『本草綱目』の和刻本のなかで一番優れているといわれている,稲生若水校『本草綱目(新校正)本』(「若水本」,1714)では,「羊躑躅 本經下品 [レンゲツヽシ]」と,羊躑躅=レンゲツツジと考定していた(前記事).
若水の弟子,松岡玄達(1668 -
1746)と,野呂元丈(1693 – 1761)は『本草綱目記聞』という同名の『本草綱目』の解説冊子を残しているが,その中の「羊躑躅 (レンゲツヽジ)」に関する記述はほゞ同一で,若水の講義の記録か,どちらかが他方の記述をコピーしたのかと思われる.
その松岡玄達の弟子,小野蘭山(1779-1833)の『本草綱目啓蒙』の「羊躑躅」の項には,キレンゲを始めいくつかの地方名も収載し,葉の形状として「葉形(つねのツヽジとは)異ナリ.長大ニシテ厚ク,深緑色,背ハ微褐色」など,レンゲツツジの特徴を正確に記述している.
蘭山の弟子の水谷豊文 (1779-1833) の物名辞典『物品識名』『物品識名拾遺』には,「羊躑躅」の和名として「キツヽジ キレンゲ」が挙げられている.
豊文は日本各地で薬草や動植物の採集旅行を行い,記録を残したが,その『木曽採藥記』には,木曽の湯舟沢(岐阜県中津川市神坂)で,レンゲツヽジを観察したとある.
また,彼は『本草綱目紀聞』という,玄達・元丈の著作と同一の書名の著作を残したが,玄達・元丈のそれとは内容は大きく異なり採集旅行中に聞いた方言や産地,
また,彼が実見した植物の写生図や陰葉図を載せて,充実している.閲覧したのは,友人の神谷三園の写本ではあるが,写生図の美しさ・正確さは群を抜いている.これには,「羊躑躅」の項があり,『木曽採藥記』に記載された木曽の湯舟沢が産地として載っている.
更に豊文には,『本草図譜 毒草』という著作があり,これは上記の『本草綱目紀聞』の中の毒草部を書きぬいたものと思われるが,『本草綱目紀聞』より型式が整っているように思われる.
以下文献のイメージは,NDLの公開デジタル画像よりの部分引用.
★松岡玄達『本草綱目記聞』(写本)の「巻ノ一」 には,
「平安 恕庵松岡玄達 考訂 門人 甲賀敬元,熊谷玄随,江村如圭 同校
「羊躑躅 (レンゲツヽジ,モチツヽジ)或云白花ノツヽジヲ食シ毒ニ中ル
トキハ忽死トス按白花ノモノ小児モテアソビ誤テ口ニ入ルコト
アリ未見死者或人(所見)者羊躑躅(白花)ニカギラズ淡紅色ナリトモ斑猫
マムシノ類其花ニ觸レテ(其)毒(ニ)アタルモノナラン,松茸ノ毒ニ中ルモ如
比去皮食ハ毒ニ中ルコトスクナシ,山産ノモノ是類甚タ多シ
集解中路谷多山枇杷(其)毒能殺人云々凢謂山枇杷有二種潜
確類書所説者木而有毒,又比所説之外一種有称(山)枇杷者潜
確所与比一物乎
映山紅 (オホキリシマ) 山石榴(アカツヽジ) 紅躑躅(キリシ
マ) 山躑躅(羊躑躅之重出乎)
杜鵑花 さつき 附録 羊不喫草 羊躑躅之重出乎」とある.赤字は誰が書き入れたか不明だが,次記事の元丈の記事を参照して補ったように見える.
松岡玄達(恕庵)は京都に生まれ,18歳の時,浅井周伯の私塾・養志堂に入り東洋医学を学びながら,儒学を山崎闇斎,伊藤仁斎に学んだ.しかし中国の詩編「詩経」に出てくる動植物の名の理解に苦しみ,本草学者稲生若水の門に入り本草学を学んだ.この時から本草学に傾倒していき,のちに自身も本草学を講じるようになった.享保6年(1721年)江戸の本草学発展の為の人材として恕庵ら京都の本草学者が幕府からの招聘を受け,京都から幕府の江戸医学館に招かれた.恕庵の本草学はそれまでの薬学に重きを置くものに収まらず,積極的に多種多様の動植物,鉱物を収集し博物学的なものに発展していた.門弟に小野蘭山,戸田旭山,服部艸玄,浅井図南,谷川士清,横地島狄子,直海元周.
★野呂元丈『本草綱目記聞』には,
「羊躑躅 レンケツヽジ,或云白花ノツヽジヲ食シ中毒忽死ト〇按
白花ノモノ小兒多モテアソブ誤テ口ニ入ルヽコトアリ,未見
死者,或人所見者ハ羊躑躅,白花ニカギラズ淡紅色タリトモ疑
ハ斑猫毒蛇ノルイ,其花ニ觸レ其毒アタルモノナラン,松茸ノ毒ニ中
ルモ如此,去皮食ヘハ毒ニ中ルコトスクナシ,山産ノモノノ如竹類甚タ多シ
〇集觧中路谷多山枇杷,其毒能殺人云々ト,凢謂山枇杷毒有二種
〇僣確類書所説者,木而有毒,又比所所説ノ外,一種有称山枇杷
者也潜確所説者竹一者乎
映山紅 シヽキリシマ 山石榴 アカツヽジ 紅躑躅 キリシマ
杜鵑花 サツキ 附録 羊不喫草 羊躑躅之重出乎」とある.
この記述は,前出の玄達の記述とほぼ同一で,やや詳しく正確である.
野呂元丈 (1693 - 1761) は,伊勢国生まれの本草学者で,京都で中国本草学の大家稲生若水に本草学を学ぶ.1740年,将軍吉宗の命を受けてオランダ語を学び、西欧本草学の導入に尽力した.青木昆陽とともに江戸参府のオランダ商館員の協力を得てオランダ本草書(ドドネウス『草木誌』(R. Dodoens: Cruydt-boeck. 初版1554年)には諸版があるが、日本に輸入されたのは1618年または1644年刊のオランダ語版)を解読,「阿蘭陀本草和解(おらんだほんぞうわげ)」を著し、蘭学興隆の基礎を築いた。この書は,ドドエンスの書を,寛保2年から寛延3年(1742-50)に8回にわたり江戸参府のオランダ人医師に質問し、抄訳したもの。
★小野蘭山(1779-1833)『本草綱目啓蒙』48巻.(1803-1806)
『本草綱目啓蒙』は『本草綱目』に関する蘭山の講義を,孫の職孝(もとたか)が筆記整理したもので,『本草綱目』収録の天産物の考証に加えて,自らの観察に基づく知識,日本各地の方言などが国文で記されている.
その「巻之十三 草之六 毒草類」に
「羊躑躅 イヌツヽジ(仙臺)キツヽジ キチヤウジ テ
ウセソツヽジ キレンゲ マメガラツヽジ(紀州) キツ
ネツヽジ(同上) ウマツヽジ(伊州) キシヤクナゲ(摂州)
[一名〕盡月背(郷薬本草)
黄色花ノツヽジナリ.故ニ黄躑躅トイフ.常ノツヽジトハ
葉形異ナリ.長大ニシテ厚ク,深緑色,背ハ微褐色.又白色ニ
シテ茶ノ斑紋アルアリ.冬凋マズ,石楠(シヤクナゲ)葉ニ似テ短小.花ノ
形ハ常ノツヽジト同ニシテ色黄ナリ.又赤ヲ帯ルモノアリ.此
花毒多シ.ツネノツヽジノ花ハ毒ナシ.又一種葉ウスク長
大ニシテ桃葉ニ似タルモノアリ.保昇ノ説ニ,似二桃葉一ト云,
是ナリ.コレニモ黄花ト微紅ヲ帯ルモノト二種アリ.ミナ
羊躑躅ナリ.〔附録〕山躑躅 ヤマツヽジ(古歌) アカツヽ
ジ 躑躅ハ總名ナリ.ヒトリグサ(古哥)ツヽジ 山躑躅ハ
山ニ自生ノモノヲ云.赤者ハ紅躑躅ニシテアカツヽジ,紫
者ハ紫躑躅ニシテ紫ツヽジ.紫花ノモノヒラクコト早シ.
花畢テ葉ヲ生ズ.三葉一処ニツク.故ニ,ミツバツヽジト云.
其花小ク深紫色.木高サ丈余.単辧,千辧アリ.千辧ノモノヲ
淀川ツヽジト云.コヽニ五出者トイフハ,単辧ノモノヲサ
ス.千葉者ト云ハ淀川ツヽジヲサス.凡躑躅,杜鵑花ノ類ハ,
長生花林抄(染井種樹家**著)ニ詳ナリ.赤キモノハ紫花ノ次ニ花ヲ
開.淡紫ノモノヲ,モチツヽジト云.花蒂及葉ニ粘アリ.コノ
花赤花ノ次ニヒラク.又白花ノモノアリ.杜鵑花ハ古ヨリ
サツキツヽジニ充.從フベシ.コヽニ映山紅ノ一名トスル
ハ非ナリ.琉球ツヽジト呼モノハ,白杜鵑花ナリ.単辧,千
辧アリ.又キリシマハ汝南国圃史ノ石巌ナリ.古説ニ映山紅
トスルハ穏ナラズ.羊不喫草 詳ナラス.」とある.
*へた
**染井種樹家:伊藤伊兵衛 『長生花林抄』(1692)
★岡林清達(1779 - 1833)・水谷豊文(1779 - 1833)『物品識名』(1809) は,品名を和名のイロハ順とし,ついで水・火・金・土・石・草・木・虫・魚・介・禽・獣に分け,各項にその漢名・和の異名・形状などを記した辞典.序によれば,『物品識名』は,初め水谷豊文(1779-1833)の友人岡林清達が着手したが眼病で中絶し,豊文が継続,完成させた.
★後編『物品識名拾遺』(1825 跋) は豊文の単独執筆である.
イロハ順といっても,江戸時代の場合は第2字目以下はイロハ順ではないが,本書は「キリシマ・キリ・キリンケツ」のように,第2字目も同じ名を連続する工夫をしているので,一般的なイロハ引より使いやすい.本書は和名中心の動植鉱物辞典の嚆矢だったので,大歓迎された.
「ツヽジ ヤマツヽジ 山躑躅 羊躑躅附録
キツヽジ キレンゲ 羊躑躅
アカツヽジ 紅躑躅 羊躑躅の條
ムラサキツヽジ 紫躑躅 同上」
なお,本書の「凡例」に,「漢名ノ下書名ヲ擧ゲザルモノハ皆本草綱目本條ニ著ルヽモノナリ集解附録等ニ出ルモノハ必ス出處ヲ記ス」とあるので,これらの項目の典拠は『本草綱目』である.
★水谷豊文『物品識名拾遺. 乾,坤』(1825 跋)の「 乾-禮部-木」には,
「レンゲツヽジ 羊躑躅(キツヽジ)一種」
とある.
★水谷豊文『木曽採藥記』(1810) には,
「文化七庚午之年六月七月、信州木曽并濃州三ケ村ノ譜
山ヲ巡回シ、薬品ヲ尋求ム。
(中略)
二十六日、中津川ヲ発シ、落合ヨリ信州木曽湯舟沢二
至ル。
(中略)
落合ヨリ信州木曽湯舟沢に至ル路傍ニテ見ル草木、方
言ハ湯舟沢ノ方言ヲ聞テ記ス。
木類ニテハ
齊墩果(エゴノキ) 方言クロヂサ ムラダチ 方言アカロヂサ
ヒカゲツヽジ レンゲツヽジ
枳□ 方言コデ 山茶科 方言ペウプ」とある.
□=「木」へんに「具」,枳□=けんぽなし
『木曽採薬記』は,水谷豊文が,文化七年(1810)の夏秋,木曽および東涯三ケ村へ採集旅行におもむいた際の記録で,美濃判,上巻は七十七葉,下巻は八十一葉より成る自筆稿本である.
豊文年譜に従えば,彼の採集旅行は,享和元年(1801)廿三歳の時,知多に出向いたのにはじまっている.以後この「木曽採集記」に至るまで,ほとんど毎年実行したらしいが,現存する著書だけでも,文化二年の「勢江採薬記」文化六年の「濃州採薬記」又同年の「知多採草」年代未詳の「木曽紀行」さらに先きの享和年中の知多旅行のと合冊した「採草叢書」などがあって,旅行ごとに備忘録は残したものと思われる.
「木曽採薬記」の旅は全くの処女地ではなく,文化三年には濃州七山根廻りを行ったし,翌四年には一ケ月ほど木曽へ旅している.今度はその予備知識を基礎として,徹底的な調査を遂げ,それだけに,もたらされた収穫も大きく,本書の価値も高いといわねはならぬ.
上巻は日記体で,その動静がこまかに記されている.観察したり採集した品名も,その場所々々に記載されているので,一目分布を知ることができる.総数およそ一千五百種,植物がその大部分を占めているが,獣類・禽類・魚類・虫類・菌類,さらに鉱物にまで及んでいる.(出典 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第十三巻 科学編』1963)
「文化七庚午之年六月七月、信州木曽并濃州三ケ村ノ譜
山ヲ巡回シ、薬品ヲ尋求ム。
(中略)
二十六日、中津川ヲ発シ、落合ヨリ信州木曽湯舟沢二
至ル。
(中略)
落合ヨリ信州木曽湯舟沢に至ル路傍ニテ見ル草木、方
言ハ湯舟沢ノ方言ヲ聞テ記ス。
木類ニテハ
齊墩果(エゴノキ) 方言クロヂサ ムラダチ 方言アカロヂサ
ヒカゲツヽジ レンゲツヽジ
枳□ 方言コデ 山茶科 方言ペウプ」とある.
□=「木」へんに「具」,枳□=けんぽなし
『木曽採薬記』は,水谷豊文が,文化七年(1810)の夏秋,木曽および東涯三ケ村へ採集旅行におもむいた際の記録で,美濃判,上巻は七十七葉,下巻は八十一葉より成る自筆稿本である.
豊文年譜に従えば,彼の採集旅行は,享和元年(1801)廿三歳の時,知多に出向いたのにはじまっている.以後この「木曽採集記」に至るまで,ほとんど毎年実行したらしいが,現存する著書だけでも,文化二年の「勢江採薬記」文化六年の「濃州採薬記」又同年の「知多採草」年代未詳の「木曽紀行」さらに先きの享和年中の知多旅行のと合冊した「採草叢書」などがあって,旅行ごとに備忘録は残したものと思われる.
「木曽採薬記」の旅は全くの処女地ではなく,文化三年には濃州七山根廻りを行ったし,翌四年には一ケ月ほど木曽へ旅している.今度はその予備知識を基礎として,徹底的な調査を遂げ,それだけに,もたらされた収穫も大きく,本書の価値も高いといわねはならぬ.
上巻は日記体で,その動静がこまかに記されている.観察したり採集した品名も,その場所々々に記載されているので,一目分布を知ることができる.総数およそ一千五百種,植物がその大部分を占めているが,獣類・禽類・魚類・虫類・菌類,さらに鉱物にまで及んでいる.(出典 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第十三巻 科学編』1963)
★水谷豊文『本草綱目紀聞』は豊文(通称は助六)が,蘭山著『本草綱目啓蒙』植物部の大増補を企てた著作である.項目ごとに『啓蒙』の主要な文を転写し,自己の得た知見・方言を追加,『啓蒙』に無い写生図や印葉図も付した.豊文の自筆本は『啓蒙』増補部分が39冊・類別部分が21冊で計60冊,いま杏雨書屋が所蔵する.その増補部分のうち26冊を神谷三園(生没年不明,名古屋在住本草家,嘗百社のメンバー)が転写したのが本資料である.
「羊躑躅
キツヽジ イヌツヽジ キチヤウジ
ニノウセンツヽジ キレンゲ マメガラツヽジ 紀州
キツ子ツヽジ 同上 ムマツヽジ 伊州 キシャクナゲ 摂州
以波津々之 輔仁本草 之呂津々之 同上 毛知津々之 同上
盡月背 郷薬本草 鬧陽花 外科正宗
[釋名]黄躑躅 綱目 黄杜鵑 蒙荃 羊不食草 拾遺
鬧羊花 綱目 驚羊花 同上 労虎花 同上
玉枝 別録
弘景曰羊食二其葉一躑躅シテ而死故ニ名ク鬧當レ作レ惱惱亂也
[輔仁]玉支 釋薬性 史光 同
黄花ノツヽジナリ故ニ黄躑躅ト云常ノツヽジトハ葉形異ナリ長大ニシテ厚
ク深緑色背ハ微褐色叉白色ニシテ茶ノ斑文アルアリ冬凋マズ石楠葉ニ似
テ短ク小花ノ形ハ常ノツヽジト同シテ色黄ナリ又赤キヲ帯ブルモノアリ此花
毒多シ常ノツヽジノ花ニ毒ナシ又一種葉薄ク長大ニシテ桃葉ニ似タルモノアリ
保昇ノ説ニ似二桃葉一ト云是ナリコレニモ黄花ト微紅ヲ帯ルモノト二種アリ
皆羊躑躅ナリ
レンゲツヽジ
勢州栃原トマユミノ間ノ山ニ多シ
木曽湯舟澤馬篭ニ多シ 養老ニアリ
穀雨後花ヲ開ク
[千金方薬注*]レンゲツヽジノ花
衂血不止ニ藥生ナル者鼻中ヲ塞ク即止
鯁刺レンゲツヽジノツボミタル花ヲ干シテ末トシフキ入又葉ニテモ
断血レンゲツヽジ陰干末 止血レンゲツヽジノ花三匁蝮蛇霜二匁
★水谷豊文『本草圖譜』は,上記の『本草綱目紀聞』の中の毒草部を書きぬいたものの様で,添付図もほぼ同一であるが,『本草綱目紀聞』より型式が整っているように思われる.その二巻本の一巻目(上)には,
「豊文水谷豊文助六先生著
本草圖譜 綱目記聞 毒草上
此本草圖譜毒草部上下二巻
尾張本草家水谷助六一號豊文
翁ノ著ナリ偶々重名ノ同一ナルヲ以テ
岩崎常正ノ本草圖譜ト混同ス可カラズ
伊藤篤太郎記ス」とあり,伊藤圭介の孫の伊藤篤太郎の旧蔵本である事が分かる..
「羊躑躅
キツヽジ イハツヽジ 輔仁 シロツヽジ 輔仁
モチツヽジ同 イヌツヽシ 仙臺 キチヤウジ
テウセンツヽジ キレンゲ マメガラツヽジ 紀伊
キツ子ツヽジ 同 ムマツヽジ 伊豫 キシャクナゲ 攝津
玉枝 別録 不食草 拾遺 黄躑躅 綱目
鬧羊花 綱目 驚羊花 同 老虎花 同
黄杜鵑 蒙荃 盡月背 郷薬 鬧陽花 外科正宗
玉支 輔仁引釋薬性 史光 同
黄花ノツヽジ之故ニ黄躑躅ト云常ノツヽジトハ葉形異ナリ長大ニシテ厚ク深緑色背ハ微褐
色又白色ニシテ茶ノ斑文アルアリ冬凋マズ石楠葉ニ似テ短ク小花ノ形ハ常ノツ
ヽジト同シテ色黄之又赤キヲ帯ブルモノアリ此花毒多シ常ノツヽジノ花ニ毒ナシ又一種葉薄
ク長大ニシテ桃葉ニ似タルモノアリ保昇ノ説ニ似桃葉ト云是之コレニモ黄花ト微紅ヲ帯ルモノト二種アリ皆羊躑躅ナリ」とある.
また,線状図の説明文には,
「レンゲツヽシ
穀雨後
伊勢栃原トマユミノ間ノ山ニ
多シ木曽湯舟澤馬篭美
濃養老ニアモリ」とある.
穀雨:太陰太陽暦の3月中(3月の後半)のことで,新暦では4月21日ごろにあたる.