ヴィンドボネンシスは,古代ギリシャの医師ディオスコリデスによる本草書『薬物誌』のギリシャ語の写本である.西ローマ帝国の皇女であった貴婦人アニキア・ユリアナに捧げるために,512年から520年のいずれかの年にコンスタンティノープルで作成された.現在ウィーンのオーストリア国立図書館に収蔵されている.
② Dioscorides, P., De Materia Medica (Codex Neapolitanus) (620), t. 46 f. 2. cited name: KAPNOS E KORUDALION
ディオスコリデスによる本草書『薬物誌』に挙げられた植物の画を記した,ナポリで作成された手稿本
③ Mattioli, P.A., Cibo, G., “De materia medica” (1564-1584), t. 121. イタリアで出版された,マッティオリの記述文に,当時の有名な植物画家 Gherardo Cibo (1512 − 1600) が挿絵を描いたディオスコリデス本草書『薬物誌』の解説書.
英国の大文豪,W. シェイクスピア(W. Shakespeare, 1564 - 1616)の三大悲劇の一つ.古代ブリテン王国を舞台にした『リア王』では,三人の娘の上二人の甘言に騙され,領土を相続させたリア王が母国を追放された.彼に勘当され,フランス貴族に嫁した末娘,コーディーリアが王権と領土回復のためにイングランドに侵攻し,狂気の内に彷徨うリア王を探す.リア王は失った王冠の代りとして小麦畑に生育する雑草を頭にかぶっている.この雑草の王冠を構成する草のひとつが,Fumiter である. シェイクスピアの戯曲では,他に史劇『ヘンリー五世』(第五幕第二場)に,英国とフランスの長年の戦争で,田園が荒れ果てたことを嘆く重臣のセリフに,ドクムギとともに
Fumitory として現れるのみ.
”The
Tragedy of King Lear”
Act IV Scene IV
CORDELIA Alack, 'tis he: why, he
was met even now
As mad as the vex'd sea; singing
aloud;
Crown'd with rank fumiter and furrow-weeds,
With hardocks, hemlock, nettles,
cuckoo-flowers,
Darnel, and all the idle weeds that
grow
In our sustaining corn. A century send
forth;
この
Fumiter が,和名カラクサケマンと言われる
Fumaria officinalis L.(英俗名 Fumitory等, 希臘語名 Capno 等,羅甸名 Fumus terræ 等)であることで,研究者の見解は一致している.このカラクサケマンは欧州ではギリシャ・ローマ時代には既に薬草として知られ,欧州の本草書には古くから記録され,現在の欧州連合の薬局方(EP)及びスペインなどヨーロッパの数国の薬局方にも収載されている.
古代ギリシャの★テオフラストス(Theophrastus,紀元前371年 – 紀元前287年)著『植物誌』および『植物原因論』(Enquiry into Plants)内には関連する植物は見いだせなかった.
古代ギリシャの★ペダニウス・ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides, 40 - 90) 著『薬物誌』“De Materia Medica
libriquinque” 通称 “Materia
Medica”(紀元1世紀)の第四巻110項には,
★T. A. Osbaldeston “DIOSCORIDES
DE MATERIA MEDICA” IBIDIS PRESS (2000)
“4-110. KAPNOS
Capnum is a very tender shrubby little
herb similar to coriander, but the many leaves are paler and the colour of
ashes everywhere. The flower is purple; the juice sharp — quickening the sight,
inducing tears — from which it received this name. Smeared on with gum, it is
able to stop hairs pulled from off the eyebrows from growing again. The herb
(eaten) expels bilious urine. It is also called corydalion, coryon, corydalion
sylvestre, capnos that is among barley, capnites, marmarites, capnogorion, chelidonion
parvum, peristerion, cantharis, or caliocri; the Romans call it apium, some,
fumaria, the Egyptians, cynx, and some, tucis.”
★鷲谷いづみ訳『ディオスコリデスの薬物誌』エンタプライズ
(1983/05 出版)
「第4巻 薬草類と根類
110.KAPNOS Fumaria parvifolia
ケシ科カラクサケマン属の植物フマリア(Fumaria)は,小さ目の低木状の薬草で,コエンドロに似ており,とても柔らかい.葉はコエンドロに比べれば白っぽく,灰のような色をしており,数が多く,いろいろな部分についている.花は紫色である.搾り汁は刺激性で,視力を回復させ,涙を出させるのでこのような名称がある.ゴムと混ぜて塗れば,眉毛の脱毛を防ぎその再生を促す力がある.この薬草を食べると,胆汁の混入した尿を排出する.
異名注 Corydalion,Coryon(l),Corydalion sylvestreなどの異名がある.オオムギに混ざって生育するものをCapnos(2)と呼ぶ者もある.Capnites, Marmarites(3),Capnogorion(4),Chelidonionparvum,Peristerion(5),Cantharis,Caliocriなどとも呼ばれる.ローマ人はApiumと呼ぶ.Fumariaとも呼ばれる.エジプト人はCynxと呼ぶ.Tucisの異名もある.
(l)小さい人形(ギ)(2)燻(ギ)(3)きらめくもの(ギ)(4)激しく出る煙(ギ)(5)小鳩(ギ)」
と,カラクサケマンと考定される薬草 “KAPNOS” が記載され,視力回復・眉毛の育毛,胆汁排泄の薬効があるとしている.この薬効は近世まで受け継がれた.なお上記訳書の「ゴム」は「樹脂」の方が適切ではないかと思われる.
帝政時代の古代ローマの博物学者★プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 22 / 23 – 79)著『博物誌』“Naturalis historia”(77 -) は全37巻の百科全書的な大著であり,100人の著者によるおよそ2000巻の本からえらびだした2万の重要な事項が収録されている.
この叢書のBook XXV. The natures of self-grown plants ; value of plants. には二種のカラクサケマン属の植物が記載されている.また,Book XXVI. “The remaining drugs by classes.” には,これらの植物の薬効が追加記述されている.この二種の内一つ
Capnos trunca(Capnos trunca)はオランダエンゴサク(Corydalis solida var. digitata)と,もう一つの
Capnos fruticosa(bushy capnos)はカラクサケマン(Fumaria officinalis)とそれぞれ考定されている.
★H. Rackham “Pliny Natural History” The Loeb Classical
Library (1949)
“Book XXVI
XCVIII. Capnos trunca,c the popular name of which is chicken's feet, growing
among ruins and on wall-banks, has very slender branches which are far apart, a
purple flower and green leaves ; its juice disperses films, and so it is an
ingredient of eye salves.
c : "Lopped" or "maimed
fumitory," in contrast with the capnos fruticosa of § 156.
XCIX. Similar both in name and in its properties, though a different
plant, is the bushy capnos, which is very delicate,
and has the leaves of coriander, the colour of ashes, and a purple blossom. It
grows in gardens and crops of barley. Used as ointment for the eyes it improves
the vision and, like smoke, produces tears, and to this fact it owes its name.a
It also prevents eyelashes that have been pulled out from growing again.
a : The Greek for smoke is καπνός”
“Book
XXVI.
Those who have eaten the plant called capnos
(smoke) pass bile in their urine.
Capnos trunca also carries away bile.”
★大槻真一郎編『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』八坂書房 (1994)
「第二五巻 Ⅵ 野草の薬効
九八 カプノス・トルンカ
カプノス・トルンカ(「枝を切られたカプノス」の意。ケシ科キケマン属)はぺデス・ガリナキイ(「鶏の足」の意)と呼ばれる植物で、廃墟や垣に生えている。枝はとても細くてまばらで、花は紫色をしている。その緑色の汁*は目のくもりを取り除く。それゆえにこれは眼薬に混ぜられる。*英訳では「緑色の」は green leaves と葉の色を示す.
九九 カプノス・フルティコサ
カプノス・フルティコサ(「枝を繁らせるカプノス」の意。ケシ科フマリア属)は名前も効能もカプノス・トルンカに似ているが別の植物である。これはとても柔弱で、葉はコエンドロに似ており、灰色で、花は紫である。これは庭やオオムギ畑に生える。これを眼に塗ると視力がよくなり、煙のように涙を出させる。その名はこれに由来する(ギリシア語カプノス「煙」より)。これは抜いたまつげが再び生えるのを防ぐ。」
「第二十六巻, VII 身体各所の病気に効く薬草
35 カプノスという植物を食べた人は尿を通じて胆汁を排出する。
36 カプノス・トルンカ(ケシ科キケマン属)もまた粘液*を排出する。」*英訳では Bile.即ち胆汁 とある.
ディオスコリデスの “KAPNOS”とプリニウスの “Capnos fruticosa” の記述を比較すると,名前の由来「眼に塗ると煙 (καπνός) のように涙を出させる」故や,性状の「コエンドロに似ていて,花は紫」及び「視力増強,胆汁排泄」の薬効は一致するが,ディオスコリデスでは「眉毛の再生促進」,プリニウスでは「抜いた睫毛の再生を防止」と一見逆の作用のように思われるのが興味深い.当時睫毛を抜く美容法があったのだろうか.
Capnos trunca, オランダエンゴサク(Corydalis solida (L.) Clairv.)の Antique Botanical
Prints
① R. Dodoens, “Stirp. Hist. Pempt.” p. 325, fig. 2 (1583)
② Oeder, G.C., “Fl. Dan.”, vol. 4 (1771-1777), t. 605
③ Thomé, O.W., “Fl. Deutschl”, vol. 2 (1885), t. 263
④ Masclef, A., “Atlas Pl. France”. vol. 2 (1890-1893), t. 25
続く