2015年2月28日土曜日

イヌノフグリ-1 花,名は果実にちなんで江戸時代から,婆婆納,破破衲,救荒野譜,救荒本草,物品識名,救荒野譜啓蒙,救荒本草啓蒙,本草図譜,草木図説 - 林氏,西勃氏

Veronica polita  subsp. lilacina
2015年1月9日 右上は落ちた花をスキャナーで取り込んだ

長い間見てみたいと思っていた花に,ようやく会えた.昨年送っていただいた,いわき市在住の植物愛好家,トミーさんがご自宅で育てていた個体の種から発芽した四本の若い苗を,三個のビニ鉢の培養土に植えたところ,全部活着した(左図,2014年12月.)
無加温温室で育てたところ,早いものでは今年1月始めから待ち望んだ花を付け,すぐに名の由来になった実をつけた.
なお,本植物が当地では絶滅危惧種であることに鑑み,遺伝子攪乱の観点から,野外への種の拡散には最大限の注意を払っている.

WikipediaJ)には,「和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることから、牧野富太郎が命名した[4][4] 岩槻秀明 『街でよく見かける雑草や野草がよーくわかる本 収録数550種超! 秀和システム,2006」とあるが(2015年3月1日閲覧),この書籍の「イヌノフグリ」の項には,牧野が名付けたという記述はない.引用ミスであろう.

「イヌ(ノ)フグリ」の名は,江戸後期の植物譜に既に見えており,牧野富太郎は,現在では用いられない名(裸名)の V. caninotesticulata(イヌの睾丸)と云う学名を発表した.というのなら頷ける.

磯野の初見は★岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾』(1809 )の「イヌフグリ 婆〃納 救荒本草」であり,イヌフグリと言う和名を持つことと,これが周憲王(周定王)朱選『救荒本草』に記された「婆婆納」であると考定した事がわかる.婆婆納」は同じ発音の「破破衲」とも現される事もあるようで,その名前は老婦人(お姑さん)の裁縫道具入れで,実の形に由来するらしい.この植物は飢饉の際には(若いうちは)食べることが可能な野草として,中国のいくつかの救荒書に記載されていて,その和刻にも載る.

★明王磐撰[]救荒野譜』一卷補遺一卷 和刻(1715,正徳五年)伊藤長胤序 には,「破破衲  茎葉を食
臘月便チ生ス 正二月采リ熟食 三月ハ老テ用ニ堪ヘ不 破破衲補フニ堪ヘ不 寒且飢聊カ脯ニ作飽煖ノ時汝ヲ思不」(左図,左端, NDL)

★周憲王(周定王)朱選『救荒本草 巻之三』(初版1406) 和刻 茨城多左衞門等刊(1716)には,「婆婆納
田野ノ中ニ生ス苗地ニ塌生ス 葉最小 小面花靨兒ノ如シ 状初生ノ菊花芽葉ニ類ス 叉團邊微花雲頭様ノ如 味甜シ
救飢 苗葉ヲ採リ煠キ熟シ水ニ浸シ淘浄シ油塩ニ調ヘ食」と調理法まである.」

興味深いのは,『救荒本草』の元本(上図,右端, AHL)では花弁の数が五枚なのに,和刻本では,それが四枚になっていて,より「イヌノフグリ」に近くなっていることである(上図,中央, NDL).すでにこの時期から婆婆納=イヌノフグリと認識されていたと考えられるが,葉はむしろ原本の方がイヌノフグリに近い.

磯野による初見★岡林清達・水谷豊文『物品識名 乾(1809 )には,「イヌフグリ 婆〃納 救荒本草」とあり(右図 NDL),★岩崎灌園(1786-1842[]救荒野譜通解』(写)には,「破破衲/和名 イヌノフクリ ヒヤタンクサ/即婆婆納ナリ 救荒巻ノ二ニ詳ナリ」とあり,婆婆納=イヌノフグリが確立したようだ.

一方,★小野蕙畝(職孝)『救荒野譜啓蒙』(1842)には,「破々衲  未詳  婆々納ト自別ナリ」とあり,婆婆納≠破々衲としている.

また★同人口授『救荒本草啓蒙 巻之三草之三』(1842) には,「婆婆納/イス(ヌ)ノフグリ
原野ニ多シ 春新芽ヲ生ス 地ニ就テ葉形爵床(イヌカウシ)葉ニ似テ三分許鋸歯アリ 葉間ニ淡紫花一輪ヅヽ開キ蒂中ニ圓實二粒ヅヽ並ビツク 大サ一分許青色ナリ 其形ヲフグリト云 如雲頭様ト云ハ丸ク鋸歯アルヲ云[小面花靨児]ト云婦人化粧シテ靨ヲナスヲ云(左図 NDL)」と婆婆納=イス(ヌ)ノフグリとし,丸い二個の実が萼(蒂)の中に並んで付くのがフグリの名の由来と記している.

★岩崎灌園(17861842)『本草図譜 巻之三十四 石草三』(刊行1828-1844) には,「婆々納 仙人草(せんにんさう) いぬのふぐり(京) たむしづる へうたんぐさ(江戸)
婆々納(救荒本草) 破々納(救荒野譜)/屋上垣の間に阿り冬月実より生ず葉小にして一二分叉ありて菊葉の如し春月葉の間に小き薄紫花を開く実ハ薺(なづな)に似て圓く扁ならず.(右図 NDL)」と,婆婆納=破々衲=イヌノフグリとし,仙人草の別名や京都と江戸の方言と共に,救荒本草とは異なって,写実的な図が添えられている.石垣の間に良く生えるとの知見は,良くこの植物の生育場所を示している.

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)巻之一』(成稿 1852 ごろ,出版 1856-62(文久2))には,花や花柱の郭大図とともに
「イヌノフグリ 婆々納
原野ニ多ク生ス.莖僅数寸.塌地シ枝ヲ分ツ.葉互生形心藏状ニシテ大サ三分許.三五ノ粗鋸歯アリ.二月ノ頃葉腋細花ヲ開ク.萼四葉卵圓ニシテ尖.両々相合ス.花短筒卵
圓大小四裂.色淡紅形扁ニシテ不正開.實礎扁圓一道アツテ一柱結頭.雄蕋二莖.葯黄粉ヲ吐ク.後實ヲ成ス.亦扁圓竪ニ一道アツテ殆ト二箇相接ルガ如シ.故ニフグリノ名アリ.即二区ニシテ各多細子ヲ収ム.
二十七種/ヘロニカ・アルフェンシス.羅 アッチル・エーレンプレース.蘭/西勃氏*所定
按林氏**所説形状簡略ニシテ不詳.所引圖説亦不得見.一ニ西勃氏*ノ説ニ因ル(左図 NDL)」とあり,シーボルトの説によってリンネが学名をつけた Veronica arvensis タチイヌノフグリ)と同定したが,リンネの記述が簡単すぎるので,この同定には疑問が残るとした.

なお,イヌノフグリ=V. arvensis はツンベルクの “Flora japonica” に拠るのであろう(次ブログ記事).
* 西勃氏 シーボルト,** 林氏 リンネ


★飯沼慾齋 著述,田中芳男・小野職愨 新訂,牧野富太郎 再訂増補『増訂草木圖説』草部 1913 (大正2) 「巻末ノ言」牧野富太郎
・・・
○書中著者能ク林氏ト記セリ是レ和蘭國「ホッツイン*」氏(F. Houttuyn)**ノ著書ニシテ固ヨリ林氏即チ「リンネ」氏(Karl von Linne' 即チ Carl. Linnaeus)自身の著書ニアラズ唯「ホッツイン」氏ガ「リンネ」氏ノ學式に則テ以テ天物ヲ記述セルモノニシテ題シテ Linnaeus Natuurlyke Historie** ト云ヒ全部三十四巻アリ西暦一千七百六十一年(寶暦十一年)ヨリ同一千七百八十一年(天明元年)ニ亙リテ同國「アムステルダム」府ニテ出版シタルモノナリ而シテ書中又其第一種、第二種等ト云フハ原書中其植物ヲ列記セル順次ノ號數ナリ著者即チ飯沼慾齋翁ハ主トシテ此書ヲ用ヰ以テ植物ノ洋名ヲ定メタリ而シテ其之ヲ定メントスルヤ其属(Genus)種(Species)ヲ捜索スルニ其間實ニ多數ノ時間ヲ費セシコト今ヨリ之ヲ想像スルニ餘リアリ其僅ニ一行ニ記シ下シタル只一個ノ羅名(ラテン名)及ビ蘭名(オランダ名)ヲ抽出センガ爲メニハ實ニ如何ニ長ク著者ヲ苦シメシカハ此ノ如キ事業ニ經験アル人ノ直ニ首肯スル所ナリ況ヤ當時ニ在テハ其参考ニ資スベキ圖書固ヨリ少ナク今時ノ如ク幾多利便ノ典籍之無キヲヤ今日ニ在テ翁ノ定メシ名稱ヲ閲スレバ則チ其名ノ其實ニ副ハザルモノ甚ダ多シト雖ドモ當時ニ在テハ何人ト雖ドモ葢シ之レ以上ニ出ヅルコト能ハザリシナルベク頭脳非凡ニシテ精力絶倫ナル飯沼翁獨リ能ク之ヲ爲セシノミ固ヨリ竟ニ本草式ヲ脱スルコト能ハザリシ伊藤圭介氏等ノ企及シ能ハザリシコトハ同氏等ノ著書并ニ言行ニ徴シテ今ヨリ之ヲ追想スルニ難シカラズ此ノ如キハ眞ニ睹易キ事歴ニシテ印痕彰々敢テ春秋ノ筆ヲ俟タズシテ明カナリ,翁ノ齢既ニ知命ヲ過ギテ身老境ニ在リト雖ドモ奮テ之ヲ遂グ其氣力ノ旺盛ナル壮者ト雖ドモ遠ク及バズ世ノ此書ヲ繙ク者翁ノ此勞ニ想到スルコト鮮ナシ故ニ特ニ之ヲ記シテ翁ノ努力セル一斑ヲ示スコト此ノ如シ

* オランダの博物学者,マールテン・ホッタイン(Maarten Houttuyn もしくは Houttuijn、ラテン語表記 Martinus Houttuyn1720 - 1798
** “Natuurlyke historie, of, Uitvoerige beschryving der dieren, planten, en mineraalen /volgens het samenstel van den Heer Linnaeus. Met naauwkeurige afbeeldingen.” (1761-1781), Compiled by M. Houttuyn, based largely on the principles of Linné's Systema naturae (12th ed.).リンネの『自然の体系 第12版』などの分類学の著書に基づいた,22,000ページで296の図版を含む大著.以下のサイトで全巻が閲覧・DLできる.表紙には F. Houttuyn とあるが,著者はMaarten Houttuyn
True author was Martinus Houttuyn, who was not quoted in the work itself. Title page gave no author and stated "By F. Houttuyn" ("By" = bij, Dutch for "at" or "with", indicating that the heirs of Frans Houttuyn was the editor or publisher, not the author).

・・・ 
○書中又、西勃氏ト云フコレ「シーボルト」氏(Philipp Franz von Siebold)ナリ而シテ飯沼翁ハ同氏ノ孰レノ書ヲ用ヰシヤ予ハ未ダ之ヲ知ルニ及バズ 

イヌノフグリ-2.  ツンベルク『日本植物誌』,伊藤圭介訳述『泰西本草名疏』,稚膽八郎=椎+膽八=シイ+ホルト=シーボルト,タチイヌノフグリと誤認l

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