Vicia sativa subsp. nigra
2015年5月 シロバナカラスノエンドウ |
伯夷・叔斉は,自分たちの「義」の声を無視した周の国家になったのに絶望し,首陽山に隠棲し,周の粟は食べないで,山に生えていた山草,薇を食して三年間,健康に暮らしていた.ところが,おせっかいな者(諸説あり)が,「天下は周のもの,山に生えている草木も凡て周の皇帝のものではないか」と指摘したので,二人は薇を食べることも出来ずに餓死した.という説話が残されている.
更に,薇を食べなくなった後,天が哀れんで,白い鹿を遣わし,その乳で二人は命を永らえていたが,弟の斉が,乳を与えてくれる鹿の肉を食ったらさぞ美味かろうと邪な考えを持ったため,この鹿が逃げだし,ついには二人が餓死したとの,がっかりするような伝説も残っている.
★秦の呂不韋編纂『呂氏春秋』(秦の始皇8年(紀元前239年)完成)では武王の思想や行動は詳しく記し,論評しているが,その後の伯夷・叔斉二人については,「二子北行して,首陽の下に至たりて餓う。 (中略) 此の二士は,皆,身を出し生を棄て,以て其の意を立つ.輕重先づ定まればなり.」と記しているに止まり,薇や餓死の状況については触れていない.
「《季冬紀》,《誠廉》
昔周之將興也,有士二人,處於孤竹,曰伯夷、叔齊。二人相謂曰:「吾聞西方有偏伯焉,似將有道者,今吾奚為處乎此哉?」二子西行如周,至於岐陽,則文王已歿矣。武王即位,觀周德,則王使叔旦就膠鬲於次四內,而與之盟曰:「加富三等,就官一列。」為三書同辭,血之以牲,埋一於四內,皆以一歸。又使保召公就微子開於共頭之下,而與之盟曰:「世為長侯,守殷常祀,相奉桑林,宜私孟諸。」為三書同辭,血之以牲,埋一於共頭之下,皆以一歸。伯夷、叔齊聞之,相視而笑曰:「譆,異乎哉!此非吾所謂道也。昔者神農氏之有天下也,時祀盡敬而不祈福也。其於人也,忠信盡治而無求焉。樂正與為正,樂治與為治,不以人之壞自成也,不以人之庳自高也。今周見殷之僻亂也,而遽為之正與治,上謀而行貨,阻丘而保威也。割牲而盟以為信,因四內與共頭以明行,揚夢以說眾,殺伐以要利,以此紹殷,是以亂易暴也。吾聞古之士,遭乎治世,不避其任,遭乎亂世,不為苟在。今天下闇,周德衰矣。與其並乎周以漫吾身也,不若避之以潔吾行。二子北行,至首陽之下而餓焉。人之情莫不有重,莫不有輕。有所重則欲全之,有所輕則以養所重。伯夷、叔齊,此二士者,皆出身棄生以立其意,輕重先定也」
★魏晋の谯周撰『古史考』では,野有婦人が二人の思想と生活の矛盾の指摘をしたので,周の野草も食べず餓死したとある.
《史記索隱》引二十七事
「伯夷叔齊,殷之末世孤竹君之二子也,隱於首陽山,采薇而食之,野有婦人謂之曰:「子義不食周粟,此亦周之草木也,」於是餓死。《文選‧辯命論》注
★梁の皇侃(おうがん)(488‐545)著『論語義疏』何晏(かあん)の《論語集解(しつかい)》にもとづきそれ以後の六朝人の説を集めてさらに解釈したもの。古義を知るのに貴重で,また仏教や老荘の盛んな時代の解として特色がある。中国では喪失し,日本に伝わったものを江戸時代に根本遜志が校刻して逆輸出し,中国の学界を驚かせた。
その「論語季氏第十六」の章には,張石虎という人が,隠棲して薇(草木)を食していた二人に「何食周草木」と云ったので,伯夷・叔齊は恥じて何も食せずに七日後に餓死したとある.
「●齊景公有馬千駟,死之日民無德而稱焉。伯夷叔齊,餓于首陽之下,民到于今稱之。其斯之謂與
齊景公有馬千駟,千駟四千匹馬也。
死之日民無德而稱焉。生時無德而多馬。一死則身名倶消。故民無所稱譽也。
伯夷叔齊,餓于首陽之下,夷齊是孤竹君之二子也。兄弟讓國。遂入隱于首陽之山。武王伐紂。夷齊叩武王馬諫曰。爲臣伐君。豈得忠乎。横尸不葬。豈得孝乎。武王左右欲殺之。太公曰。此孤竹君之子。兄弟讓國。大王不能制也。隱於首陽山。合方立義。不可殺。是賢人。即止也。夷齊反首陽山。責身不食周粟。唯食草木而已。後遼西令支縣祐家白張石虎往蒲採材。謂夷齊曰。汝不食周粟。何食周草木。夷齊聞言。即遂不食七日餓死。云首陽下者。在山邊側也。(以下略)」
★李昉等による奉勅撰『太平御覧』中国宋代初期,977年から983年(太平興国2-8年)頃の成立。太宗が毎晩3巻ずつを閲読したと伝えられる.これの「薇」の項に,三秦記には武王が二人の言動の矛盾を戒めたと記されているとある.
「第九百九十七巻
薇
爾雅曰薇垂水生於水邊
毛詩鵲巢草蟲曰陟彼南山言彩其薇
又曰采薇遣戍役也采薇采彩薇薇亦柔止
史記曰伯夷叔齊義不食周粟隱首陽山採薇而食之
廣志曰薇葉似萍可蒸食
三秦記曰伯夷食薇三年顏色不異武王戒之不食而死」
★宋の羅泌(1131年—1189年)撰『路史』には,白鹿の乳が登場する.
「路史余論巻三 三泰記 伯斉食薇三年,顔色不変,武王戒之,不食而死
路史後記巻四 類林 伯斉棄薇三年不食,有白鹿乳之(原本喪失)」
路史餘論 三 夷齋首山
夷齋家廟在蒲之蒲阪.首陽山之南.
三泰記謂夷齋食薇三年.顔色不變.武王戒之.不食而死而爾雅云.芑白苗犍爲舎.人以爲夷齋所食首陽之草也.程晏以不食爲飽.以失仁爲餒.餓.乃其飽死乃其生而李徳裕且以聞媛不薇爲不智不義棄兄之禄不仁伊川程氏則云止是不食其禄非餓不食聖言皦日而衆言猶不一惜哉.
路史後紀 四 禅通紀 炎帝紀下
炎帝柱神農子也 (中略)
西伯之興有允及致老矣而歸俌之未至西伯薨武急伐商叩諫不及義棄周祿北之止陽上俾摩子難之逮聞淑媛之言遂●(木+適)薇終焉是為伯夷叔齋 二子祠墓在蒲坂首陽山首陽靁首也事著不疑子之来事詳呂氏書當時何有叩馬之事●史攷云夷齋采徽有婦人難之故劉考標有夷齋斃嬪之事而黄庭堅謂無餓死之事列士傳云夷齋之諫周公曰義士王欲以為左相去之王摩子往難之遂不食事有信不信 類林以為棄薇不食有白鹿乳之韓非以為武王遜以天下而不受有說見餘論 先是齊嫡而夷長父初欲立夷不可初薧夷齋偕巽去之北海之濵于是憑立 論語識云伯夷叔齋義遜籠擧孔叢注云夷齋墨台初之二子也按允字公信伯夷也致字公遠叔齋也夷齋為謚春秋少陽篇允字公信智字公達不同今北海有孤山九域志引孟子隱居北海濱即此父初字子朝見韓詩外傳
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