 ヒフガアオイ」 「一名西番葵.花史ニハ丈菊ト云.向日葵モ漢名也.葉大ニ茎高シ六月ニ頂上ニ只一花ノミ.日ニツキテメクル.花ヨカラス.最下品ナリ.只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ.農圃六書花鏡ニモ見ヱタリ.国俗日向(ヒフガ)葵トモ日マハリトモ云.」とある(ヒマワリ (2/4)に既述
とヒマワリを「尤下品なり」「花ヨカラス.最下品ナリ」と評価した.彼は渡来した観賞用植物に厳しかったが,『花譜』「下巻,十一月」にある○千日紅 ○三波丁子(サンハ丁子)は外来園芸植物としては例外的に高い評価を受けている(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2010/07/blog-post_21.html
「千日紅(略)むらさき色にして花多し.愛すべし.(略)」
「三波丁子 此種及び千日紅,近年異国より來れるにや,むかしはきたらず.(略)黄色にして愛すべし.(略)〇凡花も葉もわがもよりみなれ,むかしより人もめでこし,梅,櫻,鶏冠木(かえで),杉,柳(やなぎ),蘭,菊,牡丹,水仙,蓮などの類よし.異(こと)なるをこのむは,物をもてあそびて,無益のいたづらごとなり.千日紅,三波丁子など,むかしなくて,ちかごろ出たるものなれど,其なかにては,賞すべければ,いさゝかこゝにしるす.此外,いまめかしき草木の花,此ごろは,甚おほくいでゝて,世人の賞する事さかんなれど,いたづかはしければしるさず.(左図 NDL)

★平賀源内『重刻秘伝花鏡』(1773)(清の陳扶揺『秘傳花鏡』(1688) に校正・訓点を加えて刊行)の「巻之五 花草類攷」には
-- ヒマハリ 附莵葵

--葵。一名ハ西--葵。高サ一二丈。葉於蜀-葵ヨリ大ニ尖-狭ヲ刻-欫多。六-月花ヲ開ク。毎-幹頂-上只-一花。黄-辧大-心。其形盤ノ如-陽ニ随テ回轉ス。如シ日東ニ昇シハ。則花東ニ朝フ。日天中スレハ則花直ニ上ニ朝ノ。日西ニ沉メハ。則花西ニ朝フ子ヲ結コト最繁シ。狀草--子ノ如クシテ而扁只員ニ備フルニ堪。大意-味無伹其日ニノ之異ヲ取ル耳。叉一-種莵-葵名。一-名ハ天-葵。多ク於下-澤ニ生ス。苗石--苪ノ如。而葉緑ニシテ黄-葵ノ如。花拒-霜ニ似白クシテ而雅。其形至テ小ナリ如初開テ單-葉蜀葵檀心有。色牡-丹ノ之姚黄ノ如愛ス可。人多ク莖葉ヲ採テ之ヲ灼メ食ふ可。」とあり(右図 NDL),太陽の運行に従って,朝は東,昼は上,夕は西と花の向きが変わると,花の運動について記述している.この文の「朝フ」は「テウフ」と読むのか,「ムカフ(向フ)」なのか.

★越谷吾山 編輯『物類称呼 (1775) 「巻之三」には「日向葵:ひうがあふひ丈菊○江戸にて○ひまはりと云大和及加賀にて○ひぐるまと云」とあり,地方名があるほど各地に普及していたことが分かる.(左側,NDL

★水谷豊文(17791833)『木曽採藥記 2巻(文化頃)
豊文は尾張藩士、同藩の薬園を管理するとともに、名古屋の博物家の会である嘗百社の指導者だった。本資料は上巻が文化7年6~7月に木曽を巡回した折の採薬記、下巻は採薬地の地誌で、多数の詳細な手書き地図を含む。採薬は享保頃のそれ(『諸州採薬記』)などとは大分異なり、目的は特定の薬草の採取ではなく、現在の採集と同じく生物相の調査にあり、鳥獣虫魚にも目配りしている。品名だけの記載が多いが、詳細な記述もある。たとえば、御嶽の7合目以上にライチョウ(雷鳥)が棲むこと、御嶽のコマクサは人々が採り尽くして稀であること、天明5年(1785)に木曽でスズタケが結実し、折からの飢饉の救いとなったなど。また、「山ノ神ノコロ、一名山ノ神ノヲコジヨロ」は、日本でもっとも古いオコジョの記録の一つと思われる。(磯野直秀)

「文化七庚午之年*六月七月信州木曽井濃州三ヶ村ノ諸山ヲ巡回シ,薬品ヲ尋ネ求ム.(略)
(六月)二十六日,中津川ヲ発シ,落合ヨリ信州木曽湯舟沢ニ至ル.(略)
湯舟沢ノ兼好屋敷ヨリ,兼好法師ノ墓ノ方ヘ行.此辺ニアル草木ハ,
(略)
狗児菜 一種 葉大ニシテ土木香ノ如ク,花モ大ニシテフチニ小葉ツキ,ヒマワリノツボミヲ見ルガ如シ.(略)」
*文化七年:1810年.この「狗児菜」は不明.タンポポの地方名としての記述はあるが,豊文の記事には当たらないと思われる.また,このヒマワリが,現在のヒマワリと同一だとすると,形状の基準になるほど知られていた事となる.(右側,NDL)

★毛利梅園(1798 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849)の「秋之部三」には,ヒマワリの花とその裏側の見事な図が描かれている.この花を裏側から観察して描いた図はそれまでの本草図譜には見られず,梅園が好事家として,捉われない自然観察の目を持っていた事がわかる.
「大和本草ニ曰 向日葵(ヒフガアオイ) 一名 西番葵 花史ニ曰 文菊* 國俗 日廻(ヒマハリ)ト云
予曰其花一莖日ヲ順テ廻ル 故ニ稱日廻漢名亦謂向日葵
丙戌**南呂*** 葉?月八日
一莖真寫

向日葵花裏(ヒマハリハナウラ)之圖」(右図,NDL)
*文菊:丈菊の誤り
**丙戌:1826
***南呂:陰暦8月の異称

★加地井高茂 []薬品手引艸 坤』(1843)
「ひぐるま 向日葵. 丈菊 ヒマハリ」

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』(成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856(安政3)から62(文久2))草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,木部10巻.草部は1852(嘉永5)ごろ成稿,56(安政3)から62(文久2)にかけて出版された
草木図説巻之十七
「ヒマワリ 向日葵
春實生シ茎高五六尺.葉心蔵状ニシテ尖リ三縦道居止アリ,茎葉共ニ細刺毛アツテ糙渋*ス.
梢上花ヲ開ク大サ六七寸.周邉披針状弁ニシテ無蕋.中心完筒子花ニシテ惣テ黄色.萼亦心蔵
状ニシテ尖ツテ反画シ数重鱗次ス.此花常ニ點頭シテ日光ニ向フヲ以テヒマワリノ名アリ.
一種朝鮮種アリ花葉ノ状大異ナケレドモ全体惣テ大ナリ.
ヘリアントュス アンヌス/helianthus annnus 羅  イヤールレークセ ソン子ブルーム/Jaurlykse zonnebloem 蘭」(左図,NDL
*糙渋:ザラツキ

★安倍為任(1844 - 1893)編輯『新選物品識名』(1877 - ヒクルマ

★八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001「ヒマワリ ニチリンソウ,ヒダルマ〔キク科/草本〕」の項には
くんしょ-ぎく:三重(伊勢)
◆てんぐるま:滋賀*/てんと-まくり:埼玉(北葛飾)/てんと-まわり:埼玉(北葛飾)
◆にちりんそ-:山形(西田川),岐阜(恵那),愛知*,滋賀*,和歌山*/にちれん:富山(東砺波)/にちれんそ-:愛知*,奈良*,和歌山*
ひぐるま:加賀,大和,北海道*,山形(東置賜・西置賜),新潟(佐渡),富山(砺波),石川*,福井*,長野*,静岡(小笠・榛原),滋賀*,大阪(大阪市),奈良*,和歌山(海草・日高),島根*,広島,山口*,徳島(三好),香川,愛媛(周桑)/ひぐるまそ-:京都*/ひのまる:青森*,秋田*,秋田(南秋田),山形*,山形(北村山・飽海),長野*/ひのまるばな:福島(会津)/ひまる:子葉(印旛)/ひまわり:江戸/ひまわりぎく:青森(八戸)/ひまわる:新潟/ひむき:山梨(南巨摩),長野*/ひむきくさ:山梨*
◆まうり:青森
◆ねっぱばな:秋田*/めっぱ:青森(南部)/わっばばな:秋田(北秋田)
が収載されている.花の豪華さや天の太陽に関連付けられた地方名が多い.なお,長音は「-」で表した.長音記号「-」は,直前のかなの母音と同じ母音を繰り返すものとみなし,同音の母音と並んだ場合は長音記号「-」を先に並べた.
県名の後の*はその県の一部で方言が使われていることを示す.

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