2016年8月25日木曜日

ヒマワリ (6) 花壇綱目(刊本),花譜,大和本草,重刻秘伝花鏡,物類称呼,物品識名,梅園草木花譜,薬品手引草,草木図説前編,地方名・方言

Helianthus annuus
2001年7月
ヒマワリ (2/4) で,日本におけるヒマワリの記述資料「花壇綱目,訓蒙図彙,花壇地錦抄,草花絵前集,大和本草,廻国奇観,花木真写,滑稽雑談,絵本野山草」を紹介した.この記事では,それ以降に見出した資料を追記する.
特筆すべきは,毛利梅園の『梅園草木花譜』に描かれた花の裏側の図で,近代以前,日・漢でこの視点からヒマワリの花に美を見出した例は見当たらず,歐州でも,イタリアで活躍したドイツ人画家 Daniel Froeschl  (1563-1613) のテンペラ画一例を知るのみ(後述)

磯村直秀「明治前園芸植物渡来年表」によれば,ヒマワリの初出は水野元勝『花壇綱目』草稿本寛文4年(1664)であるヒマワリ (2/4)に既述が,★水野元勝『花壇綱目』延宝九 (1681) 年の刊本『花壇綱目』「巻中 秋草の部」には
「日向葵 ●花白大輪なり咲比*まへに同 ●養土肥**同前 ●分植は實をとり春可蒔なり
*咲比八九月(唐鶏頭)
**養土は田土用て宜し水をたむる也●肥はごみほこり根廻へ入てよし(水葵)」(左図 NDL)
とあり,「花は白」とし,「養土肥同前」は「同然」は直前の項の「水葵」と同じすると,疑問が残る.

貝原益軒『花譜(1694) 「下巻 七月」に「丈菊 (ひふがあおい) 花史曰,其くき一丈あまりありて,かたくあらし.其生ずる事すぐ也.頭に一大花をひらく.單(ひとへ)にして色黄色.尤下品なり.其花日にむかふ故,倭俗日向(こうじつ,ひふが)葵と云.」(右図 NDL)とあり,また

貝原益軒『大和本草 (1709) 「巻之七 草之三 花草類」には「向日葵 ヒフガアオイ」 「一名西番葵.花史ニハ丈菊ト云.向日葵モ漢名也.葉大ニ茎高シ六月ニ頂上ニ只一花ノミ.日ニツキテメクル.花ヨカラス.最下品ナリ.只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ.農圃六書花鏡ニモ見ヱタリ.国俗日向(ヒフガ)葵トモ日マハリトモ云.」とある(ヒマワリ (2/4)に既述
とヒマワリを「尤下品なり」「花ヨカラス.最下品ナリ」と評価した.彼は渡来した観賞用植物に厳しかったが,『花譜』「下巻,十一月」にある○千日紅 ○三波丁子(サンハ丁子)は外来園芸植物としては例外的に高い評価を受けている(http://hanamoriyashiki.blogspot.jp/2010/07/blog-post_21.html
「千日紅(略)むらさき色にして花多し.愛すべし.(略)」
「三波丁子 此種及び千日紅,近年異国より來れるにや,むかしはきたらず.(略)黄色にして愛すべし.(略)〇凡花も葉もわがもよりみなれ,むかしより人もめでこし,梅,櫻,鶏冠木(かえで),杉,柳(やなぎ),蘭,菊,牡丹,水仙,蓮などの類よし.異(こと)なるをこのむは,物をもてあそびて,無益のいたづらごとなり.千日紅,三波丁子など,むかしなくて,ちかごろ出たるものなれど,其なかにては,賞すべければ,いさゝかこゝにしるす.此外,いまめかしき草木の花,此ごろは,甚おほくいでゝて,世人の賞する事さかんなれど,いたづかはしければしるさず.(左図 NDL)

★平賀源内『重刻秘伝花鏡』(1773)(清の陳扶揺『秘傳花鏡』(1688) に校正・訓点を加えて刊行)の「巻之五 花草類攷」には
-- ヒマハリ 附莵葵

--葵。一名ハ西--葵。高サ一二丈。葉於蜀-葵ヨリ大ニ尖-狭ヲ刻-欫多。六-月花ヲ開ク。毎-幹頂-上只-一花。黄-辧大-心。其形盤ノ如-陽ニ随テ回轉ス。如シ日東ニ昇シハ。則花東ニ朝フ。日天中スレハ則花直ニ上ニ朝ノ。日西ニ沉メハ。則花西ニ朝フ子ヲ結コト最繁シ。狀草--子ノ如クシテ而扁只員ニ備フルニ堪。大意-味無伹其日ニノ之異ヲ取ル耳。叉一-種莵-葵名。一-名ハ天-葵。多ク於下-澤ニ生ス。苗石--苪ノ如。而葉緑ニシテ黄-葵ノ如。花拒-霜ニ似白クシテ而雅。其形至テ小ナリ如初開テ單-葉蜀葵檀心有。色牡-丹ノ之姚黄ノ如愛ス可。人多ク莖葉ヲ採テ之ヲ灼メ食ふ可。」とあり(右図 NDL),太陽の運行に従って,朝は東,昼は上,夕は西と花の向きが変わると,花の運動について記述している.この文の「朝フ」は「テウフ」と読むのか,「ムカフ(向フ)」なのか.

★越谷吾山 編輯『物類称呼 (1775) 「巻之三」には「日向葵:ひうがあふひ丈菊○江戸にて○ひまはりと云大和及加賀にて○ひぐるまと云」とあり,地方名があるほど各地に普及していたことが分かる.(左側,NDL

★水谷豊文(17791833)『木曽採藥記 2巻(文化頃)
豊文は尾張藩士、同藩の薬園を管理するとともに、名古屋の博物家の会である嘗百社の指導者だった。本資料は上巻が文化7年6~7月に木曽を巡回した折の採薬記、下巻は採薬地の地誌で、多数の詳細な手書き地図を含む。採薬は享保頃のそれ(『諸州採薬記』)などとは大分異なり、目的は特定の薬草の採取ではなく、現在の採集と同じく生物相の調査にあり、鳥獣虫魚にも目配りしている。品名だけの記載が多いが、詳細な記述もある。たとえば、御嶽の7合目以上にライチョウ(雷鳥)が棲むこと、御嶽のコマクサは人々が採り尽くして稀であること、天明5年(1785)に木曽でスズタケが結実し、折からの飢饉の救いとなったなど。また、「山ノ神ノコロ、一名山ノ神ノヲコジヨロ」は、日本でもっとも古いオコジョの記録の一つと思われる。(磯野直秀)

「文化七庚午之年*六月七月信州木曽井濃州三ヶ村ノ諸山ヲ巡回シ,薬品ヲ尋ネ求ム.(略)
(六月)二十六日,中津川ヲ発シ,落合ヨリ信州木曽湯舟沢ニ至ル.(略)
湯舟沢ノ兼好屋敷ヨリ,兼好法師ノ墓ノ方ヘ行.此辺ニアル草木ハ,
(略)
狗児菜 一種 葉大ニシテ土木香ノ如ク,花モ大ニシテフチニ小葉ツキ,ヒマワリノツボミヲ見ルガ如シ.(略)」
*文化七年:1810年.この「狗児菜」は不明.タンポポの地方名としての記述はあるが,豊文の記事には当たらないと思われる.また,このヒマワリが,現在のヒマワリと同一だとすると,形状の基準になるほど知られていた事となる.(右側,NDL)

★毛利梅園(1798 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849)の「秋之部三」には,ヒマワリの花とその裏側の見事な図が描かれている.この花を裏側から観察して描いた図はそれまでの本草図譜には見られず,梅園が好事家として,捉われない自然観察の目を持っていた事がわかる.
「大和本草ニ曰 向日葵(ヒフガアオイ) 一名 西番葵 花史ニ曰 文菊* 國俗 日廻(ヒマハリ)ト云
予曰其花一莖日ヲ順テ廻ル 故ニ稱日廻漢名亦謂向日葵
丙戌**南呂*** 葉?月八日
一莖真寫

向日葵花裏(ヒマハリハナウラ)之圖」(右図,NDL)
*文菊:丈菊の誤り
**丙戌:1826
***南呂:陰暦8月の異称

★加地井高茂 []薬品手引艸 坤』(1843)
「ひぐるま 向日葵. 丈菊 ヒマハリ」

★飯沼慾斎『草木図説前編(草部)』(成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856(安政3)から62(文久2))草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る.草部20巻,木部10巻.草部は1852(嘉永5)ごろ成稿,56(安政3)から62(文久2)にかけて出版された
草木図説巻之十七
「ヒマワリ 向日葵
春實生シ茎高五六尺.葉心蔵状ニシテ尖リ三縦道居止アリ,茎葉共ニ細刺毛アツテ糙渋*ス.
梢上花ヲ開ク大サ六七寸.周邉披針状弁ニシテ無蕋.中心完筒子花ニシテ惣テ黄色.萼亦心蔵
状ニシテ尖ツテ反画シ数重鱗次ス.此花常ニ點頭シテ日光ニ向フヲ以テヒマワリノ名アリ.
一種朝鮮種アリ花葉ノ状大異ナケレドモ全体惣テ大ナリ.
ヘリアントュス アンヌス/helianthus annnus 羅  イヤールレークセ ソン子ブルーム/Jaurlykse zonnebloem 蘭」(左図,NDL
*糙渋:ザラツキ

★安倍為任(1844 - 1893)編輯『新選物品識名』(1877 - ヒクルマ

★八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001「ヒマワリ ニチリンソウ,ヒダルマ〔キク科/草本〕」の項には
くんしょ-ぎく:三重(伊勢)
◆てんぐるま:滋賀*/てんと-まくり:埼玉(北葛飾)/てんと-まわり:埼玉(北葛飾)
◆にちりんそ-:山形(西田川),岐阜(恵那),愛知*,滋賀*,和歌山*/にちれん:富山(東砺波)/にちれんそ-:愛知*,奈良*,和歌山*
ひぐるま:加賀,大和,北海道*,山形(東置賜・西置賜),新潟(佐渡),富山(砺波),石川*,福井*,長野*,静岡(小笠・榛原),滋賀*,大阪(大阪市),奈良*,和歌山(海草・日高),島根*,広島,山口*,徳島(三好),香川,愛媛(周桑)/ひぐるまそ-:京都*/ひのまる:青森*,秋田*,秋田(南秋田),山形*,山形(北村山・飽海),長野*/ひのまるばな:福島(会津)/ひまる:子葉(印旛)/ひまわり:江戸/ひまわりぎく:青森(八戸)/ひまわる:新潟/ひむき:山梨(南巨摩),長野*/ひむきくさ:山梨*
◆まうり:青森
◆ねっぱばな:秋田*/めっぱ:青森(南部)/わっばばな:秋田(北秋田)
が収載されている.花の豪華さや天の太陽に関連付けられた地方名が多い.なお,長音は「-」で表した.長音記号「-」は,直前のかなの母音と同じ母音を繰り返すものとみなし,同音の母音と並んだ場合は長音記号「-」を先に並べた.
県名の後の*はその県の一部で方言が使われていることを示す.

2016年8月20日土曜日

ヒマワリ(5) 中国文献,花史左編・羣芳譜・秘傳花鏡・長物誌・花木小志・廣羣芳譜・植物名實圖考

Helianthus annuus
2001年7月
ヒマワリが中国に渡来したのは,南米からスペインに移入されてから数十年後と思われる.

明の王路『花史左編』(1617)にヒマワリが「丈菊・迎陽花」の名で記載されているのが,中国の文献での初出と見られる.その後,明の王象晉『二如亭羣芳譜(羣芳譜)』(1621)に「西番菊」の名も記載され,花は有毒で,墮胎剤となるとある.清の陳扶揺『秘傳花鏡』(1688)には,「向日葵」の名が加わり,花が太陽の運行に合わせてその向きを変えることが,記載されている.
清の文震亨の『長物誌』(ca.1635)にも葵(タチアオイ)の仲間として「向日別名西蓮」として,また同じく清の謝堃の『花木小志』(1820)には,「向日葵」の項があり,種が食用になるとある.『羣芳譜』の改訂版として1708年に康熙皇帝に提出された『御定佩文齋廣羣芳譜(廣羣芳譜)』の「丈菊」の項の記事は『羣芳譜』と同一である.清末の呉其濬の『植物名實圖考』(1848))には,「丈菊一名迎陽花,向陽,向日葵」の名で図が掲載され「生花有毒能墮胎」とその花の毒性は疑問視している.種は炒めて食られるが,過食するとめまいがするとある.

★王路『花史左編』(1617)は,初め24巻,のち27巻.終わりの3巻は後人の補写.花に関する典故文献を集めた書.右編は伝わっていない.花の形状・変異・栽培法・病害虫・月別の園芸作業・園芸用具などについて記すとともに,花にまつわる故事や名園・名勝を収録する.文学色が濃く,一般の園芸書とは趣を異にする.
「丈菊 其莖丈餘翰亦堅粗每多直生雖有憤枯只生花大如盤盂單辨色黃心皆作窠如蜂房状至秋漸紫黑而堅劈而袂之其葉類麻尖亦叉名迎陽花」と草丈・茎の強さ・花の着き方・一重の黄色い花弁・種子のつき方や葉の形など,短い文の中にヒマワリの特徴が良く描かれている.背の高さだけではなく,東を向いて咲いている花の特徴から「迎陽花」という呼び名もあった(左上図).

★明の王象晉『二如亭群芳譜(群芳譜)』(1621)の「貞部 第三冊 花譜三 菊」の項に
丈菊 一名西番菊一名迎陽花,莖長丈餘,幹堅粗如竹,葉類麻,多直生,雖有分枝,只生一花大如盤盂,單瓣色黃心皆作窠如蜂房狀,至秋漸紫黑而堅,取其子之甚易生,花有毒能墮胎」とあり(右図,右側),大きな花は東を向いて咲き,硬くて黒紫色の種子は蜂の巣状について,その発芽率はよく,花には堕胎を誘発する毒性があるとする.この書は後世,改定補修されて御定佩文齋廣羣芳譜』として刊行された(右図左側).

★清の陳扶揺『秘傳花鏡』(1688)の「巻之五 花草類攷」には
向日葵 附莵葵
向日葵一名西番葵高一二丈葉大於蜀葵尖狭多
刻欫六月開花毎幹頂上只一花黄辧大心其形如
随太陽回轉如日東昇則花朝東日中天則花直
朝上日西沉則花朝西結子最繁狀如草蔴子*而扁
只堪備員無大意味伹取其隨日之異耳叉一種名
莵葵一名天葵多生於下澤苗如石龍苪而葉緑如
黄葵花似拒霜白而雅其形至小如初開單葉蜀葵
有檀心色如牡丹之姚黄可愛人多採莖葉灼之可
食」(*蓖麻 ( ヒマ ) の種子(蓖麻子))とあり(左図),太陽の運行に従って,朝は東,昼は上,夕は西と花の向きが変わると,花の運動について記述している.

この書は後に日本に渡来し,園芸書として大きな影響を与えた.平賀源内は校正・訓点を加え『重刻秘伝花鏡』(1773)として出版した.上記漢文はこの書から訓点を除いた文.

清の★文震亨(1585 -1645)の『長物誌』(ca.1635)「巻之二 葵花」には「葵花種類莫定初夏花繁葉茂最為可觀一曰戎葵竒
態百出宜種曠處一曰錦葵其小如錢文采可玩宜種
堦除一曰向日別名西最惡秋時一種葉如龍爪
花作鵝黃*者名秋葵最佳」(*鵝:ガチョウ,鵝黃:薄黄色)とあり,広く庭園で栽培されているとあるが(右図,右側),この「向日別名西」は葉の形状や花の色からオクラではないかとも思われる.
文震亨(1585-1645年),字美,江蘇蘇州人。他是明代大書畫家文征明的曾孫,天間選為貢生,任中書舍人,書畫鹹有家風。平時遊園、詠園、畫園,也在居家自造園林

清代の戲曲作家★謝堃(17841844)『花木小志』(1820)の「向日葵」の項には
「此花園林、寺觀、郊野、陂塘在在有之。子亦可食。最奇者,
余在湖北孝感縣范效順家,見一大石盆用玲瓏石片
堆垜為山狀,種數十幹,長不滿尺,花大如錢而皆向
,殆非人工,詎能如是。」とあり(右図,左側),広く栽培されていて,種子が食用になるとある.

皇帝の命により『二如亭群芳譜』の改定・拡充をした,清★劉灝等奉敕撰『御定佩文齋廣羣芳譜』(命:康熙47(1708),刊:同治7(1868) ,姑蘇亦西齋藏版)の「卷五十一,花譜,菊花四」には,
「附錄 丈菊
|原|丈菊,一名西番菊,一名迎陽花。莖長丈餘,幹堅麤*如竹,葉類蔴,多直生,雖有傍枝,只生一花,大如盤盂,單瓣,色黃,心皆作窠,如蜂房狀,至秋漸紫黑而堅,取其子種之,甚易生,花有毒,能墮胎」(* 字源:「鹿」が集まるのに距離をおく様,音:「粗」「疎」「疏」に通ずる.意義:肌理きめがあらい.粗末な.)とあり,この項に関しては『二如亭群芳譜』と粗→麤を除いては,同一の文章が記載されている.

中国初の薬草のみならず植物全般を対象とした植物譜として名高い清末の★呉其濬 (1789-1847)『植物名實圖考(1848) には,「丈菊
羣芳譜丈菊一名迎陽花莖長丈餘幹堅粗如竹葉類多直
生雖有傍枝只生一花大如盤盂單辧色黄心作窠如蜂房
狀至秋漸紫黒而堅取其子種之甚易生花有毒能墮胎
按此花向陽俗間遂通呼向日葵其子可炒食微香多食頭暈
滇黔*與南瓜子西瓜子同售於市
」とあり(左図),『二如亭群芳譜(群芳譜)』に記された花の毒性は疑問としている.
更に,雲南と貴州では種子はカボチャやスイカの種と同様市中で売られているが,食べ過ぎると頭痛がするとある.
多食が頭痛を引き起こすことは,スペイン王フィリップ二世のために,1570と1575年にメキシコの動植物探索を行ったスペイン人の医師フランシスコ・エルナンデス・デ・トレド(Francisco Hernández de Toledo, 1514 –1587) の著作に記されている. *滇黔:雲南と貴州

2016年8月4日木曜日

ノウゼンハレン-1 日本への渡来.鍾奇遺筆,百花培養集,新渡花葉図譜,梅園草木花譜,遠西舶上画譜,和蘭六百薬品図,植物図説雑纂

Tropaeolum majus
2015年7月
南米ペルー原産.原産地では多年草であるが,温帯では,一年草として栽培される.ノウゼンハレン類の一種(たぶん T. minor ヒメノウゼンハレン)がヨーロッパに移入されたのは比較的古く,ドドネウスの本草書では,1616 年の版には図と共に記事がある.学名をつけたリンネによれば Tropaeolum majus は,1684 年にペルーから欧州に舶来した.

日本には,赤花を弘化二年(1845,三年との説もある )にオランダ船がアナナス(パイナップル?)とともに長崎に持ち渡り,翌年には江戸に入って流行し,また,嘉永元年(1848)には,黄花をつける株がでてきて,江戸の花戸,内山長太郎が売り出した.なお,ノウゼンハレンは純然たる和語で,「花はノウゼンカズラに似て、葉が蓮(れん ハス)に似ている」の意を,オランダ語めかして名付けたと,伊藤圭介の『植物図説雑纂』にある.

原産地や欧州では,観賞用以外に薬用植物(ビタミンCが豊富なので抗壊血病)やサラダ用の野菜としても利用されていたが,日本ではもっぱら花卉としての価値が高かった.

★岩永文禎(1802 - 1866)『鍾奇遺筆』,文禎は大坂の医師・博物家.本書はその備忘録的著作で、冊5には草木に関する記事が少なくない.その冊五には
「アナヽスホウム ノウゼンハヽレム 二品弘化二年冬十二月和蘭齎来
アナヽスノ 形ハ草アタンニ似テ葉辺鋸歯ハリノ如シ 実ノ形蘇テ
ツノ如ク夫ヨリ又葉ヲ生ス 実ハ食用ナル* 甜味ノヨシ
ノウゼンハヽレム 形状ハ葉ハ蓮ノ至テ小ナル者ノ如シ 蔓艸ナリ 花
ハノウゼンカツラノ如ク香気アリ 枝ヲ折リサセガ活ス 寒ヲ恐ル」とあり,渡来経由と時期,及び簡単な性状の記載がある(左図,NDL).* パイナップルか?

★松平定朝 (1773 – 1856) 百花培養集』上巻:自序 嘉永元年 (1848),後編:自序 嘉永二年 (1849) には書名通り,「一.牡丹」から,「百.芍薬」まで 100 種の観賞用花卉の項があり,天竺牡丹(ダリア)やオギザリスなど,渡来植物の記事も多い.
百花培養集-総目録 NDL
「十四 トロパアーヲユルシマユス 長崎方言 ノウゼハレン
百花培養集 NDL
葉の形蓮に似てさし渡し二寸程に生す 蔓棣○に似○○○○竹木○まとひ生立ちものにものばす 地上を這○○○○夏四月前よ里紅蒲五英の○○○○○○○○さし芽○○○○○○○○根を卸ろし○○を○○○○實多くして熟して散乱せ○時は○○○蒔○○は早きハ五六日○○○○芽○○○○廿日程○○○芽○○○○肥ゆるその秋を○○○冬中○○宿根し翌春彼岸○○○俄に肥繁生す 枝多く生○○○○○多く○○○○實熟し採○○○後ハ蔓衰○○○○○繁生○○○○切詰○れは新芽多く吹○再○○○○芽は追○枝を○夏○用ゆ繁生○○○多し 弘化三年臘月浪華より場師長太郎買入 差芽実生多く培養し俄に流布○○○美○○○暑○○○○ハ○○○○葭簀の下○養されハ○○す実生多く生す○勢○○○ 今年長太郎園圃よ里黄花の一品を賣○○○ 舶来の一品○○未曽有の○○な里」
と解読不能文字(〇)は,多いものの,紅色や樺色の五辧の花をつけ,渡来一年後の 1847 年には長太郎百合に名を残す植木屋内山長太郎(18041883)が江戸にもたらし,俄に流行した.さらに,黄色い花をつける種が売り出されたが,これは渡来した花としては,これまでにはない事だとある.
定朝は江戸幕府の旗本で,花菖蒲の育種家として知られる. 1796年に父 松平織部家6代目松平定寅の死去に伴い,安房国朝夷郡,長狭郡内2,000石を相続し,小普請となり,その後西丸目付,京都西町奉行,小普請組支配を歴任したが,1835年職を辞し,子の松平定央に家督を譲り隠居する.父の影響で幼い時より花を好み様々な草花を栽培し,特に父から受け継いだ花菖蒲の改良は,京都在任中も含めて,晩年まで実に60年もの間継続し,1845年には自作の品種の栽培方法などを「花菖培養録」に著した.

★渡辺又日菴(1792 - 1871)『新渡花葉図譜』(天保末年から明治初年,転写:伊藤圭介の五女,伊藤篤太郎の母の小春(1914))には,
「ノフゼンハーレン 花戸の名 ゴローナ スパーンセ ケルス 蘭名 慾斎出」とあり,種か,蘭名が慾斎からが出たとされ,飯沼慾斎が関西(又日菴は名古屋在住)の渡来植物普及の中心であったことが伺える(マツバボタンの項,参照).

★毛利梅園(1798 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 1849
新渡花葉図譜 乾 23 NDL
江戸後期の博物家.名は元寿,号は梅園,楳園,写生斎,写真斎,攅華園など.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.

その,夏之部第八には「凌霄葉蓮 ノウゼンバレン 又 凌霄荷葉 花戸
此者阿羅陀ヨリ弘化三丙午年
始テ将来人皆甚重シス亦近年黄
花ノ者江戸ヨリ出ス挿芽ヨリ変生
スト云能挿レセハ幹ミキヲ即活ツク故ニ今ハ所々ノ
花戸ニアリ四月ヨリ九十月迄花ノ盛
久シ
巳酉*林鐘**十日庭
園瓦器挿芽眞寫」とある.*嘉永二年(1849) **陰暦六月の異名〔色葉字類抄〕

★馬場大助(17851868)『遠西舶上画譜』紙本着色 /安政2年(1855)写
には,濃紫色の花のノウゼンハレンが描かれている.突き出した距に注目している.
遠西舶上画譜 東博
「トロパーヲルユムマエスル 六百薬品1)
弘化三丙午年洋船載來ル草蔓ニシテ葉ハ蓮葉
ニ似テ小互生ス夏花ヲ開キ形チ紫葳花2) ニ似
テ小色?丹紅色ニシテ底ニ紫斑アリ葶酔仙3)又坐
奴草4)ノ如シ○幹背ハ〇○色後実ヲ結ヒ多?ク
ノ三稜内ニ三子アリ香氣山崙菜5)ノ如シ物印
6) 七百五十二ニ図アリ「ナスチユルチユム」ト
アリ「インド」ノ産ト云
「ノウゼンハレン」ト云ハ土俗ノ偽名ニシテ花紫葳
ニ似葉蓮ニ似タルヲ以テ云」

1)    六百薬品:★山本錫夫(1809-1864)『和蘭六百薬品図』安政五年(1858)写
左:和蘭六百薬品図 四,右:原画
天保期(1830-43)には舶載され,本草学者に利用されたオスカンプ等編『薬用植物図譜』(Oskamp, D. L.: Afbeeldingen der artseny-gewassen met derzelver nederduitsche en latynsche beschryvingen..( 1796 - 1800))の図のみをすべて模写したもの.ラテン名,オランダ名,漢名,和名を付記する.部分図の省略は見られるものの,繊細な筆致で丁寧に再現されている.巻末に「安政五年戌午夏四月十日 平安榕室山本錫夫 題名」の墨書があり,本草学者山本榕室(1809-1864)が漢名,和名を付記したものと思われる.原書の図は手彩色された銅版画である.榕室については「マツバボタン」の項,参照.
2) 紫葳花:ノウゼンカズラ,凌霄葛. 3) 葶酔仙:ホウセンカ(鳳仙花)か. 4) 坐奴草:坐拏草(ツリフネソウ)の書き損ないか. 5)山崙菜:不明

6) 物印満:ウェインマンJohann Wilhelm Weinmann (1735-45) .ドイツ(神聖ローマ帝国)の薬学者・植物学者で,その著書『Phytanthoza-Iconographia,薬用植物図譜』は1737年から1745年の間に出版された.この書にはメゾチント印刷に手彩色の1000以上の図版(植物画家として知られるエイレットGeorg Dionysius Ehret, 1708 -1770) が原画を描いた)が収録されている.江戸時代末期にブルマンによる蘭訳書が日本に伝わり,当時の本草学者に影響を与えた.

江戸末期から明治にかけて,日本の植物学の黎明期を支えた伊藤圭介が,植物に関する私的資料を集めた★『植物図説雑纂(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2608083) の第130分冊には,ノウゼンハレンの項があり,種々の先行資料の抜粋や切り抜き,彼の研究結果が記されている.そこは彼自身の考察「金蓮花考」には
「金蓮花一名大紅鳥花戸ニ凌霄花蓮ト呼ビ洋名ハ「トロペオリュス マユス」ニシテ米洲孛露*ニ自生シ西暦一千六百八十六年世ニ創見セラレ弘化二年我邦ニ蘭舶齎来セシ者ナリ花ノ大小色亦紅黄濃淡等数種アリ今諸国ニ傳栽シ世人愛玩シ知ルモノニシテ且コノ冊紙陜隘ナルヲ以テ今茲ニ形状ノ詳説ヲ贅セズシテ只ソノ名實ヲ略記スルノミ植物名實圖考ニ此圖ヲ掲ゲ又其説ニ云金蓮花在直隸圃中蔓生絲莖脆嫩圓葉如荷葉開五辨紅花長鬚茸々花足有短柄橫翹如鳥尾京師俗呼大紅鳥山西五臺尤多以為佛地靈葩云々此説ニ据レバ支那ニモ自生アリト見ユ洋説ニ此草藥用トシテ壊血病ニ効アリト云
明治十三年五月時齢七十七丈五月翁
錦窠伊藤圭介識」とあり(下図,右部,NDL),『植物名實圖考』の記述の引用(下線部)があり(次Blog),また,西洋では壊血病に効果がある薬草との説があるとしている(*孛露:ペルー).

この洋説の元が何かは記されていないが,上に記したウェインマンの『Phytanthoza-Iconographia,薬用植物図譜』のナスタチウムの項には,新しい切傷と壊血病に効くとある.
また,『植物図説雑纂』には付箋がありそれには「此名ハ長崎ニテ蘭名ラシク作リタル名也 花ハ凌霄花又花ハ蓮ノ意ナリ」とも記されていて(上図,左部,NDL),「花はノウゼンカズラに似て、葉が蓮(れん ハス)に似ている」の意を,オランダ語めかして名付けたとある.下に『植物図説雑纂』のノウゼンハレンの項の図をいくつか掲げる(いずれもNDL).