2020年3月5日木曜日

レンゲツツジ (5)-仮  羊躑躅 レンゲツツジ. 『本草綱目』,金陵版,和刻本,江西本,松下見林本,貝原益軒本 ,稲生若水本

Rhododendron molle subsp. japonicum

『神農本草経』(700年頃成立)の「草部下品」から,薬草として中国本草書に継続して収載されている「羊躑躅」は,江戸時代からツツジ科としては大型の花をつける日本の固有種のレンゲツツジと考定されていて,その毒性や薬効には共通点が多い.
江戸時代初期までは羊躑躅の和名としては,「イ(ハ)ワツヽシ」や「モチツヽシ」が採用されていたが,江戸時代中期の★中村惕斎『訓蒙圖彙(キンモウズイ)』初版 (1666) においては,羊躑躅の和名はレンゲツツジとされた.(前記事)

中国本草学の集大成として明代の★李時珍が著わした『本草綱目』(1578)は、それまで出版された多くの本草書を引用しながら著者自身の見解を附した大作で,1871種の薬種を収録している。1596年(万暦23年)に南京で初版が上梓された(南京の古称,金陵にちなんで,金陵版と呼ばれる).
出版後数年で,日本に渡来し,本草書のバイブルとして,日本の本草学(博物学)にも大きな影響を与えた.『本草綱目』は,動植物の形態などの博物誌的記述が従前の本草書より優れている.この点が日本人に大きな影響を与え,中国からたびたび輸入されるとともに,和刻本も続出し,幕末に至るまで基本文献として尊重された.
林羅山(1583 - 1657)が1604年以前に入手していた事が,彼の読書目録からわかるが,慶長12年(1607年)には彼が長崎でこの書を入手し,駿府に滞在していた徳川家康に献上している.これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となった事はよく知られている.
中国では何度も版を重ねたが、日本でもそれらが輸入されるとともに和刻本も長期に亙って数多く出版され、
1637年に初の和刻本が出て以来,松下見林本 (1669)・貝原益軒本 (1673)・稲生若水本 (1714) など,江戸期に3系統14種の版本が出た.この和刻本には考定された和産品の名称が追刻されている事が少なくない.

林羅山は家康に仕えた大儒だが,彼の第三子の春斎がまとめた羅山の年譜(『羅山先生集付録巻一,1662)にある「既見書目」と呼ばれる記録には,羅山自筆の目録に基づくという,羅山が22歳の慶長九年 (1604) までに実見した440余部の書名を列記している.この「書目」に記されている医薬書は『素問』『霊枢』『本草蒙筌』『本草綱目』『和剤(局)方』『医経会元』『運気論(奥)』『難経本義』『痘疹全書』『医方考』『医学正伝』で,『本草綱目』が記録されている.従って,長崎で購入した本書を家康に献上した1607年四月(『徳川実紀.巻五』)以前に,林羅山がどこかで本書を見ていたことは疑いなく,『本草綱目』の日本への渡来も1604年以前となる.

一方,徳川実紀. 1 巻五 慶長十二年四月の項には,
「◎この月(慶長十二年四月)
(中略)
林道春勝先に駿府より江戸に参り.日毎に侍講しけるが.ふたヽび駿府に参り,韓使江戸に参る道にて接遇し.筆語すべしと仰付られいとま給はり.とある.叉長崎に赴き京にかへる.このとき長崎にて本草綱目を購求し駿府に献じ奉る.叉下旬に大坂災あり.市街多く消失す(慶長年録.家譜.當代記)〇閏四月二日(以下略)」(経済雑誌社校『徳川実紀. 1編』明37-40)とある.

世界に十冊程度しか現存を確認されていない『金陵版本草綱目』は NDL でデジタル公開されているが,その「第14冊(第17巻)毒草類」には,
羊躑躅 (《本經》下品)
【釋名】黃躑躅(《綱目》)、黃杜鵑(《蒙筌》)、羊不食草(《拾遺》)、鬧羊花(《綱目》,驚羊花(《綱目》),老虎花(《綱目》),玉枝(《別録》).
[弘景曰]羊食其葉,躑躅而死,故名。鬧當作惱。惱,亂也。
【集解】[《別錄》曰]羊躑躅生太行山川谷及淮南山。三月採花,陰乾。
[弘景曰]近道諸山皆有之。花、苗似鹿蔥,不可近眼。
[恭曰]花亦不似鹿蔥,正似旋花色黃者也。
[保昇曰]小樹高二尺,葉似桃葉,花黃似瓜花。三月、四月採花,日乾。
[頌曰]所在有之。春生苗似鹿蔥,葉似紅花,莖高三四尺。夏開花似凌霄花、山石榴輩,正黃色,羊食之則死。今嶺南、蜀道山谷遍生,皆深紅色如錦繡。然或云此種不入藥。
[時珍曰]韓保升所似桃葉者最的。其花五出,蕊瓣皆黃,氣味皆惡。蘇頌所謂深紅色者,即山石榴名紅躑躅者,無毒,與此別類。張揖《廣雅》謂躑躅一名決光者,誤矣。決光,決明也。按唐《李紳文集》言駱谷多山枇杷,毒能殺人,其花明艷,與杜鵑花相似,樵者識之。其似羊躑躅,未知是否要亦其類耳。
【氣味】辛,溫,有大毒。(以下略)」
とあり,花弁も蕊も黄色とある.第一冊の「附図巻之上」には,その絵が描かれているが,「花似凌霄花」に拠したのか花弁は丸くツツジの類とは思えない.和訳は後続記事.

1637年に刊行された初の和刻本は,野田弥次衛門が寛永十四年に万暦間の『石渠閣重訂江西版』を復刻したもので, 題簽は「〔江西〕本草綱目」とある.この版の「蓮華躑躅」に項には,「モチツツジ」の和名が追記されている.図では花はまるで握りこぶしのように見えて,レンゲツツジは勿論,ツツジ類とは思えない.

題箋題が篆字(てんじ)なので「篆字本」と呼ばれている1669年刊の『松下見林本』は,江戸前期の儒医・歴史学者松下見林 (1637 – 1703) が校訂した.
見林は大坂の人で,古林見宜 (けんき) に医学を学び,算数・経学にも通じた.21歳で京都にのぼり国史の研究に没頭,『日本三代実録』の校訂や『異称日本伝』を編纂した.和漢の古典にくわしく,蔵書は10万巻余といわれる。晩年讃岐(香川県)高松藩に仕えた.『異称日本伝』(1693),『史記』など中国や朝鮮の書物のなかから,日本に関する記事を抄出したもので,完成には30年を要した.
この「松下見林本」には,「羊躑躅 本經下品」とあるのみで,和名は追記されていない.図は花弁の先がやや尖で,前書よりは改善されている.

貝原益軒(1630 – 1714)は,儒書「養生訓」,「和俗童子訓」の著者であるだけでなく,博物学者として路傍の雑草,虫や小川の魚まで詳細に観察し「大和本草」に記述している.彼が校閲した寛文12 (1672) 版刻本の『本草綱目』は附録に「貝原益軒傍訓」と記してあるので,「貝原本」と呼ばれている.添付図は角書に「校正」とある後刷の貝原本で,刷られた年は不明.
この『貝原本』には,「羊躑躅 モチツヽシ 本經下品」と傍訓されている.益軒の『大和本草』(1709) 「木之下」の「躑躅」の項には「蓮華躑躅」と「羊躑躅」が別に記述されている.
「躑躅(ツヽシ)(中略)
羊躑躅ハモチツヽシト云黄花三四月ヒラク高二三尺ハカリ葉ハ桃ニ似タリ花大毒アリ」
  
和刻本のなかで一番優れているといわれている,正徳4 (1714) 刊★稲生若水校『本草綱目(新校正)本』(「若水本」)では,
羊躑躅 本經下品 [レンゲツヽシ]
(中略)
別録[弘景曰]羊食,躑躅シテ而死,故名。鬧當。惱亂也。」
と,羊躑躅=レンゲツツジと考定していて,以降これが本草家の共通認識となったようだ.

若水 (1655 – 1715) は,江戸中期の本草学者・漢学者.江戸生.稲生恒軒の子.儒を父と木下順庵に,本草を福山徳順(生没年不詳.徳潤とも記される)に師事,「薬物は国産のもの,中国書にあるもの千二百余種を精査した者は古今を通じて余一人」と学殖を示した.加賀前田侯に儒者として仕え,金沢と京都を往復し,本草の著述に専心,前田綱紀の命を受けて中国の典籍中の動植物の記事を調べ,実物とも照らして,それらの知識を集大成した『庶物類纂』を著した.弟子に松岡恕庵・野呂元丈・丹羽正伯らの本草家を輩出した.
『庶物類纂』にも「羊躑躅」の項があるが,和名は考定されていない(後記事)

0 件のコメント: