2015年2月28日土曜日

イヌノフグリ-1 花,名は果実にちなんで江戸時代から,婆婆納,破破衲,救荒野譜,救荒本草,物品識名,救荒野譜啓蒙,救荒本草啓蒙,本草図譜,草木図説 - 林氏,西勃氏

Veronica polita  subsp. lilacina
2015年1月9日 右上は落ちた花をスキャナーで取り込んだ

長い間見てみたいと思っていた花に,ようやく会えた.昨年送っていただいた,いわき市在住の植物愛好家,トミーさんがご自宅で育てていた個体の種から発芽した四本の若い苗を,三個のビニ鉢の培養土に植えたところ,全部活着した(左図,2014年12月.)
無加温温室で育てたところ,早いものでは今年1月始めから待ち望んだ花を付け,すぐに名の由来になった実をつけた.
なお,本植物が当地では絶滅危惧種であることに鑑み,遺伝子攪乱の観点から,野外への種の拡散には最大限の注意を払っている.

WikipediaJ)には,「和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることから、牧野富太郎が命名した[4][4] 岩槻秀明 『街でよく見かける雑草や野草がよーくわかる本 収録数550種超! 秀和システム,2006」とあるが(2015年3月1日閲覧),この書籍の「イヌノフグリ」の項には,牧野が名付けたという記述はない.引用ミスであろう.

「イヌ(ノ)フグリ」の名は,江戸後期の植物譜に既に見えており,牧野富太郎は,現在では用いられない名(裸名)の V. caninotesticulata(イヌの睾丸)と云う学名を発表した.というのなら頷ける.

磯野の初見は★岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾』(1809 )の「イヌフグリ 婆〃納 救荒本草」であり,イヌフグリと言う和名を持つことと,これが周憲王(周定王)朱選『救荒本草』に記された「婆婆納」であると考定した事がわかる.婆婆納」は同じ発音の「破破衲」とも現される事もあるようで,その名前は老婦人(お姑さん)の裁縫道具入れで,実の形に由来するらしい.この植物は飢饉の際には(若いうちは)食べることが可能な野草として,中国のいくつかの救荒書に記載されていて,その和刻にも載る.

★明王磐撰[]救荒野譜』一卷補遺一卷 和刻(1715,正徳五年)伊藤長胤序 には,「破破衲  茎葉を食
臘月便チ生ス 正二月采リ熟食 三月ハ老テ用ニ堪ヘ不 破破衲補フニ堪ヘ不 寒且飢聊カ脯ニ作飽煖ノ時汝ヲ思不」(左図,左端, NDL)

★周憲王(周定王)朱選『救荒本草 巻之三』(初版1406) 和刻 茨城多左衞門等刊(1716)には,「婆婆納
田野ノ中ニ生ス苗地ニ塌生ス 葉最小 小面花靨兒ノ如シ 状初生ノ菊花芽葉ニ類ス 叉團邊微花雲頭様ノ如 味甜シ
救飢 苗葉ヲ採リ煠キ熟シ水ニ浸シ淘浄シ油塩ニ調ヘ食」と調理法まである.」

興味深いのは,『救荒本草』の元本(上図,右端, AHL)では花弁の数が五枚なのに,和刻本では,それが四枚になっていて,より「イヌノフグリ」に近くなっていることである(上図,中央, NDL).すでにこの時期から婆婆納=イヌノフグリと認識されていたと考えられるが,葉はむしろ原本の方がイヌノフグリに近い.

磯野による初見★岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾(1809 )には,「イヌフグリ 婆〃納 救荒本草」とあり(右図 NDL),★岩崎灌園(1786-1842[]救荒野譜通解』(写)には,「破破衲/和名 イヌノフクリ ヒヤタンクサ/即婆婆納ナリ 救荒巻ノ二ニ詳ナリ」とあり,婆婆納=イヌノフグリが確立したようだ.

一方,★小野蕙畝(職孝)『救荒野譜啓蒙』(1842)には,「破々衲  未詳  婆々納ト自別ナリ」とあり,婆婆納≠破々衲としている.

また★同人口授『救荒本草啓蒙 巻之三草之三』(1842) には,「婆婆納/イス(ヌ)ノフグリ
原野ニ多シ 春新芽ヲ生ス 地ニ就テ葉形爵床(イヌカウシ)葉ニ似テ三分許鋸歯アリ 葉間ニ淡紫花一輪ヅヽ開キ蒂中ニ圓實二粒ヅヽ並ビツク 大サ一分許青色ナリ 其形ヲフグリト云 如雲頭様ト云ハ丸ク鋸歯アルヲ云[小面花靨児]ト云婦人化粧シテ靨ヲナスヲ云(左図 NDL)」と婆婆納=イス(ヌ)ノフグリとし,丸い二個の実が萼(蒂)の中に並んで付くのがフグリの名の由来と記している.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜 巻之三十四 石草三』(刊行1828-1844) には,「婆々納 仙人草(せんにんさう) いぬのふぐり(京) たむしづる へうたんぐさ(江戸)
婆々納(救荒本草) 破々納(救荒野譜)/屋上垣の間に阿り冬月実より生ず葉小にして一二分叉ありて菊葉の如し春月葉の間に小き薄紫花を開く実ハ薺(なづな)に似て圓く扁ならず.(右図 NDL)」と,婆婆納=破々衲=イヌノフグリとし,仙人草の別名や京都と江戸の方言と共に,救荒本草とは異なって,写実的な図が添えられている.石垣の間に良く生えるとの知見は,良くこの植物の生育場所を示している.

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)巻之一』(成稿 1852 ごろ,出版 1856-62(文久2))には,花や花柱の郭大図とともに
「イヌノフグリ 婆々納
原野ニ多ク生ス.莖僅数寸.塌地シ枝ヲ分ツ.葉互生形心藏状ニシテ大サ三分許.三五ノ粗鋸歯アリ.二月ノ頃葉腋細花ヲ開ク.萼四葉卵圓ニシテ尖.両々相合ス.花短筒卵
圓大小四裂.色淡紅形扁ニシテ不正開.實礎扁圓一道アツテ一柱結頭.雄蕋二莖.葯黄粉ヲ吐ク.後實ヲ成ス.亦扁圓竪ニ一道アツテ殆ト二箇相接ルガ如シ.故ニフグリノ名アリ.即二区ニシテ各多細子ヲ収ム.
二十七種/ヘロニカ・アルフェンシス.羅 アッチル・エーレンプレース.蘭/西勃氏*所定
按林氏**所説形状簡略ニシテ不詳.所引圖説亦不得見.一ニ西勃氏*ノ説ニ因ル(左図 NDL)」とあり,シーボルトの説によってリンネが学名をつけた Veronica arvensis タチイヌノフグリ)と同定したが,リンネの記述が簡単すぎるので,この同定には疑問が残るとした.

なお,イヌノフグリ=V. arvensis はツンベルクの “Flora japonica” に拠るのであろう(次ブログ記事).
* 西勃氏 シーボルト,** 林氏 リンネ


★飯沼慾齋 著述,田中芳男・小野職愨 新訂,牧野富太郎 再訂増補『増訂草木圖説』草部 1913 (大正2) 「巻末ノ言」牧野富太郎
・・・
○書中著者能ク林氏ト記セリ是レ和蘭國「ホッツイン*」氏(F. Houttuyn)**ノ著書ニシテ固ヨリ林氏即チ「リンネ」氏(Karl von Linne' 即チ Carl. Linnaeus)自身の著書ニアラズ唯「ホッツイン」氏ガ「リンネ」氏ノ學式に則テ以テ天物ヲ記述セルモノニシテ題シテ Linnaeus Natuurlyke Historie** ト云ヒ全部三十四巻アリ西暦一千七百六十一年(寶暦十一年)ヨリ同一千七百八十一年(天明元年)ニ亙リテ同國「アムステルダム」府ニテ出版シタルモノナリ而シテ書中又其第一種、第二種等ト云フハ原書中其植物ヲ列記セル順次ノ號數ナリ著者即チ飯沼慾齋翁ハ主トシテ此書ヲ用ヰ以テ植物ノ洋名ヲ定メタリ而シテ其之ヲ定メントスルヤ其属(Genus)種(Species)ヲ捜索スルニ其間實ニ多數ノ時間ヲ費セシコト今ヨリ之ヲ想像スルニ餘リアリ其僅ニ一行ニ記シ下シタル只一個ノ羅名(ラテン名)及ビ蘭名(オランダ名)ヲ抽出センガ爲メニハ實ニ如何ニ長ク著者ヲ苦シメシカハ此ノ如キ事業ニ經験アル人ノ直ニ首肯スル所ナリ況ヤ當時ニ在テハ其参考ニ資スベキ圖書固ヨリ少ナク今時ノ如ク幾多利便ノ典籍之無キヲヤ今日ニ在テ翁ノ定メシ名稱ヲ閲スレバ則チ其名ノ其實ニ副ハザルモノ甚ダ多シト雖ドモ當時ニ在テハ何人ト雖ドモ葢シ之レ以上ニ出ヅルコト能ハザリシナルベク頭脳非凡ニシテ精力絶倫ナル飯沼翁獨リ能ク之ヲ爲セシノミ固ヨリ竟ニ本草式ヲ脱スルコト能ハザリシ伊藤圭介氏等ノ企及シ能ハザリシコトハ同氏等ノ著書并ニ言行ニ徴シテ今ヨリ之ヲ追想スルニ難シカラズ此ノ如キハ眞ニ睹易キ事歴ニシテ印痕彰々敢テ春秋ノ筆ヲ俟タズシテ明カナリ,翁ノ齢既ニ知命ヲ過ギテ身老境ニ在リト雖ドモ奮テ之ヲ遂グ其氣力ノ旺盛ナル壮者ト雖ドモ遠ク及バズ世ノ此書ヲ繙ク者翁ノ此勞ニ想到スルコト鮮ナシ故ニ特ニ之ヲ記シテ翁ノ努力セル一斑ヲ示スコト此ノ如シ

* オランダの博物学者,マールテン・ホッタイン(Maarten Houttuyn もしくは Houttuijn、ラテン語表記 Martinus Houttuyn1720 - 1798
** “Natuurlyke historie, of, Uitvoerige beschryving der dieren, planten, en mineraalen /volgens het samenstel van den Heer Linnaeus. Met naauwkeurige afbeeldingen.” (1761-1781), Compiled by M. Houttuyn, based largely on the principles of Linné's Systema naturae (12th ed.).リンネの『自然の体系 第12版』などの分類学の著書に基づいた,22,000ページで296の図版を含む大著.以下のサイトで全巻が閲覧・DLできる.表紙には F. Houttuyn とあるが,著者はMaarten Houttuyn
True author was Martinus Houttuyn, who was not quoted in the work itself. Title page gave no author and stated "By F. Houttuyn" ("By" = bij, Dutch for "at" or "with", indicating that the heirs of Frans Houttuyn was the editor or publisher, not the author).

・・・ 
○書中又、西勃氏ト云フコレ「シーボルト」氏(Philipp Franz von Siebold)ナリ而シテ飯沼翁ハ同氏ノ孰レノ書ヲ用ヰシヤ予ハ未ダ之ヲ知ルニ及バズ 

イヌノフグリ-2.  ツンベルク『日本植物誌』,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』,稚膽八郎=椎+膽八=シイ+ホルト=シーボルト,タチイヌノフグリと誤認l

2015年2月17日火曜日

ヤブミョウガ-8/8 岩崎灌園『杜若考』,中山伝信録物産考,草木育種,紹興備急本草

Pollia japonica

中国本草の「杜若」を日本のどの植物に校定するかは,古くから混乱していた.(前記事 1-5, 7
江戸後期の本草学者,岩崎灌園(本名 常正,1786 - 1842)は,これが,「アオノクマタケラン」であると校定した.彼は,実際に巣鴨の植木屋から苗を得て,自分の庭で育てて花を咲かせ,花の形状や根の色,その味などを確認した.その経験に基づき,文化十四年(1817)に著した『杜若考』で,「杜若」はカキツバタでもヤブミョウガでもなく,アオノクマタケランであることを明らかにした.また,ヤブミヤウガは本草綱目の蘘荷の項,修治の条にある「革牛草」であるとした.

この『杜若考』の写本の影印が NDL から公開されているので(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535614),以下に読みにくいカタカナ文をひらがな文にして示す.植物名はカタカナとしたが,「青ノクマタケラン」は「アオノクマタケラン」とはせず,そのままとし,太字で示した.また適宜,句読点,かぎ括弧,改行を入れたが,送り仮名は出来るだけ原文に沿った.なお,本写本にない原本に添付されていたと思われる図は,これも公開されている安政6 年 [1859] の写本(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539352)より引用した(左図).

杜若考
常正按するに杜若に同名あり.名物方言に白芷を杜若と云,また葯圃回春に鶏冠を杜若と云.皆同名異物なり.康類本草・藻塩草・名物六帳等の書にカキツバタを杜若と書すれども,是に非す.輪池先生*云カキツバタに杜若の字を用るは,能因が題林抄・堀河百首などや始りなりけん云云.貝原*・寺嶋*等かきつはた燕子花なりと云.此説を得たりとす.「漳州府志に云紫花全類燕子一枝数葩漳人名為紫燕」と云.又周氏類書海潮懸心等に載たり.

カキツバタ,万葉集に垣津幡また垣幡とも云.蔵玉集に皃吉草と云坂東に茟花と云羅甸語にて「イリス」と云.三河國八つ橋名所なり.予採菜の時,常陸國浮島松の名産也の水邊を過,其邊多しとも,カキツバタに数種あり.四季咲きあり,蜀江あり,鷲の尾あり,全く白色なるは稀也.又六辧(ろくよふ)あり.皆下にたれて八重の形状に見ゆ.妊娠の婦人カキツバタの根を食ば堕胎す.然れば毒あるものなり.

中山伝信録物産考
NDL
杜若は神農本經には載る上品無毒のものなれば,混すべからず.白氏文集「昆明春水満々今來緑 水照晴天遊魚々蓮田々洲香杜若抽心短」とあり,又殷璠が詩に「緑水満溝生杜若」(廣群芳譜)などあれとも,花のことを言ざれば,カキツバタともなしがたし.白氏ひとり云処の杜若にして漢土の書に於て水草の杜若と云物あることを聞す.唐の白楽天は梁の陶弘景より後の文人なれば,何の草を見て杜若としたるや.治療にあつからぬ人なれば證とすへからず.又明の殷璠が詩もかの白氏に効ふもの歟.

本邦カキツバタを杜若と書せしは,白氏文集より始るべし.然るをその後順和名鈔に馬蘭を加木豆波太と訓じて杜若を載せず.又深江氏本草和名に杜若の和訓を記さヾるは其頃杜若に充るべき物なければ,中山傳信録に杜若を花の例に入る**.これ琉球は固より和語を用ゆるなり云々.

陶弘景説ところの杜若は,(高)良姜に似て又旋葍根に似たりと云.此旋葍根は旋葍花(ヒルガホ)のことに非す.弘景曰,旋花東人呼て山薑となす根は,杜若に似て,其葉薑花に似て,赤色味辛.此旋花即其花なり云々.蘓恭曰,陶説の山薑爾と云を見れは,陶氏云旋葍根は山薑を指て云こと明也然るを,稲若水*はしめ,貝原等,陶氏云旋葍根をひるがほと誤り見て,ヤブミヤウガを充るは非なり
本草図譜 NDL
ヤフミヤウガは山陰の地に多し.葉は箬(チマキザサ)に似て軟にして,尖り一莖に葉周り付て風車に似たり.夏月葉中に莖を抽て穂をなし,小き六辧の白花を開き,後実を結て麦門冬の実の如く熟して碧色なり.根白くして箸の大さ.土中を延,根の味淡く微し渋して香気更になし.杜若の如き,芬芳辛味のものに非す.楚辞云山中人兮芳杜若と云.これ其香を賞するなり.綱目杜若修治雷斅曰凡採得根以刀刮去黄赤皮と云.ヤブミヤウガの根には黄赤皮なし.ヤブミヤウガは綱目蘘荷の修治革牛草なるへし

予先年巣鴨の花戸にて一種の草を求む.俗に青ノクマタケランと名く.長崎にて和高良姜と云,和蘭本草中の「ガリガーン」羅甸にて「ガランガ****」と云ものの種類也.此を園中に栽,親く形状氣味を試,高良姜(クマタケラン)に類して,高さ二尺余葉は山姜(ハナミヤウガ)に似て濶く,莖緑にして高良姜より頗瘠せたり.冬凋ます.夏月梢に三四尺の穂をなして花あり.白色にして中心淡紅を帯て黄蘂あり.寒地ゆへ実を結ばす.クマタケランの如,花紅にして大なるに異なり,莖葉ともに芳香.根も又高良姜に似て,黄赤皮あり.味辛し.青ノクマタケランは寒を恐る.高良姜の培養と同し.クマタケランの養やうは,予か著ところの草木育種菜品類に載.青ノクマタケラン紹興備急本草に載處の杜若の圖と符合す.

草木育種 NDL
綱目杜若集解弘景曰「今處々有之葉似薑而有文理根似高良姜而細味辛香又絶似旋葍根(前に云ごとく陶氏説ところは山姜のことなり)始欲相乱葉小異爾」と云.即是也.
田村氏*の説に,杜若はナガレンバ八丈島三宅島多くあり.また伊豆の喜佐美邊にもありと云.此もの青ノクマタケランの事なるべし.予が園中に養う青ノクマタケランの形状を自ら写生し,僅に臆見を記すのみ.

紹興備急本草 WUL
文化丁丑季冬書干又玄堂 岩﨑常正

* 屋代輪池(弘賢),貝原益軒,寺嶋良庵,稲生若水,田村藍水
** 田村藍水 『中山伝信録物産考』(1769稿) 写本 NDL

2015年2月12日木曜日

ヤブミョウガ-7/8 「杜若」,牧野富太郎 頭註国訳本草綱目・カキツバタ一家言・植物一日一題,方言,本草品彙精要,植物名実圖考,現代中国では「杜若」は「ヤブミョウガ」

Pollia japonica
2015年 1月 無味無臭の根
ヤブミョウガは長い期間「杜若」と考定されてきたが,岩崎灌園が「杜若」は「あをのくまたけらん」であると考定し.牧野富太郎もこれに賛同し,『頭註国訳本草綱目』『カキツバタ一家言』『植物一日一題』で,杜若はカキツバタでもヤブミョウガでもなく,アオノクマタケランであると熱心に説いた.
一方中国においては,明時代の『本草品彙精要』では,それまでの本草書の説の概要の記述にとどまっているが,清末の『植物名実圖考』においては,「杜若」として図示された植物は「アオノクマタケラン」と思われる.しかし,現代中国においての「杜若」は「ヤブミョウガ」であり,牧野富太郎の説は本家において否定されてしまった.

頭註国訳本草綱目』は,鈴木眞海が訳し,白井光太郎博士の監修・校註, 牧野富太郎博士・他の考定により,1929年に刊行された.その第4冊(1930) 芳草類巻之十四の「杜若」の項で,牧野は「和名 あをのくまたけらん*, 學名 Alpinia chinensis」とし頭注に「牧野云ふ,我が国にて杜若をかきつばた(あやめ科)に充てしは大なる誤であつた.叉之をやぶめうが(つゆくさ科)に充てたるのも固より中つて居ない.叉はなめうが即ち Alpinia Japonica, Miq. とするも穏当ではない.」と記すInternet Archive
*ショウガ科 ハナミョウガ属 現学名 Alpinia intermedia Gagn一方 A. chinensis はスイシャゲットウ

さらに,★『牧野富太郎選集 第二巻 カキツバタ一家言(1970) 東京美術 で,「(略)
 支那の植物に杜若(トジャク)という草があって、わが邦の学者は早くもこれをカキツバタであると信じた。そしてこの古い考定が今日まで続いて残り、俳人、歌人の間にはそれが頭にこびり付いて容易にその非を改むることができず、したがって俳聖、歌聖と仰がれる人でもみなこの誤りをあえてしているから、今日の人々の作り出す新句新歌のうえにもやはり旧慣に捉われひんぴんとしてこの墨守せられた誤りの字面が使われていて、すなわちこれらの人々には草や木の名の素養がまったく欠けていることを暴露しているのは残念である。私はこのような文学の方面でもその間違いはどしどし改めていくことに勇敢でありたいと思っている。今日、日進の教育と逆行するのは決してよいことではあるまい。
 全体わが邦で昔だれが杜若をカキツバタだと言いはじめたかというと、今から九百余年前に丹波康頼の撰んだ『本草類編』であろうと思う。そして同書にはまた、蠡実をもカキツバタとなしてある。次に『下学集』にも杜若がカキツバタとなっている。これでみるとカキツバタを杜若であるとしたのはなかなか古いことである。
 この杜若なる漢名を用いたのが長い年の間続いたが、今から二百三十四年前の寛永六年にいたって、貝原益軒はその著『大和本草』でカキツバタが杜若であるという昔からの古説を否定し、あわせてその杜若は筑前方言のヤブミョウガ(ツユクサ科のヤブミョウガではない)すなわちハナミョウガ(ショウガ科)であると考定して発表した。
 次いで稲生若水、小野蘭山などの学者が出て、今度は杜若はカキツバタでもまたハナミョウガでもなくこれはヤブミョウガ(ツユクサ科)であらねばならぬとの新説を立てた。そして右はこれら景仰せられた一流学者のしたことでもあるので、その後多くの学者はみな翕然(きゅうぜん)としてその説に雷同し、杜若はヤブミョウガであるとしてあえてこれを疑うものはほとんどなかった。
 しかるにその後岩崎灌園がその著『本草図譜』で右先輩の説をくつがえし、この杜若なる植物はアオノクマタケラン(ショウガ科に属し支那と日本とに産し暖地に見る)であるとの創見の説を建てたが、これはけだし一番穏当な見方である。すなわち杜若はかくアオノクマタケランだとするのがまず間違いのない鑑定だと信じてよろしい。
 これによってこれをみれば、杜若をショウガ科のハナミョウガに当てた貝原益軒の意見は、それは当たらずといえども遠からざる説ではあれど、しかし益軒の卓見がうかがい知られる。なんとならばこれは杜若を同じショウガ科のアオノクマタケランに当てた正説に最も近く、これをかのカキツバタだのヤブミョウガ(ツユクサ科の)だのに当てた説に比ぶればずっとその洞察が優れているからである。」と記す.

また,★『植物一日一題』(1953)東洋書館 の「紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ」においても,
「 私はこれまで数度にわたって、アジサイが紫陽花ではないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓(こうこう)に入った病はなかなか癒らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむべきではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先きに猛省せねばならぬはずだ。
(中略)
 昔からまたカキツバタと誤っている杜若の真物は、ショウガ科のアオノクマタケランである。人に笑われるのが嫌ならカキツバタを杜若と書かぬようにせねばならない。」と説く.

庶民にとっては,あまり特長もなく,薬効などの利用価値もない植物だっためか,方言は少ない.★小野蘭山『本草綱目啓蒙』(1803-1806) では,各地の方言として「杜若 ヤブメウガ,サヽリンドウ(紀州),メウガサウ(加州),チクランサウ(芸州),ハナメウガ(播州)」を挙げ,★八坂書房[編]『日本植物方言集成』八坂書房 (2001) には「ヤブミョウガ おとこみようが 神奈川(津久井),ささりんど- 紀州,ちくらんそ- 薩摩,はなみょ-が 播州,みょ-がそ- 加賀 三重」とある.

一方近代中国においては
(みん)代に書かれた勅撰本草書★劉文泰等撰輯『本草品彙精要』(1505).太医院院判の劉(りゆう)文泰らが編集にあたり,1505年(弘治18)に完成させ,孝宗帝に進呈した.彩色原図を付した豪華本であったが,明・清時代には刊行されることなく秘蔵され,その後,数奇な運命をたどり,現在は日本に陳蔵されている.文章だけは1937年に上海で出版され,このとき初めて本書が世に知られた.『証類本草』などと比較すると,その内容はきわめて簡素で,別名,形状,薬効などが項目別に記され,それまでの本草書のおもかげはまったく残されていない.とされている.

以下は北京大学が公開している影印本(右図,Internet Archive)から「杜若」の項の引用であるが,この公開部には残念ながら図は付属していない.北里研究所東洋医学総合研究所名誉所長,大塚恭男氏の所蔵する2000点にも及ぶ美しい図版が付属する 1850 年頃のほぼ完全な写本の復刻版が市販されているそうだが,未見.

卷之九草部上品之下草之草
杜若 無毒  叢生
杜若出神農本經
主胸脅下逆氣中風入腦頭腫痛多涕出久服益精明目輕身以上朱字神農本經眩倒目止痛除口臭氣令人不忘以上黑字名醫所【名】杜蘅杜蓮白連白芩若芝【苗】圖經曰葉似薑花赤色根似高良姜而小其子如荳按此草一名杜蘅而中品自有杜蘅條杜蘅爾雅所謂土鹵者也杜若廣雅所謂楚衡者也其類自別然古人多相雜引用九歌雲采芳洲兮杜若又離騷雲雜杜蘅與芳芷王逸輩皆不分但云香草也今醫家亦稀用之【地】圖經曰生武陵川澤及冤句陶隱居曰今處處有之【時】春生苗二月八月取根【收】曝干【用】根【質】類高良姜而細【色】青白【味】辛【性】微散【氣】氣之濃者陽也【臭】香【主】頭痛出【助】得辛夷細辛良【反】惡柴胡前胡【制】雷公曰凡修事采得後刀刮上赤皮了細銼用二三重絹作袋盛陰乾臨使以蜜浸一夜至明漉出用【贋】鴨喋草為偽

★呉其濬 (1789-1847)『植物名実圖考』清末 (1848)
清末・呉其濬著の『植物名実圖考』三八巻と『同長編』二二巻は,薬草のみならず植物全般を対象とした中国初の本草書として名高い.『圖考』には実物に接して描いた,かつて中国本草になかった写実的図もある.幕末~明治の植物学者・伊藤圭介はこれを高く評価し,植物に和名をあてて復刻.のち伊藤本から中国で再復刻された.
「杜若」の項に付属する図は,これまでの本草書の模式的な図とは大きく異なり,写実的で,この「杜若」はヤブミョウガではなく,アオノクマタケランに類似している(Internet Archive).

巻之二十五芳草
杜若
杜若本經上品按芳洲杜若九歌畳詠而醫書以為少有識者
考郭璞有賛謝眺有賦江淹有頌沈約有詩豈皆未観其物而
空託采擷耶韓保昇曰苗似山薑花赤子大如棘子中似豆
細審其説乃即滇中豆耳蘇恭以為似高良薑全少辛味
陶云似旋葍根者即真杜若李時珍以為楚山中時有之山人
亦呼為良薑甄權所云●子薑圖經所云山薑皆是物也沈存
中以為即高良薑以生高良而名余於廣信山中採得之俗名
連環薑以其根瘠細有節故名有土醫云即良薑也根少味不
入藥用其花出籜中累累下垂色紅嬌可愛與前人所謂豆
花同與良薑花微異始即圖經所云山薑也余取以入杜若以
符大者為良薑小者為杜若之説但深山中似比者尚不知幾
許姑以備考云爾若劉圻父采杜若詩素英緑葉粉可喜又云
餐花嚼蕊有眞樂則亦韓保昇所云花黄一種草豆花帯紅
白二色非同良薑花紅紫灼灼也至桃花之書有以雞冠當之
者可謂刻畫無塩唐突西施
雩婁農曰昔人戯為杜若作杜處士傳若杜若者顯於古而晦
於今其今之逸民歟膏以明自煎蘭以香自爇杜若非所謂遺
其身而身存者耶
●  =樔の木を犭に,(そう)

ところが現代中国においては,「杜若」は「ヤブミョウガ Pollia japonica Thunb.」の中国名とされ,「アオノクマタケラン Alpinia intermedia Gagn.」の中国名は「光叶(葉)山姜」(大陸),「山月桃」(台湾)とされていて,結果的に牧野博士の説は逆転された.

2015年2月6日金曜日

ヤブミョウガ-6/8 中山伝信録物産考,草花写生,本草綱目啓蒙,物品識名,茶席挿花集,梅園画譜,草花説,薬品手引草,草木図説,本草図譜

Pollia japonica
2008年8月茨城県南部
ヤブミョウガは長い期間「杜若」と考定されてきたので,日本における「杜若」考定の変遷をみる(承前).
江戸末期の飯沼慾斎までは疑問を抱く本草家や園芸家がいたが「杜若」としていたが,岩崎灌園が,「杜若」は「あをのくまたけらん」であると考定し.牧野富太郎も『頭注国訳本草綱目』 (1929) 芳草類巻之十四の「杜若」の項で「和名 あをのくまたけらん, 學名 Alpinia chinensis」とし頭注に「牧野云ふ,我が国にて杜若をかきつばた(あやめ科)に充てしは大なる誤であつた.叉之をやぶめうが(つゆくさ科)に充てたるのも固より中つて居ない.叉はなめうが即ち Alpinia Japonica, Miq. とするも穏当ではない.」とこれに賛同した.

江戸後期

琉球の物産の図譜★田村藍水『中山伝信録物産考』第三巻 (1769稿) では「杜若」は「伊豆縮砂」であるとほぼ断定して,ハナミョウガと思われる植物の図を示している.
「杜若 按伊豆縮砂(ス)者.狭-葉 紅-花 即 眞--若 也」(右図,写本,NDL)

『中山伝信録物産考(中山物産考)』は,1719年に冊封使(琉球国王の即位を認め祝う外交使節)として来琉した,清の徐葆光(じょ・ほこう ? - 1723)の記した『中山伝信録』の琉球に関する記述をもとに,田村登(田村藍水)が再編集した書 (1769稿).『中山伝信録』は最初は1721年に中国で出版され,さらにそれが当時の「日本」に伝わり,京都や江戸で出版され,琉球を知るための基本文献として広く読まれた.(「基文」の『中山傳信』で一部が閲覧可能)

『中山物産考』全3冊のうち,第一巻では,おもに琉球諸島の地誌と特産物について述べ,第二巻では,『中山伝信録』のなかの琉球の動植物・物産をもとに記している.「杜若」の項のある第三巻には,サツマイモ(番薯),ブッソウゲ(佛桑),ナゴラン(名護蘭)など『中山伝信録』には掲載されていない琉球の動植物について,図を附して記している.

★笠間藩主牧野貞幹(17871828)『草花写生』草花の彩色図集.筆致は繊細で,図の肩に名称を記した小紙片が貼付されている.貞幹自筆の部分には,最後に「笠間城/主牧野/貞幹写」の朱印が押捺されている.「ヤブメウガ 古記ノ杜若也」

★小野蘭山『本草綱目啓蒙(1803-1806) では,中国本草書の記述を離れ,「杜若=ヤブミョウガ」と同定し,その性状を正確に記述し,いくつかの地方名を記録している.
「杜若 ヤブメウガ,サヽリンドウ(紀州),メウガサウ(加州),チクランサウ(芸州),ハナメウガ(播州)
本邦古ヨリ,カキツバタヲ杜若ト書来レ共,是ニ非ズ.カキツバタハ燕子花ナリ.中山伝信録ニ杜若ヲ花ノ列ニ入ル.コレ琉球ハ固ヨリ和語ヲ用ユル故ナリ.杜若ハ多ク竹林下ニ生ズ.春,旧根ヨリ箸ノ大サ許ノ茎ヲ出ス.数寸ノ上ニ七八葉ヲ生ス.蘘荷(メウガ)葉ニ似テ茎葉トモニ糙渋(ザラツク)ス.面ハ深緑色,背ハ淡シ.中心又茎ヲ抽コト一尺余,ソノ梢ニ六弁ノ小白花層ヲナシテ開キ,長穂ヲナス.花ニ光沢アリ,蝋花ノゴトシ.円実ヲ結ブ.初ハ白シ,後緑色,縹碧色,黒色ニ変ジ,熟シテ又白色トナル.内ニ細黒子アリ.三角ニシテ,凹ナリ.山薑(ハナミョウガ)ニ似テ至テ小シ.秋冬,苗枯テ白行根(シロネ)ヲ多ク生ジ,横ニ引コト二三尺,其形旋葍(ヒルガホ)ノ根ニ似タリ.コレ若水翁ノ証スルトコロナリ.」

★岡林清達・水谷豊文『物品識名(1809 )
「ヤブメウガ メウガサウ 杜若」(右図,左 NDL)

★岩崎灌園『杜若考』(1817) 中国本草書の杜若を,実際に育てた「アオノタケクマラン」と比較して,同定.また,「革牛草」との考定の初見.詳しくは ヤブミョウガ-8/8

★佳気園著,岩崎常正画,芳亭野人編『茶席挿花集(1824) (pdf p15)
五月の項に「やぶめうが 革牛草** 花白 ???? 葉めうがノ如し」とあるが,図はない.(右図,右 NDL)

★毛利元寿『梅園画譜』(春之部巻一,序文 1825)(図 1820 – 1849)では,益軒の言う二種の「やぶみょうが」を区別して,花が白く実の青黒い植物を「杜若」として図示している.また先行文献も詳しく記述し,その中に「革牛草」「古久礼(コクレ)」とされているとあり,更に中国本草の植物がショウガ科のハナミョウガではなく,タケクマランの一種である事も認識している.殿様の與芸とは思えぬ絵と記事がうれしい.(下図,NDL)

「大和本草ノ曰 杜若(トジャク)ノ花 ヤブ蘘荷(メウガ)ト云
国俗アヤマリテ杜若ヲカキツバタトヨム,カキツバタハ燕子花ナルヘシ杜若ニハアラズ又別ニヤフメイガ
又山ミヨウカ共云草アリ與此不同云シ同書ノ条別ニ載ヤフ蘘荷花白ク實黒クシテトハ能ク此ニ合ヘリサレトモ生花千筋ノ麓ノ圖本ニ此圖ヲ載セテ杜若ト記セリ圖画コレト合ヘリ然レハ當草ヲ杜若ニ可充歟

茶席挿花集出 革牛草**(ヤブメウガ)

増補多識編芳草類に載て曰
杜若(トジャク) 和名 按ルニ 古久礼(コクレ) 異名 杜衡(トコウ) 本徑 杜蓮 別録増補異名 若芝(ジャクシ) 別録 楚衡(ソコウ)廣雅 ●(ソウ,犭+巢)子薑 
●(扌+巢)ハ音爪藥性論 山薑 白蓮(レン)白芩(ゴン)

本草原始云
杜若 又土細辛 雷公*凡使勿用鴨喋草根真ニ似タリ

予曰
群書曰是ヲ福洲高良薑ト云植木屋ニハ縮砂トス
此者良薑・縮砂ノ類ニ非ス高良(クマタケ)薑(ラン)ノ一類ナリ
高良(クマタケ)薑(ラン)ハ其葉冬ヲ凌テ凋ズ
別ニ高良(コウリヤウキヤウ)アリ今此ヲ只高良(リヤウ)薑(キヤウ)ト云」

飯室庄左衛門(17891858か)草花説富山藩主前田利保の組織した赭鞭会の一員(右図,NDL)

★伊藤圭介訳述『泰西本草名疏(1829) ツンベルクの “Flora Japonica” 中の植物(ラテン名)に該当する和名を,シーボルトの指導の下,記述.POLLIA JAPONICA. TH.  ヤブメウガ 杜若」(前記事).

★加地井高茂 []薬品手引草(1843)
「杜若(トジャク) 古くれ」と読める.林羅山『多識編』からの引用と思われるが「こくれ」が何か分からない.(左図,NDL)

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』 巻之一 (成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856(安政3)から62(文久2))では,未だにヤブミョウガ=杜若としている.
「ヤブメウガ 杜若
葉形實状啓蒙詳之宜就見.莖梢糙沙ニシテ粘リ.一二或ハ四五ノ花莖ヲ攅簇シテ数層ヲナシ.毎莖数花ヲツク.就中一ニ花先開キ.他ハ往々全開セザルモノアリ.萼卵圓三葉厚シテ白色光澤アリ.花三辧披針状.實礎丸圓.一柱長ク辧外ニ出.雄蕊六ニシテ黄葯.花萎實長スルニ至テ萼尚不脱 附 両蕋実礎郭大圖
所属未考」(右図,NDL)

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜(刊行1828-1844) では,ヤブミョウガ≠杜若=アオノタケクマランと,早くも後に牧野が指摘した考定に至っている.ただ,すでにツンベルクがツユクサ科に入れているにもかかわらず,ヤブミョウガをミョウガの一種としている.

野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図で,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って排列している.巻510は文政131830)年江戸の須原屋茂兵衛,山城屋佐兵衛の刊行.以下巻1196は筆彩の写本で制作,三十数部が予約配本され,弘化元(1844)年に配本が完了した.

巻之十三 湿草類四 「蘘荷めうが 一種 やぶめうが
山中陰地に宿根より生ず一莖に葉周りつき房をなして小白花を開き秋實を結ぶ熟して碧色麦門冬の実ににたり味淡く香なし先輩これを杜若に充るハ非なり是は修治に雷斅(カウ)*の云処の革牛草**なり.」(上図,右 NDL)

巻之七 芳草類二 「杜若 (とぢゃく) あをのくまたけらん
長崎にて和の高良薑と云形状くまたけらんに似て高さ二尺ばかり莖緑色暖地なれバ冬凋まず花の形も高良薑に似て白色心淡紅なり葉根ともに良香あり根黄色味辛し弘景の説に葉似薑而有文理根似高良薑而細味辛香と云又廣東新語に鮮草果人多種以為香料蓋即杜若非菜中之草果也其苗似縮砂三月開花作穂色白微紅五六月子結其根勝於葉味辛以温能避瘴気と云是なり先輩かきつばた又やぶめうが等を充るハ皆誤なり別に委き考あり」(上図,左 NDL)

* 雷斅:南北朝時代(西暦5世紀)の中国の本草家.著した炮製を扱った専著『雷公炮炙論』が知られる.炮炙(炮製,ほうせい)とは,漢方薬の製剤過程において,薬剤から不要な成分を除いて有効成分を抽出する便宜のため,あるいはその毒性の軽減などを目的として一定の加工調整を行うこと.
** 本草綱目 湿草類 蘘荷 の項に「修治 斅曰:凡使,勿用革牛草,真相似,其革牛草腥、澀。」とあり,『頭註国訳本草綱目』白井光太郎(監修),鈴木真海(翻訳)(1929)春陽堂 の湿草類 蘘荷 の項でには「修治 斅曰く,凡そこれを用ゐる場合に,革牛草を用ゐてはならない.真に相似ているが,革牛草は腥(なまぐさ)く澀い.」と訳されているが,革牛草が何かは考察されていないし,ヤブミョウガの根はかじっても腥(なまぐさ)くもなく澀くもない.

多くの本草書に,薬効のない「ヤブミョウガ」が取り上げられたのは,中国本草書の「杜若」に誤校定されたからではあるが,この誤校定が疑問をもたれながら数百年続いたのは如何に先人の業績を大事にするとはいえ,自由に先輩の言に異を唱える風土がなかったか.を示すようで興味深い.

ヤブミョウガ-5 ツンベルク,属名の由来,学名,Nov. Gen. Pl.,Flora Japonica,Icones plantarum Japonicarum,泰西本草名疏,Pollia condensata,構造色,擬態

ヤブミョウガ-7/8 「杜若」,牧野富太郎 頭註国訳本草綱目・カキツバタ一家言・植物一日一題,方言,本草品彙精要,植物名実圖考,現代中国では「杜若」は「ヤブミョウガ」