2018年3月27日火曜日

ツグミ(3) 江戸初期 料理物語,訓蒙圖彙,江戸料理集,食物摘要,食物本草大成,本朝食鑑,大和本草

Turdus eunomus
2018年2月
庭に来るツグミは,丸々と太っていて,いかにも肉付きがよさそう.
古くから食用としての評価は高かったツグミは,江戸時代とりもちやカスミ網で多量に捕獲できるようになったためか,庶民的な食餌となった.また,鳩の次においしい三種の鳥の一つに挙げられ,特に,冬,サザンカの花を食べると,腸がなくなり,増々おいしく食べられるとあり,また栄養に富んでいて,体に良いとされていた.

歳末の節分の際には,武家において,「福は内,鬼は外」の掛け声の後に頂く酒の肴に焼いた鶇を食するとあり,室町時代からの「鶇」に意味を持たせた伝統が,武士の間では江戸後期まで受け継がれていた.京都では年末に豆と共に「まめに次身(つぐみ) 次世代に(身代が)全うして継がれる(?)」と言葉遊びの祝い膳にされていたそうだ.
  
江戸初期の著者不明★『料理物語』(寛永20 (1643)年刊)は,儀式料理のレシピや作法が中心だった16世紀以前の料理書と大きく異なり,表現は簡潔で文章は格調高く,料理の網羅範囲も広い.江戸時代の代表的な料理書のひとつとされる.
物語として伝聞されてきた料理法などをまとめ,寛永20年(1643年)に刊行されたものが底本とされる.後書きには「武蔵国狭山に於いて書く」との記述があるが,上方言葉が使われており著者の詳細は不明.大阪出身で京都に住む商人が書いた,著名な料理人が後進のために書いたなどと推定されている.

この書の「第四 鳥の部」には,鶴,白鳥,がん,鴨,きじ,山鳥,ばん,けり,さぎ,五位,うづら,ひばり,はと,しぎ,くいな,すヾめ,には鳥の料理法が挙げられており,そのなかに「つぐみ* 汁 ころばかし** やきてこくせう***」とあり,他の鳥と比べても,特別扱いはされていない.(左図,NDL)

*つぐみ:平野雅章譯『料理物語』教育社新書 (1988) には,「桃花鳥(つぐみ)」とされている.また「**ころばかし ころばし(転)に同じ。芋の子などをしょうゆがなくなるまで焦げないように煮ることを言う。ころ煮、煮ころばし。雑俳『よせ草』 に「ころばしは息をする間もなかりけり
***こくしよう 濃漿・濃焦・濃塩。寛永三年九月の後水尾天皇の二条城行幸の献立にある「濃焦」が記録としてはもっとも古く、そのころは薄塩の味噌を濃く溶いて煮汁とした魚鳥野菜の煮物で、汁の多い物であった。この濃漿(ふつうこの字で書く)と言う料理は、徳川幕府の瓦解とともにほとんど見られなくなったが、コイの濃漿だけは、コイコクの名で、今日まで残っている。」 とある。

★中村惕斎『訓蒙圖彙(キンモウズイ)』の初版, 寛文六 (1666) 年序 では,簡単な図と
鶇(トウ) ツグミ 未詳 一曰 馬鳥(ムテウ)」と,簡明な説明がある.(右図,NDL)
別名の「馬鳥」の由来は地上をピョンピョン跳ねる様を馬に見立てたとの説があり(デジタル大辞泉),関東地方での方言とされている(大辞林 第三版).口調のよさからか,江戸時代に流行った江戸っ子のしゃれ(宿をどや,縁起をぎえんと言うような倒語)からか,「チョウマ」とひっくり返したのであろう.

 早稲田大所蔵の『訓蒙圖彙大成』寛政元(1789)年版では
「〇鶇(ツグミ)ハ鵯(ヒヨドリ)ノ大(オオキ)サ〓,羽色(ハネイロ)茶(チヤ)ニシテフ有,歳ノ暮(クレ)ニ是(コレ)ヲ食(志ヨク)シテ味(アジワ)ヒヨシ」と,形状の詳しい説明と,年末に食する習慣があり,味が良い事が追記されている.(左図,早稲田大学図書館.リンク先は早稲田大学図書館公開の該当画像)

★『江戸料理集』(1674)には「焼鳥には鴫類、うずら、ひばり、小鳥類、雉子、山鳥、ひよ鳥、つぐみ、雀、鷺類、鳩、けり、鷭(ばん)」とあるそうだ(未確認).

★新井玄圭『食物摘要(1684) ,『食物本草大成(1695) の双方の「第七巻 禽類 附録」には,全く同文で
都久美(ツグミ)
源順以爲---毛斑-褐胸
腹並-白相-夜棲干林-晝食干田-
好ク躍而不シテ害補-又有身純-ニシテ
而黄-嘴黄-脚能效-俗 此玄鶫(クロツグミ)鳥
-色青-黄頷-ヨリ胸前卅腹(シナイ)鶇
毛數-色斑-文嘴-脚倶ナル太山(ミヤマツクミ)
各毛-色雖而一
-亦無別」(右図,NDL)
と,食べても人に害を及ぼさず,むしろ体に良いと,その効用を評価している.

江戸時代の食物本草として名高い★人見必大『本朝食鑑』(1697)の「禽部之三 林禽類」には(図,NDL)
鶇 豆久美(つぐみ)と訓(よ)む。
〔釈名〕馬鳥。『弁色立成』。○源順(『和名抄』)は、「鶇、音は東(とう)。『漢語抄』豆久見(つぐくみ)とある」といっている。
今俗(いまひと)は、馬鳥を誤って、鳥馬(ちょうま)と称(い)う。字書に鶇は鶎鳥(きくいただき)の名とあるが、末だ詳らかではない。
〔集解〕 鶇は、伯労(もず)よりも大きく、頭背・胸臆は紫灰色、腹は黄白色で紫黄斑があり、羽・尾が黒く、嘴.脛は蒼い。毎(つね)に山林に棲んで、能く囀る.
性は好んで螻蛄(おけら)を食う。それで、鶇を捕えるには、先ず多く竹木を削り、黏(とりもち)を塗って●(扌に筮)(はこ)を作り、樹の枝に夾(はさ)んだり、あるいは羅(あみ)を林間に張っておき、糸で螻(おけら)を繋ぎ、竹竿につけてふると、群鶇は螻(おけら)をみて相集まり、竟(つい)に羅●(扌に筮)(あみばこ)にかかってしまう。これを俗に「鳥馬を舞わす」という。
味は極めて美味で、炙食・煮食を上饌に供する。それで、世間でもこれを賞する
のである。あるいは「鶇は山茶花を食うと腸が全くなくなってしまう」ともいう。山茶花は椿のことであり、この時期に鶇を殺して嘴を開き、醤(ひしお)を入れ、羽毛を抜いて炙食すれば、肚に腸がなくて味は最も佳いものである。予は毎(つね)にこれを試みるが、そのとおりである。
〔気味〕 甘平。無毒。
〔主治〕 胃の働きを活潑にし、食を進める。久痾(ながわずらい)の人に最も宜しい。
〔附録〕 黒鶇(くろつぐみ)。形状(かたち)は鶇に似ていて、灰黒色、黒斑があり、頭に純黒の毛がらり、羽・尾も黒い。頬は白く、嘴・脛は黄色である。毎(つね)に山林に棲んで、百鳥の声を出して能く囀り、鳥魚の肉を食う。樊籠(とりかご)に飼畜して弄する。
その気味については未だ詳らかにしない。」(現代語訳:島田勇雄訳注 平凡社(1976-1981 東洋文庫)
とあり,冬の時期のツグミは特に美味であるとしている.この記述は「鵯(ヒヨドリ)」でも同じで,冬季のこれらの鳥は秋の時期に栄養を貯め,その後餌が十分でないことか,或は椿や山茶花の蜜を主食とすることから,消化管中の残渣が少なくなり,このように言われるのかも知れない.トリモチや網を用いた捕獲法,その肉は滋養に富んでいる事を述べている.

★貝原益軒『大和本草 (1709) の「巻之十五 小鳥」には,
[同(和品)]「ツグミ 其類多シ常ニツクミト云一種アリソノ形狀アマ子
ク人シレリ〇黒ツクミ觜脚黄色ヨク囀ル他鳥ノマ子ヲ
スルウクヒス雀ナトノ音ヲモマナフ〇イソツクミ色青黒
シ海邊ニ出〇シナイ又クハツ鳥トモ云赤ジナイクハツ
鳥ノム子アカキナリクハツ鳥其ナクコエクハツ/\ト云此外
猶少ツヽ毛ノ異ナルツクミ冬春多シ味ヨシ順倭名抄
鶇ヲツクミト訓ス出處未詳」とあり(左図,NDL),ツグミはよく知られていて,寒い時期に味が良い事.また幾つかの種類があることに言及している.

大陸から冬を越すために,群れを成して渡ってくるツグミは,容易に霞網やトリモチで捕獲できるため,江戸時代の日本の農村や都市に於いて重要な栄養源であったのだろう.

図は特記されたもの以外は,NDLの公開デジタル画像より部分引用.

2018年3月21日水曜日

ツグミ(2) 山背國風土記.室町時代.海人藻芥,康富記,三好筑前守義長朝臣亭江御成之記,大草殿より相伝之聞書

Turdus eunomus
2018年2月
庭に来るツグミは,丸々と太っていて,いかにも肉付きがよさそう.
古くから食用としての評価は高かったようで,室町時代の文献から多く現れ,足利将軍にも供されていた.
特に武家での食卓では,特別の作法で食されていたので,彼らにとっては意味のある食物であったのかもしれない.

出雲風土記の出雲郡の項で,他の大きな,或は目立つ鳥と共に記されているのは,食用とされていたためであろうか.

古風土記に仮託した後世の偽書と考えられている『日本惣国風土記』には,嘉慶2年(1388)左中将藤原元隆奧とされる『日本惣国風土記 第六 山背國兎道郡』が納められ,山城国宇治,現在の京都府宇治市近辺の記述として「兎道郡
名山十七 岡十一 泉 河五流 川四流 宮祠十五〓 寺院十一宇 墳墓十三基
兎道郡 或宇治 或鵜路(中略)
貢脩      茯苓 - 松蕈 黄菌之類
          河川之鮮 調布等
(後略)」とあり,宮廷にツグミも他の産物と共に貢がれていたとある.

室町時代に編纂された,鎌倉時代末から室町時代に及ぶ僧俗の有職故実の書である★恵命院権僧正宣守『海人藻芥(あまのもくず)』(1420) には,
「内裏仙洞ニハ一切食物ニ異名ヲ付ケテ被召事也」と「塩ハシロモノ,豆腐ハカヘ,索麺ハホソモノ,松蕈ハマツ,鯉ハコモジ,鮒ハフモジ」など宮中や将軍家で使われた多くの女房言葉も収載されているが,その中に
ハツモジ、ツグミヲ供御ニハ不備也
とあり,鶇は女房言葉で「つもじ」と言い習わし,食用にしたことが分かる.鵜を供御にそなえなかった理由は明らかでない.(群書類従. 619-621 (492)

また,室町期,権大外記であった★中原康富(1400-57)の日記『康富記1449年(文安六年、宝徳元年)に「朝食を賜う.を賞翫也」とあるそうだが確認中.高位の方から供された食事の主菜であったのであろう.

さらに,永禄四(1561)年,時の将軍足利義輝(室町幕府 13代征夷大将軍,1536 - 1565,在職:1546 - 1565)が,三好義長(三好義興,1542 - 1563)邸に赴いた時の記録★『三好筑前守義長朝臣亭江御成之記』には,進士流の進士晴舎(進士美作守)が八十貫文で調えた豪華な料理のリストが残されている.

「一 公方様御前,并御相伴衆,御伴衆,(御)走衆,雜掌方之事.
進士美作守被申談(之).八十貫文にて十七献之分調進云云
進士美作守請取調進献立次第.

式三献     御手かけ           二重     瓶子
               をき鳥 をき鯛
初献        とり                  ざうに   
               のかふ
(中略)
十六献     つぐみ              かも
               たいの子
十七献     からすみ           せいご
               はまぐり
已上十七献參なり.」
と,ツグミを上餞として,酒と共に将軍や高位の同行者の饗膳に供したことが,記録に残る.(続群書類従. 23輯ノ下)
(献立の内容は,河田容英氏,http://bimikyushin.com/chapter_3/03_ref/shinji.html に詳しい)

室町期には,将軍などの御成の際に供される本膳形式の料理との関連で,『四条流庖丁書』『武家調味故実』『庖丁聞書』のほか,『大草家料理書』『大草殿より相伝之聞書』といった料理技術を記した料理書が,四条流,大草流,進士流といった庖丁流派の成立に伴って出現する.これらは故実書,伝書として伝えられ,いずれも写本であった.
古代以来権力者の暗殺には毒が使われることが多かったため,足利将軍家における調理は特に信用できる譜代の家臣に任されていた.大草流を確立した大草氏は室町時代の足利将軍家包丁人,大草三郎佐衛門尉公次(おおくささぶろうさえもんのじょうきみつぐ)に始まる「大草流」は四条流の支流で,公家の流儀であった四条流より分かれ,武家の流儀として起こされ,将軍の元服など儀式での料理を担当した.幕府の初物献上の儀式など,年中行事を受け持っていたが,江戸初期に後継者は絶えた.

室町時代の後期の資料と推定されている★『大草殿より相伝之聞書』は大草流の相伝書として,料理法をはじめ,魚鳥の取扱い,飲食の作法について紹介している.
その中で,「ツグミ」の食べ方として,武家の饗膳では,つぐみは飯の菜として食べるのではなく,酒のさかなとして食べるしきたりであるとして,その複雑とも思える作法について述べている.

つぐみのおのがしやくしの事.これも食の内にはたべず,御酒の時もちいる也.其時は
座卓を見合,右の手にて台を取り,左の手にすゑて,鳥のうしろをよくみて,いかにもしづし
づと感じて我が前の右の方の畳に据ゑ,まづしゃくしをしゃくしの上にあるくろ塩を手にいれ
いただきて食べ,しゃくしをば二の膳のぶちなどにかけをき,又御酒などたべて,其後つぐみ
の右の羽をとりおろし候.つぐみを羽の上に置き,扨又つぐみを台共に持ちあげ,うしろをみ
て,感じて前の脇に置く.さて羽の上に有るつぐみを集養して,御酒過ぎ侯へは,つぐみの腹
に羽をかぶせをき,しやくしをば又取りあげ,いかにも感じ懐中する也.其座に恐陸の人御座
ありて,しゃくしなど御賞翫侯はば,其まねの様に僕ひてはわろく候.ただただ知らぬやうに,
又さすが様躰もあるやうに仕儀」(群書類従. 第三百六十七 飲食部四)
これだけ勿体ぶった作法で食べるのだから,武家にとってツグミには,それだけの意味があったのであろう.

2018年3月13日火曜日

ツグミ(1) 䳯,鶇,馬鳥,鵣,出雲国風土記・倭名類聚鈔・色葉字類抄・温故知新書

Turdus eunomus
2018年2月

「電線にムクドリぞわりと群れをなし ツグミ孤高に暮れて行くなり」

山本寒苦(東金市)
朝日歌壇 201835日 佐佐木幸綱選

庭にはこれまでにも,スズメ・キジバト・シジュウカラ・コゲラ・ヒヨドリ・ムクドリ・エナガ・ジョウビタキ等の野鳥が来ていたが,今はツグミが毎日のようにやってくる.落ち葉を土に返す主義の我が家の庭がよほど気に入ったのか,毎朝地上の枯葉をひっくり返して,強い足で地面をほじくりかえし(迷惑),餌を探している.

余り鳴き声は出さず(つぐみの名の由来という説もあり),エサ台では,ヒヨドリには勿論,スズメにも場をゆずるという,遠慮深い性質だとの事だが,私が50センチほどに近づいても,飛び立たずにじっとこちらをうかがっている.肉はおいしく,以前は北から群れをなして渡ってくる段階で,カスミ網で何万羽と捕獲され,焼き鳥の主な素材だったそうだ.地域の観察会では,1947年から鳥獣保護法により,「狩猟」してもよい部類からはずされてから(狩猟鳥獣の種類が定められ、それ以外は狩猟の対象とならず自動的に保護鳥となったこと),人をあまり恐れなくなったと聞いた.

江戸時代の文献でも,鳩の次においしい三種の鳥(他はアカハラ,ヒヨドリ)の一つに挙げられ,また,冬,サザンカの花を食べると,腸がなくなり,増々おいしく食べられるとある.さらに,京都では年末に豆と共に「まめに次身(つぐみ)」と言葉遊びの祝い膳にされていたそうだ.人が名付けた名前のための災難であった.

生育地は,バングラデシュ以東のアジア,ロシア東部(中央アジア・東部アジア)で,これまで迷鳥として,歐州南部・中部・北部,北米,アラビア半島などで観察されたという記録がある.日本ではありふれた鳥だが,欧州には分布しないので,2016年に迷鳥が英国イングランドに現われた時には,多くのバードウオッチャーが現地に集まったという事だ.
Amateur's ultra-rare sighting of Siberian dusky thrush brings hundreds of birdwatchers to Derbyshire village December 6, 2016 The Telegraph (http://www.telegraph.co.uk/news/2016/12/06/hundreds-birdwatchers-descend-village-ultra-rare-sighting-dusky/)

日本では越冬のため飛来する冬鳥で,夏季にシベリア中部や南部で繁殖し,冬季になると大群で南下し,その後ほぼ単独で越冬する.和名は冬季に飛来した際に聞こえた鳴き声が,夏季になると聞こえなくなる(口をつぐんでいると考えられた)ことに由来するという説がある.

,鶫 なお,ツグミの漢字として「鶫」があるが,これは国字で,正字は「鶇」であり,この「鶇」の構成部分の「東」を「柬」と誤ったものが定着した.正字「鶇」は,江戸時代は勿論,明治31 (1898) 年刊行の岡本純 (半渓) 著『諸鳥飼養法秘伝』,また昭和初期の刊行物でもが使われている.昭和13年の徳田秋声『灰皿: 随筆集』 (砂子屋書房, 1938) や,昭和19年更科源蔵『北の国の物語』 (大鵬社, 1944) では国字「鶫」が使われているが,同年代の書に正字「鶇」が使われている例も多い.この頃から国字「鶫」が一般化し始めたものと思われる.

また,古くは「馬鳥」,また江戸時代にはそれをひっくり返した「鳥馬,ちょうま」も使われていた.この正字「鶇」や「馬鳥」の由来には,著者・成立年代不明の『鶇方義論』にもっともらしい説が記載されているが,こじつけに見える.

 ★『出雲国風土記』 (733) の「出雲郡」の部には, 
「凡(すべ)て、諸(もろもろ)の山野(やまの)に在(あ)るところの草木(くさき)は、(中略)
禽獣(とりけだもの)には則(すなは)ち、晨風(はやぶさ)・鳩(はと)・山雞(やまとり)・鵠(くぐひ)・(つぐみ)、猪(ゐ)・鹿(しか)・狼(おほかみ)・兎(うさざ)・狐(きつね)・獮猴(さる)・飛鼯(むささび)あり。」とある(現代語訳,秋本喜郎『日本文学大系-2,風土記』(1958) 岩波書店).他の郡の産物としては,「」は現れず,出雲郡のみである.「」の読みとして「ツグミ」とするのは,現代の『出雲風土記』の書籍では一般的で,古くは江戸時代前期,松江藩士岸崎左久次が天和三年(1683年)に著し,出雲国風土記鈔の諸写本中の最善本とされる『出雲風土記抄(松江桑原家所蔵本)』において「」に「ツグミ」のカナがふられている.(図は島根大学図書館SUL

」の字は中国宋時代の★陳彭年『廣韻』の「上平声,鍾」の「重」の部
鍾:職容切當也酒器又量名。左傳釜十則鍾亦姓〓鍾離氏十八.鐘:樂器丗本曰垂竹鐘
重:直容切複也疊也又直勇直用切六」に「 𪄹 鳥名」と出ている.
『廣韻』は,26000字余を206韻に分けて,反切をつけて発音を標記,簡単な字義解説を加えた字書.北宋の真宗の勅命により,陳彭年らが先行する韻書を改定増修して,1008年(大中祥符1)に完成した.図は明代初期,福建省建陽の書肆劉氏文明坊が刊行した『大宋重修廣韻』の第一巻より(NDL).

★源順『倭名類聚鈔』(931 - 938),那波道円 []1617).『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』源順著,那波道円校訂・刊『和名類聚抄』 (1617)
平安時代中期の承平年間(931 - 938年)に,勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書で,中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている.名詞をまず漢語で類聚し,意味により分類して項目立て,万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で,漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る.今日の国語辞典の他,漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴.
その「巻十八羽族ノ部二十八 羽族ノ類大二百廿七」には,鶇の読み仮名として「豆久見(つぐみ)」を充て,別名として「馬鳥」を舉げる.
*1(ツグミ)唐韻*2ニ云鶇ハ音- --*3-ニ云鶇- 豆久見 - -*4-ニ云 -鳥 鳥ノ名也」
*1正字「鶇(東+鳥)」
              *2唐韻,*3漢語抄(楊氏漢語抄),*4辧色立成:いずれも先行する辞書・事典,現存せず,逸文のみ残る.

「鶇」の字は上記★陳彭年『廣韻』の「上平声,東」の部「一.東 獨用 德紅切,東方也。文動也,亦東風菜都賦云草則東風扶留又姓舜七友有東不訾又漢複姓東方朔何氏姓苑有東萊氏。十七。」の節に「鶇:鶇鳥名美形出廣雅亦作𪂝」とある.

平安時代末期に成立した古辞書★橘忠兼『色葉字類抄 三巻本』光棣(), 文政10 (1827) 中巻「津 動物」には「鶇 ツクミ トウ」「鷯 〓 馬鳥 己上同」とある.ここにもツグミの別名として「馬鳥」が記録されていて,この名も長く使われた.

★菅原為長撰(傳)『字鏡集』(成立年代未詳。寛元3 (1245) 年以前)は部首引きの漢和字書で,部首は意義分類によって配列され,音訓が記されている.意義分類は『色葉字類抄』によったとみられ,異体字や訓の豊富であるのが特色である.
この書の「巻之第三 動物部 十二 鳥部」 には,「東 鶇(トウ)●(梟の木の代りに東)同 ツクミ」とある.

日本の古辞書の一つ文安元 (1444) 年成立★東麓破衲編『下学集』の元和三 (1617) 年版の「氣形門 第八」には,「鵣 ツグミ」とあり,漢字名として鵣(束+鳥)とある.但し「鵣」は,おしどり.また,おしどりに似た鳥とされている.
著者は,序末に〈東麓破衲〉とあるのみで不明.京都東山建仁寺の住僧かといわれる.ただし,その成立には《壒囊鈔》と密接な関係があると推定される.内容は〈天地〉〈時節〉以下18の門目を立てて,中世に行われた通俗の漢語の類を標出し,多くの場合それに注を加えてある.

★大伴泰広『温故知新書』(おんこちしんしょ)は、室町時代後期の文明16年(1484年)に成立した国語辞典。著者は新羅社宮司(大伴広公)。全2巻(3冊)。所収語数は約13,000。いろは順が一般的であったこの時代に五十音順を採用した最古のものといわれている。
その「ツ」の部,「氣」の門に「鶴ツル」と「燕ツハメ」の間に「●(矛+鳥)ツフリ 鶇」とある.(尊経閣叢刊. 侯爵前田家育徳財団 (1939)

図は出雲風土記(SUL)以外は NDL の公開デジタル画像より部分引用

このように,ツグミを表す漢字として,多くの文字が使われたが,元は「トン」という名の鳥に充てられた字と考えられる.構成部分の「東」が変化して多くの文字ができたのであろうか.

現代中国でも「斑斑鶇」がツグミの一種,ハチジョウツグミ Turdus naumanni の漢名であるように,正字「鶇」が使われている.