Hypericum monogynum
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清代の博物学者★陳淏子(1612年 - 没年不明)著『秘傳花鏡』(1688) は,花木・花草の種類・栽培法と,鳥・獣・魚・昆虫の飼育法を述べた書物で,日本に伝わり,平賀源内が校正し1773年に『重刻秘伝花鏡』として刊行した.この書の
「巻之三 花木類攷 (図なし)」に
「金絲桃 ビヤウヤナギ
金-絲-桃。一-名ハ桃-金-嬢。出二桂-林-郡一。花似テレ桃ニ而大。其色更
頳シ。中-莖純-紫。心吐キ二黃-鬚ヲ一鋪キ二散ス花-外一。儼若二金-絲一。八-九-月
實熟ス。青-紺若ク二牛-乳ノ狀ノ一。其味甘シ。可二入シレ藥ニ用ユ一。如シ分種ハ當ニ下從二
根-下一劈サキ開ク上。仍以レ土ヲ覆レ之ヲ。至二來年ニ一。移シ植ニ便活ス。」
「金絲桃。一名は桃金嬢。桂林郡に出。花桃に似て而大。其色更頳し。中莖純紫。心黃鬚を吐き花外鋪き散す。儼から金絲の若。八九月實熟す。青紺牛乳の狀の若く。其味甘し。藥に入れ用ゆ可。如し分種は根下は從劈さき開く當に。仍土を以之を覆。來年に至。移しに便活す。」とある.
この書の中に「猪牳柳(チョボリュウ):別名、金絲梅(キンシバイ)」の項がある.キンシバイは中国中南部原産で、日本には宝暦十年(1760年)に渡来している(平賀源内『物類品隲』).しかし写生図の花弁や葉の形,雄蕊の長さは、むしろ先に渡来したビヨウヤナギのそれに似ている.また,「猪牳柳」はビヨウヤナギの中国名の一つであるので,むしろビヨウヤナギの可能性が高い.
「猪牳柳 金絲梅
辛-丑清-舶漂-到ス採二此ノ種ヲ一問フレ之ヲ
猪-牳-柳 陳-宐-春」
とある.
★岡林清達・水谷豊文『物品識名 坤』(1809跋)には
「比部 木」に「ビヤウヤナギ 金絲桃 廣東新語」とあり,前記事に記載した『廣東新語』を典拠としている
★牧野貞幹『草花写生』
笠間藩主牧野貞幹(1787-1828)による草花の彩色図集.筆致は繊細で,図の肩に名称を記した小紙片が貼付されている.版心に「喬木園」と刷り込んだ料紙を使用.明治4(1871)年付の後人の手になる序によれば,巻2の全て及び巻4の半分までは笠間藩士吉田良林写という.各冊に「笠間文庫」の朱印が,また,特に貞幹自筆の部分には,最後に「笠間城/主牧野/貞幹写」の朱印が押捺されている.NDLの前身東京書籍館が,明治8年に文部省から交付された旧笠間藩所蔵本中のものである.
『草花写生 巻二』には,「金絲桃 ビヤウ柳」と題された図がある.葉や雄蕊はビヨウヤナギの特徴を捉えているが,花弁が細過ぎるのが気になる.
★毛利梅園(1798 – 1851)『梅園草木花譜』(1825 序,図 1820 – 1849)
江戸後期の博物家.名は元寿,梅園は号.江戸築地に旗本の子として生まれ,長じて鶏声ケ窪(文京区白山)に住み,御書院番を勤めた.20歳代から博物学に関心を抱き,『梅園草木花譜』『梅園禽譜』『梅園魚譜』『梅園介譜』『梅園虫譜』などに正確で美麗なスケッチを数多く残した.他人の絵の模写が多い江戸時代博物図譜のなかで,大半が実写であるのが特色.江戸の動植物相を知る好資料でもある.当時の博物家との交流が少なかったのか,名が知られたのは明治以降.
この叢書の「夏之部三」にビヨウヤナギの図が収載されているが,花弁も葉もその形状は正確で,葉裏の白さなども実物の写生ならではの描写である.
「大和本草曰
金絲桃(ビヤウヤナキ) 通称 キンシバイ
和漢三才圖會喬木類 美容柳(ビヤウヤナギ)正字未詳
三才圖繪如シテレ桃而心有二
黄鬚一鋪キ-二散ル花外ニ一若ク二
金絲ノ一
未央柳 群書 其樹柳ノ葉ニ似テ五月雨ニ
黄花ヲ開キ六月ニ渡ト云ヘリ
是正ニ美陽柳也
美陽(ビヨウ) 地錦抄
乙酉*林鐘**十日
涼風半息?寫」とある.
*乙酉:文政8年(1825年)
**林鐘:陰暦6月の異称
★小野職博(蘭山)(述)『秘伝花鏡会識』中村宗栄写(1827)は,陳淏子著『秘傳花鏡』(1688),平賀源内校正『重刻秘伝花鏡』(1773)に対する蘭山のコメントを纏めたものと思われるが,その「花木類」の部に
「金絲桃 ビヨウ柳ノ訓非之比書ニ云形状ヲ考ルニ花桃
ニ似テ大其色更頳云々又九月実熟青紺若牛乳状其味
甘云々如比形状者日本未見之今和名ヒヤウ柳ト云ハ三
才圖會ニ金絲桃ト云物形状能合ヨリ比書所説同名異物
之ヒヤウ柳色黄色実硬シテ難爲食用多クハ熟セスシテ墜
落ス樹ハ挿テ能ク活ス」とある.
蘭山は金絲桃をビヨウヤナギと同定するのには疑いを持ったようで,「ビヨウヤナギの実は黄色で堅く食べられない.多くは熟せずに落ちる.『秘傳花鏡』の「九月実熟青紺若牛乳状其味甘」の記述に合わない」としている.
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