撮影:2008年3月 奈良,浄瑠璃寺参道
浄瑠璃寺までの馬酔木の咲ける道 林大馬
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大伴家持は「池水に影さへ見えて咲き匂ふ あしびの花を袖に扱(こ)きれな」(巻二十-4512)と詠み,また,甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)は「磯影の見ゆる池水照るまでに 咲けるあしびの散らまく惜しも」(巻二十-4513),三形王(みかたのおほきみ)も中臣清麻呂の庭を訪れて「鴛鴦(ヲシ)の住む君がこの山斎(嶋の築かれた大きな池)今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも」(巻二十-4511) と,いずれも庭園に設けられた泉水に映るアセビの花を賞した.
また,「磯の上に生ふるあしび(馬酔木)を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに」(巻二-0166)と大来皇女が弟の大津皇子が刑死した後にその死を悼んで詠み,また,「あしびなす栄えし君が堀りし井の 石井の水は飲めど飽かぬかも」(作者不詳,巻七-1128))や「春山のあしびの花の悪しからぬ 君にはしゑや寄そるともよし」(作者不詳,巻十一-1926)とあるように,古代人にとっては,白い花が鈴なりに咲く「あしび」は人を偲ぶのよすがともなる好ましいものであった.
しかし,平安期になると王朝歌人や文学者にはあまりとりあげられていない.植物が多く登場する『枕草子』にも見られず,源氏物語にもその名はない.渡来した華やかな花に隠れて目につかなかったのか,それとも田舎くさいとして心引かれなかったのか.『古今集』をはじめの八代集(『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』,平安初期から鎌倉初期に至るおよそ300年間の勅撰和歌集)にもあしびの歌はみられない.
それどころか,平安時代後期の革新的な歌人である源俊頼の歌には,「取りつなげ玉田横野の放れ駒 つつじかげだにあしび花咲く」(『散木奇歌集』)とある.これは馬があしびを食うとその毒に当たるから危ないと言って,万葉人とは逆に好ましからぬ花という感じをもっているように思われる.
「みま草は心して刈れ夏野なる 茂みのあせみ枝まじるらし」(藤原信実).これは鎌倉時代の画家で歌人でもあった藤原信実が詠んだもので,馬にとって有毒なあしびを,飼料に入れないようにと忠告しているのである.
馬が渡来したのは,弥生時代と考えられているので,万葉人もこの毒性は知っていたのに気にせず,むしろ,その白い花が房になって咲く見事さに感じていたところに,価値観の違いがみられる.
「おそろしやあせみの花を折りさして 南に向かひ祈る祈り人」(藤原光俊).これも信実と同時代の歌人の歌であるが,あしびは人を呪う媒介物とされ,恐怖の対象となっている.万葉人たちがあしびをもって,人の繁栄を寿いだのとは全く逆に扱われている.
このように平安・鎌倉時代の,優美を好み,典雅幽艶を愛する歌人には忘れられていたアセビも,明治になってから再びかえり咲いている.言葉遊びや本歌取りから離れて,写実をもって歌の本道とするとの考え方から,万葉集が尊重され,「あしび」に対する感じ方や考え方が大きく変わった.
その一つの象徴は,正岡子規を継承した伊藤左千夫が,根岸短歌会の短歌誌の名称として『馬酔木』を採用したことであろう.この雑誌に拠って,新しい短歌の運動を起こす際,愛される植物としては,ほとんど万葉集にしか載っていない花である『馬酔木』を雑誌の名称とすることで,万葉(集)の歌の精神に立ち返ろうという意がこめられているとも考えられる.残念ながら,子規の,左千夫の詠ったあしびの短歌は見出せなかった.
風吹て馬酔木花散る門も哉 子規