2018年12月30日日曜日

ホトトギス (5) 和文献-4,本草図譜,百花培養考,剪花翁伝

Tricyrtis hirta
日本固有種であり,花被に細かい紫色の斑点が目立つことから,ホトヽギスの胸の羽根の模様になぞらえて名がある.江戸中期から庭園で栽培されたが,茶花としても用いられた.(画像はNDLの公開デジタル画像.一部改変) 

★岩崎常正(灌園)(17861842)の『本草図譜』は,飯沼慾斎(17831865)の『本草図説』と並び称せられる江戸時代末に作られた二大植物図譜のひとつで,野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図で,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って配列している.巻510は文政131830)年江戸の須原屋茂兵衛,山城屋佐兵衛の刊行.以下巻1196は筆彩の写本で制作,三十数部が予約配本され,弘化元(1844)年に配本が完了した.
その「第五冊巻三十九雑草類」には,六種のホトトギス類が記載されている.上図右より記述文は,

鷄脚草 ほとゝぎす
セリンテ 羅甸
ゴロイトヌリユ 荷蘭
處々山中にあり春月宿根より生ず葉ハ百合(ひゃくかう)に似て濶く軟にして黒斑點あり莖高さ二三尺秋月葉間に花を開く六辧にして白色紫斑の点あり

一種 ほとゝときす
              形状本條に同くして葉小く蘂長し

一種 紫花のほとゝぎす
葉尖り茎に毛茸(け)あり花は淡紫色にして深紫色の斑あり

一種 黃花(わうくわ)のほとゝぎす
              勢州朝熊山の産なり葉に光澤(つや)あり毛茸なく黄は深黄色なり長するときは茎葉染て紅色なり

一種 黃花にて矮生の物
              勢州朝熊山に産して花は葉の間に開く大さ漸(ようや)く四五寸葉に黒斑点ある物又葉の周邊(めぐり)黒色なる者等あり

一種 たまかわ
              尾州信州木曽産にあり莖葉倶に痩小にして高さ尺餘に至る茎の頭に一二花を開き後黄色なり」

大正5-10年に刊行された本草図譜刊行会による復刻版「本草図譜」の各巻末には「和名考訂 白井光太郎 學名考訂 大沼宏平」で,各植物の「和名,今名,學名」が追記されているが,それによれば上記六種のホトトギス類は以下のように考定されている.
「・       鷄脚草 ほととぎす[和名] ほとゝぎす。 [今名]やまほとゝぎす。 (學名)Tricylia macropoda Miq.
           一種 やまほととぎす。 [和名]やまぢのほとゝぎす。 (學名)Tricyrtis affinis Mak.
           一種 紫花のほととぎす。 [今名]ほとゝぎす。 (學名)Tricyrtis hirta Hook.
           一種 黃花のほととぎす。 (學名)Tricyrtis flava Maxim.
           一種 黃花にて矮生の物。 [今名]ちやぼほとゝぎす。 日本植物圖編 (學名)Tricyrtis nana Yatabe
         一種 たまがは。尾州 一名 たまがはほとゝぎす。 日本植物志圖編 (學名)Tricyrtis latifolia Maxim.
しかし,図を見る限りにおいては,「鷄脚草 ほととぎす」がホトトギス,「紫花のほととぎす」はホトトギスの濃色品種(例えば Tricyrtis hirta var. nigra)のように見える.

★松平定朝 (1773 – 1856) は幕府の旗本(2000石)で,御書院番・禁裏付を経て,京都町奉行を長く勤めた.花菖蒲で名高いが,園芸全般に詳しかった.その著著『百花培養考(1846) は草花100種の解説で,図はないが,来歴や品種の解説に筆を費やす.

時鳥草
大小ノ種類多シ四尺餘ニ生スセルハ
紺地ニシテ白ク斑アリ壹尺ホドニ生立
草アリ白地ニシテ紫ノ斑アルアリ黄
花ノ一品ハ八九寸程ニ生シ黄花ニ黒
キ星アル大輪ナリ矮鶏ト通稱スルハ
植小草ニシテ黄花ナリイツレモ暮秋
ニ花開ケリ夏咲クノ一品ハ黄花ナリ其
外種類多シ春時彼岸後植換ルナリ日
向ニオク時ハ花ノコロ葉全タカラス
陰處ヲ善トス」
と何種かあること,それぞれの特徴及び植えるのは半日陰が良い事を記している.

★中山雄平著,松川半山画『剪花翁伝(1847著,1851出版) ,他の園芸書と趣の異なる特徴としては,本書が「いけばな」諸流派の人々や広く「いけばな」をたしなむ人々に焦点を当てて執筆されているという点である.「いけばな」愛好者のための実践的な花卉栽培,切り花の取り扱い法のハンドブックとでもいうべき内容と性格とをそなえており,伝統的な「いけばな」文化の中心地である京・大坂ならではの地域性豊かな,かつ質の高い近世園芸書として評価することができよう.その意味でも本書が,数多ある近世園芸書のなかでも異色な存在であることは間違いない.

その「 六月開花之部」に「郭公花(ほとゝぎすはな) 油點艸 花,二種.黄色あり,葩(はなびら),中筋(なかすじ)黄(き)にして左右淡黄
の隈(くま)に成(なる)也.又,赤あり,淡赤ミに丁字茶(てうじちや)の色を帯(おび)たり.形(かたち),鐘艸(つりかねさう)に似(に)たれ
ども,花仰(あおむ)くなり.開花,六月末(すえ)也.方,半陰(はんかげ).地,三分湿.土,回塵(まひごミ).肥,
油槽(あぶらかす)よし.小便澆(そゝ)げバ葉焦(こげ)る也.干鰯(ほしか)の出(だ)し汁(しる),二分雑(まじり)の水を澆(そゝ)
くべし.分株(かぶわけ),春彼岸にすべし.成長(せいてう)はやし.黄(き)花の大(おほ)きなるは一尺許(しゃくはかり)也.赤花の大きなるハ三尺余(よ)にもおよぶなり.若(もし),水(ミつ)のあがらぬ
時は,切口を敲(たゝ)き爛(たゝら)して,強(つよ)き灰(あ)汁にて煮(に)るべし.」とある.数種のホトトギス類を見分けていて,施肥の注意点や植える時期や場所の適否を述べているが,生け花とした時の水揚げの方法に言及しているのが興味深い.



2018年12月28日金曜日

ホトトギス (4),和文献-3,虱建草,文藻行潦,酉陽雜俎,本草綱目,証類本草,栗氏図森,草木錦葉集,

Tricyrtis hirta
日本固有種であり,花被に細かい紫色の斑点が目立つことから,ホトヽギスの胸の羽根の模様になぞらえて名がある.江戸中期から庭園で栽培されたが,茶花としても用いられた.
漢名としては「油點草」が良く使われるが,シラミを退治する機能を持つ「虱建草」もある.何れも誤考定である.なお,虱建草の本体はいまだ不明.

江戸時代中期の儒学者★山本北山(信有,1752 – 1812)編『文藻行潦ぶんそうこうろう)』(1779序,1782刊)の
「巻之一 保部 植物」には「虱建草 ホトヽギス」とある(左図, NDL).

「虱建草(しつけんさう)」は虱(しらみ)を駆除する植物として★段成式(803 - 863年)撰,20巻・続集10巻.860年(咸通元年)頃の成立『酉陽雜俎』「廣動植之二,卷十七」に現われる植物で,この書には「蝨,舊蝨蟲飲赤龍所浴水則愈。蝨惡水銀。人有病蝨者,雖香衣沐浴不得已。道士崔白言,荊州秀才張告,嘗捫得兩頭蝨。有草生山足處,葉如百合,對葉獨莖,莖微赤,高一二尺,名蝨建,能去蟣蝨。有水竹,葉如竹,生水中,短小,亦治蝨。」(右図,中国哲学書計画)
とあり,今村与志雄訳注『酉陽雜俎3』東洋文庫379 (1981) においては「七一四 虱(しらみ)。
古来の説に、虱(しつ)蟲は、赤龍の浴びた水を飲んだなら、治愈する。蝨は、水銀をにくむ。虱を病む人は、衣に香をたきこめ、沐浴をしても、どうしようもない。道士の崔白の話によると、荊州の秀才、張告が、かつて両頭の虱をつかまえたことがある。山のふもとの湿地に生ずる草がある。その葉は、百合のようだが、葉が対になっていて茎が一本である。茎はすこし赤昧がかり、高さは、一、二尺である。名を虱建草という。蟣(き)虱を除去する。水竹というのがある。葉が竹に似て、水中に生ずる。短くて小さいが、虱を退治する。」と和訳されていて,湿地に生育し,対生の百合の葉に似た葉を對生に出し,茎が赤みを帯びる植物とされている.

この「虱建草」は李時珍の『本草綱目』の「蟲之二 (卵生類下二十二種)人虱」の項にも「【氣味】 鹹,平,微毒。畏水銀、銀朱、百部、菖蒲、虱建草、水中竹葉、赤龍水、大空。」と書かれ,虱驅除の薬草の一つとして記載されている.

また中国で薬草古典『神農本草経』を基本とし,12世紀頃までに31巻発刊された最も権威がある薬物書である★『証類本草』(初稿完成1082年,最後定稿1098年)の「卷第九」には,「虱建草 味苦,無毒。去蟣虱。挪取汁沐頭,盡死。人有誤吞虱成病者,搗絞汁,服一小合,亦主諸蟲瘡。生山足濕地。莖葉似山丹,微赤,高一、二尺。又有水竹葉,如竹葉而短小。生水中,亦云去虱,人取水竹葉生食。」と,より詳細に虱驅除の処方を述べている.また茎葉は「山丹」(ヒメユリLilium concolor Bak.)に似ているとある.

この名は,江戸時代中期-後期の医師,本草家の★栗本丹洲 (17561834) の二巻の植物の彩色図譜『栗氏図森』においても使われ,
「加賀州白山産
虱建草
一種黄花者夏至花
和名山ホトヽギス
茎立常種ニ比スレハ堅ク
ツヨシ茎端只一花ヲ開ク

英三稜アリ」
とあり(左図,TNM, https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0081947),葉が丸みを帯び,縁が波を打ち,基部のへこみが深く茎を抱くなどの特徴を捉えた,タマガワホトトギスTricyrtis latifolium)の美しく正確な図が残る.ホトトギス一般を「虱建草」と呼んだと思われる.
丹洲は,田村藍水の次男.幕府の医官栗本昌友の養子.寛政元年奥医師となり,文政4年法印にのぼる.医学館で本草学をおしえ,また虫,魚,貝などを研究,日本で最初の昆虫図説「千虫譜」など彩色写生図集をのこした.

享保年間(171635)に趣向の新しさを求めて始まった斑入(ふいり)や奇形植物の愛好は18世紀後半から19世紀にかけて一段と過熱し,文政10年代には,変わった色や形斑入植物主体の図譜まで現われた.その図譜の一つで,★水野忠暁(みずの・ただとし 通称は宗次郎)著,大岡雲峯・関根雲停画の『草木錦葉集(1829) には二種のホトトギスが掲載されている.
著者の忠暁(天保5年(1834)没.享年68)は幕府旗本で草木の培養に長けていた.先祖は知行500石であったが,元禄年間に当主が「狂気」を理由に知行を没収され,その後はわずかな俸禄に甘んじ,役職にも就いていないようである.
本書の,冒頭が天狗の横顔ともみえる署名「水のげんちうきやう」(右図)は,「水野源忠暁」のことで,また出版元の「御鉢植作 留藏」は「お鉢植え作る」藏で本人の諧謔名と思われる.木版芸術としても大変優れた美しい図が添付されている.
本書は緒巻・前編・後編から成り,緒巻では斑入り愛好家の間で用いられる「通言」(特殊な用語)や各種栽培法,害虫の駆除法などを述べ,前編後編では「いろは順」に,斑入りや奇形の草木を写生図を添えて紹介している.「む」の部で中断しているものの千点余を掲載.図のほとんどは大岡雲峰の門人,関根雲停によって描かれた.


その「前編,第一巻 ほ之部」に
「(廿九)時鳥草(ほとゝぎすさう)布 〇虱建草(しつけんさう) 宿根 色あさき黄布 日  う二 わ二」とあり,また
[廿八]黄時鳥草(きほとゝぎすさう) 宿根  草丈(くさたね)のびずちやぼ〓といふ 花黄の色よし 大坂天満太〓〓村での名 付替(つけかへ)〓〓〓〓につき杜鵑蘭(とけんらん)と名付る」とある(上図, NDL).
日  う二 わ二」は緒巻の「通言」(特殊な用語)や各種栽培法,害虫の駆除法に該当すると思われるが確認できなかった.

しかし,虱建草は,★岩崎常正(灌園)(17861842)『本草図譜』(1830-44)の「巻二十一毒草類」においてはミズトラノオと考定されており,一方「巻三十九雑草類」項にある「ホトトギス」の記述には虱建草への言及はない(次記事).

虱建草(しつけんさう)附録 みづとらのを
丹波の宇津根及越後の水地にあり夏月實より生ず葉細して長く一節に四葉
對生して蓬子菜(カハラマツバ)に似て軟なり秋月茎の高さ一尺許末穂をなして長
さ一二寸形状地楡(ワレモカフ)に似て細く細小の淡紫色花あり此物越後の土人採て乾
し煎て蟣虱(しらみ)を生じたる衣服を洗ふに能死す因て今此を充つ琅邪
代酔編に有草生山脚濕處葉如百合對生獨莖々微赤高一二尺名
建草能去蟣虱と云」
とある.(左図,NDL)

ミズトラノオ (Pogostemon yatabeanus) の生育地や地方での使用法から虱建草と考定したのであろうが,ミズトラノオのこのような薬効は他では見いだせなかった.
この頃にはホトトギス虱建草が認められていたのであろう.

2018年12月17日月曜日

ホトトギス (3) 和文献-2,物品識名,茶席挿花集,武江産物誌,梅園草木花譜,

Tricyrtis hirta

日本固有種であり,花被に細かい紫色の斑点が目立つことから,ホトヽギスの胸の羽根の模様になぞらえて名がある.江戸中期から庭園で栽培されたが,茶花としても用いられた.
よく用いられている漢名「油點草」は誤用である.「油點草」が使われたのが確認できたのは,江戸後期の岡林清達・水谷豊文『物品識名』で,それ以降多くの植物誌で使われている.
また,ヤマホトトギスを認識して,ホトトギスは「サワホトヽギス」として区別し記したものもある.(図はいずれも NDL のデジタル公開画像より部分引用)

★岡林清達・水谷豊文『物品識名(1809 )
品名を和名のイロハ順とし,ついで水・火・金・土・石・草・木・虫・魚・介・禽・獣に分け,各項にその漢名・和の異名・形状などを記した辞典.序によれば,『物品識名』は,初め水谷豊文(17791833)の友人岡林清達が着手したが眼病で中絶し,豊文が継続,完成させた.後編『物品識名拾遺』(特1-2504)は豊文の単独執筆である.イロハ順といっても,江戸時代の場合は第2字目以下はイロハ順ではないが,本書は「キリシマ・キリ・キリンケツ」のように,第2字目も同じ名を連続する工夫をしているので,一般的なイロハ引より使いやすい.本書は和名中心の動植鉱物辞典の嚆矢だったので,大歓迎された.
その「乾」の巻の「ほ」の部に
ホトヽギス                     油點草 酉陽雜俎」
と出典も併記して「油點草」の名が現れる.「油點草」はホトトギス類の葉-特に下部の葉-に黒色の斑点が生ずる(梅園草木花譜,左側,ヤマホトトギス,下葉三枚)ので,『酉陽雜俎, 卷十九 廣動植類之四』の「油點草,葉似莙薘,每葉上有黑點相對」の記事を基に考定したと思われる.が誤用であるのは前々記事に述べた.

渋い色合いが好まれたのか,茶花として用いられた.
★佳氣園著.岩崎常正画,芳亭野人編『茶席挿花集(1824) は茶の席で用いられる花材を絵と簡単な説明で示した小冊子で,その「凡例」には,
「 一、四季の花を十二の月に分けしといへども年の寒暖地の陰陽にて一棟ならずまづ其時の花を尋ね給はば其月と前の月後の月とを一讀あるべし 此三月のうちよりいけてよき花を得る也 これ時候によりて花に遅速あれば当月ばかりにてはつくさざるゆえ也
 (中略)
一、此書佳氣園翁の集められしを予又岩崎灌園先生に請て漢名を正し 剛定補入す然れども翁の開所をも残せるもの多し 且つ草木異名あまた也 ここには只つねにいわ所の名を記す
(後略)」
と,示した花期は目安で,気候や地方で異なる可能性があること,植物の同定は当時一番の本草学者岩崎灌園に依頼したとある.
その「七月」の部に
ほとゝとぎす 油點草 葉笹のごとし
  ▲さハほとゝきす 花紫
  ▲ほとゝきす 春よりさく 葉に丸みあり」
と二種のホトトギスが記載され,前者がホトトギスが,後者がヤマホトトギス」と思われる.「油點草」が一般的に使われていたことが分かる.

★岩崎灌園『武江産物誌』(1824序)は江戸とその周辺の動植物誌で,それぞれの品に漢名を記し,和名を振仮名で付け、多くは主要産地を挙げる.合計で植物約 520品、動物約 230品を記録し,薬草類の採集地別では,道灌山の119品が群を抜いて多い.
その「藥草類」「道灌山の産」の項に「油點草ほとゝぎす) 落合モ」とある.薬草類とはあるが,『本草綱目』には「油點草」はない.また,薬効も伝わっていない.

★毛利梅園『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849
江戸後期の博物家梅園は江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.観察地,採集地の記載も多く,江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.
その『秋之部三』には二種のホトトギスが記載されている.

一つ目の図には
「和漢三才圖会隰草類ニ曰
    杜鵑草(ホトヽギス) 俗偁 本名不詳

武江産物志ニ曰
              油點草(ホトヽギス)

大和本草[花草]類ニ載
丙戌南呂初五日 望道灌山折莖 一寫

環按杜鵑草有二種
白色ニシテ浅紫点者山杜
ト云地錦抄之圖上?ルニ
是寫者山杜鵑也唯称スル
杜鵑トスル畧異ナルトモ
ナラ?」
とあり,1826年陰暦85日に道灌山近くで折り取った物を描いている.
もう一つの図には
「和漢三才圖會及
大和本草ニ曰
杜鵑草(ホトヽキス)
サハホトヽキス

前條ニ寫之者
即山郭公草(ヤマホトヽキス)
此ハタヽ杜鵑草(ホトヽキス)ト云
其種類尤多

丙戌南呂未有十日 寫」とあり,1826年陰暦830日に写生したとある.

いずれも正確・精密で美しい植物画であり,前者がヤマホトトギス (Tricyrtis macropoda),後者がホトトギスと容易に同定できる特徴が描かれている.また,『茶席挿花集』にもあるように,ホトトギスが「サハホトヽキス」も呼ばれ,他のホトトギス類と区別されていたことが分かる.

続く.