2015年7月1日水曜日

カラスノエンドウ-7 薇 「伯夷・叔斉」伝説,論語・微子,史記・伯夷列傳. 伯夷・叔斉は薇を食べられずに餓死

Vicia sativa subsp. nigra
2015年 6月 茨城県南部
中国古代の義人として,また,「周の粟は食らわず」の諺の源としてよく知られる「伯夷・叔斉」は,その義が時の君主周王から受け入れられぬのを知って,周の穀物を食べる事を拒否し,山に隠遁し,野草の「」を食べていたが,やがて餓死したと伝えられる.

「伯夷・叔斉」は,「義人・聖人」の生き方・死に方の一つのモデルとして,孔子の『論語』をはじめ,『孟子(公孫丑章句上)』,『荘子(篇:大宗師,外篇:駢拇)』など多くの著作に現われ,また,それぞれの注釈・解説本でその人生が評価・論評されている.

中国,春秋時代の思想家孔子とその弟子たちの言行録『論語』の「微子第十八」には,「逸民。伯夷。叔齊。虞仲。夷逸。朱張。柳下惠。少連。子曰。不降其志。不辱其身。伯夷叔齊與。(古来、野の賢者として名高いのは、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)・虞仲(ぐちゅう)・夷逸(いいつ)・朱張(しゅちょう)・柳下恵(りゅうかけい)・少連(しょうれん)などであるが、先師はいわれた。あくまでも志を曲げず、身を辱かしめなかったのは、伯夷と叔斉であろう。)と高く評価されている.(左図「天文版論語」1533 NDL)

但し,その生涯については季氏第十六「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉。伯夷叔齊餓于首陽之下,民到于今稱之。其斯之謂與(斉の景公は馬四千頭を養っていたほど富んでいたが、その死にあたって、人民はだれ一人としてその徳をたたえるものがなかった。伯夷叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、人民は今にいたるまでその徳をたたえている。(詩経に、『黄金も玉も何かせん、心ばえこそ尊けれ』とあるが、)そういうことをいったものであろう)」とあるのみで,なぜ,孔子が伯夷叔齊を高く評価したのか,詳細は読み取れない.

最も詳しく,それ以降の「伯夷・叔斉」の説話の基本となっている記事は,中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された『史記』,「列傳」の最初の章「卷六十一 伯夷列傳第一」にある(句読点,段は適宜挿入).この傳によって,伯夷・叔斉の行動・生涯はよりドラマティックとなり,人々の心を打ったと考えられる.

「(略)
其傳曰、伯夷・叔齋、狐竹君之二子也。 父欲立叔齋。 及父卒、叔齋譲伯夷。 伯夷曰、父命也。逐逃去。叔齋亦不肯立而逃之。 國人立其中子。
於是伯夷叔齋聞西伯昌善養老、盍往歸焉、及至西伯卒。 武王載木主、號爲文王、東伐紂。
伯夷・叔齋、叩馬而諌曰、父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。 左右欲兵之。 太公曰、此義人也。 扶而去之。
武王已平殷亂、天下宗周。 而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟。 隠於首陽山、采而食。 及餓且死作歌。其辞曰、「登彼西山兮、采其矣。以暴易暴兮、不知其非矣。」
神農・虞・夏、忽焉沒兮。 吾安適歸矣。 于嗟徂兮 命之衰矣。 遂餓死於首陽山。 由此観之、怨邪非邪。」

殷末期,孤竹国の君主の長男(夷)と三男(斉)は,父の死後,夷は遺志に従って斉が王位を継ぐべきだとし,斉は幼長の順に従い長兄の夷に位を譲ったが,伯夷はそれでは父の命に背くことになると国を出奔してしまった.兄を差し置いては王位につけないと伯夷の後を追って叔斉も国を出て,二人で西伯昌が老人をいたわると聞いて,その元へ向かった.ところが西伯昌が死ぬと,その息子武王は父の位牌を掲げて殷の紂王の討伐軍を起こした.武王のこの行動を「孝」と「仁」をもとるものとして諫めたが,聞き入られなかった伯夷・叔斉は,武王が殷を滅ぼし,天下を周のものした後,周の「粟(穀物)」を食べることを潔しとせず,首陽山に隠棲し山草の「」を食していたが,最後には「彼(か)の西山(せいざん)に登(のぼり)り,其(その)(び)を采(と)る.暴(ぼう)を以(も)って暴(ぼう)に易(か)へ,其(そ)の非(ひ)を知(し)らず」という「歌」を残して餓死したと伝える.

この話だけだと,伯夷・叔斉の死は「」のみを食して「粟」を食べなかった故の餓死とも取れるが,彼らは山中で「」を食べて,健康に三年間は生活していたが,ある人に「その「」も周のもの」と指摘され,「」も食すことができずに,ついに餓死したという傳話がある(後続記事).

このように「」は,栄養に富む救荒植物であったと考えられるので,この説話は「」は殆んど栄養の無いワラビやゼンマイではなく,たんぱく質に富むマメ科の野生植物-カラスノエンドウと考える傍証としてよいだろう.詳細は次記事にて.



0 件のコメント: