Trochodendron aralioides
ヤマグルマを最初に欧米に紹介したシーボルトは,ツッカリーニとの共著『日本植物誌』”Flora Japonica”(1835 -1870)で,シキミモドキ科(Winteraceae)に属するとしたが,後には,モクレン科(Magnoliaceæ)に属するとした(Blog-5 参照).以降,このどちらかに従った報告が多く見られるようになった.この二つの科に属するのは原始的な植物とされている.
シキミモドキ科(Winteraceae)に属する植物は日本には自生しておらず.主にアジア・南米の熱帯地方に産する.この科の名前はこの科の植物(現学名
Drimys winteri)をマゼラン海峡付近で西欧人として最初に見出し,壊血病の治療薬としてその樹皮を用いた,英国人サー・ジョン・ウィンター(Sir
John Wynter or Winter,1555 – 1638)に由来する.すなわち,彼がドレーク(Sir Francis Drake, 1543? - 1596)の世界一周航海の艦隊の一翼を担う「エリザベス号, The Elizabeth」の船長として出航したが,途中で挫折し帰国.マゼラン海峡沿岸で得て持ち帰った,壊血病に薬効のあるとされた樹皮(Winter's bark, Winteranvus Corte)を産する喬木(現学名
Drimys winteri) が科の基(基源植物)となった.
南米から輸入された「ウィンターの樹皮」は高価だったためか,偽物として南アジアやアフリカから輸入された芳香樹の樹皮が多く出回っていたようで,英国の博物学者スローン(Sir Hans
Sloane, 1st Baronet, FRS , 1660 – 1753)が,類似物との比較を,権威ある科学雑誌(The Philosophical Transactions of the Royal Society)に 1693 年に報告した.その報告に,初めて葉と実の着いた小枝の絵が付されたが,ジョージ・ハンディシッド(Handisyd, George,生没年不詳,標本採集時期. 1695 - ) から得られた起原植物の花期や生育地などの精細な情報も記した.(ヤマグルマ-10-4-1参照)
スローンはこの報告の中に,この樹及び樹皮に関する先行文献を多く挙げている.これらの中には,クルシウスの記述を転記したような文もあるが,航海者が実際にこの木を見た記述もあり興味深い.以下,スローンの報告の順に基づき,既述の報告は除いて原文を引用する.
Carolus
Clusius(1526 - 1609)“Aliquot notæ in Garciæ
aromatum historiam”(1582),“Exoticorum Libri Decem”(1605)(ヤマグルマ-10-1 参照)①Theodor de Bry(1528 - 1598)“Americae nona et postrema
pars or Great voyages, pt. 9”(1602)
②Herrera y Tordesillas,
Antonio de, d.(? - d. 1625) “Novus Orbis, sive, Descriptio
Indiae Occidentalis”(1625)
Jacques Dalechamps(1513 - 1588)“Historia
plantarum generalis”(1586 - 1587)(ヤマグルマ-10-3 参照)
John Parkinson(1567 - 1650)“Theatrum
Botanicum”(1640)(ヤマグルマ-10-2 参照)
④Caspar Bauhin(1560 - 1624)“Pinax
Theatri botanici”(1671)
⑤Jan Jonston(1603 - 1675)“Dendrographias
sive Historiae naturalis de arboribus et plantis libri X ”(1768)(初版 1622)
⑥Sir Tancred Robinson (Probably edited by)(c.1658 - 1748)“An Account of Several Late
Voyages and Discoveries to the South and North”(1694?)
①Theodor de Bry(1528 - 1598)“Americae nona et postrema pars or Great voyages, pt. 9”(1602)は,セオドア・ド・ブライの『大航海記』の第九巻で,アメリカ大陸の遠征記としては最終巻である.その中で,1598 年にオランダを出発し,マゼラン海峡を通過したが,目的地のモルッカ諸島は諦め,二年後に帰郷したセボー ド ヴェールト(Sebault de Weert, 1567 - 1603)の航海記が含まれている.
ヴェールトの指揮する探検船 Geloof, ゲルーフ(信仰)號が,マゼラン海峡付近でそれ以上の航行を断念する直前の記録には,Drimys winteri と思われる,葉が月桂樹に似ていて,樹皮が胡椒のように刺激的で辛い樹木の描写が残されている(冒頭図).なお,この記録を残した
セボー
ド
ヴェールト(Sebault de Weert)の数奇な運命については,次記事に記す.
VERA
ET ACCVRATA
DESCRIPTIO EORVM OMNIVM,
QVÆ ACCIDERVNT QVINQVE NAVIBVS,
Anno 1598. Amstelredami expeditis, & per fretum Magellanicum
Ad Moluccanas insulas perrecturis: naui præcipuè Fidei, Capitaneo
de VVeert addictæ, qui post infinitos labores
& arumnas
biennio integro toler at as, tandem anno 1600, reinfecta ad suos rediit.
Sinus viridis
infreto
Sinus iste subgrad.54.situs viridis dictus, curua quadam emi-
nentia in septentrionem excurrit, in cuius medio tres paruæ Insulæ
visuntur, quarum minima orientem spectans, nauibus fabricandis,
si opus sit, valdè commode videtur. Ea enim admodum arenosa ac
elata est virentibus arboribus, Lauris similibus,
licet procerionbus,
ornatissima: quarum cortex piperis modo saporem
acrem & mordĕ-
tem præbet. Ibidem aquæ potabilis limpidissimus quoque fluuius
est, conchis vndiquaque constratus , quatum nonnullæ dodrantis
longitudinem habent. Sed & anatum ac anserum hic insignis copia:
ita, vt sinus hic commodissimus sit eoruni omnium, qui in freto isto
reperiuntur: in quoperpetuou. 12. 15. 20. 30. & 45. Passuum prosundicas.
esse solet.
Conchæ magna
この叢書『大航海記』の著者セオドア・ド・ブライ(ド・ブリ)(Theodor (Theodorus, Dietrich, Dirk) de Bry, 1528 - 1598)は,フランドル出身の編集者,出版者,銅版画彫版師,金細工師で,ヨーロッパ人航海者のアフリカとアジアおよびアメリカ大陸への航海の記録,27巻シリーズの『東インドと西インドへの大航海(大航海記)』(Collectiones
peregrinationum in Indiam occidentalem, Collected travels in the east Indies
and west Indies)(1590 - 1634) と,特にその叢書中のアメリカ原住民の挿絵で知られる.
彼自身は実際に大西洋を渡ったことはない.そのため,画はヨーロッパ人とともにアメリカ大陸を訪れた絵師たちの作品(絵師たちは,アメリカ大陸の土地や人々を記録し,ヨーロッパのスポンサーや大衆に見せるために旅に同行することがよくあった)と,ド・ブライ自身の芸術的創意工夫を組み合わせたものである.当時のヨーロッパ人のアメリカ先住民のイメージは,この叢書によって形作られたといっても過言ではない.彼の著作に添えられた挿絵で最も有名なのは,コロンブスのハイ(island of Ayiti,イスパニョーラ島, Española)への上陸の図であろう.
ド・ブライはプロテスタントで,1570年,宗教的迫害を逃れるために生まれ故郷のリエージュ(Liège現在のベルギー)からストラスブルク(Strassburg, 現ドイツ)へ逃れた.さらに,1577 年にはアントワープ(Antwerp)にうつり,そこで彫版の腕を磨いた.1585年から1588 年の間,彼はロンドンを二度訪れ,そこで地図製作者のリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt, c. 1552 – 1616)と出会い,欧州航海者の遠征記と繪を集め始めた.特に, ジャック・ル・モワンヌ(Jacques Le Moyne de Morgues, c.1533 – 1588)のアメリカ先住民や動植物を記録した水彩画には,大きな影響を受けた.
1588 年最終的にフランクフルト・アム・マイン(Frankfurt-am-Main, 現ドイツ)に定住し,そこで公民権を得て,出版の仕事をはじめた.最も知られている書は上記『大航海記』で,原書はラテン語であるが,ドイツ語,英語,フランス語にも訳された.
1598年の彼の死の後は,二人の息子 Johann Theodor de Bry(1561 - 1623), Johann Israel de Bry(died c. 1611)が彼の仕事を引き継ぎ,最終的には娘(マリア・マグダラ)と1617年に結婚した婿のマテウス・メーリアン(Matthäus Merian der Ältere, 1593 – 1650)が1634年に完成させた.
マテウスの娘のマリア・ジビーラ・メーリアン(Anna Maria Sibylla Merian, 1647 - 1717)は,昆虫は泥や朽木から自然に発生すると考えていた当時の科学界に大きなインパクトを与えた『スリナム産昆虫変態図譜』(Metamorphosis insectorum Surinamensium, First edition, 1705)で有名な,画家兼自然科学者として活躍した.彼女の生涯及び業績については,“Maria Sibylla Merian—An Artist Who Changed Science Forever” (https://www.dailyartmagazine.com/maria-sibylla-merian/) が詳しく,興味深い画像も多いので,お勧め.




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