2023年5月19日金曜日

ガーンジー・リリー (14-4) ハコネシダ 石長生 和文献・考定和名.新撰字鏡-保度,本草和名・本草色葉抄-和名なし,多識編-比那和良

 ドイツ人博物学者エンゲルベルト・ケンペルは『廻国奇観』“Amœnitates Exoticæ”(1712)の中で,初めてイチョウを Ginkgoとして,西欧に紹介した.そのなかで,葉がホウライシダ類(Adiantum, 英名:Maiden hair fern)に似ている事を述べた.この著作にはホウライシダ屬のホウライシダ(Adiantum capillus-veneris L.)と彼が考定した植物が記載されている.将軍謁見のための江戸参府の道中に,箱根山中で薬効があると聞いて採取し,ハコネクサ(Fákkona Ksa)とその名を記したハコネシダ(現在有効な学名:Adiantum monochlamys D.C.Eaton)である.彼の腊葉標本は現在も大英博物館に保存されている.

江戸前期からこのハコネシダ(ハコネサウ)と考定されていた「石長生」は,中国の古い本草書『神農本草経』にも記載されている薬草である.シダ類である事は確かだが,現在でもその本体は明確ではない.前記事では,中国本草書における,「石長生」の記述の経緯を記した.本記事では,日本の本草書における,「石長生」の記述や考定を追っていく.


和書での「石長生」の初見は,★僧昌住編『新撰字鏡』(
892)ある.この叢書は現存する最古の漢和辞典で,892年(寛平4年)に3巻本が完成したとされるが,原本や写本は伝わっていない.3巻本をもとに増補した,12巻本が昌泰年間に完成したとされ,写本が現存する.12巻本には約21,000字を収録.長く忘れ去られた書物であったが,18世紀後半に再発見され,1803年に刊行された(享和本).しかしこれは抄録本であり,後により原本に近い天治元年(1124年)の写本が発見された.古い和語を多く記しており,日本語の歴史の研究上できわめて重要である.
 この天治本の「巻八,本草と異名,小學篇字及本草異名第七十一」には,「石長生 八九月採茎/陰干程度」とある.この「程度」は,他の項目の書方をみると,和名と思われる.「ほど」つまりホドイモと解すべきべきであろう.「ほど(ホドイモ)」を「程度」と表記した例は,『新刊多識編』(林羅山,1612年),『和漢三才図会』(寺島良安,1713年頃)等に見られる.
 またこの書の執筆当時に渡来していた中国本草書『本草經集注』(陶弘景撰,500年頃)及び『新修本草』(蘇敬撰,659年)には,後にホドイモと考定される「土芋」は収載されていなかった.従って,この書では,「石長生」を「ほど(ホドイモ)」と考定したのであろう.なお,中国本草書での「土芋」の記述は,唐慎微『証類本草』(1082)に始まると考えられる.

僧昌住編『新撰字鏡』(892)「石長生」
林羅山『多識編』(1612)「土芋」
寺島良安『和漢三才図会』(1715)巻之百二 「土芋」
曽槃,白尾国柱『成形図説』(1804 - 1817)巻之二十二 「土芋」


★深根輔仁撰『本草和名』延喜年間(901 - 923年)は,現存する日本最古の本草薬名辞典である.本書は『新修本草』の薬物名とその配順に従い,日本に基原植物(動物)が産する場合は,万葉仮名で和名が記され,またごく一部ではあるが,国内の産地も記載されている.単なる中国本草のコピーではなく,体裁からして漢籍本草書や医書を読むための手引きとしての性格を併せ持つといえる.
この書の「上巻」に「石長生 一名丹草 一名■(臼の下に用)+令」■((玆の下に用)+力)草,市人用之仁謂音力丁反出蘇敬注)とある.国産植物には考定されていないようで,和名は記載されていない.蘇敬注とあり新修本草由来と分かる.頭注には「按須抄醫心方長平并無和名■((玆の下に用)+力)當是■(筩+力)」とあり,後世の『医心方』を参照しているようだが,意味は不詳.


★丹波康頼(912 995)撰『医心方984年(永観2年)朝廷に献上
 
『医心方』全30巻は巻1がおよそ本草の総論,巻30が食物本草部分で,両巻とも『新修本草』からおもに引用している.しかし,巻1の諸薬和名篇は『新修本草』の全品を記すため,約5分の1には和名が同定されていない.他方,巻30所載の162品は,音読で当時よばれた酪と酥を除くすべてに和名が記されている.さらに『新修本草』収載品でも,日本に生息しない虎などは,巻30に採らない.逆に『新修本草』にない鯛や鮭などの魚類などを,『崔禹食経』(724-891)ほかの中国本草約10書を駆使し,収載している.これらの点に,中国書からの引用ではあるが,国産で和名もすでにある常用品に焦点を定め,編纂した日本化の特徴を見ることができよう.

「第十一巻 草部下之下 六十七種」の節には,『新修本草』と同じ順序で六十七種が収載されているが,誤写と思われるものや同薬異名,また本節に入れるべきではないものがある。
 この節に,「石長生 敬云■(臼の下に用)+令」■((玆の下に用)+力)草」とあるが,和名はない.


★惟宗具俊『本草色葉抄8巻(1284)は,平安の『本草和名』をさらに発展させた鎌倉時代の本草薬名辞典である.すなわち,漢音読みのイロハ順に配列した薬物につき,『大観本草』での記載巻次とおもな条文を記して検索の便がはかられている.また,それ以外の薬名も『本草和名』から転録するほか,独自に『本草衍義』(1119)など各種漢籍より引用する.出典にあげられた文献は転録も含め約140種で,うち平安末以降に新渡来の中国医書が18種ある.
 『本草色葉抄』はまたかなりの薬物に片仮名で和名を注記するが,『本草和名』の同定と相違する場合もある.これは『本草和名』が『新修本草』を底本としたのに対し,より博物的記載に富んで絵図も組み入れた『大観本草』を『本草色葉抄』が底本とするので,和産物との同定精度が上がったからといえよう.
 この書の第八巻の「勢部」の「草部」に

石長生 同十一味鹹微寒有毒主寒熱惡瘡大熱辟鬼氣不祥下三蟲
       一名丹屮 ■筋屮今市人用?為今常用之是也」
とあり,ほぼ『大観本草』の「卷第十一」の記述が(国産物への考定がないため,中国の産地や細かい性状を除いて)引用されている.当然ながら和名はない.(屮=艸)

参考★宋唐愼微撰『大観本草』(1108).唐慎微は1082年に,掌氏と蘇氏の2書を合揉して『証類本草』を撰し,処方を加えた.『大観本草』は更に『重広本草』(1092年,陳承)の説を補足した書である. 
 この書の卷第十一に
石長生味鹹、苦,微寒,有毒。主寒熱惡瘡大熱辟鬼氣不祥。下
三蟲。一名丹草。生咸陽山谷。陶隠居,云俗中雖時有採者方藥亦不複用近道亦有是細細
草葉花紫色爾南中多生石岩下葉似蕨而細如龍鬚草大
黒如光漆高尺餘不與餘草雜也。唐本注云今市人用■音
零筋草為之葉似青葙莖細勁皆色今太常用者是也。臣禹
錫等謹按藥性論云石長生皮臣亦云石長生也味酸有小
毒治疥癬逐諸
風治百邪鬼魅」とあり,この文が『本草色葉抄』の石長生の記述の基となったと考えられる.(上図,右)

林羅山『多識編(1612)


中国本草学の集大成として明代の★李時珍『本草綱目』(1578)は、それまで出版された多くの本草書を引用しながら著者自身の見解を附した大作で,1871種の薬種を収録している。1596年(万暦23年)に南京で初版が上梓された(南京の古称,金陵にちなんで,金陵版と呼ばれる).
 林羅山(1583 - 1657)が1604年以前に入手していた事が,彼の読書目録からわかるが,慶長12年(1607年)には彼が長崎でこの書を入手し,駿府に滞在していた徳川家康に献上している.これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となった事はよく知られている.
『多識編』は林道春(羅山)が『本草綱目』(李時珍)や『農書』(王楨)などの漢籍から、名詞を抜き出し、対応する和名を記して編纂した本草類であり,簡易な和訓辞書であり,平安期時代,醍醐天皇の侍医深根輔仁が918年に唐の『新修本草』から摘出して編成した『本草和名』の体裁をまねて編集したもので,『本草綱目』を勉強する読者が本草学や医学を学ぶ際に活用された.
この書の「石草部第七」には,「石長生 今- 比那和良 俗- --草」とある.
 「比那和良 ヒナワラ」という和名は,後に貝原益軒版『本草綱目』(1673)に「石長生」の和名「ヒナハラ」とされたが,その本体は不詳であった.小型の美しいワラビ,つまり「比那和良(雛蕨)」の「比」が抜けたのかとも考えられる.

続く

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