2025年12月1日月曜日

ヤマグルマ-6,ミクェル “Prolusio Florae Iapoica”, “Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit”

Trochodendron aralioides

Friedrich Anton Wilhelm Miquel, Wikimedia Commons 

  ヤマグルマを最初に欧米に紹介したのはシーボルト
Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796– 1866,日本滞在 1823– 1829, 1859– 1862)で,ライデン大学のツッカリーニJoseph Gerhard (von) Zuccarini, 1797 – 1848)との共著『日本植物誌Flora Japonica” 1835 - 1870)の第一巻に新属の植物として Trochodendron aralioides の学名をつけて発表した.屬の名前,Trochodendron はギリシャ語の車輪(τροχός)と,樹木(δένδρον)に由来し,和名のヤマグルマが基であり,シーボルトはこの名前が,花の形状や枝先の葉の着き方をよく表していると感心している.なお,種小名aralioidesはウコギ科タラノキ属 Aralia に似た oides という意味である.

シーボルトの『日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)』は2巻に分けて出版されたが,その第二巻はシーボルトとツッカリーニの死後に出発された.遺稿を補充し,校訂して続刊したのは,ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel, 18111871)であった.もっともミクェルが『フロラ・ヤポニカ』2巻でしたのは,たかだか45ページ,45ページから89ページにわたる第6から第10分冊と,22図版(第137図版を除く,第128図版から第150図版)の出版にかかわっただけに過ぎない.しかし,シーボルト・コレクションの今日を考えるときミクェルの貢献はきわめて大きい.それはライデンの王立植物標本館にあったシーボルトと彼の後継者たちが日本で収集した全標本を同定・整理し,集大成したのがミクェルだからである.
 1862年にミクェルは,ブルーメ(Carl Ludwig Blume, 17961862)の後継者として,今日のオランダ国立植物学博物館ライデン大学分館の前身である王立植物標本館(Rijiksherbarium)の館長となった.彼は,シーボルトとその継承者たちによる,当時の世界では最大の日本植物の標本コレクションに大きな関心を寄せていた.ライデンのコレクションを参照せず日本の植物を研究することは不可能であった.
 ミクェルがライデンの日本植物コレクションの研究を急いだ重要な動機のひとつは,日本が1854年にオランダ以外の国に対しても門戸を開いたことであった.実際,その後,アメリカ,イギリス,ロシアもまた広範な日本植物の標本コレクションを作りはじめた.おそらくミクェルはライデンで始められた日本植物を記載する研究が引き続きライデンで行われるべきだと考えたのであろう.このような状況の中で,日本植物の研究上でのライデンの植物標本コレクションについての研究は重要さを増していったのである.(参考資料:東京大学コレクションXVI 『シーボルトの21世紀』,6.「シーボルト植物コレクションを集大成したミクェル」(大場秀章・秋山忍))
 1863年から1870年にかけて,ミクェルは4巻からなる『ライデン王立植物標本館紀要』(Annales Musei Botanici Lugduno-Bataviを出版し,その中で日本植物コレクションについて研究し,多数の新植物を記載している.
 新植物ではないものの,第二号(186566)の Prolusio Florae Iapoicae の章の「ヤマグルマ」の項には,伊藤圭介が尾張で観察し,ヤマグルマ,モチノキ,ビランジ等とよばれるとある.シーボルトは蝦夷と肥後産の標本を入手し,肥後では鳥を捕獲するのに使われている.とあり,更に性状に関するビュルガーのメモの概要も記している.
 また彼はライデンの日本植物コレクションが植物学上たいへん重要なものであるとし,それらを一般の標本から分けて別室にて保管した.これが Herbarium Japonicum Generale” と呼ばれるようになる日本植物標本のコレクションである.ミクェル自身によれば,それは1776年にツュンベルクによって採集されたコレクション(重複標本),シーボルトと伊藤圭介ら彼の日本人助手によるコレクション,及びビュルガー(H. Bürger),ピエロー(J. Pierot),テクストール(Textor),モーニケ(O. G. J. Mohnike)が収集したコレクションからなるものであった.1864年にはイギリスの王立キュー植物園は植物学者のオルダム(T. Oldham)によって収集された1200点からなる日本植物の標本コレクションをライデンに寄贈した.1866年にはマキシモビッチ(K. J. Maximowicz)が日本に滞在した3年間に収集した標本のコレクションが加えられた.
 
この “Herbarium Japonicum Generale” の標本目録がミクェルによって,1870年に『Catalogus Musei Botanici Lugduno-Batavi 1. Flora Japonica 』(ライデン王立植物標本館標本目録1. 日本植物)として出版された.この中に,ヤマグルマの腊葉標本として,蒐集者が,シーボルトのが3点,モーニケのが4点,ビュルガーのが2点,伊藤圭介のが1点,マキシモウィッチのが1点あると記載されている.また,アルコール漬けの標本と,伊藤圭介が提供した腊葉帖とにヤマグルマの標本がある事も記している.


ライデン大学におけるシーボルト&ツッカリーニの後継者,ミクェルFriedrich Anton Wilhelm Miquel18111871)が「Annales Husel Botanici Lugduno Batavi186369)」(ライテン植物園年報,全142ページ)第二号(186566)に投稿した『日本植物誌試論』“Prolusio Florae Iaponicae “PARS TERTIA” の部のMAGNOLIACEAE(モクレン科)の「ヤマグルマ」の項には

TROCHODENDRON SIEB. ET ZUCC.

1. TROCHODENDRON ARALIOIDES SIEB. ct ZUCC. Fl. Jap. I. p. 83 tab. 39 et 40.

Genus potius Araliaceis adiungendum. — Detexit KEISKE probabiliter in Owari ubi Jama Guruma et Mosi noki,
  etiam Biroo dsifu vel B. tsigu vocatur; e Jeso apud Ainoe et e regione sept. ins. Nippon accepit SIEBOLD;
  porro e prov. Higo ubi gluteu ad aves capiendas exinde paratur. B
UERGER haec habet : ,,Calyx nullus nisi
  bractcae 2 exiguae; corolla nulla; stamina circiter 50, thalamo subtus affixa; capsula 7-locularis submono-
  sperma. Habitus Araliaceas spectat."
とある.「(モクレン科よりも)ウコギ科に加えるべき.伊藤圭介が尾張で観察し,ヤマグルマ,モチノキ,ビランジ*等とよばれる.シーボルトは蝦夷と肥後産の標本を入手し,肥後では鳥を捕獲するのに使われている.」とあり,更に性状に関するビュルガーのメモの概要も記している.
 ここに述べられている「ビュルガーのメモ」は,腊葉標本(L 0175239)に貼付されている,手書きのメモと内容は一致するようだ.このメモの文末には “Bürger” の文字が読み取れるが,手跡から判断されたのであろうか,秋山忍氏はこれを「シーボルトのメモ」と言っている(秋山忍ら『ナチュラリストシーボルト』ウッズプレス(2016)).内容は『日本植物誌』のヤマグルマの性状の記述と一致している.
  *
伊藤圭介『日本産物志前編 美濃部 中』文部省(1876)(ヤマグルマ-4)参照

 ミクェルがまとめた「Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit」(1870)には,ヤマグルマの腊葉標本として,蒐集者が,シーボルトのが3点,モーニケのが4点,ビュルガーのが2点,伊藤圭介のが1点,マキシモウィッチのが1点あると記載されている.蒐集者については,文末に記す.


Catalogus Musei Botanici Lugduno, Batavl Digessit」(1870

Divisio Prima. Herbarium Japonicum Generale.
Polypetalae
MAGNOLIACEAE

VIII. TROCHODENDRON S. et Z.
       aralioides S. et Z.  B. 2.  S 3.  Mx 1.  M 4.  K 1.

SIGNA.
Literae singulis speciebus adjectae collectorum nomina, numeri
chartarum quibus specimina adglutinata sunt numeram indicant.

    B. = H. BÜRGER, Med. Doctor.
    S. = P
H. F. DE SIEBOLD, Med. Doctor, medicus militaris.
    Mx. = C. J. M
AXIMOWICZ. Med. Doctor, botanicus Rossicus.
    M. = O. G. J. M
OHNIK, Med. Doctor, medicus militaris neerlandus.
    K. = I
TOO KEISKE, botanicus japonensis.
Bürger
については次記事.シーボルト以外のコレクターについては,文末,


 同書には伊藤圭介がシーボルトに提供したと思われる腊葉標本帖中八冊(内二冊は亡失)の植物リストも掲載されていて,第五分冊にヤマグルマの標本もある事が記載されている.

1. HERBARIUM ITOO KEISKE; VOLUMINA
FORMA OCTAVA, QUORUM DUO
DEPERDITA

VOLUMEN V.
     162  Cacalia aconitifolia В
UNG.?
     163  Phytolacca Кaempferi A. G
RAY.
     164  Ixeris ramosissima A. G
RAY.
     157  Smilax, sp. dubia.
     168  Trochodendron aralioides S
IEB. et ZUCC.
     169  Acer carpinifolium S
IEB. et ZUCC.
     170  Salix japonica T
HUNB.?
     171  Salix?

   さらに,アルコール漬けの標本のリストにも,ヤマグルマの(部分)標本があるとされている.これは,シーボルトが蒐集者とされ,現在でもナチュラリスで保存されている標本(L 0741017)かもしれない.なお,ここにおいてもヤマグルマはモクレン科に分類されている.

DIVISIO QUARTA.
PLANTAE VEL EARUM PARTES
IN
SPIRITU VINI ASSERVATAE.

I. RANUNCULACEAE.
              96 Paeoniae species.

II. MAGNOLIACEAE.
              3   Ilicium religiosum S. et Z.
              98  Magnoliae species.
           99  Trochodendron aralioides S. et Z.


ヤマグルマの腊葉標本が Herbarium Japonicum Generale” にあるコレクター.
★カール・ヨハン・マキシモヴィッチ(Carl Johann Maximowicz または Karl Johann Maximowicz1827 - 1891)は,19世紀のロシアの植物学者で,専門は被子植物の分類.ペテルブルク帝立科学アカデミー会員.極東アジア地域を現地調査し,生涯の大半をその植物相研究に費やし,数多く新種について学名を命名した.その業績を含め,日本との関わりは大きい.1860年から18642月まで日本に滞在し,精力的に日本の植物相調査を行った.手始めに函館で採集助手として日本人の須川長之助を雇い,1年ほどをそこで過ごし渡島半島の植物相調査を行う.1862年,助手の長之助を伴って横浜を経由し九州へ向かう.途中,偶然にも横浜滞在中に生麦事件に遭遇している.九州では長崎に1年余り滞在し,周辺を調査するとともに長之助を雲仙,阿蘇,霧島などへ遣わした.またこのとき,たまたま日本滞在中であったシーボルトとも長崎で会っている.

★オットー・ゴットリープ・モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike1814 - 1887)は,ドイツ帝国の医師である.日本に牛痘苗をもたらし,日本の天然痘の予防に貢献した.シュトラールズントに生まれた.文献学を学んだが,父の友人エルンスト・モーリッツの影響で医学に転じた.各地の大学で医学を学び,シュトラールズントの父の屋敷で医者を開業した.1844年にオランダ領東インドのジャワに派遣され,1848年から1851年まで長崎の出島で働いた.佐賀藩主鍋島閑叟がオランダ商館長に牛痘苗のとりよせを求めたので,来朝時に痘苗を持参したが,接種しても感染せず,再度バタヴィアから痘痂を取り寄せ,18487月に鍋島藩医の楢林宗建の息子に接種,善感し,この痘苗は日本の各地へ受け継がれていくこととなった.閑叟の息子の淳一郎(後の藩主直大)も接種をうけた.それまで日本への牛痘苗の輸送は,航海中に効力が失われ失敗していたが,この成功によって牛痘法は日本に広まっていった.日本に初めて聴診器を持ち込んだことでも知られる.彼の標本はボイテンゾルグ(Buitenzorg,現在のインドネシアのボゴール)植物園の園管理者(hortulanus)であったテイスマン(Teysmann)から贈られたものとされている.(ライデンの日本植物標本コレクション The Herbarium Japonicum Generale in Leiden ヘラルド・テュイセ Gerard Thijsse

★伊藤 圭介(1803 - 1901)は,幕末から明治期の本草学者・蘭学者・博物学者・医学者.日本初の理学博士[2].男爵(従四位勲三等).尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)出身.翻訳において「雄蕊(おしべ)」「雌蕊(めしべ)」「花粉」という言葉を作った事でも知られる.文政10年(1827年),長崎にてシーボルトより本草学を学ぶ.その後,シーボルトより受け取ったツンベルク著『フロラ・ヤポニカ(日本植物誌)』を訳述し,文政12年(1829年)に『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』として刊行した.嘉永5年(1852年),尾張藩より種痘法取調を命ぜられる.文久元年(1861年),幕府の蕃書調所物産所出役に登用される.明治3年(1870年)末,名古屋より東京へ移住して大学出仕,翌年より文部省出仕となった.同14年(1881年),東京大学教授に任ぜられた(1886年に非職,1889年に非職満期).同21年(1888年),日本初の理学博士の一人として学位を受ける.また初代の東京学士会院会員となった.

0 件のコメント: