Vicia sativa subsp. nigra
2015年5月 |
残念ながら和訳を見つけることは出来なかったが,★明の作者未詳『七十二朝人物演義 又題《七十二朝四書人物演義》,四十卷』明朝(1366-1843)後期 には,老婦人が穀類だけではなく山野草も周のものだと指摘し,伯夷・叔斉は手に持っていた薇を投げ捨てて,ついには餓死したと記している.
「 第十六卷伯夷叔齊餓於首陽之下
他二人當初隱在海濱,原自耕自食的。如今到了首陽山下,他便商量道:武王以臣弒君得了天下,所得皆不義之物,我們就是自己耕種,終久算周家之粟,只是枵腹行吟,倒也潔淨得有趣。二人在山下走了一回,立了一回,但見泉水涓涓而流。伯夷道:「這是天地間自然的流水,須不是周家的。」叔齊道:「正是。」二人隨意飲了些,又在山下觀看多時,那崖壁邊都是薇草。叔齊指與伯夷道:「這也是天地間自然的生發,亦不是周家的。況這草不知可吃不可吃,如果可吃,是天不生無祿之人,可保性命。或不可吃,死亦何恨?」伯夷道:「且試一試看。」兩人便彩來生嚼下肚,安然無事。後人都曉得食薇,春夏取葉,秋冬取根,皆夷、齊故事。
卻說他二人登山食薇,臨流飲水,無憂無慮,即是家常,更有寂寥。作歌一首,登於首陽山巔,朗然高吟,以發其輕世肆志之意。歌曰:
登彼西山兮,彩其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏忽焉沒兮,我安適歸矣。嗟吁,徂兮命之衰矣。
如此者三年,顏色不變,似有仙氣。一日,登山采薇,放歌已畢,只見有一老婦負擔而來這首陽山中。人跡不到之處,設有一人來時,疑是周人混雜,他就住不牢了。如今忽見這一個老婦,倒也吃了一驚,又見老婦打扮非常:
頂排箬笠,半是新筍初落之籜。身披布襖,似非木棉捻就之紗。鬟垂蒼耳,容顏黧黑鬢飛蓬。蹺躡芒鞋,行步龍鍾腰漸軟。宛似饁田之婦,定非漂絮之人。
那老婦人看看走近前來,放下擔子,問道:「二位官人方才所歌甚是好聽,但老身不知是甚麼意思。」夷、齊道:「你那裡曉得我們心事。」也無別話,竟去拿著薇草而食。老婦又問道:「你們吃的是甚麼東西?」夷、齊道:「就是山上生的薇草。」老婦道:「薇草可以充飢麼?」夷、齊道:「薇草那裡充得飢,不過胡亂咀嚼度日而已。」老婦道:「為何不吃飯,偏要吃他?」夷、齊被他纏不過,只得說道:「我兩人恥食周家粟米,甘忍飢餓,權把他來消閒。」那老婦人從從容容說出兩句話來道:「二位義不食周粟,這薇草也是周家的草木。」說罷依舊挑著擔子去了。夷、齊二人聽了這兩句,猛然一驚道:「是矣!是矣!」就將手中所彩的擲於地下,以後再不彩吃,竟餓死於首陽山下。後人憐他二人是義士,將來埋在山下。至今首陽有夷、齊之墓。孔子曾說伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。又說二人求仁而得仁,並沒有怨心。詩曰:
一意重天倫,遜國無所疑。萬世計綱常,諫伐死不辭。
求仁而得仁,夫子言如斯。死飽不死飢,寂寞塚壘壘。」
中国では清代になると考証学とよばれる実証的な学問が興る.考証学では再び古注が注目され,何晏の『論語集解』をもとに,諸家の研究を加えて『論語正義』が著された.いたずらに新注を否定せず,解釈は詳しく明快であるため,近世の論語注釈書の中で評価が高い.その中の「伯夷・叔斉」伝説の項では,「首陽山下採薇而食,終餓死」としかない.
清劉寶楠,劉恭冕編著『論語正義 全二十四巻』(清同治5(1866)刊 半6冊)
巻十七
疏「 齊景公」至「謂與」。
○正義曰:此章貴德也。「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉」 者,景公,齊君。景,諡也。馬四匹為駟。千駟,四千匹也。言齊君景公雖富有千駟,及其死也,無德可稱。「伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。其斯之謂與」者,夷、齊,孤竹君之二子,讓位適周。遇武王伐紂,諫之,不入。及武王既誅紂,義不食周粟,故於河東郡蒲阪縣首陽山下採薇而食,終餓死。雖然窮餓,民到於今稱之,以為古之賢人。其此所謂以德為稱者與疏「 齊景公」至「謂與」。○正義曰:此章貴德也。「齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉」 者,景公,齊君。景,諡也。馬四匹為駟。千駟,四千匹也。言齊君景公雖富有千駟,及其死也,無德可稱。「伯夷、叔齊餓於首陽之下,民到於今稱之。其斯之謂與」者,夷、齊,孤竹君之二子,讓位適周。遇武王伐紂,諫之,不入。及武王既誅紂,義不食周粟,故於河東郡蒲阪縣首陽山下採薇而食,終餓死。雖然窮餓,民到於今稱之,以為古之賢人。其此所謂以德為稱者與
かの魯迅(1881 – 1936)も,1936年上海、文化生活出版社初版。巴金編集の『文学叢刊』の一冊で,1922年から1935年までに執筆した小説 8 篇を収める『故事新編』のなかの一篇,1935年12月作の「采薇」(http://www.millionbook.net/mj/l/luxun/gxjb/002.htm)において,これを題材にしている.本人が「ふざけて書いた」と述懐しているように,この説話を人間くさい,面白おかしい小品にしている.
這時候,伯夷和叔齊也在一天一天的瘦下去了。這并非為了忙于應酬,因為參觀者倒在逐漸的減少。所苦的是薇菜也已經逐漸的減少,每天要找一捧,總得費許多力,走許多路。
然而禍不單行。掉在井里面的時候,上面偏又來了一塊大石頭。
有一天,他們倆正在吃烤薇菜,不容易找,所以這午餐已在下午了。忽然走來了一個二十來歲的女人,先前是沒有見過的,看她模樣,好像是闊人家里的婢女。
“您吃飯嗎?”她問。
叔齊仰起臉來,連忙陪笑,點點頭。
“這是什么玩意儿呀?”她又問。
“薇。”伯夷說。
“怎么吃著這樣的玩意儿的呀?”
“因為我們是不食周粟……”
伯夷剛剛說出口,叔齊赶緊使一個眼色,但那女人好像聰明得很,已經懂得了。她冷笑了一下,于是大義凜然的斬釘截鐵的說道:
“‘普天之下,莫非王土’,你們在吃的薇,難道不是我們圣上的嗎!”
伯夷和叔齊听得清清楚楚,到了末一句,就好像一個大霹靂,震得他們發昏;待到清醒過來,那鴉頭已經不見了。薇,自然是不吃,也吃不下去了,而且連看看也害羞,連要去搬開它,也抬不起手來,覺得仿佛有好几百斤重。
(後略)
和訳『魯迅全集 3 野草・朝花夕拾・故事新編』学習研究社 (1985)の「采薇」木山英雄(訳)では,薇を蕨と訳しているものの,その訳注で植物に造詣の深い魯迅がその説を信じたとは考えにくいとしている.
「そのころ、伯夷と叔斉のほうでも、日ごとに痩(や)せ細りだしていた。人あしらいに疲れて、というわけではない。見学者はしだいに少なくなっていたのだから。こたえたのは、蕨まで少なくなって、毎日手のひらに一杯も探すためには、よほど頑張って、よほどの道のりを歩かねはならぬことである。
しかも悪いことはとかく重なるもの、泣き面(つら)にかぎって蜂(はち)が刺しにきた。
ある日、ふたりは焼き蕨を食っていた。見つけるのに苦労して、昼飯とはいえ午後もだいぶまわったころだった。そこへひょっこり二十歳ばかりの女があらわれた。以前会ったことはないが、風体からして、大家の女中といったところか。
「お食事?」彼女はいった。
叔斉は顔をあげたとたんに、愛想笑いをつくって、うなずいた。
「なあに、そのへんなもの」彼女はさらに訊(たず)ねた。
「蕨ですじゃ」伯夷が答えた。
「なんでこんなものを食べるのかしら」
「わしどもは周の粟を食まぬによって……」
伯夷がいいかけるのを、叔斉は慌てて眼で制したが、女はなかなかの利発者らしく、早くも納得したようにフンと笑うと、大義我に有りとばかりに、容赦なく断を下したのである。
「『普天ノ下、王土二非ザル莫(な)シ』。あんたがたの食べてる蕨だって、聖王さまのものじゃないですか」
伯夷と叔斉は残らず聞き取って、しまいの一句に至り、がんと霹靂(へきれき)に打たれたように、気を失った。
意識が戻ったときには、女中の姿はなかった。蕨は、むろんもう食わぬ。だいいち喉を通りはしないし、見るだけでも羞(はずか)しかった。行ってぶちまけてしまおうと思っても、目方が数百斤にもなったようで、持ちあがらなかった。」
(以下略)
この訳文の「訳注」には,
蕨 原文「薇」。本篇の表題にかかわるこの植物名を蕨と解するのは、『史記』「伯夷列伝」の唐の司馬貞の『索隠』の説で、日本ではこれがひろく受け入れられ、故事成語としても定着してしまっているので、翻訳も従うほかないが、『詩経』「小雅・采薇」の薇を、三国呉の陸磯の『毛詩鳥獣草木疏』いらい、俗に「巣菜」または「野或豆」と呼ぶ豆科の蔓生の植物(この茎や葉も食用になる)と解する定説があり、「伯夷列伝」に関しても『索隠』の説はむしろ少数ないし孤立意見に属する。本題にはこの草の形状までは書かれていないが、『詩経』の伝統的訓話が旧読書人の世界に持った強い力からも、若いころ植物の観察や栽培に熱心だったその関心からも、作者が、おそらく『詩経』に薇と蕨を同時に歌う例(「国風・草虫」「小雅・四月」)もあることにもとづくだけの、『索隠』の簡単な注を特に信じたとは、考えにくい。」とある.
さらに栄養面から考えても,食物繊維には富むものの,蛋白質を殆んど含まぬワラビ・ゼンマイでは,三年間もの「顏色不異」の健康は維持できず,この点からも,伯夷と叔斉は栄養分に富むマメ科の若芽や,種子を食したと考えたほうが理にかなっている(次記事).
魯迅の小品には,薇を食べなくなった後,天が哀れんで,鹿を遣わし,その乳で二人は命を永らえていたが,弟の斉が,乳を与えてくれる鹿の肉を食ったらさぞ美味かろうと邪な考えを持ったため,この鹿が逃げだし,ついには二人が餓死したとの,情けないような伝説も加えている.
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