2012年2月6日月曜日

番外編 ペリー遠征記「磔刑の図」Japanese Fac Simile, CRUCIFIXION

「ペリー提督日本遠征記」第一巻 Japanese fac simile, CRUCIFIXION
“Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”  vol. 1 (1856) from “Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”  vol. 1 (1856)
ペリーたちは日本滞在中に贈られたり,購入したりした多くの物品-家具や細工物,陶磁器,漆器,織物など-を持ち帰った.変わったところでは将軍家から大統領に贈られた二匹のイヌ(チン?)やコインの一そろいもあった.
「ペリー提督日本遠征記」第一巻には日本の絵画に関するコメントとともに,滞在中に入手した3枚の日本の版画が原色で収められている.2枚は広重が描く「京都名所 淀川」と「大井川徒歩(かち)渡(し)」の図で,この二つは大きく多くの色を使って,彼らにとって興味深い江戸時代の風俗を描いているが,ここに示した芳貞(歌川を称す.国芳の門人,一葉斎と号した.馬喰町三丁目の旅館駿河屋に生れ,嘉永より明治の初めにかけて作画がある)が描いた「浅倉當吾一代記」は図版も小さく色も地味で,芸術品としてもあまり高く評価は得られない作品である.しかし,ペリーがわざわざこの図譜を議会への報告書に入れたのは,日本の懲罰のシステムに興味があったことと,それまでの日本に関する報告・情報に訂正を加えたかったからではないかと思われる.

艦隊の士官がこの絵を手に入れたのは, 1854 年 6 月 25 日に日本を出港する直前,下田においてであったらしく,ペリーは艦上で開いた送別の宴の席で,この礫刑の絵を(通詞の)森山栄之助(左図,左側の人物.ペリー『遠征記』第一巻より)に見せ “a Japanese picture, representing the punishment of crucifixion, was shown to (Moriyama) Yenoske. This had been purchased at Simoda, by some of our officers, and its presence turned the conversation on the subject of capital punishments in Japan. The Commodore was glad of the opportunity to procure accurate information on this point, inasmuch as some writers, later than Kempfer have denied his statement that crucifixion is a Japanese mode of execution. Yenoske said that the picture itself was illustrative merely of a scene in one of their popular farces ; but, he added, that regicides were executed somewhat in the manner represented in the picture, being first nailed to a cross and then transfixed with a spear.”
「話は日本の死刑のことに移った。提督はこの点に関する正確な報告を獲る機会を喜んだ。ケムプエル以後の著述家達数人は、礫刑が日本の処刑方法であると云ふケムプエルの記述を否定してゐるからである。栄之助の語るところによるとこの絵自身は或る通俗的な(人気のある?)道化芝居(歌舞伎芝居?)の一場面を描いたものに過ぎないとのことだつたが、尚附け加へて弑逆者はこの絵に描いてあるものとやゝ似た方法で刑せられるのであって、最初は十字架に釘づけにし、それから槍で刺すのであると語った。」(和訳:ペルリ提督『日本遠征記』土屋喬雄・玉城肇訳 岩波文庫 (1948))

なお,遠征記に収録された図は,歌舞伎の『東山桜荘子』(ひがしやまさくらそうし)の一場面を描いたもので,三世瀬川如皐作,嘉永 4 年 8 月江戸・中村座初演の演目で,義民 佐倉惣五郎の実録本や講釈と,柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)を組み合わせた農民劇.当時大当たりを取ったと伝えられている.江戸時代は,芝居にするときは実際の時代や実名を使うことはご禁制に触れるため,『伽羅先代萩』や『仮名手本忠臣蔵』のように,この演目でも時代や登場人物の名前を変えてはいたが,観客には、この物語が佐倉の義民伝であると分かっていた.佐倉藩の苛政・門訴・老中駕籠訴・将軍直訴・処刑・怨霊という筋立で,登場人物の義民は浅倉當吾,領主は織越政知.勿論,浅倉當吾は佐倉惣五郎,織越政知は領主堀田正信をあてたもの.事件は家光の後の家綱の時代(在職1651 – 1680年)にあったとされ,正信は将軍家綱の死を知って配流先の阿波徳島で自害している.
左図は 一英斎芳艶画「當吾一代記 獄門場所」 桜荘子後日文談 (さくらそうしごにちぶんだん) 早稲田演劇博物館

私のブログの『日本遠征記』 「下田 公衆浴場の図」 Public Bath at Simoda の図譜・記事はこちらから.

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