2013年5月30日木曜日

エゴノキ (5/5) シーボルト・ペリー・フォーチュン・サバティエ・カーチス,『植物たちの私生活』

Styrax japonica
Curtis's Botanical Magazine No.5950 (1872)
米国北カロナイナ州の古都,ウィルミントン郊外の植物園Airlie Gardensは1729創設の古い植物園.ここは,米国南部の湿地植生と,意外なことに日本原産のツツジとツバキでも有名.4月に訪れた際には,米国南部の特産のSpanish moss(サルオガゼモドキ,パイナップル科)の垂れ下がっている木々と,食虫植物のpitcher plant=サラセニア(Sarracenia)(ヘイシソウ(瓶子草))の花が咲いている花壇(左図)の脇には,日本原産のエゴノキが“Japanese Snowbell”の標識をつけてつつましく咲いていた.

海外でもエゴノキは庭園花木として非常に人気がある.あまり大きくならず,病害虫にも強く(海外までは,まだ,エゴノネコアシアブラムシ,エゴツルクビオトシブミやエゴヒゲナガゾウムシはほとんど進出していないようだ),並木にすると花時には垂れ下がった花の下をよい香を楽しみながら散策できると評価が高い.日本より花つきも良いようだ.(このような現象は,アオキのように移出した花木に良く見られる.

エゴノキに学名をつけて,西欧に紹介したのは,シーボルト.『日本植物誌 Flora Japonica』 (1835-1870) に美しい図(右図)とともに「エゴノキは日本の低木の中でも最も美しいものの一つであり、この国の南部の地方で野生状態でしばしば見かける。ことに、標高九八から三九〇メートルの高さの丘や木立の中、あるいは深い森の縁などに生えている。この植物は、ほぼ一・三から二・〇メートルの高さになり、五月に花を咲かせ、秋に果実が熟す。一般に寺や園遊庭園の周りの森に植えられているのは、かぐわしい香気を放つ豊かな白い花のためである。そういったところに植えられたものは、野生状態のものよりもはるかに丈が高く、また勢いがよくなる。この低木から採れる木材は硬く白いので、あらゆる種類の彫刻に用いられている。若い枝の先に、図23に掲げた特殊な種類の虫こぶ*が現れることがある。」と記した. 瀬倉正克訳『シーボルト「日本植物誌」〈本文覚書篇〉』八坂書房 (2007)

*エゴノキの芽にエゴノネコアシアブラムシが産卵すると,奇妙な虫こぶができる.東京近郊では7月上旬頃,虫こぶの先端が開き,出てきたアブラムシはイネ科の多年草アシボソの葉に移住する.

また,シーボルトは、一八二六年(文政九)の江戸参府の途上、室から大坂への旅先で田園と自然の観察し,日本の植物群ほど多様性と美しさを兼ね備えたところはない,として「アブラナ、タバコ、ヤノネグサ、べニバナ、ケシ、ゴマ、アサ、ワタを植えた畑の周囲にチャノ木がめぐらしてあるところには、かっては色とりどりに混じり合って、ナツグミ、ナワシログミ、ヤマグミ、ヤブデマリ、コバノガマズミ、ガマズミ、イワカサ、スズカケ、ガクウツギ、ヤマアジサイ、コアジサイ、アマチヤ、ミムラサキ、ヤブムラサキ、イソノキ、クサイチゴ、キイチゴ、サンザシ、ゴマハギ、メドハギ、ハギ、ヤハズオウ、ハクチョウ、チサノキ、ハクウンボクなどが茂っていた。」(石川禎一『シーボルト日本の植物に賭けた生涯』里山文庫 (1900))と耕作地にされた丘陵地の以前の植生には,チサノキ(エゴノキ),ハクウンボクが生えていたはずと,開拓前の植生に思いをはせている.

ところが,シーボルト『江戸参府紀行』斉藤信訳,平凡社東洋文庫 (1967) によれば,シーボルトが残した 1826年2月20日の記事として,北九州の山家から木屋瀬への道中での日本の田園の四季に対する同様な考察が記されている(「長崎から小倉への旅」の章)*1.一方「室から大坂への陸の旅(3月7日から3月13日)」の章にはそのような記録は見出せなかった.


シーボルト以降,エゴノキ(チサノキ)は海外にも知られるようになり,多くの来日科学者の記録に載る.

日本に開国を迫るために来た米国のペリー提督は,寄港地毎に植物や鳥類,魚介類の資料を採取し,後に米国議会に提出した報告書(『ペリー提督 日本遠征記』)の第二巻には,そのリストを添付したが,ハーバード大学のA.グレイ植物学教授の研究報告書の中には,艦隊が下田で採取した標本の中に,”Styrax Japonicum, Sieb. & Zucc. Fl. Jap. I, p. 53, t. 23; Simoda.—Leaves and blossoms larger than in Siebold's specimens. エゴノキ,下田,シーボルトの標本より葉も花も大きい” があると記している (Vol. 2, “ACCOUNT OF BOTANICAL SPECIMENS.LIST OF DRIED PLANTS COLLECTED IN JAPAN” p316,上図).

また,英国からプラントハンティングのために日本に1860-62年滞在したロバート・フォーチュンはその著書 “Yedo and Peking” (1863) に1861年5月神奈川の田園を訪れた際の記録として,”Wild roses are now in full flower. The hedges, banks, and uncultivated land are covered with their while blooms. A new species of Weigela is growing wild everywhere, and also in flower. In the end of May and in June, Deutzia scabra and Styrax japonica are very beautiful. They abound on every hill-side, in the hedges, and on the banks of streams. Later in the year the Styrax produces galls, from which a reddish dye is prepared. Honeysuckles, too (Caprifolium japonicum), are abundant, and their flowers, with those of the wild rose, fill the air with delicious perfume.”
「 ちょうど野ばらの花盛りで、生垣や堤や草原にその白い花が咲きみちていた。どこにでも繁茂していたハコネウツギ(Weigela)もまた,花の季節であった.五月の末から六月にかけて,ウツギ(Deutzia scabra)やエゴノキ(Styrax japonica)が大変美しく,丘や生垣や川岸のいたる所にいっぱいある。エゴノキは年の暮れにフシを生じ、それから赤みがかった染料が取れる。スイカズラ(Caprifolium japonicum)もまた豊富で、花は野バラとともに快い匂いを大気に放っていた。」と記している.(『江戸と北京』 R.フォーチュン/三宅馨訳,講談社(1897))

1866年から1871年まで横須賀造船所の医師として日本に滞在し,1873年から1876年に再度滞日したサバティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830–1891)は,自ら横須賀や伊豆半島で採集を行った他,日本の植物学者伊藤圭介や田中芳男などから標本を入手した。
帰国後フランシェ (Adrien René Franchet) と共著で『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) を1873-1879年に出版した.そのなかで,Styrax 属の一つとして, S. japonicum (エゴノキ)について,「山地に多い.九州では雲仙と島原(伊藤圭介),野母崎(Buerger),長崎(Oldham).本州では,横浜(Maximowicz),下田(Williams & Morrow*)の報告があり,本人も横須賀と大島で見て,日本名は “Tsima noki” 」と記載した(右図).
*ペリー艦隊の隊員達

冒頭の図譜(Curtis’s Botanical Magazine, Volume 98 (1872), TAB. 5950)のテキストには,「日本南部ではありふれた灌木若しくは小木であるが,装飾的な価値が高いので庭園や街道筋でもよく栽培される.Wilford** によって1859年に王立植物園のための植物採集の際に朝鮮半島でも見出され,1854年のペリー艦隊の日本遠征の際にも琉球***で発見された.この木はヒマラヤからペナンにわたる東ベンガルにも繁茂している.このように広く知られ広い地域に分布している植物が,ツンベルクの『日本植物誌』やそれに先行するケンペルの著作に記述されていなかったのは非常に奇妙である.シーボルトは原産地名を “Tsisjano-ki” とし,また,王立キュウ植物園にこの木を導入したオルダム****は “Naats-gi” であるとした.」とある.
更にこの種の木は若い枝にフシを作る昆虫によって棍棒状の物体が出来るし,またヒマラヤやカシミアの種では牡鹿の角状の虫こぶが出来るが,これは皮をなめす(Tanning)ために輸入される.とも述べており,フォーチュンの虫こぶの記述と考え合わせると興味深い.

** Charles Wilford (? - 1893)
*** 下田の誤りと思われる.ペリーの項,参照
**** Richard Oldham, (1837 – 1864)

エゴノキは中国・朝鮮半島にも分布しており,中国では「野茉莉」,韓国では「때죽나무」と呼ばれる.韓国においての名前は,地面に向かってたれ下がるやや灰色がかって,つるつるしている多数の実が,まるでお坊さんが集まっているかのような姿であることに由来するとか.日本と同様,若い実を洗剤や魚毒漁に使用し,また,種に脂肪分が多いことから,油を絞って椿油と同様に用い,花も実も葉も薬用に使った.

昨年,大きな話題を呼んだ韓国の小説,李承雨著『植物たちの私生活』,金順姫訳 藤原書店(2012)には,エゴノキが女性を象徴する木として登場する.印象的な場面からの文を引用すると,
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「エゴノキ」と兄は短く言った。私は「エゴノキ」と真似して言ってみた。私にとっては初めて聞く名前で、当然どんな木なのか姿を想像できなかった。(中略)
「滑らかな木の幹がすんなりとした女の裸身を連想させるんだ」と兄は酔ったように言った。「本当にうっとりとさせるのは白い花なんだ。五月だからもう少しすると花が咲くだろう。地面に向かって頭を垂れているエゴノキの白い花は銀の鈴のようなんだ。その下に立っていると、りんりんと鈴の音が鳴っているようなんだ」と話す彼の声が深い海に沈んでいる碇のように暗い森の中に遊泳して入っていった。 
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*1 いまチャの木が、アブラナ・クレナイ・ケシ・ゴマ・ワタを植えた畑の回りに垣をめぐらしている処は、かっては色とりどりに混じり合って、ナツグミ・ナワシログミ・ヤマグミ・ヤマデマリ・コバノグマズミ・ガマズミ・イワカサ・スズカケ・ミムラサキ・ヤブムラサキ・クサイチゴ・ゴマハギ・メドハギ・ハギ・ヤブツグサ・ハクチョウ・チサノキなどが茂っていたのだ。

2013年5月28日火曜日

エゴノキ (4/5) 果実・ヤマガラ (本朝食監・大和本草・喚子鳥・和漢三才図会)・こやすのき・ちしゃの虫

Styrax japonica

花が終わると,エゴノキはイヌやブタ等の動物の乳房に似た実を多数ぶら下げる.この実は,未熟のうちは薄い皮に覆われ,それにはエゴノキサポニンと呼ばれる界面活性剤が含まれていて,動物や鳥類の食害から身を守っている.しかし,秋に熟すとこの果皮は縦に割れて1個の種子が露出する.堅い殻を割った中身はクルミに似た味で油脂に富む.

ヤマガラ 皇居東御苑 2010年 1月
この実はヤマガラの大好物で,果皮が樹上でむけるのも,種子散布者のヤマガラへのサービス.ナッツ類が大好きなヤマガラに,種子を露出させて誘っている訳.賢いヤマガラには他の鳥への派手な色などのサインは不要だし,むしろほかの鳥に目立たないほうが,好都合.ヤマガラはエゴノキの種子をくわえると,枝の上で足で押さえてつつき,殻を割って中身を食べたり,殻つきの実を運んでいって,別の場所で嘴を上手に使って殻をむくこともある.

また,ヤマガラは冬に備え,種子を木の割れ目や地面や石の間に一粒ずつていねいに埋めて貯蔵する習性があり,冬の間に大半は食べてしまうが,忘れられた種子が芽を出すことも多い.しかも,ヤマガラが種子を貯蔵するのは,エゴノキが育つのに適した開けた場所なので,エゴノキにとっては子孫繁栄のためには欠かせないパートナーとなっている.

ヤマガラはおみくじを引く芸をする鳥として有名で,50年程前に仙台で繁華街の街頭で何度も見たことがある.
頭がよく,人になれやすい飼鳥との評価はたかく,江戸時代に書かれた事典・本草書にも,

★人見必大『本朝食鑑 禽部之三』(1697),に,「山雀 也末加良と訓む。
〔集解〕 形状は頬白に似て、頭は黄白色に赤色を帯び、眼の前後と額とに黒い条がついている。背は灰赤色、嘴・胸・翅・尾はみな黒く、腹は赤色。性質は慧巧であり、能く囀る。久しく養ってすっかり馴れると、籠の中で非常にうまく飛び舞うようになる。それで、児女が紙でつくった細縄を環(まるい)輪の形に結んでいく重にも籠の中に懸けると、鳥はその隙を遶(めぐ)ったり、輪の中を通り抜けたり、反転したりする。常に胡桃を好んで食べるが、また荏(え)の子(み)も食う。」(島田勇雄訳注 平凡社-東洋文庫)とある.この荏の子は,エゴマは別に記述しているので,エゴノキの種子のことであろう.

喚子鳥 下巻 NDL
★貝原益軒『大和本草 第十五巻 小鳥』(1709) に「山カラ 性タクミニシテ慧ナリ 能サヘツル」とある.

★蘇生堂主人『喚子鳥 下巻』(1710)には「(前略)此鳥、羽づかひかろく、籠の内にて中帰りするかるき鳥を?。小がへりの内とまり木の上にいとをよこにはり、段々高くかゑるにしたがひ、其いとを上へ高くはりふさげ、のちには輪をかけ、五尺六尺のかごにてもよくかゑりわぬけするものなり。又芸あり。かごのそとへ出しやかごを仕出し、くるまきにつるべを仕かけ、一方に水を入れ、一方にくるみを入れ、常に水とゑをひかへするときは、かの水をくみあげ、又はくるみの方を引あげ、よきなぐきみなり。籠の内、上の方にひゃうたんにぜにほどのあなをあけつるべし。夜は其内にとまるなり。此鳥秋の末渡る。其内にてかろき鳥を見たて、げいを付くるなり」とあり,鳥類の飼育専門書として,ヤマガラの特性とそれを利用した”つるべ芸”について記述している.(読み下し,島田『本朝食鑑』ヤマガラの項の注)


★寺島良安『和漢三才図会 林禽類』(1713頃)には,「山雀(やまがら) 山陵鳥〔正字未詳〕〔俗に也末加良という〕
△思うに、山雀の状は画眉鳥(*メジロ)に似ていて、頭は黄白に赤色を帯びている。目、額の辺に黒条がある。背は灰赤色。嘴・胸・翅・尾はともに黒く,腹は淡赤である。本性、慧巧でよく囀る。いつも豆伊豆伊(ついつい)と鳴いているように聞こえる。好んで胡桃を食べ、食べ飽きると胡桃を覆(うつ)むけ、飢えるとこれをひっくり返して中の肉を啄む。紙撚(こより)輪を作って籠の中に置くと、よく飛んでその輪を潜る。別に宿処として小箱を籠の隅においてやると、夕暮れになると自らそこに入る。つねに物を攫むが、それは鷹や鳶の有様に似ている。その属の小雀、四十雀、日雀などはみな同様である。いずれもその肉味はよくない。それで人はあえて食べようとはしない。また薬用にもしない。ただ籠中で飼って児女の弄戯(もてあそび)とするだけである.」(現代語訳 島田・竹島・樋口,島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫)とし,また,『夫木和歌抄』巻二十七・光俊朝臣の歌「山雀の廻すくるみのとにかくに持ちあつかふは心なりけり」を引用している.
と,餌にナッツ類が好きなこと,頭がよくて遊び好きの性質を良く記述されている.

しかし,最近ではヤマバトが食餌にしたり,ヤマガラもまだ実が熟さないうちに中身を食べたりという行動が見られ(http://www.k4.dion.ne.jp/~horus/kajitu/egonoki.htm),エゴノキの戦略も多難のようだ.

この脂肪分やたんぱく質に富んだ種子は,人間にも利用され,三重県で果実を牛馬に食べさせると良く肥えるといい「肥やすの木」とよぶ(岡村はた他『図解植物観察事典』地人書館(S57年)).また,実をつきこねて灰と混ぜて水田の肥料とすることもあったので,これも別名「こやすのき*」の語源かと思われる.さらに,絞って得た油をエゴ油,ズサ油とよび,灯油として用いたという.

また,この実に産み付けられた卵から孵化したエゴヒゲナガゾウムシの成熟幼虫は「ちしゃの虫」と呼ばれウグイ,オイカワ,ヤマベやハヤなどの川釣りの釣り餌としてつかわれている.

*「こやすのき」の語源としては,伐っても直ぐに新しい幹が出てくるから「子安の木」との説もある.

2013年5月27日月曜日

エゴノキ (3/5) 賣子木,斉墩果,牧野博士,オリーブ,橄欖,野茉莉,油橄欖

Styrax japonica



岩崎灌園 本草圖譜(1830-44) 六十六卷果部 摩厨子
前記事に述べたように,エゴノキは,日本の本草の基本となっていた中国の本草書『本草綱目』に記載されていた植物のうち,初期は「賣子木」,江戸時代後期は「斉墩果」に比定されていた.

即ち,僧昌住『新字鏡 五十八 木』 (900),源順『和名類聚抄』(承平年間 931 - 938年)では,「賣子木」=「賀波知佐乃木(カハヂサノキ)」,林羅山『多識編 木部 第四』(1612)において,「賣子木=加波知佐乃木(かわちさのき)=知佐乃木(ちさのき)=エゴノキ」.

Weinman III Jambos
しかし,この比定は,貝原益軒『大和本草 巻之十二 木之下 花木』 (1709),寺島良安『和漢三才図会 巻第八十四 灌木類』(1713年頃),新井白石『東雅 巻之十三穀蔬類』 (1719年脱稿)らによって,疑問が投げかけられ,ついには,小野蘭山『本草綱目啓蒙 巻之二十七 果之三 夷果類』(1803-1806)によって,本草綱目の「摩廚子(上図,ヤムボス,フトモモ科?,左図は Weinman の『花譜』に載る Jambos の原図)」の附録に記されている「斉墩果」であるとされた.

牧野富太郎博士はこの比定を激しく否定し,
「(前略)従来わが邦の学者は、このエゴノキを支那の齊果に当てて疑わない。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』を始めとしてみなそう書いているが、これはとんでもない間違いで、齊果は決してエゴノキではない。しからばそれはなんの樹であるかというと、これはかのオリーブ(Olive すなわち Olea europaea L.)のことである。
この齊果はすなわち齊樹のことで、それが初めて唐の段成式の『酉陽雑俎』という書物に出ており、その書には 齊樹ハ波斯及ビ仏林国(【牧野いう、小アジアのシリア】)ニ生ズ、高サ二三丈、皮ハ青白、花ハ柚ニ似テ極メチ芳香、子ハ楊梅ニ似テ五六月ニ熟シ、西域ノ人圧シテ油ト為シ以テ餅果ヲ煎ズルコト中国ノ巨勝(【牧野いう、胡麻のこと】)ヲ用ウルガ如キナリ(漢文)と記してある。しかしこの書の記事は遠い他国の樹を伝聞して書いたものであるから、文中にはまずい点がないでもない。
『続牧野植物随筆』より
 日本の学者がまずこれを取り上げてその齊樹をみだりにわがエゴノキだと考定したのはかの小野蘭山で、すなわちかれの著『本草綱目啓蒙』にそう書いてある。何を言え偉くてもろもろの学者が宗とあがむる蘭山大先生がこれをエゴノキと書いたもんだから、学者仲間になんの異存があろうはずなく、たちまちそれじゃそれじゃとなってその誤りが現代にまで伝わり、今日でもほとんど百人が九十七、八人くらいまではその妄執に取りつかれてあえて醒覚することを知らない有様である。
 それならオリーブをどうして齊樹というかと言うと、この齊樹は元来が音訳字であって、それはペルシャ国でのオリーブの土言ゼイツン(Zeitun)に基づいたものにほかならないのである。すなわち齊樹はオリーブの音訳漢名なのである。そしてこの事実はわが邦では比較的近代に明瞭になったもので、徳川時代ならびに明治時代の学者にはそれは夢想だもできなかったものである。(後略) 」(『植物記』「万葉歌の山ヂサ新考」1943).

中国からの本草・薬用植物について,主として文字による情報から知るしかなかった江戸時代以前の本草学者にとって,このような誤った比定は避けようがなかった.牧野博士はその著作で,この誤比定に由来し,中国と日本では同じ漢名を使っていながら,異なった植物を指す例を多数挙げて批判し,正しい名前を使うように檄をとばしていた

『続牧野植物随筆』より
その一つが「橄欖(かんらん)」であって,1948年発行の『続牧野植物随筆』「オリーブは橄欖であるの乎」(鎌倉書房)において,橄欖はカンラン科(Burserancae)に属する中国原産の常緑高木, Canarium album Raeuschel で,オリーブに似た楕円形の実をつけ,現地では生で,あるいは蜜漬・塩漬にして食用とし(「味はマズイ」),また酒毒・魚毒を消す薬用としてもちいられる.としるし,「橄欖の実が緑色で楕円形で,其れが如何にも能くオリーブの実と似ている,其れ故西洋人は早くも橄欖の実をば China-Olive (支那オリーブ)と呼んでいた.」と記した.

また,『植物一日一題』「オリーブとホルトガル」(東洋書館,1953) では,「(前略)オリーブは地中海小アジア地方の原産で東洋には全く産しなく、したがってこれを中国の橄欖にあてるのはこの上もない間違いである。しかしそれをどうして間違えたのかというと、その果実の外観から西洋人はその橄欖を China Olive と呼んでいるもんだから、中国で『バイブル』初刊本の『旧約全書』(清国同治二年すなわち我が文久三年西暦1863年に江蘇滬邑美華書館刊行)を中国の学者が訳する際にそうしたもんだ。すなわちその文章は創世記の条下に「又待至七日。復放鴿出舟。及暮。鴿帰就揶亜。口啣橄欖新葉。揶亜知水已退於地」とあり、そしてその誤訳の文字が間もなく我国に伝わったのである。早くも明治十二年(1879)に植物学者の田代安定(たしろあんてい)君が当時博物局発行の『博物雑誌』第三号でその誤謬を喝破している。けれどもなお今日でもその余弊から脱し切れずに文学者などは往々橄欖の語を使い、また坊間の英和辞書などでもよく Olive に橄欖の訳語が用いられている。誠に学問の進歩に対し後れ返ったことどもで、日は最早や午に近く高う昇っているから早く灯火を消したらどうだ!」と,過激とも思われる言葉を用いて批判している.

すなわち,牧野博士の考えでは,「エゴノキ(チシャノキ)≠斉墩果=オリーブ≠橄欖」という式が成り立つ.では,エゴノキは中国では何んと呼ばれていたのか.牧野博士の著作には探し出せなかったが,現代中国ではエゴノキを「野茉莉 (yemoli)・木香柴・野白果樹・山白果」と呼んでいる.白い花の香がよい事や,材や種が白いことに由来するのであろう. 
ところが,興味深いことに,この「野茉莉」を中国の「百度百科」のようなネット事典で引くと,別名として「斉墩果(墩果)が挙がり,この「斉墩果」はオリーブ(Olea europaea L.)の事でもある.さらに,Olea europaea L. は「油橄欖(油橄」とも呼ばれている事がわかる
つまり,現代中国においては「エゴノキ(チシャノキ)Styrax japonicus =野茉莉=斉墩果,斉墩果=オリーブ=油橄欖」という式が成り立っていて,「野茉莉=斉墩果(別名),オリーブ=油橄欖」が古くからあるのか,日本の誤比定に由来しているのか分からないが,牧野博士の批判も現代ではその激烈さを失ってしまったように思われる.

2013年5月22日水曜日

ハクウンボク 広益地錦抄・草木錦葉集・シーボルト日本植物誌・玉铃花・蟯虫の駆虫剤

Styrax obassia
筑波実験植物園 0405
小さな白い花がたくさん枝につく姿を白雲にたとえて「白雲木」と名づけられ,寺院では釈迦入滅の時に咲いた沙羅双樹に見立てて,植栽していることが多い.エゴノキと似ているが,エゴノキより高く,615mの樹高となる.材はエゴノキ同様,白色で緻密,天童市では将棋の駒に加工している.

E.T.さん提供 白雲木花の絨毯
エゴノキは今年伸びた新しい枝の先に16個ずつ花をつけ,一方ハクウンボクは枝先から垂れ下がった817cmの総状花序に20個ほどの花を下向きに咲かせる.よい香りがある.花は咲いてから一週間もしないうちに散ってしまう.美樹薄命である.

花冠は白色で5深裂,雄しべは花冠の筒部に10個着生.果実の先はややとがり星状毛を密生する.熟すと縦に裂けて褐色で硬い1個の種子が出る.種子には脂肪を多く含み(蛋白質 17.5%,脂肪油46.6%),ろうそくの材料に利用された.
ハクウンボクの別名オオバヂシャはエゴノキの別名チシャノキに対して葉が大きいから.エゴノキ同様の虫こぶが本種にもつき,黄緑色で蝋細工のようなハクウンボクハナフシが見られる.原因は,アブラムシの刺激による.

広益地錦抄 草木錦葉集 共にNDLより

江戸時代には庭で観賞用として栽培され,伊藤伊兵衛『広益地錦抄,巻一 木の分』(1719) には,「白雲木(はくうんき)木春末 葉大ク柿(かき)の葉のごとく枝しげり大木となり下へさがりあさからににたり 花の色白くあさからより少はやくさき花形みじかくさがる」と,おなじエゴノキ科の「アサガラ」を比較対象にして記述している(右図,左).
また,斑入りの葉を持つ「白雲木(はくうんぼく),玉鈴花」は盆栽とされていて,水野忠暁『草木錦葉集 巻一』(1829) に美しい図が載る(右図,右).

学名をつけて欧州に紹介したのはシーボルト.出島の庭園で実際に栽培していて,彼の『日本植物誌 Flora Japonica(1835-1870) には,精密な図(左図)とともに,覚書には「日本では最も珍しい低木の一つで,九州および四国の高地の森林,あるいは本州の南西部に自生しているものと思われる.我々が見たのは野生状態のものではなく,大坂の庭園で栽培されているものであったが,これは高さ二・〇から三・九メートルの低木であった.
出島の植物園では五月の初めに花をつけ,秋の終わりに果実が熟す.日本の植物学者の言うところによれば,高木なみに成長することもあるということである.大半のエゴノキ属の植物と同様に,冬の初めには落葉する.花は,ヒヤシンスの香りに似た非常によい香りがする.」(シーボルト著,瀬倉正克訳『日本植物誌』〈本文覚書篇〉八坂書房,2007)と記載されている.彼がつけた種小名 obassia は,ハクウンボクの別名オオバヂシャから.なお,チシャとはエゴノキの事.


また,1866年から1871年まで横須賀造船所の医師として日本に滞在し,1873年から1876年に再度滞日したサバティエ(Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830 –1891)は,自ら横須賀や伊豆半島で採集を行った他,日本の植物学者伊藤圭介や田中芳男などから標本を入手した.
彼がフランシェ (Adrien René Franchet) と共著で出した『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium,1873-1879)には,信濃,大坂,江戸で見られて, Takushi bok, Owo batsya, Takoun bok( 伊藤圭介による)と呼ばれると記載されている.この,"Owo batsya" はオオバヂシャ."Takoun bok" はハクウンボクと名を聞いて書かれた物であろう.


カ-チスの "Botanical Magazine" には,ヴェイチ氏の植物園で育てられた個体に咲いた枝が,美しい手彩色石版画(マチルダ・スミス原画,J. N. フィッチ彫版)で収録されている(左図,No.7039,1889年)

中国では「玉花(玉鈴花)」と呼び,日本と同様に材は器具材、雕刻材、旋作材等工用材に,花と香を賞して鑑賞用花木とし,種子から得られた油脂から石鹸や潤滑油を作る.また,果が熟した時に採取し煎じて蟯虫の駆虫剤(虫.主治虫病)として内服する.

2013年5月20日月曜日

エゴノキ (2/5) 賣子木,斉墩果,新字鏡,和名類聚抄,多識編,大和本草,和漢三才図会,東雅,本草綱目啓蒙,物品識名

Styrax japonica

奈良時代から,中国の本草書の植物に日本の植物のどれがあたるのかを確認する,「本草学」の前身と位置づけられるいわゆる「名物学」は,学者にとって重要な任務であった.
エゴノキは中国にも自生するにもかかわらず,『本草綱目』等の日本が参考としていた本草書に記載されていなかったために,『本草綱目』の「賣子木」あるいは「斉墩果」に比定された.

本草綱目/木之三 灌木類』には,
賣子木/(《唐本草》)
【釋名】/買子木
【集解】/恭曰︰賣子木出嶺南、邛州山谷中。其葉似柿。/
頌曰︰今惟川西、渠州歲貢,作買子木。木高五、七尺,徑寸許。春生嫩枝條,葉尖,長一、二寸,俱青綠色,枝梢淡紫色。四、五月開碎花,百十枝圍攢作大朵,焦紅色。隨花便生子如椒目,在花瓣中黑而光潔,每株花裁三、五大朵爾。五月採其枝葉用。
時珍曰︰《宋史》渠州貢買子木並子,則子亦當與枝葉同功,而本草缺載,無從考訪。
木/【修治】/曰︰凡採得粗搗,每一兩用酥五錢,同炒乾入藥。
【氣味】/甘、微鹹,平,無毒。
【主治】/折傷血內溜,續絕補骨髓,止痛安胎(《唐本》)。」
とある.これを受けて,

★僧昌住『新字鏡 五十八 木』 (900年)
賣子木 河知左」(旧本河作阿真末考恐河 本草加波知佐乃岐○)
★源順『和名類聚抄』(承平年間 931年 - 938年)
賣子木 和名 賀波知佐乃木(カハヂサノキ)」
★林羅山『多識編』(1612) 木部 第四
賣子木 加波知佐乃木(かわちさのき) 今案 知佐乃木(ちさのき)」
と,賣子木が知佐乃木(ちさのき)=エゴノキであるとした.

しかし江戸時代になってから,,この比定は誤りである可能性が高いと,多くの学者・本草家から疑問が投げかけられた.

★貝原益軒『大和本草 巻之十二 木之下 花木』 (1709年)
「チシャノキ/花四五月開ク 形柑ノ花ノ如ク白シ 香モ柑ニ似テ柑花ヨリ大也 花ヨシ 花多クサク 葉ノ形カクノコトシ 賣子ノ木ヲチシャノ木ト云ハ非ナリ」(左図)

★寺島良安『和漢三才図会 巻第八十四  灌木類』(1713年頃)(右下図)
現代語訳 島田・竹島・樋口,平凡社-東洋文庫

子木(ちさのき)/買子木(ばいしぼく)
〔和名は加波知佐乃木.俗に知佐乃木という.
『本草綱目』に次のようにいう.
(中略)
〔六帖〕我がごとく人めまれらに思ふらし白雲深き山ちさの花

△思うに、売子木は今知佐乃木といっているものとは形状が大へん異なっている。
知佐乃木は処々の山中にあって、丹波に最も多い。高いもので二、三丈、径は一、二尺。皮粉は青白色。老いると浅褐色。中心は白く、葉は梅嫌木(うめもどき)の葉に似て尖っていて長さ二寸ばかり。表面は青く裏面は淡い。冬凋み春に生え出る。三、四月に花を開くが砕けていず小さく白い。単弁で野梅の花に似ていて朶(ふさ)の稍(さき)は長く垂れるが、大朶にはならず、ただいつも二・三朶が群生するだけである。実を結ぶが、状は小蓮子のようで初めは青、のち黒くなり、殻は堅く、肉は白色。山雀が喜んでこれを食べる。材は稠堅(ちゅうけん)で枴杖(おうこ,天びん棒)を作ることができ、また傘(からかさ)を造る時の轆轤(ろくろ)にしたりする。樹を伐ると嫩蘖(わかめ)は株から生え出る。生長しやすく、これを採って箕(み)の縁に用いる。」

★新井白石『東雅(巻之十三穀蔬類)』 (1719年脱稿)
「萵苣 チサ 倭名鈔に孟詵が食経を引て,白苣チサ.漢語抄に萵苣の字を用ゆ.今按するに萵字未詳と注せり.墨客輝犀に,萵菜は萵国より来る故に名づくと見えたり.萵苣数種あり.色白き者を白苣といひ,紫なるを紫苣といひ,味苦きを苦苣といふ.又別に水萵苣あり.萵即今ちさといひ,水萵苣をカハヂサといふ.是也.又賣子木をもカハヂサの木といふ.詳ならず.万葉集の歌に,ヤマチサといふものは,此木をいふにや.仙覚抄には,山萵とは木也.田舎人はツサの木といふなりと見えたり.チサの義詳ならず.」


岩崎灌園 本草圖譜(1830-44) 巻92潅木類6 売子木
江戸時代後期の本草の泰斗,小野蘭山は『本草綱目啓蒙』で,売子木はアカネ科サンダンカ(サンタンカ, 左図)であり,『本草綱目』の摩廚子の附錄に記されている齊墩果がチサノキ(エゴノキ)であるとした.

すなわち,『本草綱目/果之三』には,
摩廚子(《拾遺》)/【集解】
藏器曰︰摩廚子生西域及南海並斯調國。子如瓜,可為茹。其汁香美,如中國用油。陳祈暢《異物志贊》云︰木有摩廚,生自斯調。厥汁肥潤,其澤如膏。馨香馥郁,可以煎熬。彼州之人,以為嘉肴。
曰︰摩廚二月開花,四、五月結實,如瓜狀。
時珍曰︰又有齊墩果、德慶果,亦其類也。今附於下。

【附錄】
齊墩果 《酉陽雜俎》云︰齊墩樹生波斯及拂林國。/高二、三丈,皮青白,花似柚極香。子似楊桃,五月熟,西域人壓為油以煎餅果,如中國之德慶果/《一統志》云︰廣之德慶州出之。其樹冬榮,子大如杯,炙而食之,味如豬肉也。

【氣味】/甘,香,平,無毒。
【主治】/益氣,潤五臟。久服令人肥健(藏器)。安神養血生肌,久服輕健(李 )。

★小野蘭山『本草綱目啓蒙  巻之二十七 果之三 夷果類』(1803-1806年)
「摩厨子 詳ナラズ。〔附録〕斉墩果 チサノキ チシャノキ(俗) ロクロギ(紀州) ホトヽキス(同上) チナイ(野洲) チナヱ(石州) チヤウメ(江州) チヤウメン(土州) ヱゴ(江戸) サボン(加州) タカノヱ(丹州) ジシャ(佐州) ボトボトノキ(越前) ザトウノツヱ(同上)
山野ニ多シ。木ノ高サ丈余、枝条旁ニハビコル。春新葉ヲ生ズ。形橢ニシテ尖り、鋸歯ナク、互生ス。夏月葉間ニ花ヲヒラク。茎ナガク下垂ス。五弁白色、大サ六七分、カタチ柑(ミカン)橘(コウジ)花ニ似テ、香気アリ。後実ヲムスブ。苦櫧(アカガシ)実ノゴトク、径リ二分余、長サ三分余、秋ニ至リ黒ク熟シ、上ニ白粉アリ。破レバ仁ニ油アリ。採テ小鳥ニ飼フ。木皮白シテ青ト黒トノ細斑アリ。用テ器物ニ作ル。コノ木ヲ傘ノロクロニ用ユ。故ニ紀州熊野ニテ、ロクロギト云。又一種九州ニテ、チサノキト呼モノハ、喬木類ノ松楊ナリ。」

巻之三十二 木之三 灌木類
売子木 サツダンクハ 即,山丹花ノ声ニシテ通名ナリ 〔一名〕山丹(三才図会)
和名鈔ニ、カハチサノキト訓ジ、多識篇ニ、チシャノキト訓ズ。皆非ナリ。コノ木和産ナク、暖国ノ産ナリ」

この比定は,綿々と受け継がれ,チサノキ(エゴノキ)=斉墩果が本草家の間での共通認識となっていた.

★岡林清達・水谷豊文『物品識名(乾)』(1809 跋)
「「木」チサノキ チシヤノキ 斉墩果(摩厨子附録)
   チシヤノキ 筑前 唐ビハ,四国 松楊」(右図,左)

また,この『物品識名』には,ハシドイがヱゴと呼ばれていると記されている.江戸時代にもエゴノキがヱゴとは呼ばれず,チサノキと呼ばれていることが分かる.

★岡林清達・水谷豊文『物品識名(坤)』(1809 跋)
「「木」 ヱゴ ハシドイ 葉形女貞(タマツバキ)ニ似テ冬ハ落ツ.枝端ニ穂ヲナシ四弁の小白花櫕簇ス」(右図,右)

ハシドイは,もともと木曽地方の方言で,そのほかにエゴ(尾張),クソザクラ(山梨),サワカバ(岩手),ドスナラ(北海道),ヤチカバ(北海道・岩手),ヤチザクラ(長野)などの異名があるのだそうだ.

しかし,一旦は「チサノキ=斉墩果(摩厨子附録)」で決着がついたかに思われた比定を覆したのが,牧野富太郎博士であった.
エゴノキ (3/5) 賣子木,斉墩果,牧野博士,オリーブ,橄欖,野茉莉,油橄欖

2013年5月16日木曜日

エゴノキ (1/5) 魚毒漁,材の利用,チシャノキ,万葉集,ちさの花,山ぢさ

Styrax japonica

 森陰を背景にして,白い可憐な花を枝いっぱいに吊り下げて咲く姿は,春の終わりを告げる.一斉に開いた花を一時に落とし地面を白く染めるので,ああ,ここにエゴノキがあるんだと,分かる場合も多い.

エゴノキの名前は,果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来するとされる.若い実の果皮には界面活性剤のエゴサポニンを含み,古くは洗剤として使われた.また,魚を一時的に麻痺させる魚毒漁にも使われていた.奄美ではこの漁法を「ケゴ」とよび,潮の引いた後に残った潮溜まりにエゴノキの実をすりつぶしたものを流し込んで,魚を取っていたが,今は禁止されている.(植松黎「毒草を食べてみた」文春新書1990).

材は白くて緻密で粘り気があり丈夫なため,細工物,こけし,将棋のこま,天秤棒,傘の轆轤などに多用され,また,杖にも加工された.そのため,ロクロギやザトウノツヱの地方古名がある.
また,木村陽二郎監修『図説草木名彙辞典』(柏書房,1991)によれば,この木には「杓子木(しゃくしぎ)・山萵苣(やまぢさ)・山萵苣(やまぢしゃ)・山桐・轆轤木(ろくろのき)・座頭杖(ざとうのつえ)・子安木(こやすのき)・小櫨(こはぜ)・小櫨木(こはぜのき)・石鹸木(せつけんのき)・あぢさ・いつさいえご・いつし・いつちや・あかんちや・かきのきだまし・こがのき・こやす・やめらがしは・やまがら」など,多くの別名があり,いかに里人たちに親しまれていたかが分かる.

一方,故磯野直秀慶応大学教授の「エゴノキ」の初見は,1735年の『諸国物産帳』である*.また,『本草綱目啓蒙』には,「ヱゴ」が江戸での地方名であると記されているので,「ヱゴノキ,エゴノキ」の名称が一般的になったのは近世になってからであり,それ以前はチサノキ,チシャノキが一般的であった思われる.この名は,無数の実が垂れ下がった様子を動物の乳房にたとえた「乳成り」 がチナリ→チナリノキ→チナノキ→チサノキ→チシャノキに転訛したと言われており, 転訛の過程でチナ、チサ、ヂシャ等に変化し訛ってジシャ、ジサ、ズサになったと考えられている.

785前に成立した『万葉集』には,「ちさの花」は,越中国守時代の大伴家持が天平勝宝元(七四九)年に,部下の史生尾張少咋(ししょうおはりのをくい)を教え喩した長歌,「大巳貴(おおなむち)少彦名(すくなひこな)の神代より 言ひ継ぎけらく 父母を見れば尊く 妻子(めこ)見れば愛(かな)しく愍(めぐ)し うつせみの世のことわりと如此様(かくさま)に 言いけるものを世の人の 立つる言立(ことだて)ちさの花 咲ける盛に 愛(は)しきよし その妻の児と 朝夕に 笑(え)みみ笑まずも ……」(巻十八-4106)と詠われているが,これはエゴノキの花と考えて良いと思われる.

一方,『万葉集』には「山ぢさ」を詠った歌も二首ある.
「『氣緒尓 念有吾乎 山治左能 花尓香公之 移奴良武』 息の緒に思へる我を山ぢさの/花にか君がうつろひぬらむ」作者不詳,(巻七-1360)
「『山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止』 山ぢさの白露重みうらぶれて/心に深くわが恋止まず」『柿本人麻呂歌集』(巻十一-2469)

イワタバコ 0808 榛名神社 葉がカキヂシャに似る
鎌倉時代の仙覚律師『万葉集註釈』(1266~1269) 以降,この山ぢさをエゴノキに比定する説が,現在でも有力である.たとえば,山田卓三,中嶋信太郎『万葉植物事典「万葉植物を読む」』北隆館 (1995).

しかし,有名な植物学者牧野富太郎博士は「古往今来万葉学者が唱うるように、万葉歌の山ヂサを(中略)エゴノキきりの一種としたとき、果してそれが上の二首の万葉歌とピッタリ合って、あえて不都合なことはないかというと、私は今これをノーと返答することに躊躇しない。」と言い,その根拠としては,「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」から,山ぢさの花の色は白ではないと考えられること,「山ぢさの白露重みうらぶれて」から,エゴノキの花に露は宿っても,もともと下垂している花なので,興趣が得られないことなどを挙げ,「山ぢさ」は「樹ではなく草であって、それはイワタバコ科のイワタバコ(岩煙草)、一名イワヂシャ(岩萵苣)、一名タキヂシャ (崖萵苣)、一名イワナ(岩菜)、(中略)すなわち Conandron ramondioides Sieb. et Zucc. でなければならぬと鑑定する。」と主張した.また,このイワタバコ説は、江戸後期の書である「国史草木昆虫攷」(曽槃,文政4年(1821))で既に唱えられているとも指摘している.(牧野富太郎『植物記』「万葉歌の山ヂサ新考」1943年).

『新撰字鏡』 NDL
牧野博士の説に説得力があるように思えるが,そのためには奈良時代に既に「チシャ(萵苣)-カキヂシャ」が中国から日本に移入され,栽培され,山でイワタバコを見たときに,歌を読む人たちが両者の葉の類似性に気がつく程度に普及していなければならない.故磯野直秀慶応大学教授によれば,『新撰字鏡』(900年頃)の「萵 知左」とあるのが,確認され*(右図),また,927年に成立していた『延喜式』にも言及があることから,奈良時代には蔬菜として栽培されていたと考えて良いであろう.ますます,「山ぢさ=イワタバコ」説に軍配が上がりそうだが,寿命の短い白い花をいっぱいにつけた灌木の「エゴノキ」の風情にも捨てがたいものがある.
草木図説前編巻15チシャ NDL

一方,和泉晃一氏は「山チサ」も「チサ」も同じ蔬菜のカキヂシャであるとの説を唱えている**.根拠はこの植物が奈良時代以前に日本に導入・栽培されたと考えられること(和銅7年(714)頃の長屋王家木簡に「智佐 二把」,天平6年(734)の造仏所作物帳に「苣 一万四千五百三十七把」とある),チシャの花は「朝咲いて午前中にしぼんでしまう」半日花で「移ろう花」であること,当時は平地で稲,山地で蔬菜を育てていたと考えられる事である.

しかし,チシャの花は当時の貴族階級や歌人の目に止まるような風情に満ちた花ではなく,むしろみすぼらしい花であり(左図),いくら山地とはいえ「白雲ふかき**」とかけられる山奥で栽培されていたとは考えにくいので,個人としては「イワタバコ」説に一票を投じる.

*磯野直秀『資料別・草木名初見リスト』慶應義塾大学日吉紀要 No.45, 69-94 (2009)
** http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/s/tisya.html
***六帖に「我が如く人めまめらにおもふらし白雲ふかき山ぢさの花」の歌がある.

2013年5月8日水曜日

ハンカチノキ (2/2) 珙桐・鴿子樹・綠色大熊貓・伝説

Davidia involucrata

原産地中国においてハンカチノキは「國家一級重點保護植物(國務院199984日批准)」の中でも珍品とされていて,「珍稀瀬危植物」のひとつ.中国名は「珙桐(コントン)」であり,また別称は「水梨子」「鴿子樹」「鴿子花樹」である.「鴿」は「鳩」のことであり,白い2枚の大きな苞をハトの翼に,まるい花序をハトの頭に,緑の突き出した花柱をハトのくちばしに見立てての別名.風にそよぐ満開の花が,木に止まった数多くの白い鳩がまさに飛び立とうとしている様に見えるので,「和平友好」の象徴とされ,「綠色大熊貓」として,パンダ(大熊貓)とともに友好の使節として外国へ提供される事もあった.20081223日には,17本の苗が,パンダの「団団(トゥアントゥアン)」と「円円(ユエンユエン)」とともに,特別機に載せられて台湾に贈られた.また,中国では、材は建築用や家具・彫刻に適しているとし,また果皮を薬用にするそうだ.

現東京大学 大学院理学系研究科・理学部 附属植物園 助教の下園文雄さんによれば,この木には「昔,皇帝の一人娘に白鳩という美しい姫がいた.皇帝と行楽に出かけた姫は,農村で質素な身なりの珙桐という青年に出会い,恋するようになった.姫はかんざしを半分にして思いを託し,青年に渡した.これを知った皇帝は怒り,青年を殺させてしまった.姫がその場所に行くと,珙桐は木になっていた.姫は幹にとりすがり,最後には姫の魂が木に移って,白い鳩が木に群れるような花が咲くようになった」との伝説があるとの事.

原産地での開花風景(1990年5月朝日新聞)
伝説有位君主,只有一位独生女儿,名叫“白公主”,如掌上明珠。位公主品味出奇,不珠玉,也不嫁王侯公卿,却十分射,追求一男子的气概。一天,公主在森林中打,被一条狠毒的蟒蛇死死住。正在危急关头,一位名叫珙桐的青年手,用刀断蟒蛇,回公主的性命。公主十分敬慕青年手的机智和勇敢。二人一见钟情,山盟海誓,公主取下上的玉,从中割断,彼此各一半,作信物。「珙桐」公主回后,将来去脉告之父王,并恳请父王将自己珙桐。不料此事遭到父王的决反,他夜派遣侍将珙桐射死在深山老林。白公主知道后,哭得死去活来。在一个雷雨交加的夜,她卸去豪宫妆,穿上白的衣裙,踉踉跄跄的逃出了高墙紧闭的后,来到珙桐遇的地方,放声大哭起来。一直哭得泪珠成血,染白的素装。忽然,雷声大作,暴雨盆,一棵小樹破土而出,恰象立着的半截玉成了参天大樹。公主情不自禁地伸双臂扑向大樹。霎时间,大雨停了,雷声息了,哭声也听不了,只数不尽的白的花了大樹的枝,花的形状宛如活的小白,清香美人不能不想起白公主与青年珙桐凄美的情故事。后来,人就把这种樹称作珙桐,以这对不渝的情人。」

また,王昭君ゆかりの故事として
「关子樹,民间还流传着这样一个故事:汉代王昭君,为了胡汉和好,毅然出塞与呼韩邪单于结为夫妇。她在异地日夜怀念故乡,就让白鸽为她传书送信。白鸽穿云破雾飞向王昭君的故乡——湖北秭归。千万只送信的鸽子,栖息在樹上,化作洁白的花朵,成了鸽子樹。」という話もある.

2004年5月 筑波実験植物園
日本には昭和50年代に中国から小石川植物園に贈られた木が,今も多くの花を着けている.他にも筑波実験植物園,神奈川県立フラワーセンター大船植物園,小石川植物園,板橋区立赤塚植物園,京都植物園,神戸市立森林植物園など,多くの植物園で生育している.また,東京都文京区の礫川公園にある木は,小石川植物園の技官山中寅文(1926 2003)から,作家幸田文(1904 1990)に贈られた木を,彼女の死後に娘の青木玉(1929 - )が公園に寄贈したものだそうだ.

ハンカチノキ (1/2) 12年後の開花,花の構造,独特の匂い,植物界のパンダ

ハンカチノキ (2014), 果実,種子,種子繁殖法