イチハツは,その根が鳶尾根,鳶尾頭という生薬として売られ,また「知母(ユリ科,ハナスゲの根茎)」の増量剤として用いられていた.
また,アヤメの類として一番先に咲く庭園花卉として,さらに,茅葺屋根の棟に土を盛り,屋根を抑える「芝棟」用の植物としても用いられていた.
外来種で栽培の歴史が短い故か,地方名は多くはないが,関東では「芝棟」に関連する名が残る.
品名を和名のイロハ順とし,ついで水・火・金・土・石・草・木・虫・魚・介・禽・獣に分け,各項にその漢名・和の異名・形状などを記した辞典.序によれば,『物品識名』は,初め水谷豊文(1779-1833)の友人岡林清達が着手したが眼病で中絶し,豊文が継続,完成させた.後編『物品識名拾遺』(特1-2504)は豊文の単独執筆である.イロハ順といっても,江戸時代の場合は第2字目以下はイロハ順ではないが,本書は「キリシマ・キリ・キリンケツ」のように,第2字目も同じ名を連続する工夫をしているので,一般的なイロハ引より使いやすい.本書は和名中心の動植鉱物辞典の嚆矢だったので,大歓迎された.
その「乾 以部」に,「イチハツ 鳶尾 紫羅蘭 本草彙言」とある.
★加地井高茂編『薬品手引草』(1843) は,本草で用いられる動植鉱物の和名から漢名を引ける辞書で,その「イ」の部に「いちはつ 紫羅傘(シラサウ)之」とある.
★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』(1852成稿),出版 1856から62年)は,草類1250種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,『草木図説』はリンネの分類に従い,『本草綱目』による配列より近代化されていて,ラテン語の学名や時にオランダ語を加えている.リンネの分類体系のためには雄しべ・雌しべを正確に数える必要があったことは,慾斎の花部の描写を丁寧で正確にし,図を精密に美しくした.
その「巻之二」に
「イチハツ 鳶尾
澤ナク色淡緑,三四月葉間莖ヲ抽クコト亦一尺餘,多クハ一葉アツテ岐ヲナシ毎頂數
片ノ苞アツテ花ヲ出ス.大抵三花甲萎テ乙次之,初頭ハ梗ナク終末ナルハ短梗ヲ
見ル.花大小六瓣,大辧ハ展開微ク垂レ,形燕子花(カキツバタ)ニ似テ幅更ニ闊ク色淡紫碧ニシテ
紫點アリ,瓣心ノ許ニ剪栽様ノ裂片アリ白質紫點,小瓣ハ卵圓ニシテ上ニ立チ色
同シテ紫點少ク毛様裂片ナシ,叉白花或ハ淡黄褐色ノ品アリ實礙圓ニシテ一柱粗シテ
三裂半ニ至ル.末端ニ尖頭齒刻アツテ略花瓣ノ如ク色亦同ク,花心ニアツテ小瓣
ノ間ニ開ク.三雄蘂柱背ニ沿イ灰白色ノ長葯アリ.圖在燕子花 下可照見.實熟シテ鈍三角三區
ニシテ内ニ薄片子ヲ多ク蓄フ.根横行結節多毛味辛ク口舌ヲ刺戟ス.内外用共ニ功
アリ.此類花實根形率子*前説ノ如シ.故ニ已下ノ諸種ニハタヾソノ殊態ヲ舉ルノミ.
第三種
イリス,ゲルマニカ** 羅 ドイッセ,イリス 蘭」とある.
*率子:おおむね
**Iris germanica:ドイツアヤメ,別名:ジャーマンアイリス
★牧野富太郎が上記著作を増補・改定した『増訂草木図説 1-4』(1907-22)には
○第二圖版 Plate II.
イチハツ 鳶尾
Iris tectrorum Maxim.
アヤメ科(鳶尾科) Iridaceae
人家多栽テ花ヲ玩ブ.葉劔狀ニシテ脊ナク數片扁列シ長一尺餘胡蝶(シャガ)草ニ似テ光澤
ナク色淡緑,三四月葉間莖ヲ抽クコト亦一尺餘,多クハ一葉アツテ岐ヲナシ毎頂數片
ノ苞アツテ花ヲ出ス.大抵三花甲萎テ乙次之,初頭ハ梗ナク終末ナルハ短梗ヲ見ル.花
大小六辧,大辧ハ展開微ク垂レ,形燕子花カキツバタニ似テ幅更ニ闊ク色淡紫碧ニシテ紫點アリ,
辧心ノ許ニ剪栽様ノ裂片アリ白質紫點,小辧ハ卵圓ニシテ上ニ立チ色同シテ紫點
少ク毛様裂片ナシ,叉白花或ハ淡黄褐色ノ品アリ實礙圓ニシテ一柱粗シテ三裂半
ニ至ル.末端ニ尖頭齒刻アツテ略花辧ノ如ク色亦同ク,花心ニアツテ小瓣ノ間ニ開ク.
三雄蘂柱背ニ沿イ灰白色ノ長葯アリ.圖在燕子花 下可照見.實熟シテ鈍三角三區ニシテ内ニ薄
片子ヲ多ク蓄フ.根横行結節多毛味辛ク口舌ヲ刺戟ス.内外用共ニ功アリ.此類花實根
形率ネ前説ノ如シ.故ニ已下ノ諸種ニハタヾソノ殊態ヲ舉クルノミ. 附(一)花柱枝ノ
一 廓大圖(補)
第三種
イリス,ゲルマニカ 羅 ドイッセ,イリス 蘭
[補]本種ハ予ハ未ダ我邦ニ於テ野生セルアリヲ見ズタヾ諸州ニ栽植セラルヽア
ルヲ知ルノミ.泰西学者*本種ノ武州横濱附近ノ原野ニ自生スルアルヲ言フモノ
アリト雖ドモ此ノ如キ事實蓋シ之レナルカルベシ,而シテ往々之ヲ藁ヲ以テ葺キタ
ル人家ノ屋脊ニ植ウルヲ見ル種名 tectrrum (屋葢ノ義)ノ生ゼシ所以ナリ,花ハ短小梗
ヲ具ヘ,花蓋筒ハ花葢片ヨリ短シ,花葢片ハ平開シ,蕚片ハ柄アリ,幕(葢?)片ハ圓形ニシテ
紫色ヲ呈シ疎ニ長形ノ點ヲ散布ス.其下部ノ中央ニ鶏冠狀ノ隆起アリテ剪裂(裂片
ノ頂ハ鈍ナリ)シ以テ柄ニ連ル.柄ハ幅闊クシテ中部ニ六條ノ濁紫色縦線アリ.邊縁
ニ同色ノ分枝セル斜出脈條アリ.花辧ハ短柄ヲ有シテ蕚片ヨリ短ク,其旗片ハ橢圓
形ニシテ紫色ヲ成シ柄ハ淡黄色ヲ呈シ邊縁ニハ多數斜走ノ濁紫色脈條アリ,花柱
枝ハ蕚片ノ柄ヨリ少シク長クシテ花葢ノ喉邊ニシテ三岐シ,二個ノ兜片ハ廣橢圓形
ニシテ不齊ノ尖鋸齒アリ.葯ハ白色,花粉モ亦白シ,子房ハ緑色ニシテ三稜ヲ有ス,未
ダ果實ヲ見ズ,叉支那ニ産ス(牧野)」とある.
牧野はイチハツが日本には自生していない事をこの書のみならず,自著や『国訳本草綱目』の鳶尾の項の頭注でも,繰り返し述べている.
*泰西学者:学名を付けたマキシモヴィッチの事と思われる(西欧人文献の項参照)
一方,地方名としては,花や葉の類似性から,あやめ:岩手(九戸)/やつあやめ:山形(飽海)/やつはし:薩摩・薩川/からしょうが:神奈川(愛甲)/からしょうぎ:神奈川(津久井・藤沢)/やましょうぶ:鹿児島.茅葺屋根の脊棟に植えていることから,やねしょうぶ:神奈川/しよどめ:岩手(岩手),乾燥に強いことから,ひでりぐさ:伊豆・駿河/ひでりそう:伊豆・駿河/まんねんそう:伊豆・駿河が知られている.
(続く)