2011年6月29日水曜日

ジャガイモ(3/6) Shakespear, Parmentier

Solanum tuberosum シェークスピアには,原文で “potato” が登場する戯曲が二つある.「ウィンザーの陽気な女房達 The Merry Wives of Windsor (1602?)」と「トロイラスとクレシダ The History of Troilus and Cressida (1602?)」で,
前者の第5幕第5場では,逢引と信じ込んで森に忍んだ騎士フォルスタッフが,ウィンザーの商家の妻達にからかわれる場面に,
 MRS. FORD. Sir John! Art thou there, my deer, my male deer.
 FALSTAFF. My doe with the black scut! Let the sky rain potatoes; let it thunder to the tune of Greensleeves, hail kissing-comfits, and snow eringoes; let there come a tempest of provocation, I will shelter me here.
のせりふがあり,和訳では「馬鈴薯」(坪内逍遥),「ぽてとー」(三上勲,西川正身),「ジャガイモ」(小田島雄志)となっている.

後者の第5幕第2場では,口汚いギリシア人のサーサイティーズが,ギリシアの将軍ダイアミディーズと,トロイの王子トロイラスの恋人クレシダの痴話話を聞いて言う
 THERSITES. How the devil luxury, with his fat rump and potato finger, tickles these together! Fry, lechery, fry!
のせりふがあり,和訳では「甘藷(ポテト)指」(坪内逍遥),「いやらしい指先」(小田島雄志)となっている.

前記事に述べた様に,この時代は単に “potato” と言えばサツマイモの事であり,多くの人の前で演じることを前提に書かれた脚本なので,これらのせりふの “potato” はみんなに知られているサツマイモを指すと考えられる.いずれも情欲が絡んだ場面だが,当時はサツマイモには催淫作用があると考えられていたので,観客はどっと沸いたと思われる.

さて,ジャガイモがヨーロッパで普及するようになる背景には,飢餓や戦争に伴う食糧危機があった.ジェームス・ワットが蒸気機関を発明した 1769 年の翌年から四年間,ヨーロッパは悪天候に見舞われ,不作続きでひどい食糧難に陥った.この飢饉を救ったのが,他ならぬジャガイモだったといわれている.

フランスでは,ブザンソンのアカデミーが飢餓の軽減のために募集した救荒作物に,薬剤師のパルマンティエ (Antoine Parmentier 1737 – 1813) はジャガイモを提案し (1773),栽培法と調理法の研究を続けた.ルイXVI世もこの運動を推進し,王妃マリー・アントワネットに夜会でジャガイモの花を身につけさせたり,パルマンティエにジャガイモの栽培・普及のためにベルサイユ近くの畑を貸与したりした.パルマンティエはわざと「王侯貴族が食べる非常に美味で滋養に富むものなので,盗んだものは厳罰に処す」といった看板を立てて昼間は武装したガードマンで厳重に見張り,農民の興味を引き,夜は警戒を解いて盗みやすいようにしたというエピソードも伝わっている.
(続く)

2011年6月25日土曜日

ジャガイモ(2/6) John Gerarde, John Parkinson

Solanum tuberosumジャガイモが移入されてきた時代,エリザベス1世の治めていた英国には,文芸の巨人シェークスピアとミルトンと同様に,有名な二人の植物学の巨人がいた.John Gerarde (1545-1612) と John Parkinson (1567-1650) の二人で,それぞれ ”The herbal, or, General Historie of plantes 『本草あるいは一般の植物誌』” (1597) と “Paradisi in Sole Paradisus Terrestris (Park-in-Sun's) 『日当たりの良い楽園・地上の楽園』” (1629) の名著を残している.この時代の英国は,世界に進出する海洋国として,貿易や海賊でスペインやポルトガルを圧倒し,世界各地の産物を集め,研究することが出来た.また本草学の最盛期であり,花の美しさを楽しむ余裕が出てきた園芸のルネッサンスでもあった.

John Gerarde の”The herbal” で potato の項目を見てみると,2種のポテトが記述され,その図や記述の内容から, Potato は sweet potato サツマイモであり, Virginia potato がジャガイモであることが分かる.ジャガイモは英国には Sir Walter Raleigh が派遣した北米移民がヴァージニアからもたらしたので,Virginia の冠が着いたのであろう.テキストにはジャガイモの草姿,柔らかい茎を持っていてクレソンに似た葉の形をしているなどとあり,花についても,” very faire and pleasant floures” が咲き,その色が薄紫で五弁,合弁であること,また雄しべ・雌しべの色についても,絵画的に詳しく記している.

Gerarde's "The herbal" p781 (1597)  Chap. 335.Of Potatoes of Virginia
From the bosome of which leaves come forth long round slender foot stalkes, whereon grew very faire and pleasant floures, made of one entire whole leafe, which is folded or plaited in such strange sort, that it seems to be a floure made of five sundry small leaves, which cannot easily be perceived, except the same be pulled open The whole floure is of a light purple colour, striped downe the middle of every fold or welt with a light show of yellownesse, as if purple and yellow were mixed together. In the middle of the floure thrusteth forth a thicke flat point all yellow as gold, twith a small sharpe green pricke or point in the midst thereof.

一方,John Parkinson の方は,ジャガイモの花についてはGeraldの時代より多くの種が入ってきていたためか,著者が観賞用植物として注目していたためか,花弁の色が様々あることを述べている.

Parkinson’s “Paradisi in Sole” p516 (1629)  Chap. XLIX POTATOES   The Potatoes of Virginia,
The flowers growe many together upon a long stalke, coming forth from between the leaves and the great stalkes, every one severally upon a short foot-stalke, somewhat like the flower of Tabacco for the forme, being one whole leafe fix cornered at the brimmes, but somewhat larger, and of a pale blewish purple colour, or pale dove colour, and in some almost white, which some red threads in the middle, standing about a thicke gold yellow pointell, tipped with green at the end;

更に,"Paradisi in Sole" には第三のポテト, "Potatoes of Canada" が記載されているが,これは図や記述,ならびに "Jerusalem Artichoke” の別名から「キクイモ」であり,当時は地下部が大きくて食べられる外来植物はみな,Potato の類と呼んでいたらしい.単に Potato はサツマイモで,ジャガイモはそれと区別するために原産地と考えられていた場所の名を取って “Potatoes of Virginia”といわれていた.
この時代,ジャガイモは根茎が食用になることは分かっていたが,むしろ花に注目されていて,欧州では庭園で栽培され根茎は富裕層が珍しがって食べる珍味の域を出なかった.そのジャガイモが,貧困層の穀類に替わる主食として西欧に普及する契機は,飢餓や戦争にあった.
続く

2011年6月21日火曜日

ジャガイモ(1/6) de Quesada, Clusius, Sir Walter Raleigh, Gerard

Solanum tuberosum南アメリカ原産のナス科ナス属の植物で,もともとはペルーやボリビアの冷涼な高原に自生していた数種の野生種の交配から生まれたものと推定されている.アンデス山脈では標高 3000 メートルまではトウモロコシが栽培できるが,それ以上高くなると栽培できない.一方ジャガイモは,標高 4000 メートル付近まで栽培されている.現在でも 7000 近い品種があり,現地では大きさ・色・形が様々な品種を混ぜたまま栽培するのは,高山地帯の不安定な天候に際しての安全策とのこと.コロンブスの新大陸発見当時、ジャガイモはすでにメキシコからチリ南部まで広く栽培されていた.しかし,北米までこの有用な作物が伝播しなかったことに関しては,J ダイアモンドの「文明の崩壊」に興味深い考察がある.

欧州人がジャガイモの価値に気づいたのは,1537年に Gonzalo Jimenez de Quesada の率いるスペイン兵がアンデス山中の土民の貯蔵庫で発見したのが最初.この植物は当時のスペイン人が EI Dorado から略奪したすべての金銀にもはるかに勝る大獲物で,現在世界の年間生産量はこれら金銀の価値をはるかに超える.1540 年代にはメキシコ東岸のベラクルスとスペインの港との間を定期船が往復していたので,これに載せられて欧州に運ばれたと考えられ,スペインのセヴィリア市にあった病院の 1573 年の会計簿には,患者のためにジャガイモを買い入れたことが記録されている.

これがスペインからイタリアへ移入されたのは1580年代のことで,次いで教皇の遣外使節がベルギーの Mons へ伝えた.1598 年には Mons から,チューリップを欧州に導入したことで有名なヴィエナの植物学者 Carolus Clusius へ送られ,たちまちドイツ中に広まった.

イギリスへ伝わったのは 1586 年(一説に 1584 年)のことで,著名な Sir Walter Raleigh が派遣した北米移民がヴァージニアから持ち帰った.Raleigh は1586年にアイルランド Cork 近くの Youghall の領地で,このジャガイモを栽培したというから,英国での最初の栽培者は Raleigh といってよい(ただし,ジャガイモの苗はスペインとの貿易でもたらされたという説の方が遥かに有力である)が,彼はこの植物についてはまったく無知で,食べようとした実が有毒だと知って庭師に引き抜かせた.庭師は,それを引き抜いて初めてそのイモの真価を知ったという.

イギリスで初めて potato に言及した文献は Gerard の The Herball (1597)で,Sweet potato と区別して‘potato of Virginia’ の名で解説・紹介し,同書の巻頭には,彼が花と実のついたジャガイモの茎を手にしている口絵が載っている(左図).
しかし英国での食糧生産作物としての普及は進まず,その理由は 2 つあった.当時の清教徒は,potato が聖書に見えていないというだけの理由でその栽培に反対したし,また,根も葉もない迷信がジャガイモに対する正当な評価を妨げてもいた.Gerard は次のように述べている.「ボーアンによれば,バーガンディではジャガイモの使用が禁じられていた.これは,このイモを食べすぎればらい病にかかるとされていたからである.“Baubine sayth, That he heard that the use of these roots was forbidden in Bourgondy (where they call them Indian Artichokes) from that they persuaded the too frequent use of them caused the leprosie.”」.無論 Gerard 自身は,このような迷信を信じていたわけではない.

主食として,料理に欠かせない素材としてジャガイモが西欧に普及する契機は,飢餓や戦争にあった.(続く

2011年6月19日日曜日

和漢三才図会 タイトゴメ マンネングサ

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)に「たいとうこめ」の項があるのに気がつき,以下の書を参考にしながら,原文に当たり,「たいとうこめ」と「いちぐさ」及び「いつまでくさ」の書き下し文を記す.タイトゴメは,その葉が,質のよくない赤い米「大唐米」に似ているので,名づけられ,また枕草子の「いつまでくさ」はマンネングサの類の可能性が高い様に思われる.
谷川 健一/編集委員代表『日本庶民生活史料集成 第29巻 和漢三才図会(ニ)』(1980)三一書房

秈(たいとうこめ)
占稲 早稲
俗云 大唐米 又云 野稲

本綱 秈は粳に似て粒小なり。始め閩(ミン)の人より種を占城(チャハン)国より得、宋真宗使を遣して閩に就かせ、三万斛を取りて諸道に分け給し種と為す。故に今皆之れ有りて高仰の処倶に種うべし。其の熟最も早し。六七月に収むべし。赤白の二色有り。粳と大に同じくして少し異なり。
△按ずるに、本は此れ天竺の種にして、宋の時始めて中華(モロコシ)に種ゑて本朝に傳ふ。故に呼びて大唐米と日ふ。今も亦た西国に多く之れを種う。能く繁茂して早く熟す。凡そ粳米にも亦た赤白の二種有り。特に此の米は赤き者多く白き者少なし。故に通じて●(米+罪)(アカゴメ 音催、赤米)と称す。苅り収めて籾を鍋に盛り、水少し許りを入れて蒸し熬り晒し乾し、礱(スリウスニ)磨(ヒキテ)以って稃を去り米と為す。もし蒸さざれば則ち舂(ツクトキニ)に砕け易く、是れ一異なり。日向の産は烏赤色にして良し。薩摩の産は鮮赤色にして之れに次ぐ。凡そ赤米は能く舂きて糠を去れば乃ち白色に微かに紅文を帯ぶ。飯と為すに能く倍殖(フ)えて粘らず。温かなる時、香気有りて甚だ佳し。冷れば則ち風味疎にして、之れを食ひて飢ゑ易く、以って賤民の食と為す。亦た秈糯有り、之れを大唐糯と謂ふ。而して赤白の二種有り、共に稍粘る。

以知草(いちぐさ)
△按ずるに、以知草は景天草に似て極めて小なる者なり。又爪蓮華の苗に似て高さ三四寸、茎枝弱く、蔓の如く繁茂り、五月に小さき黄花を開く。人家の庭園に栽ゑて茂り易し。

壁生草(いつまでくさ)
△按ずるに、壁生草は即ち以知草の類にして、葉略(チト)開き、色微かに濃く、性水を好みて深き湿を悪む。極めて生じ易し。或は細かに茎を切りて地に挿せば則ち活く。石壁の上と雖ども、初め湿り、土を以って之れを栽ゑれば則ち又死(カ)れず。五月に五弁の尖、小さき黄花を開き、以知草の花に似たり。
堀川百首
壁に生るいつまて草のいつまてかかれず問へき篠原のさと  --- 藤原公実

2011年6月15日水曜日

タイトゴメ いつまで草 (2/2) 枕草子,花壇地錦抄,大和本草,和漢三才図会,本草綱目啓蒙

Sedum uniflorum subsp. oryzifolium = like a grain of rice
2001年6月 茨城県大洗町磯浜町
関東地方以西の本州・四国・九州・奄美大島,朝鮮半島に分布するマンネングサ属,マンネングサ亜族の特殊な海岸植物.時には波しぶきをあびる「良くまあこんなところに,」と思うような海岸の岩場に生育する.乾燥には抜群に強く,水なしでも数ヶ月は耐えられるという.葉は水をたっぷりと貯留する多肉質の円柱形で茎に密生して付く.通常は緑色だが,日当たりの良い場所や冬季には赤くなることがあり,和名はこの葉の形や赤い色が大唐米(南京米)に似ているからで,高知県柏島の方言との説がある.


さて,枕草子に出てきた「いつまで草」の正体だが,江戸時代の園芸書・百科事典で調べてみると

★伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には「藤並桂(かづら)のるい 冬通木夏初
壁生草(いつまでくさ)通草 葉は紋所のつたのごとく木ニまといてのほる又よくかえに取付のほる物也秋紅葉する事朱ノ如」とされ,常緑のつる性の植物,キズタなら「いつまで草」の様に読めるが,これは紅葉はしないので,ツタを云っているのかもしれない.

★貝原益軒『大和本草』 (1709) には「仏甲草」(オノマンネングサ)と「仙人絛」(メノマンネングサ)の二種がマンネングサの類として記載され,「仙人絛」は「イツマデクサと云う」とされ(左図上, 中村学園)ている,更に『大和本草 諸品図(上)草類』には,「仏甲草」と「イツマデ草」が図示されている(右図, 中村学園).

★寺島良安『和漢三才図会』(1713頃)には,「以知草(いちくさ)」と「壁生草(いつまでくさ)」の 2 種が記載され,後者の別名は「萬年草 マンネンソウ」であるとされている(下図).

以知草(いちぐさ)
正字未詳
[景天草(べんけいそう)の和名を以岐久佐(いきぐさ)という。これも景天の属である。それで誤って以知草というのであろうか〕
△思うに、以知草は景天草に似ているが極めて小さいものである。
また爪蓮華の苗にも似ている。高さ三、四寸。茎枝は弱くて蔓のようで繁茂する。五月に小さな黄花が開く。人家の庭園に栽えても繁茂しやすい。

壁生草(いつまでぐさ)万年草(まんねんそう)
[玉柏も万年草(ぐさ)という。ただし草の字を訓とでよみ分けている〕
△思うに、壁生草(べンケイソウ科)とは以知草の類で、葉は少し開いており、色も少し濃い。
水を好むがひどい湿気は悪む。極めて生え易い。たとえば細かく茎を切って地に挿すと、すぐ活(は)える。石壁の上でも、初めに湿り土をおき、これを栽えるとながらく枯れない。五月に五弁で尖った小さな黄花を開くが、以知草の花に似ている。
〔堀川百首(異伝歌)〕壁に生ふるいつまで草のいつまでかかれず間ふべき篠原のさと (公実)」

現代語訳 島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫 による

★小野蘭山『本草綱目啓蒙  巻之十六草部目録 草之九石草類一 十九種』(1803-1806)には

「仏甲草 総名マンネングサ ツルレンゲ イツマデグサ ステグサ イハマキ ノビキヤシ(雄大和本草) ネナシグサ(雌大和本草) ハマツツ イミリグサ 雄名イチゲサウ(大和本草) テンジンノステグサ ステグサ シテグサ ツミキリグサ チリチリ タカノツメ ホットケグサ ホトケグサ ネナシカヅラ コンゴウ ミヅクサ センネンサウ ヒガンサウ マムシグサ イハノボリ ナゲグサ マツガネ カラクサ 雌名イチクサ(三才図会) マンネソサウ(同上) コマノツメ イチリグサ フヱグサ コヾメグサ

路旁陰処林下水側ニ多ク生ズ。雄ナル者ハ苗高サ六七寸、叢生ス。葉細クシテ厚ク末尖リ、長サ八九分、黄緑色三葉ゴトニ相対ス。茎ヲ切捨テ枯ズ、自ラ根ヲ生ズ。四五月梢ニ花ヲ開ク。五弁黄色、大サ三分許、多ク枝二盈テ美ハシ。苗ハ冬ヲ経テ枯ズ。雌ナル者ハ苗高サ二三寸、葉雄ナル者ヨリ狭小、長サ三分許、厚クシテ尖ラズ、葉密ニ攅リ生ズ。冬ヲ経テ枯ズ。冬春二至リ葉紅紫色ニ染マリテ美ハシ。四五月花ヲ開ク。形色雄ナル者二同ジ。一種円葉ナル者アリ。葉大サ一二分、花ノ形色モ同ジ。幽谷石上ニ生ズ。一種万葉ナル者ハ、ミヅウルシト呼。一名ヤマヅタイ、イハガネサウ。葉大サ三四分、甚厚シ。夏花ヲ閲ク。形色全ツルレンゲニ同ジ紀州熊野山中ニアリ〔集解〕仏指甲、四物同名。一ハ景天、一ハ仏甲草、一ハ銀杏(イチョウ)、一ハ万氏家抄二出。」
と,あって,結局は,キズタかマンネングサの類なのか,よく分からなかった.ただ,『枕草子』の「草は」の項に出てくるので,清少納言の感覚から言うと,大きくなる「キズタ」ではなく,いかにも草らしい「マンネングサ」の仲間の可能性が高いと思われる.

清少納言『枕草子 第六七段』 「草は」

「(前略) あやふ草は岸の額に生ふらんも、實にたのもしげなくあはれなり。いつまで草は生ふる處いとはかなくあはれなり。岸の額よりもこれはくづれやすげなり。まことの石灰などには、えおひずやあらんと思ふぞわろき。 (後略)」

冬でも同じような草姿を保ち,抜いても枯れないので「いつまで草」,石垣や石積みなどの急斜面に生えることから「壁生草」と呼ばれたのであろう.

コモチマンネングサ いつまで草 (1/2)

2011年6月11日土曜日

コモチマンネングサ いつまで草 (1/2)

Sedum bulbiferum = With little bulbsビルの屋上緑化に用いられるセダムの仲間.セダムは多くの種類が手のかからないグランドカバーとしてホームセンターで売られているが,これは観賞価値は低い野生種.名前は花期に葉腋に不定芽を生じることによる.これが落ちて根付く.セダムというと乾燥に強く乾いたところが好きとのイメージがあるが,これは田のあぜ道にも多く生えていて,湿性地にも繁茂し,稲作と共に入った史前帰化植物と考えられている.全体に黄緑色でややつやがあり,茎は柔らかく多肉質,長い茎で地表を這い,枝分かれする.葯には花粉ができないことが多いので種子ができることもほとんどない.多肉ゆえ引き抜いておいても枯れずに花をさかせる.庭では隣家との境のフェンスの下,やや湿った所に知らぬうちに生えてきた.黄色い花は鮮やかだが,花は小さく,草姿は間延びしているので,退場を願おうかと思っている.

佐竹ら編『日本の野草 草本』(1982), 平凡社 にはこの植物の属するマンネングサ属,マンネングサ亜族には亜種・変種を含めて15種が日本に野生で見られると記載されている.

生育地も海岸から高山,乾燥地から渓流脇まで広い.冬でも枯れず,抜いてもなかなか枯れないので,「イツマデグサ」と呼ばれていた.

清少納言『枕草子 第六七段』の「草は」の項で
「あやふ草は岸の額に生ふらんも、實にたのもしげなくあはれなり。いつまで草は生ふる處いとはかなくあはれなり。岸の額よりもこれはくづれやすげなり。まことの石灰などには、えおひずやあらんと思ふぞわろき。」と記した.

この「いつまで草」は,摘んでも枯れないところから,マルバマンネングサではないかと 湯浅浩史 東京農業大学 短期大学部・環境緑地学科教授はいう.

これには異論もあって,橋本治『桃尻語訳 枕草子(上)』 1987 年 河出書房新社では,「危険草(あやうぐさ)は崖っぷちに生えてるっていうのもさ、なるほど、心配だわよね。いつまで草は、もうさァ、はかなくっていいのよねェ。(ガケっぷちよりもこっちのが崩れやすいんじゃないの? 「ホントの漆喰壁なんかには絶対生えてなんか来ないんだろうなァ」って思うとダサイけどさ)〔註‥〝いつまで草〞っていうのは壁に生えるっていうの〕」と訳し,挿絵では「いつまで草」は「キズタ」だとしている.
また,『大庭みな子の枕草子』 2001 年 講談社では「あやう草*は、岸の額ぎわに生えるとか、あやうい感じをそう名づけたものか。いつまで草*は岸の額よりあやうげな石灰の地に生えるとか、ほんとうの石灰の壁に生えるというわけでもなく、いつまでもつかと思われるはかなさ。」と訳し注で「あやう草、いつまで草、ことなし草は不詳。」としている.

では江戸時代はどう呼ばれていたのか,その時代の百科事典や園芸書を見てみよう.(続く)

2011年6月6日月曜日

タマネギ(2)

Allium cepa = onion BOTTOM “And, most dear actors, eat no onions nor garlic, for we are to utter sweet breath”
  -------- A Midsummer Night's Dream, Act 4, Scene 2 by William Shakespeare

前の投稿で「開かないかも」と言ったのが効いたのか,ようやく開花し始めたタマネギの花穂.子房上位の典型的なネギ科の花.

ネギの花はいい香りがするが,タマネギは花もネギ臭がするようだ.タマネギには多くの低分子量の含硫黄化合物が含まれていて,臭いや催涙の元はアリル基(CH2=CH-CH2-)を有する硫黄化合物.「アリル」の語源はネギ類の属名 Allium に由来する。涙の原因となる揮発性のガスはタマネギを切ったときスルホキシドアミノ酸から生成するsyn-プロパンチアール-S-オキシド(CH3CH2CH=S(+)-O(-))とされる.

佐々木倫子『動物のお医者さん』第3回で,チョビが血便・下痢の症状でH大学動物病院を訪れ,漆原教授が「玉ネギ中毒じゃないの」と言って,公輝と二階堂から不信の目で見られるが,実際に羊などの反芻動物やイヌやネコ,ウサギなどは,タマネギや,スープなどのタマネギの調理物を摂取すると,タマネギ由来のアリルプロピルジスルファイドなどがヘモグロビンを酸化することにより、溶血性貧血を起こし,ともない下痢・嘔吐・黄疸・血尿などの症状が引き起こされるとの事.

一方,タマネギには,コレステロール低下作用,血圧降下作用,血小板凝集抑制作用などがあるといわれているが,国立健康・栄養研究所の『「健康食品」の安全性・有効性情報』 では,ヒトでの有効性については信頼できるデータが見当たらず,特に妊娠中・授乳中の安全性については十分なデータがないことから,ヒトでも通常の食事以外からの摂取は避けた方がよいとされている.

ちなみに冒頭の『真夏の夜の夢』での機屋のボトムのせりふ.
坪内逍遥 (1859 - 1935) の訳 (早稻田大學出版部 1915) では
「それから,我等(うら)が大切(でえじ)の俳優(やくしゃ)さんたち,葱(ねぎ)や大蒜(にんにく)を食(くら)つちやァいけねえよ,美(い)い聲(こえ)しねえけりやなんねえだからね,」
と "onion" が「葱」とされている.訳が出版された大正十年当時は,まだタマネギが一般的ではなかったのかも知れない.
福田恒存訳『夏の夜の夢』(新潮文庫,1971年発行)では
「吾が役者連中すべてに言っておくが、玉葱を食ってはいけないぞ、にんにくもだめだ。匂いのいい息をださなくてはいけないからな。」
とちゃんと「玉葱」と訳されている.

2011年6月2日木曜日

タマネギ

Allium cepa = onion 昨年の秋に近くのホームセンターから小タマネギ(種球根)で購入.大分鱗茎が大きくなってきたのでもう直ぐ収穫できるだろう.この品種の花茎は高さ 1.5mにも伸び,ネギの花とは異なり蕾の集合体は円錐形.また蕾の一つ一つの花被片の中央部に緑色の筋が入っていておしゃれ.例年は鱗茎を太らせようと蕾を摘んでしまうが,今年はブログに UP しようと2本だけ残したが,蕾が大きくなって一月経っても一個も開いていない.痺れを切らして,そのまま登場してもらう.どうもネギと違ってタマネギは花被が開かないらしい.ということは自家受粉か.

食用野菜としてのタマネギの歴史は大変古く,青銅時代の住居跡にはイチジクと共に食用としていた形跡が残されている.
古代ギリシアでは紀元前 10世紀から 8世紀,古代ローマでは紀元前 8世紀から栽培されていたと伝えられ,ローマ時代には早くも栽培品種が誕生している.プリニウスは『自然史』で六つの栽培品種を記録している.
一方,古代エジプトでは,ニンニクと共に栽培されていたらしく,紀元前3000年から2700年頃の第一王朝時代から第二王朝時代の墳墓の壁画にタマネギが描かれていて,ピラミッドを建設する労働者の食料のひとつとして利用されていた.旧約聖書には,エジプトから逃れたユダヤ人が,荒野の生活に疲れ,奴隷生活を送ったエジプトの食物を懐かしむ記述に「われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。(民数記 / 11章 5節)」とあり重要な食料の一つであったことが伺える.また,タマネギの防腐効果がすでに高く評価されていたようで,ミイラを作るときに胸,骨盤などの腔所や眼窩に詰められ,ラムネス四世のミイラの眼窩にその痕跡が残っている.

タマネギは,現在のイラン北部近くの山岳地帯が原産地と推定されている.栽培化の最初の中心地は中央アジアで,そこから中近東に広がり,そこが二次的な栽培の中心となり,さらに東にも伝播し,インドでもかなり古くから栽培されていたといわれている.このように古い歴史があるにもかかわらず,タマネギがヨーロッパ全土に広まるのは,ずっと遅く 16 世紀になってかららしい.新大陸に伝わったのも 16世紀で,スペインからであるといわれているが,アメリカでは 17 世紀になってから栽培されるようになった.

日本にタマネギが伝来したのは,江戸時代に長崎にもたらされたのが最初だといわれているが,タマネギの栽培の歴史は,明治 4 年 (1871) に開拓使次官の黒田清隆が,アメリカから開拓に必要な機械,種子などとともに日本に持ち帰ったのが始まりとされている.
明治 18 年(1885) に東京の大日本農会三田育種場から出版された「船来穀菜要覧」という本には「根菜類」の一つとしての「○葱頭(たまねぎ)」の項に「第一号 ホワ井ト、ポーチュガル」等 13 種のタマネギがそれぞれの栽培法や食味の特徴と共に記載され,「味甘くして甚美なり.欧米人の大に嗜好する所なり」という記述がある(左図).