2018年2月 茨城県南部 |
ツグミという名称が「繼身(つぐみ)の訓(くん)」とされ,京都で大晦日に祝い膳としてツグミを焼いて食する習慣が,『和漢三才図会』(1713頃),『物類称呼』(1775)に記録されていることを,前記事に記したが,この風習は庶民の間でも長く続いた.
一方宮中でも大晦日には焼いて食して,厄払いとしたが,皇太子への正月の御年玉として,ツグミの絵の描かれた掛物が献上された.
また,武家では年末の節分に「福は内,鬼は外」の掛け声の後に,ツグミを焼いたものを肴に,酒を飲んだとある.
傳鴨長明『鴨長明四季物語』(1686)は古来宮廷で行われてきた年中行事のありさまとその由来について,四季を12巻に配して随筆風に述べたもので,雅文体の文章表現が特色である.巻頭に「城北微夫蓮胤書」とあり,奥書にも「蓮胤」(長明の僧名)とあるが,鴨長明の作ではなく偽書とされている.その内に
「四季物がたり 十二月 (中略)
ついな(儺名)の夜は、をけら(白朮)のもちゐ、つぐみの鳥など焼て奉り、御かれいゐの御まはりに奉れば、是もものヽ怪,ゑやみやらひぬべき本文侍るとなん。(後略)」(『續羣書類從』第32輯上 雜部93 卷第943,太田藤四郎〔續群書類從完成會〕1926)とあり,この鳥は、特別な俗信を持っていたようで,出版時にはこのような風習があったと考えられる.
鵺との関連が疑われる.
★黒川道祐『日次紀事(ひなみきじ)』(1676序)は江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書.正月から各月ごとに,毎月1日から月末まで日を追い,節序,神事,公事,人事,忌日,法会,開帳の項を立て,それぞれ行事の由来や現況を解説している.民間の習俗行事を積極的に採録したのが特徴.しかし,神事や儀式には非公開をたてまえとするものもあり,出版後まもなく絶板の処分をうけた.
その十二月の部,晦日の章に
「〇此ノ-日 良-賤燒二テ津久美(ツクミ)ノ鳥ヲ一而食レフ
言フハ取二テ継レク身ヲ
之意一ニ而祝レス之ヲ 又称二ス長間一(マ)ト是レ則取二ル長久ノ之意一ニ也
取レノ質(シチ)ヲ家 喰二フ加-志鳥一ヲ 言心ハ借二シテ金-銀ヲ於他-人ニ而欲レスナリ取二スルヲ其ノ-利ヲ一也.」
★山科道安『槐記(かいき)』(1724-1735)は,18世紀初頭の摂関・太政大臣であった近衛家熙の言行を,その侍医であった山科道安が記した日記で,享保9年(1724年)正月に始まり,享保20年(1735年)正月まで至る.自筆本は明治26年(1893年)に火災にあい,4冊のみが近衛家陽明文庫に残る.公家の文化や学問に関する記述が多く,特に茶の湯や香道,花道に関する文献として重視されている.
享保十七年(1732)の記事に「享保十七年正月元旦參候,如二例年一御口祝拝戴,君様方へ御年玉に鶇の掛物を獻上.」とある.家熙が後の桜町天皇になる中御門天皇の御子たちに献上したのであろうか.「鶇」と「継ぐ身」をかけて,宮中でもおめでたい鳥であったのであろうか.『鴨長明四季物語』の記述とは矛盾するようだが.
「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」の読み物で知られる★曲亭馬琴 (1767 - 1848)
の歳時記『俳諧歳時記』(1803)は, 俳諧の季語2600余を四季別・月順に配列して解説を加えた季語分類事典である.内容は,「発端三論」で,俳諧の字義,連歌権輿(はじめ)の論,俗談平語の弁を記し,季語を四季別に,各月と三春(夏,秋,冬)を兼ねる詞に分けて解説し,後に,俳諧の式や恋の詞,付合の論,点取の論などを付している.従来の歳時記の京都中心の記述と異なり,江戸中心の解説が施されている点に特色がある.
その「十二月」の章に「除夜(じょや) 十二月晦日,これを除夜といふ,言(いふ)こヽろ
ハ此夜舊年を除(のぞ)く也,本邦の俗,この日つぐみ鳥を焼て食ふ,是繼身(つぐみ)の訓(くん)によりて賀(が)する也,叉質(しち)
をとる家,かし鳥を食(くら)ふ,是借取(かしとり)の
祝語(しゆくご)なり,今は大かたこの戯(げ)なし.大歳(おおとし) 元日を小歳と
いふに對して,晦日を大歳といふ.」
とあり,大晦日に「つぐみ」に「繼身」を掛けて,ツグミを焼いて祝膳にしたとある.また,質屋ではカシドリ(カケス)も「貸した金を取り返す」にかけて大晦日に食したとある.
その48年後の嘉永四(1851) 年,藍亭青藍(生没年不詳)によって増補版『増補俳諧歳時記栞(しおり)草』が刊行された.この書では,馬琴の『俳諧歳時記』の欠点であった「神祭・仏事・公事は詳しいが,草木鳥獣などの注釈に不完全なものが多い」(『栞草』序文より)という点を改善するため,季題を2,600余から3,400余に増し,さらに馬琴の分類が月別であったのを四季順いろは引きに編集し直しているため,馬琴の著作というよりも藍亭青藍のオリジナルといったほうが良いかもしれない.
その「冬」の巻,「る,を於」の部の「十二月」の章には
「大晦日(おおつごもり)[紀事]此日良賤つぐ
み鳥を焼(やき)て食ふ,いふ
こころは身を継(つぐ)の意に取てこれを祝(いわ)ふ,長間と称し
是長久の意に取,質(志ち)を取の家かし鳥を食ふ,いふここ
ろは金銀他人に借(かし)て,其
利を欲する之」とある.
馬琴は「今はこの戯なし」と言っていたが,50年後にも大晦日にツグミを焼いて食べる習慣は広くあり,「馬鳥」をひっくり返した「ちょうま(鳥馬)」という俗名まで,「長間」とかけて縁起の皿にしたとある.
幕臣として必要な知識を簡単に得られる書物を手元に置きたい.『武家必擥殿居嚢(とのいのう)』は,そんな要望に応えて出版された書.前編が天保8年(1837),後編が同10年に刊行され,懐中可能な小型の折本(おりほん)の表裏に,江戸城の詳細な行事カレンダー,老中以下諸役一覧,服喪の規程,江戸城内や日光山の略図など,多彩な情報が収録されている.
著者は,小十人(こじゅうにん)組の旗本大野広城(おおの・ひろき 通称は権之丞,号は忍軒・忍屋隠士ほか.1788-1841).幕府や江戸城内のさまざまな情報を載せているため,幕府を憚って著者を藤原朝臣とし,限定300部の出版である旨を記したが,天保12年(1841)6月,大野広城は,本書等の出版の罪で丹波国綾部(あやべ)藩主九鬼隆都(くき・たかひろ)に身柄を預けられて(「御預」)監禁され,同年,綾部の地で病死した.
『古事類苑』の「歳時部十九 節分」の項に
「〔殿居囊 三編〕節分 福内、二抓、中音ニ而二聲、 鬼外、一抓、大音ニ而一聲、 御盃
御酒
御肴鶇 燒鳥 御吸物 大鷺 右相濟、三方ニ大豆ヲノセ、詰合之面々ヘ被レ下、畢而御吸物御酒被レ下之、爲二御祝儀一於二御前一時服五被レ下之、御飾之數三百六十柊幷 樒之枝ニ鰯之頭ヲサス」とあり,年内に立春がある時は,その節分に「福は内,鬼は外」の声を出して豆を播いた後に,酒の肴に「ツグミ」の焼き鳥が饗応されるのが習だとある.武家にとって「ツグミ」は特別な鳥であったのだろう.
節分は,現在では二月の行事とされているが,前述の『増補俳諧歳時記栞(しおり)草』では,十二月の季語とされており,『日次紀事(ひなみきじ)』等を引用して次のように記されている.
節分(せつぶん) 豆打 柊さす なよしの頭さす 鰯さす 鬼は外福は内 年越
[紀事]凡(およそ)節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆(いりまめ)を殿中に撒(まか)せられて疫鬼(えきき)を逐ふ。春にあるも亦然り。今夜、大豆を轍(まく)を拍(はやす)といふ。同夜、家々の門戸に鰯(いわし)の頭首(かしら)、并に狗骨(ひヽらぎ)の条(えだ)を挿む。
伝へいふ。この二物、疫鬼の畏(おそ)るヽ所なり。一家の内に事を執(と)る者を年男(としおとこ)といふ。高声に鬼は外福は内と呼(よび)て、疫(えき)を禳(はら)ひ福をもとむ。下略
○なよしの頭さす [土佐日記]九重(こヽのへ)の門の注連縄(しめくりなは)、なよしの頭(かしら)、ひゝらぎさす、なんど、いかにとぞいひあへる、云々。[日本書紀]云、口女(くちめ)即鯔魚(なよし)、云々。ト部(うらべ)の説には、鱅(このしろ)なりといへり。逍遥軒は名吉(なよし)、伊勢鯉といふ魚也、云々。
○いわしさす [埃嚢抄]聞鼻(かぐはな)と云(いふ)鬼ありて、人を食へば、鰯(いわし)を炙串(あぶくし)となづけて、家々の門にさすべし。然るときは鬼、人をとるべからすと、毘沙門(びしゃもん)の御示現(ごじげん)、云々。[夫木]世の中はかずならねどもひゝらぎの色に出(いで)てもいはじとぞおもふ 為家
○むかしは、なよしの頭さしたりしを、後(のち)に鰯にかへし物ならんか。」
脚注
九重の門の… 青谿屋本『土佐日記』「大湊滞留」の項には「小家(こへ)の門(かど)のしりくべ縄(なは)の鯔(なよし)の頭、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ」とぞいひあへンなる」。
世の中は・・・『夫木和歌抄』巻二十九「ひゝら木」の部に「貞応二年百首木」 と題し、上の句 「かずならずとも」の歌本文で所出。
▽舟うるや声もたからか節分の夜 言水(誘心集)
(曲亭馬琴 編,藍亭青藍 補,堀切実 校注『増補俳諧歳時記栞草 下』岩波文庫 (2000) による)
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