Dracocephalum
argunense
木箱番号 16
標本番号 MAKS2227
台紙の記載 ムシャリンドウ セイラン
学名 Dracocephalum
argunense Fisch.
和名 ムシャリンドウ
同定者名 N.
Kato
同定日 Feb.
2003
科学名 LABIATAE
科名 シソ科
解説 標本の形式から、水谷助六作製と考えられる。
(東京都立大学牧野標本館 シーボルトコレクション,リンク先 http://ameba.i.hosei.ac.jp/sbweb/Prep/022/MAKS2227.html)
ムシャリンドウの現在の標準的な学名(正名)は,Dracocephalum argunense Fisch. ex Link で,フィッシャー (Fischer, Friedrich Ernst Ludwig von, 1782-1854) がロシア極東で発見した個体を基に,1822年にリンク (J. H. F. Link, 1767-1851) によって発表された.
一方日本産のムシャリンドウに対しては,★ミクェル(フリードリヒ・アントン・ウィルヘルム,Friedrich Anton Wilhelm Miquel, 1811 - 1871)は『日本植物誌試論, Prolusio Florae Japonicae』(1865-1867)in “A. M. B. L.-B. Annales Musei Botanici
Lugduno-Batavi『ライデン植物標本館紀要』” に,ムシャリンドウの記述を残し,欧州産の
Dracocephalum ruyschiana と同定したが,シーボルが残した和名セイラン(青蘭)に由来する “Stachys
seiran” というラテン名を記録している(前記事参照).このラテン名は,シーボルトが残した資料に由来すると考えられる.
p 109
DRACOCEPHALUM LINN.
Sectio Moldavica
BENTH. l. c. p. 401.
1. DRACOCEPHALUM URTICAEFOLIUM MIQ. (中略)
§2. Ruyschiana
BENTH. l. c. p. 402.
2.
DRACOCEPHALUM RUYSCHIANA LINN. — BENTH. l. c. (DC.Prod. vol. 12) p. 402, var. japonica A.
GRAY On
Bot. Jap.
p. 402. Stachys seiran herb. SIEB.
An in Japonia indigenum?; schedulae
adscriptum “E. H. Uko." Teste SIEBOLD Seiran vel Mosi jarin dowan jap.
(Ad prom. Siriki-Saki legit WRIGHT ap. ASA GRAY l. c.).
「日本産?台紙には “E.
H. Uko." とあり,シーボルトに従えば日本名はセイラン若しくはムシャリンドウ(Mosi jarin dowan)」と記載した.なお,” E. H.
Uko.” は調べたが不明.
シーボルトはムシャリンドウをイヌゴマ属(Stachys)に帰属し,漢名の「青蘭」の日本語読みで,江戸時代の名称の一つであるセイラン seiran を種名としたラテン名を残した.
ミクェルは「試論」を執筆するにあたって参考にした標本・資料について,序論に次のような八種を挙げている.
“
ANNALES
MUSEI BOTANICI
LUGDUNO-BATAVI
EDIDIT
F. A. GUIL. MIQUEL,
IN UNIVERSITATE RHENO-TRAIECTINA BOTANICE8 PROFESSOR,
MUSEI BOT. L. B, DIRECTOR.
VOLUMEN SECUNDUM.
AMSTELODAMI,
TRAIECTI AD
RHENUM,
APUD APUD
C. G. VAN DER POST C.
VAN DER POST JM.
PROSTAT LIPSIAE, APUD FRED. FLEISCHER. — LONDINI, APULD
WILLIAMS ET NORGATE, DULAU ET SOCIOS.
PARISIIS, APUD FR. KLINCKSIECK. — BRUXELLIS, APUD C.
MUQUARDT.
MDCCCLXV — MDCCCLXVI.
PROLUSIO FLORAE IAPONICAE
AUCTORE
F. A. GUIL. MIQUEL.
Herbarium nostrum iaponicum continet: 1°.
species a THUNBERGIO cum ROYENO communicatas ; — 2°. herbarium
a cel. DE SIEBOLD collectum, in quo etiam
adsunt numerosa specimina a medicis et botanicis iaponensibus
ex imperii regionibus remotioribus, quas
adire Europaeis haud concessum, reportata ; — 3°. ditissimam collectionem,
quam b. Dr. BUERGER, SIEBOLDI socius, nobis
reliquit ; — 4°. plantas quas praesertim in insulis Kiusiu et Nippon
collegit b. PIEROT, a societate regia ad
promovendam horticulturam in Iaponiam delegatus; — 5°. herbarium
a b. TEXTOR collectum; — 6°. species ab
itineratore anglico OLDHAM nuper collectas et a Museo Kewensi nobis
benevole concessas; — 7°. complura herbaria
a botanicis iaponensibus in variis imperii regionibus collecta; —
8°. libros botanicos in Iaponia editos. —
Stirpes sub N°. 1—5 indicatas primum enumerare constitui, De reliquis
dein seorsim agam.
「『日本植物誌試論』でミクェルが扱った標本は9種類あると前書きに断っている.
ミクェルが書いている順にその大意を記してみよう.
1)ツンベルク(Thunberg)が1777年に(日本で)採集して,ロイエン(Van Royen)に送った標本.
2)1823年から1829年にシーボルトが九州とニッポン(本州)で採集した標本,及び日本の植物学者と医者,伊藤圭介,水谷助六,Sonzin(大河内存真),Fusioka Sjôgen,Kaiso(平井海藏),Keisak(二宮敬作)が採集した標本.
3)日本の植物学者による腊葉標本帳.
4)シーボルトの日本における助手,医学博士ビュルガー(H. Bürger)が1825年以降出島やその周辺で採集した標本.また,シーボルトが帰国した1830年から,本州,九州,四国で収集された標本.ビュルガーのコレクションには,医学博士で,1840年には王立植物標本館の館員で,1840年にオランダ王立園芸振興協会に移ったピエロ(Jacob Pierot)がジャワに送らせてボゴールの植物園で栽培されていた日本植物の標本が含まれる.
5)1842年に王立園芸振興協会によって日本に派遣され長崎周辺で採集したテクストール(C. I. Textor)の標本.
6)医学博士モーニケ(O. G. I.
Mohnike)が1848年から1852年に日本で採集し,ボゴール植物園から送られてきた標本.
7)アメリカの植物学者ウィリアムズ(Williams)とモロー(Morrow)及び1855年にチャールズ・ライト(Charles Wright)とスモール(I. Small)が日本の各地及び蝦夷で採集し,エーサ・グレイが送ってくれた標本.
8)キュー植物園(原綴りはキュー博物館を意味するMuseo Kewensisとなっている)の使節として1862年と63年に長崎周辺と朝鮮半島でオルダム(Richard Oldham)が採集した標本.
9)マキシモヴィッチが3年間にわたって日本で採集した標本の中から,サンクト・ペテルブルク植物園により送っていただいた標本.」と記した.
大場の文では,原文より一条多く,またより内容が詳しい.これはこの書の内容を詳しく分析した結果と思われるが,一応原文との対応をしておくと,1) = 1°, 2) = 2°, 3) = 8°, 4) = 3°, 4° , 5) = 5°, 6) = ? , 7) = 7°,
8) = 6°, 9) = 7° と思われる.なお,原文の 8°. libros botanicos in
Iaponia editos. (8 ° 植物関係の和書)は大場の文にはない.
ミクェルが「試論」の中でムシャリンドウのラテン名としてシーボルトの Stachys seiran を知った資料としては,シーボルトの草稿『日本植物目録』(Siebold,
Plantarum japonicarum nomina indigena. ルール大学ボーフム東アジア学部付属図書室所蔵,1.173.000)の可能性がある.
それには,「シーボルトは、伊藤圭介の助けを借り、圭介がもたらした腊葉標本などをもとに、日本の植物約一六〇〇種を、リンネの分類法ではなく、ドイツの植物学者クルト・シュプレンゲルの百科自然分類法にしたがって分類し」作成した「「日本植物目録」草稿
“Plantarum japonicarum nomina indigena” (現ルール大学ボーフム東アジア学部付属図書室所蔵、1.173.000)」の写本を「伊藤圭介が賀来佐之あてに天保二年(一八三一)五月十一日付けで、この写本を贈呈した」とある.この報告には写本にある植物のリストが掲載され,その「(43 Labiatae) (第43科 シソ科)」の項には,
「627 Stachys seiran Jap. ムシヤリンドウ、セイラン
628 ―――inoegoma Jap. イヌゴマ」とある.
また,シーボルトが収集した資料には,日本語で「セイラン」と書かれた腊葉と種子が存在する.
東京都立大学牧野標本館には,レニングラード市(現サンクト・ペテルブルグ市)のコマロフ植物研究所から交換標本として送られてきた所謂★“シーボルトコレクション”がある.このコレクションの大部分はシーボルトが滞日した
1823 - 1829年および 1859 - 1862年に収集した植物標本であり,その中には,シーボルトと交流のあった尾張藩士水谷助六
(1779 – 1833) 作製と考えられるムシャリンドウの腊葉標本もある.(冒頭図)
さらに★石山禎一編『新・シーボルト研究 I 自然科学・医学篇』(2003) 八坂書房の,和田浩志「シーボルトが日本で集めた種子・果実について」 の章には
「シーボルトが日本からオランダに持ち帰った膨大な植物標本の多くがオランダ・ライデン市にある国立植物標本館に収められ、特に腊葉標本、液浸標本、樹木の材標本に関しては山口隆男氏、加藤借重民らの現地での精力的な調査によりその全貌が明らかになってきた。種子・果実標本も同標本館に多数収められていることはわかっていたが、その詳細はこれまであまり知られていなかった。シーボルトが日本で集めた種子・果実の全てを把握することはなかなか困難であるが、少なくともこの標本館に収められている標本からその概略を知ることができる。」とあり,その中に「「セイラン」という紙片が添付されたムシャリンドウの果実」があり,また,収集した種子には「〔シソ科〕 アキギリ、キセワタ、ムシャリンドウ、メボウキ」があると記されている.
これら,資料から,ミクェルはムシャリンドウの和名セイランを基にした Stachys seiran というシーボルトが命名したラテン名を知ったと思われる.
なお,東京都立大学牧野標本館のホームページ「“シーボルトコレクション”」には,上記以外二個の「標本データ 学名 Dracocephalum argunense,和名 ムシャリンドウ」とされている標本(MAKS2229, MAKS2228,上図)があるが,「ラショウモンカズラ」の腊葉とその畳紙であり,「ムシャリンドウ」ではない.