多くの江戸時代の鳥類図譜にツグミは描かれている.
図はNDLの公開デジタル画像より部分引用.
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★小野蘭山(1729-1810) 『蘭山禽譜』①
故磯野慶大教授の本書の書誌情報によれば「自筆本天地2冊は明治42年(1909)の蘭山没後百年記念会までは存在していたが,現在は行方不明である.しかし,諸書の検討によって,天之巻(水鳥)と地之巻(水鳥以外の鳥類と獣類)の2冊から成り,鳥類計307品・獣9品と推定されている.その諸書のうち,東京大学総合図書館蔵『禽譜』(T86-177本,鳥305品・獣9品)がほぼ完全な転写本らしい.なぜ獣類が少数含まれるのかは不明である.
NDL 所蔵資料はその「地之巻」に当たり,鳥171品と獣7品を含み,各品とも雌雄を描く例が多い.記文では産地や渡来年,形状や色彩を簡潔に記す.なお,『水谷禽譜』(特7-526)には,『蘭山禽譜』から転写した図と記文が少なくない.木村蒹葭堂の『蒹葭堂禽譜』も,『蘭山禽譜』を転写した禽譜である.」とある.
NDL 所蔵資料はその「地之巻」に当たり,鳥171品と獣7品を含み,各品とも雌雄を描く例が多い.記文では産地や渡来年,形状や色彩を簡潔に記す.なお,『水谷禽譜』(特7-526)には,『蘭山禽譜』から転写した図と記文が少なくない.木村蒹葭堂の『蒹葭堂禽譜』も,『蘭山禽譜』を転写した禽譜である.」とある.
「真ツクミ チヤウマ 江戸
狀大抵同シ目淡赤褐觜淡黒足淡黄褐
頂及目辺翅端尾皆淡黒色目上ヨリ背翮
辺淡赤褐黄胸白脺白腹白斑文アリ
是ハ庭中ニ不渡来又網シカタシモチニテ取
味美之」とあり,網かトリモチで捕え,味が良いとある.
また,これより前の「シナヒ」の項には,「俗諺ニ除夜ニツクミノアツモノヲ食レハ明年疫ニ染スト」とあり,祝い膳というより,疾病予防の意味と理解していたようだ.
★北尾重政 (1739 - 1820) 画『花鳥写真図彙』 初・二編各3巻 (1805-1827) に「蒲公英 並 ちゃうま」の題で,タンポポとツグミの多色木版画が収められている.
②『花鳥写真図彙』「蒲公英 並 ちゃうま」
重政は江戸中・後期の浮世絵師.江戸の人.北尾派の祖.本姓,北畠.通称,久五郎.美人画・風景画にすぐれ,山東京伝・曲亭馬琴らの戯作の挿絵も多い.書・俳諧もよくした.
『花鳥写真図彙』は重政画の花鳥絵本.色摺り.半紙本6巻合1冊.初編3冊.文化2年(1805)正月,原板西村宗七,書林大阪・柏原屋清右衛門,江戸・岡田屋嘉七,同和泉屋市兵衛梓.二編3冊.文政10年(1827)孟春(書肆名削除).料紙は奉書紙.絵師署名に「北尾紅翠斎模」とあり,初編の月所外史の序に「頃模写乎所其楽作一帖名曰花鳥真図」とあるように,模写を基本とした絵本で,狩野派などの花鳥画巻や舶載,和刻の画譜類を手本にしたと考えられる.『詩経』に所出の鳥や草木を中心に据え,「柀に文鳥」「戎葵に白頭翁」「菫菜 砕米菜 雲雀」(初編)など,漢名と和名両方を挙げながら,草花と鳥類をバランスよく描出する.彫りは精密であり,凡例に「畫都て色を設されは一々真に迫ることあたはす看宦恕宥し給へ」と,当初は,多色浮世絵の規制に遠慮してか,墨摺りによる板行を想定していたが,結局極彩色の色摺りが出された.通常の板摺に拭きぼかし,没骨,合羽摺りなどの技法を併用し,多様な彩色を施す.
尾張藩士・水谷豊文(通称は助六,1779-1833)は,若い頃に名古屋で医学を学び,小野蘭山に師事して本草学を学び,後に藩の薬園監督となる.文政9年(1826)宮駅で,江戸に向かうシーボルトに会い植物標本を見せ,シーボルトよりボタニストとして高い評価を受け交流が始まる.また彼は「嘗百社」(ひょうひゃくしゃ)と名づけた本草学研究サークルを主宰して,彼を中心にして薬草を見つけるフィールドワークを行ない,領内をくまなく歩いた.伊藤圭介の師匠である.その禽譜には,
「ツグミ
ハナスイ ツクシラウ 薩州
ツキメ 遠州 テウマ 羽州
百舌トスルハ非ナリツグミ歩ム時ハ首前ヘウツムク百舌十月以
後不鳴蟄ストツグミハ冬月蟄セズ種類多シ
大晦日ニツグミヲ食ヘバ翌年傷寒不煩節分ニ食説モアリ」
とあり,百舌は本草綱目に10月以降姿を見せないとあるが,ツグミは冬に穴籠りはしないので,百舌とするのは不適切としている.しかし,日本に渡ってくるので中国では,冬に姿を見せなくなるのを,「蟄ス」と解釈したのであれば,「非」とする根拠としては乏しい.
★牧野貞幹『鳥類写生図』(1810) ④
常陸笠間藩の第四代藩主牧野貞幹(1747 - 1828)は幕府の奏者番を勤めるほど優秀であったが,
42才の若さで藩主のまま死去した.忙しい政務の合間に、本草学の分野では『鳥類写生図』(4巻)『草花写生』(8巻)を自身の写生で残した.『鳥類写生図』には,約200種類の鳥が収められ,図には羽の特長を書き添えるなど本格的な図譜である.
★屋代弘賢『不忍禽譜』(1833) ⑤
屋代弘賢(やしろひろかた)(1758 - 1841)は江戸幕府幕末の御家人で,通称は太郎,名は栓虎.後に栓賢,弘賢,栓丈と改める.号は輪池.国学を塙保己一に学び,また書道を森尹祥に師事し, 22才で家督を継ぎ,天明元年(1781)に西丸台所に出仕.寛政5年(1793)松平定信に認められて奥右筆所詰支配勘定格になった.文化元年(1804)3月御目見以上に昇進し,文化2年(1805)にロシアに対する幕府の返書を清書した.『藩翰譜続篇』『寛政重修諸家府譜』など幕府の編纂事業に参加,『古今要覧稿』編集の中心となり,また塙保己一の『群書類従』の編集にも関わった.文化人(柴野栗山・成島司直・小山田与清・大田南畝・谷文晁ら)との交流もあり,和漢典籍の収集に努めた.その蔵書を《不忍文庫》と称し,5万冊を収蔵した.
★滝沢馬琴『禽鏡』(1834) ⑥
「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」の読み物など多くの名作を生みだした,曲亭馬琴(滝沢馬琴,1767 - 1848)は,幼い頃からの鳥好きで知られる.彼が渥美赫州(娘婿の渥美覚重のこと)に描かせた6巻からなる鳥図鑑。255種類306図の鳥の絵に,馬琴が「瀧澤解」の名で解説を加えている.赫州は書物から鳥の絵を模写している.『鳥名由来辞典』の「図譜に描かれた鳥の種名の同定」によると,馬琴による解説は佐藤成裕の『飼籠鳥』から多く引用されているとのこと.
★毛利梅園『梅園禽譜』(1839) ⑦
このブログで度々取り上げてきた『梅園図譜』の著者★毛利梅園(1798 – 1851)の『梅園禽譜』(1839 序)には,精密で美しいヒヨドリの図と共に,以下のような記述文が記載されている.この記述で別名とされている「雀鷂」は,一般的には小型のタカ「ツミ」の漢字名とされている.
雀鷂其味尤隹(ヨ)シ鷹匠家ニ三ツ物ト称スルハ
雀鷂 赤腹 鵯(ヒヨトリ)也鳩ニ次ケリ雀鷂諸家
ニテ秋冬ノ間多ク取リテ味噌ニ淹テ節分ノ〓
物トス是ニ豆ヲ加ヘテ祝儀トス豆ニ次身(ツクミ)ト云俗
語也又ツクミ能ク疫病ヲ避(サケル)ト云雀鷂ニ数種
アリ真(マ)ツクミト云ハ〇テウマ也〇磯ツクミ色青色
海辺ニ居ス〇白ツクミ〇眉(マミ)白〇赤ハラ〇八丈ツグミ
秋渡ル毛柿色嶋テウマト云〇眉白ツクミハ色黒目ノ
上ニ白キ筋アリ日光ヨリ出ル雌ハ虎斑ナリ尤雛ノ時ハ
黒カラス時ヲシテ黒クナル腹ノ照リノ赤キハ赤腹ト云
白ツクミ腹白脊茶色茶ジナイ共云鵺ツグミハ
鬼ツクミ虎ツクミト云赤茶色虎斑アリ」