2015年7月21日火曜日

カラスノエンドウ(9) 薇 「伯夷・叔斉」伝説-3,「不食周粟 食薇 三年顏色不異」その後の餓死,七十二朝人物演義,魯迅『故事新編 采薇』

Vicia sativa subsp. nigra 
2015年5月
残念ながら和訳を見つけることは出来なかったが,★明の作者未詳『七十二朝人物演義 又題《七十二朝四書人物演義》,四十卷』明朝(1366-1843)後期 には,老婦人が穀類だけではなく山野草も周のものだと指摘し,伯夷・叔斉は手に持っていた薇を投げ捨てて,ついには餓死したと記している.

 第十六卷伯夷叔齊餓於首陽之下
他二人當初隱在海濱,原自耕自食的。如今到了首陽山下,他便商量道:武王以臣君得了天下,所得皆不義之物,我們就是自己耕種,終久算周家之粟,只是枵腹行吟,倒也潔淨得有趣。二人在山下走了一回,立了一回,但見泉水涓涓而流。伯夷道:「這是天地間自然的流水,須不是周家的。」叔齊道:「正是。」二人隨意飲了些,又在山下觀看多時,那崖壁邊都是草。叔齊指與伯夷道:「這也是天地間自然的生發,亦不是周家的。況這草不知可吃不可吃,如果可吃,是天不生無祿之人,可保性命。或不可吃,死亦何恨?」伯夷道:「且試一試看。」兩人便彩來生嚼下肚,安然無事。後人都曉得食,春夏取葉,秋冬取根,皆夷、齊故事。
他二人登山食,臨流飲水,無憂無慮,即是家常,更有寂寥。作歌一首,登於首陽山,朗然高吟,以發其輕世肆志之意。歌曰:
登彼西山兮,彩其矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏忽焉沒兮,我安適歸矣。嗟吁,徂兮命之衰矣。
如此者三年,顏色不變,似有仙氣。一日,登山采,放歌已畢,只見有一老婦負擔而來這首陽山中。人跡不到之處,設有一人來時,疑是周人混雜,他就住不牢了。如今忽見這一個老婦,倒也吃了一驚,又見老婦打扮非常:
頂排箬笠,半是新筍初落之籜。身披布襖,似非木棉捻就之紗。鬟垂蒼耳,容顏黧黑鬢飛蓬。蹺躡芒鞋,行龍鍾腰漸軟。宛似饁田之婦,定非漂絮之人。
老婦人看看走近前來,放下擔子,問道:「二位官人方才所歌甚是好聽,但老身不知是甚麼意思。」夷、齊道:「你那裡曉得我們心事。」也無別話,竟去拿著草而食。老婦又問道:「你們吃的是甚麼東西?」夷、齊道:「就是山上生的草。」老婦道:「草可以充飢麼?」夷、齊道:「草那裡充得飢,不過胡亂咀嚼度日而已。」老婦道:「為何不吃飯,偏要吃他?」夷、齊被他纏不過,只得道:「我兩人恥食周家粟米,甘忍飢餓,權把他來消閒。」那老婦人從從容容出兩句話來道:「二位義不食周粟,這草也是周家的草木。」罷依舊挑著擔子去了。夷、齊二人聽了這兩句,猛然一驚道:「是矣!是矣!」就將手中所彩的擲於地下,以後再不彩吃,竟餓死於首陽山下。後人憐他二人是義士,將來埋在山下。至今首陽有夷、齊之墓。孔子曾伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。又二人求仁而得仁,並沒有怨心。詩曰:
一意重天倫,遜國無所疑。萬世計綱常,諫伐死不辭。
求仁而得仁,夫子言如斯。死飽不死飢,寂寞塚壘壘。」

中国では清代になると考証学とよばれる実証的な学問が興る.考証学では再び古注が注目され,何晏の『論語集解』をもとに,諸家の研究を加えて『論語正義』が著された.いたずらに新注を否定せず,解釈は詳しく明快であるため,近世の論語注釈書の中で評価が高い.その中の「伯夷・叔斉」伝説の項では,「首陽山下採而食,終餓死」としかない.
清劉寶楠,劉恭冕編著『論語正義 全二十四巻』(清同治51866)刊 半6冊)
巻十七
疏「 齊景公」至「謂與」。
○正義曰:此章貴德也。「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉」 者,景公,齊君。景,諡也。馬四匹為駟。千駟,四千匹也。言齊君景公雖富有千駟,及其死也,無德可稱。「伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。其斯之謂與」者,夷、齊,孤竹君之二子,讓位適周。遇武王伐紂,諫之,不入。及武王既誅紂,義不食周粟,故於河東郡蒲阪縣首陽山下採而食,終餓死。雖然窮餓,民到於今稱之,以為古之賢人。其此所謂以德為稱者與疏「 齊景公」至「謂與」。○正義曰:此章貴德也。「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉」 者,景公,齊君。景,諡也。馬四匹為駟。千駟,四千匹也。言齊君景公雖富有千駟,及其死也,無德可稱。「伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。其斯之謂與」者,夷、齊,孤竹君之二子,讓位適周。遇武王伐紂,諫之,不入。及武王既誅紂,義不食周粟,故於河東郡蒲阪縣首陽山下採薇而食,終餓死。雖然窮餓,民到於今稱之,以為古之賢人。其此所謂以德為稱者與


かの魯迅1881 – 1936)も,1936年上海、文化生活出版社初版。巴金編集の『文学叢刊』の一冊で,1922年から1935年までに執筆した小説 8 篇を収める『故事新編』のなかの一篇,193512月作の「采薇」http://www.millionbook.net/mj/l/luxun/gxjb/002.htm)において,これを題材にしている.本人が「ふざけて書いた」と述懐しているように,この説話を人間くさい,面白おかしい小品にしている.

(前略)
  這時候,伯夷和叔齊也在一天一天的瘦下去了。這并非為了忙于應酬,因為參觀者倒在逐漸的減少。所苦的是菜也已經逐漸的減少,天要找一捧,總得費許多力,走許多路。
  然而禍不單行。掉在井里面的時候,上面偏又來了一塊大石頭。
  有一天,他們倆正在吃烤菜,不容易找,所以這午餐已在下午了。忽然走來了一個二十來的女人,先前是沒有見過的,看她模樣,好像是闊人家里的婢女。
  “您吃飯嗎?”她問。
  叔齊仰起臉來,連忙陪笑,點點頭。
  “這是什玩意儿呀?”她又問。
  “。”伯夷
  “怎吃著這樣的玩意儿的呀?”
  “因為我們是不食周粟……”
  伯夷剛剛出口,叔齊赶緊使一個眼色,但那女人好像聰明得很,已經懂得了。她冷笑了一下,于是大義凜然的斬釘截鐵的道:
  “‘普天之下,莫非王土’,你們在吃的,難道不是我們圣上的嗎!”
  伯夷和叔齊听得清清楚楚,到了末一句,就好像一個大霹靂,震得他們發昏;待到清醒過來,那鴉頭已經不見了。,自然是不吃,也吃不下去了,而且連看看也害羞,連要去搬開它,也抬不起手來,覺得仿佛有好几百斤重。
(後略)

和訳『魯迅全集 3 野草・朝花夕拾・故事新編』学習研究社 (1985)の「采薇」木山英雄(訳)では,と訳しているものの,その訳注で植物に造詣の深い魯迅がその説を信じたとは考えにくいとしている.

「そのころ、伯夷と叔斉のほうでも、日ごとに痩(や)せ細りだしていた。人あしらいに疲れて、というわけではない。見学者はしだいに少なくなっていたのだから。こたえたのは、まで少なくなって、毎日手のひらに一杯も探すためには、よほど頑張って、よほどの道のりを歩かねはならぬことである。
しかも悪いことはとかく重なるもの、泣き面(つら)にかぎって蜂(はち)が刺しにきた。
ある日、ふたりは焼きを食っていた。見つけるのに苦労して、昼飯とはいえ午後もだいぶまわったころだった。そこへひょっこり二十歳ばかりの女があらわれた。以前会ったことはないが、風体からして、大家の女中といったところか。
「お食事?」彼女はいった。
叔斉は顔をあげたとたんに、愛想笑いをつくって、うなずいた。
「なあに、そのへんなもの」彼女はさらに訊(たず)ねた。
ですじゃ」伯夷が答えた。
「なんでこんなものを食べるのかしら」
「わしどもは周の粟を食まぬによって……」
伯夷がいいかけるのを、叔斉は慌てて眼で制したが、女はなかなかの利発者らしく、早くも納得したようにフンと笑うと、大義我に有りとばかりに、容赦なく断を下したのである。
「『普天ノ下、王土二非ザル莫(な)シ』。あんたがたの食べてるだって、聖王さまのものじゃないですか」
伯夷と叔斉は残らず聞き取って、しまいの一句に至り、がんと霹靂(へきれき)に打たれたように、気を失った。
意識が戻ったときには、女中の姿はなかった。は、むろんもう食わぬ。だいいち喉を通りはしないし、見るだけでも羞(はずか)しかった。行ってぶちまけてしまおうと思っても、目方が数百斤にもなったようで、持ちあがらなかった。」
(以下略)

この訳文の「訳注」には,
  原文「」。本篇の表題にかかわるこの植物名をと解するのは、『史記』「伯夷列伝」の唐の司馬貞の『索隠』の説で、日本ではこれがひろく受け入れられ、故事成語としても定着してしまっているので、翻訳も従うほかないが、『詩経』「小雅・采」のを、三国呉の陸磯の『毛詩鳥獣草木疏』いらい、俗に「巣菜」または「野或豆」と呼ぶ豆科の蔓生の植物(この茎や葉も食用になる)と解する定説があり、「伯夷列伝」に関しても『索隠』の説はむしろ少数ないし孤立意見に属する。本題にはこの草の形状までは書かれていないが、『詩経』の伝統的訓話が旧読書人の世界に持った強い力からも、若いころ植物の観察や栽培に熱心だったその関心からも、作者が、おそらく『詩経』にを同時に歌う例(「国風・草虫」「小雅・四月」)もあることにもとづくだけの、『索隠』の簡単な注を特に信じたとは、考えにくい。」とある.

さらに栄養面から考えても,食物繊維には富むものの,蛋白質を殆んど含まぬワラビ・ゼンマイでは,三年間もの「顏色不異」の健康は維持できず,この点からも,伯夷と叔斉は栄養分に富むマメ科の若芽や,種子を食したと考えたほうが理にかなっている(次記事).

魯迅の小品には,を食べなくなった後,天が哀れんで,鹿を遣わし,その乳で二人は命を永らえていたが,弟の斉が,乳を与えてくれる鹿の肉を食ったらさぞ美味かろうと邪な考えを持ったため,この鹿が逃げだし,ついには二人が餓死したとの,情けないような伝説も加えている.



2015年7月8日水曜日

カラスノエンドウ(8) 薇 「伯夷・叔斉」伝説-2,「不食周粟 食薇 三年顏色不異」その後,呂氏春秋,古史考,論語義疏,太平御覧,路史(三泰記・類林)

Vicia sativa subsp. nigra
2015年5月 シロバナカラスノエンドウ
伯夷・叔斉は,自分たちの「義」の声を無視した周の国家になったのに絶望し,首陽山に隠棲し,周の粟は食べないで,山に生えていた山草,を食して三年間,健康に暮らしていた.ところが,おせっかいな者(諸説あり)が,「天下は周のもの,山に生えている草木も凡て周の皇帝のものではないか」と指摘したので,二人はを食べることも出来ずに餓死した.という説話が残されている.
更に,を食べなくなった後,天が哀れんで,白い鹿を遣わし,その乳で二人は命を永らえていたが,弟の斉が,乳を与えてくれる鹿の肉を食ったらさぞ美味かろうと邪な考えを持ったため,この鹿が逃げだし,ついには二人が餓死したとの,がっかりするような伝説も残っている.

★秦の呂不韋編纂『呂氏春秋』(秦の始皇8年(紀元前239年)完成)では武王の思想や行動は詳しく記し,論評しているが,その後の伯夷・叔斉二人については,「二子北行して,首陽の下に至たりて餓う。 (中略) 此の二士は,皆,身を出し生を棄て,以て其の意を立つ.輕重先づ定まればなり.」と記しているに止まり,薇や餓死の状況については触れていない.
「《季冬紀》,《誠廉》
昔周之將興也,有士二人,處於孤竹,曰伯夷、叔齊。二人相謂曰:「吾聞西方有偏伯焉,似將有道者,今吾奚為處乎此哉?」二子西行如周,至於岐陽,則文王已歿矣。武王即位,觀周德,則王使叔旦就膠鬲於次四,而與之盟曰:「加富三等,就官一列。」為三書同辭,血之以牲,埋一於四,皆以一歸。又使保召公就微子開於共頭之下,而與之盟曰:「世為長侯,守殷常祀,相奉桑林,宜私孟諸。」為三書同辭,血之以牲,埋一於共頭之下,皆以一歸。伯夷、叔齊聞之,相視而笑曰:「譆,異乎哉!此非吾所謂道也。昔者神農氏之有天下也,時祀盡敬而不祈福也。其於人也,忠信盡治而無求焉。樂正與為正,樂治與為治,不以人之壞自成也,不以人之庳自高也。今周見殷之僻亂也,而遽為之正與治,上謀而行貨,阻丘而保威也。割牲而盟以為信,因四與共頭以明行,揚夢以眾,殺伐以要利,以此紹殷,是以亂易暴也。吾聞古之士,遭乎治世,不避其任,遭乎亂世,不為苟在。今天下闇,周德衰矣。與其並乎周以漫吾身也,不若避之以潔吾行。二子北行,至首陽之下而餓焉。人之情莫不有重,莫不有輕。有所重則欲全之,有所輕則以養所重。伯夷、叔齊,此二士者,皆出身棄生以立其意,輕重先定也」

★魏晋の周撰『古史考』では,野有婦人が二人の思想と生活の矛盾の指摘をしたので,周の野草も食べず餓死したとある.
《史記索隱》引二十七事
「伯夷叔齊,殷之末世孤竹君之二子也,隱於首陽山,采而食之,野有婦人謂之曰:「子義不食周粟,此亦周之草木也,」於是餓死。《文選辯命論》注

★梁の皇侃(おうがん)(488545)『論語義疏』何晏(かあん)の《論語集解(しつかい)》にもとづきそれ以後の六朝人の説を集めてさらに解釈したもの。古義を知るのに貴重で,また仏教や老荘の盛んな時代の解として特色がある。中国では喪失し,日本に伝わったものを江戸時代に根本遜志が校刻して逆輸出し,中国の学界を驚かせた。
その「論語季氏第十六」の章には,張石虎という人が,隠棲して薇(草木)を食していた二人に「何食周草木」と云ったので,伯夷・叔齊は恥じて何も食せずに七日後に餓死したとある.

「●齊景公有馬千駟,死之日民無德而稱焉。伯夷叔齊,餓于首陽之下,民到于今稱之。其斯之謂與
齊景公有馬千駟,千駟四千匹馬也。
死之日民無德而稱焉。生時無德而多馬。一死則身名倶消。故民無所稱譽也。
伯夷叔齊,餓于首陽之下,夷齊是孤竹君之二子也。兄弟讓國。遂入隱于首陽之山。武王伐紂。夷齊叩武王馬諫曰。爲臣伐君。豈得忠乎。横尸不葬。豈得孝乎。武王左右欲殺之。太公曰。此孤竹君之子。兄弟讓國。大王不能制也。隱於首陽山。合方立義。不可殺。是賢人。即止也。夷齊反首陽山。責身不食周粟。唯食草木而已。後遼西令支縣祐家白張石虎往蒲採材。謂夷齊曰。汝不食周粟。何食周草木。夷齊聞言。即遂不食七日餓死。云首陽下者。在山邊側也。(以下略)」

★李昉等による奉勅撰『太平御覧』中国宋代初期,977年から983年(太平興国2-8年)頃の成立。太宗が毎晩3巻ずつを閲読したと伝えられる.これの「薇」の項に,三秦記には武王が二人の言動の矛盾を戒めたと記されているとある.
「第九百九十七巻
爾雅曰薇垂水生於水邊
毛詩鵲草蟲曰陟彼南山言彩其薇
又曰采薇遣戍役也采薇采彩薇薇亦柔止
史記曰伯夷叔齊義不食周粟隱首陽山採薇而食之
廣志曰薇葉似萍可蒸食
三秦記曰伯夷食三年顏色不異武王戒之不食而死」

★宋の羅泌(1131年—1189年)撰『路史』には,白鹿の乳が登場する.
「路史余論巻三    三泰記                 伯斉食三年顔色不変武王戒之,不食而死
路史後記巻四    類林                     伯斉棄三年不食,有白鹿乳之(原本喪失)」

路史餘論 三        夷齋首山
夷齋家廟在蒲之蒲阪.首陽山之南.
三泰記謂夷齋食三年.顔色不變.武王戒之.不食而死而爾雅云.芑白苗犍爲舎.人以爲夷齋所食首陽之草也.程晏以不食爲飽.以失仁爲餒.餓.乃其飽死乃其生而李徳裕且以聞媛不爲不智不義棄兄之禄不仁伊川程氏則云止是不食其禄非餓不食聖言皦日而衆言猶不一惜哉.

路史後紀 四        禅通紀 炎帝紀下 
炎帝柱神農子也 (中略)
西伯之興有允及致老矣而歸俌之未至西伯薨武急伐商叩諫不及義棄周祿北之止陽上俾摩子難之逮聞淑媛之言遂●(木+適)終焉是為伯夷叔齋 子祠墓在蒲坂首陽山首陽靁首也事著不疑子之来事詳呂氏書當時何有叩馬之事●史攷云夷齋采徽有婦人難之故劉考標有夷齋斃嬪之事而黄庭堅謂無餓死之事列士傳云夷齋諫周公曰義士王欲以為左相去之王摩子往難之遂不食事有信不信 類林以為棄不食有白鹿乳之韓非以為武王遜以天下而不受有見餘 先是齊嫡而夷長父初欲立夷不可初薧夷齋偕巽去之北海之濵于是憑立 論語識云伯夷叔齋義遜籠擧孔叢注云夷齋墨台初之二子也按允字公信伯夷也致字公遠叔也夷為謚春秋少陽篇允字公信智字公達不同今北海有孤山九域志引孟子隱居北海濱即此父初字子朝見韓詩外傳

2015年7月1日水曜日

カラスノエンドウ-7 薇 「伯夷・叔斉」伝説,論語・微子,史記・伯夷列傳. 伯夷・叔斉は薇を食べられずに餓死

Vicia sativa subsp. nigra
2015年 6月 茨城県南部
中国古代の義人として,また,「周の粟は食らわず」の諺の源としてよく知られる「伯夷・叔斉」は,その義が時の君主周王から受け入れられぬのを知って,周の穀物を食べる事を拒否し,山に隠遁し,野草の「」を食べていたが,やがて餓死したと伝えられる.

「伯夷・叔斉」は,「義人・聖人」の生き方・死に方の一つのモデルとして,孔子の『論語』をはじめ,『孟子(公孫丑章句上)』,『荘子(篇:大宗師,外篇:駢拇)』など多くの著作に現われ,また,それぞれの注釈・解説本でその人生が評価・論評されている.

中国,春秋時代の思想家孔子とその弟子たちの言行録『論語』の「微子第十八」には,「逸民。伯夷。叔齊。虞仲。夷逸。朱張。柳下惠。少連。子曰。不降其志。不辱其身。伯夷叔齊與。(古来、野の賢者として名高いのは、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)などであるが、先師はいわれた。あくまでも志を曲げず、身を辱かしめなかったのは、伯夷と叔斉であろう。)と高く評価されている.(左図「天文版論語」1533 NDL)

但し,その生涯については季氏第十六「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉。伯夷叔齊餓于首陽之下,民到于今稱之。其斯之謂與(斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。(詩経に、『黄金も玉も何かせん、心ばえこそ尊けれ』とあるが、)そういうことをいったものであろう)」とあるのみで,なぜ,孔子が伯夷叔齊を高く評価したのか,詳細は読み取れない.

最も詳しく,それ以降の「伯夷・叔斉」の説話の基本となっている記事は,中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された『史記』,「列傳」の最初の章「卷六十一 伯夷列傳第一」にある(句読点,段は適宜挿入).この傳によって,伯夷・叔斉の行動・生涯はよりドラマティックとなり,人々の心を打ったと考えられる.

「(略)
其傳曰、伯夷・叔齋、狐竹君之二子也。 父欲立叔齋。 及父卒、叔齋譲伯夷。 伯夷曰、父命也。逐逃去。叔齋亦不肯立而逃之。 國人立其中子。
於是伯夷叔齋聞西伯昌善養老、盍往歸焉、及至西伯卒。 武王載木主、號爲文王、東伐紂。
伯夷・叔齋、叩馬而諌曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。 左右欲兵之。 太公曰、此義人也。 扶而去之。
武王已平殷亂、天下宗周。 而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟。 隠於首陽山、采而食。 及餓且死作歌。其辞曰、「登彼西山兮、采其矣。以暴易暴兮、不知其非矣。」
神農・虞・夏、忽焉沒兮。 吾安適歸矣。 于嗟徂兮 命之衰矣。 遂餓死於首陽山。 由此観之、怨邪非邪。」

殷末期,孤竹国の君主の長男(夷)と三男(斉)は,父の死後,夷は遺志に従って斉が王位を継ぐべきだとし,斉は幼長の順に従い長兄の夷に位を譲ったが,伯夷はそれでは父の命に背くことになると国を出奔してしまった.兄を差し置いては王位につけないと伯夷の後を追って叔斉も国を出て,二人で西伯昌が老人をいたわると聞いて,その元へ向かった.ところが西伯昌が死ぬと,その息子武王は父の位牌を掲げて殷の紂王の討伐軍を起こした.武王のこの行動を「孝」と「仁」をもとるものとして諫めたが,聞き入られなかった伯夷・叔斉は,武王が殷を滅ぼし,天下を周のものした後,周の「粟(穀物)」を食べることを潔しとせず,首陽山に隠棲し山草の「」を食していたが,最後には「彼(か)の西山(せいざん)に登(のぼり)り,其(その)(び)を采(と)る.暴(ぼう)を以(も)って暴(ぼう)に易(か)へ,其(そ)の非(ひ)を知(し)らず」という「歌」を残して餓死したと伝える.

この話だけだと,伯夷・叔斉の死は「」のみを食して「粟」を食べなかった故の餓死とも取れるが,彼らは山中で「」を食べて,健康に三年間は生活していたが,ある人に「その「」も周のもの」と指摘され,「」も食すことができずに,ついに餓死したという傳話がある(後続記事).

このように「」は,栄養に富む救荒植物であったと考えられるので,この説話は「」は殆んど栄養の無いワラビやゼンマイではなく,たんぱく質に富むマメ科の野生植物-カラスノエンドウと考える傍証としてよいだろう.詳細は次記事にて.