2010年5月31日月曜日

タチアオイ(3)

Althaea rosea (3)

白き指に紅のにじみてなまめけるにほやかさもて咲く葵かな    木下利玄

花の形や色や模様の変異は多いが,葉の形もいろいろで,五角形に近いものからとんぼ型まで.特に米国から渡来のは複雑な形をしているようだ.

(承前)
☆「大和本草」貝原益軒 宝永6年(1709)
 蜀葵 からあふい 花として淡紅,浅紅,紫,黒,白,一重,八重があるが,鮮紅が観賞用には最もよい.茎皮から縄や布が造れ,茎を焼いて灰とすると火種が長持ちする.と記載.

☆「和漢三才図会」寺島良安1713年頃
 蜀葵 からあふい 「大和本草」より詳しく,薬効にも言及.枕草子の「からあふひ、日の影にしたがひてかたぶくこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ」を引用.他に葵類としては葵(フユアオイ),錦葵(ゼニアオイ),兎葵(ウスベニアオイ?),黄蜀葵(トロロアオイ)龍葵(イヌホオズキ)が記載されている.

☆「広益地錦抄」伊藤伊兵衛 1719年
 巻之四 薬種
「蜀葵 しょくき 今花壇にうゆる大あふいのことなり 花はいろいろ品あれ共薬種にハ紅白花さくを用ト云 花のさかり久しく下より段段花ひらき末までさきてのほる俗にいふ此花末迄さきてのぼり極る時節梅雨の終わりなりといふ   茎を水にひたしてかわをさりてタイマツにしてよく火をとほるなり」.
 巻之八 花木草花
「立葵 たちあおい 根は芋に似てほそ長く丸し叉欝金草の根のごとく初春に葉を出す五六寸ほどの小草なり葉形あふひの葉に似て茎に三葉ツツ出る葉のうへに花さくはなの董三数あり色青し叉うへに花三出にさくはなの色白し二月すへよりひらくきれいなる草たちなり小鉢に植てよし」(図は左)

☆「地錦抄附録」四世伊藤伊兵衛 1733年
記述なし

と園芸書に記載が多く,江戸時代に非常に広く栽培され,珍重されていたことが分かる.またこの時点では立葵は図にあるオオバナノエンレイソウをそう呼んでいた可能性があると思われる.


2010年5月30日日曜日

タチアオイ(2)

Althaea rosea (2)アメリカから通販で買った種から咲いた花.色も花弁の形もそれまでになかった.簡単に交雑するようなので,どんな花が出てくるか,楽しみ.通りがかりの人に,研究のために植えているのですか?と聞かれたほど,この季節はタチアオイばかりが目に付く.

手元にある江戸時代の園芸関連の資料を見ると,江戸中期まで現在のタチアオイは「葵,あふい,蜀葵,からあふい」と呼ばれ,立葵はエンレイソウの事を指したと思われる.昨日のタチアオイ(1)で「江戸時代に名が立葵となった」としたが,江戸中期以降のことと考えられる.


☆「花譜」貝原益軒 1694年
蜀葵 あふい 日本人が1474年(大明成化甲午)に明国で初めてこの花を見て作った漢詩が見事だとほめられたと中国の文献を引用.日本に入ったのは平安時代とされるが,その後あまりポピュラーにはならなかったと思われる.花として真紅,浅紅,紫白色,一重,八重がある.若い葉は食べられる.と記す(左,中村学園のHPより引用).


☆「花壇地錦抄」伊藤伊兵衛 1695年
草花夏之部 葵のるい 中末
 くれない  八重ひとへあり花形木綿のはなのことし
 むらさき  ひとへもせんようもあり
 雪白    せんやうとひとへあり
 源氏    うすいろニて花のへりしろし八重一重有り


☆「増補地錦抄」伊藤伊兵衛 1695年
立葵 花しろく葉あふいのことくなる小草なり.あいらしく見事成物
「増補地錦抄」挿絵には小あふい,大あふいがあり,大あふいはタチアオイと考えられる.「広益地錦抄」の記述を考え合わせるとここの「立葵」はエンレイソウの類の様に思われる.(続く)

2010年5月29日土曜日

タチアオイ(1)

Althaea rosea (1) 5万年前のイラクのシャニダールのネアンデルタール人の遺跡でこの花の花粉が発見され,古代から花の美しさは認められていたようだ.
原産地は中東,中国にはおそらくは山のシルクロード(インド・ミャンマー)を経て四川省に伝えられ,唐代以前には蜀葵(しょくき)の名で,一番の名花とされた.
日本においては,918年ごろに成立したという日本最古の本草書「本草和名」に「ショクキ(蜀葵)」の和名として「加良阿布比」を挙げており,平安時代には既に伝えられ,唐葵と呼ばれていたことが分かる.清少納言『枕草子』第66段「草は」に,「からあふひ、日の影にしたがひてかたぶくこそ、草木といふべくもあらぬ心なれ」と太陽の運動と共に茎の先端が動く事を興がっている.江戸時代に名が立葵となった.
一方欧州へは十字軍によって運ばれたと考えられ,17世紀初頭には「この植物は宮廷を初め広々とした庭に最も似つかわしい.とても堂々としてどっしりしているからである」と記されている.19世紀には,中国の種が導入され,しばらくは花屋が扱う大事な花として,ダリアと妍を競った


勤めていた新宿の研究所近くのお宅に咲いていた底紅の花の種を頂いて播いたら,真紅から桃色まで色々な花の株が出た.よほど土が合うと見えて近所の名物に.
調子に乗って,米国から通販で種を購入して育て,色々な花を楽しんでいる.悩みはハマキムシと発芽率の良すぎる種.左は数年前の最盛期の様子.








2010年5月28日金曜日

セイヨウノコギリソウ

Achillea millefolium

Thou pretty herb of Venus’s-tree,
Thy true name it is Yarrow;
Now who my bosom friend must be,
Pray tell thou me to-morrow.
-Northall, 113

英名は“Yarrow”,学名のAchilleaは、ギリシャの英雄アキレスに因む.トロイ戦争の時、敵将Priamの婿Telephusがアキレスの槍で傷を負ったとき,Telephusは「アキレスがその傷を治す」との神託をうけ,アキレスに治療を依頼した.アキレスは自分の槍のさびを削り取り,そのくずから生いでたノコギリソウでその傷を治したという.また,これとは別にアキレスが治したのは部下の傷だったという話も伝わっている.いずれにせよ,古くから傷の万能薬とされ,戦傷とのゆかりから「戦争」の象徴ともされている.millefoliumとは「美しい葉」のスカンジナビア語由来とか.

葉はもむといい香りがして,いかにも薬草として効果がありそう.10年ほど前に頂いてから,地下茎を伸ばしてどんどん勢力範囲を広げている.葉は美しく,花も人目を引くがその生命力にはあきれ気味.

薬草としてか,観賞用としてか,5万年以上前のネアンデルタール人の身近に存在していたと考えられている.
イラクのシャニダールで発見されたネアンデルタール人の住居の洞窟で,埋葬されたと思われる人骨の周りから,何種類かの植物の花粉がまとまって発見された.その場所は洞窟の入り口から遠いので,風等の自然の力で集まったのではなく,死者を悼むために,一緒に埋めたなのものだと考えられている.その花粉の一つとしてノコギリソウの花粉が同定された.他の植物もマオウを除いて美しい花をつけ,またいくつかは現在でもハーブや食用として使われているので,呪術的な意味があったのかも知れない.

図は数年前地元の自然観察会の講話に使ったスライド.

2010年5月27日木曜日

サクラソウ(12) 絞龍田 宴遊日記,江戸名所圖會,白魚と桜草で,紅白の土産

Primula sieboldii cv. Shiboritatuta 品種名;絞龍田,品種名仮名;しぼりたつた,表の花色;鴇色紅絞り,裏の花色;鴇色紅絞り,花筒のいろ;紅色,花弁の形;広かがり弁,花弁先端の形;広桜弁,花容;浅抱え咲き,花柱形;僅長柱花,花の大きさ;大,作出時期;江戸後期,類似品種;,その他;縞が安定せず紅色無地のものを「竜田の夕」と呼ぶ.

江戸太平の世の中で,桜草の大群落を物見遊山として見にゆく桜草狩りも盛んになる.

大和郡山城主 柳沢信鴻(1724-1792)が六義園に隠居したのちの『宴遊日記』(安永10年1781)の三月十七日条には
土堤の下ハ野新田に続きたる広野,桜草所々に開き,あちさいに似て黄なる花の草,解夏草一面,三町はかりにて畑の間へ入, …
帰路娵菜,野韮,忍冬を取々行,広野少手前にて先剋次兵衛方に有し客,後家主人と見へ少女婢等五六人・武士五六人程随,広野にて桜草を堀,向ふより婦四五人来,従者のいへる…
(『宴遊日記』中のサクラソウの記録は別記事参照)

と多くの人が桜草の花見に行楽している様子が窺える.

また,文政11年(1827)に初版がでた江戸の名所案内 岡山鳥著,長谷川雪旦挿絵の『江戸名所圖會』は,春夏秋冬を43の項目に分類し,その名所の故事来歴,訪ねる季節,道案内などを記した行楽ガイドブック.自生する野草を紹介しているのは四季を通じて「春之部」での菫と桜草だけで

○ 桜草
 尾久の原―王子村と千住とのあひだ.今は尾久の原になし.尾久より1里ほど王子のかたへ行きて,野新田の渡しといへるところに,俗よんで野新田の原といふにあり.花のころはこの原,一面の朱に染むごとくにして,朝日の水に映ずるがごとし.またこの川に登り来る白魚をとるに,船にて網を引き,あるひは岸通りにてすくひ網をもつて,人々きそひてこれをすなどる.桜草の赤きに白魚を添へて,紅白の土産[いえづと]なりと,遊客いと興じて携へかへるなり.

 昔は白魚が隅田川の名物で,尾久あたりまで屋形船をくりだしてさかのぼり,白魚を舟の引き網や手網で漁り,岸に着けて一面を紅に染める桜草を摘んで,紅白の土産としゃれこんだ,早春の風流このうえない遊びがはやった時代があったと書かれている.左に示すように大変楽しい花見の宴の様子が描かれている(国立国会図書館).

 このように自生地に行楽する事は幕末からさらに明治に入っても続く.

2010年5月26日水曜日

サクラソウ(11)人丸 喜遊笑覧,サクラサウ 押花集

Primula sieboldii cv. Hitomaru

品種名;人丸,品種名仮名;ひとまる,表の花色;桃色内白,裏の花色;桃,花筒の色;桃,花弁の形;広,花弁先端の形;桜,花容;星咲き,花柱形;短柱花,花の大きさ;大,作出時期;明治後期,類似品種;衣通姫・槙の尾,その他;花弁厚い・早咲き・花茎やや短,

星咲きのため,開花途中の花の形は人形の様に見える.花弁が厚く,やや重たげに頭を垂れ風情があるが,雨には弱い.表裏の色がはっきりと異なるため華やか.3年前に購入したが,なかなか増えない.

 江戸時代中期の江戸でのサクラソウの楽しみ方には2つあった.一つは地元の農家が,野生の桜草を掘りとって植えた鉢を,一鉢四文で江戸市中で振り売りしていたので,これを買って自宅で鑑賞したのである.桜の次に桜草という事で広く知られるようになる.ただこの桜草は春の一時を楽しむだけで,育てることまではしなかったと思われる.
 もう一つは実生によると思われる種々の園芸品種の誕生である.喜多村 信節(きたむら のぶよ, 1783 - 1856) 著の『喜遊笑覧』(文政13年(1830))に
   安永七・八年(1778・9)さくら草 形のめづらしきがはやり 権家贈りものとす。数百種に及ぶ。 と,花弁の形の珍しい株が見出され,あるいは育てられ,しかもそれが有力者への贈り物として用いられるほど高い評価を得られていたことが窺える.

 桜草は花の変異の大きい植物で,今日の自生地でも色の濃淡や,白色の株,花弁の巾の広狭,弁先の切れの形などに変化した個体が見られる.このような株をもとに実生栽培をすれば,変わり花がたくさん得られても不思議はない. その「形のめづらしき」花の実物が巣鴨薬園長の渋江長伯が寛政年間(1789~1800)に作製した「サクラサウ 押花集(62品種)」に見ることができる.弁巾の広いものは少ないが,先の細かく切れた花が目につく.


その画像が国立国会図書館 「描かれた動物・植物(江戸時代の博物誌)」(http://www.ndl.go.jp/nature/cha1/index3.html)で見ることが出来る.引用すると,

『サクラサウ』 渋江長伯製 寛政元 (1789) ~寛政12 (1800) 頃 押花 1冊

サクラソウは18世紀後半に流行し始め、花弁や色の変わり物が現われました。示した個所の右が花銘「古今集」と「多武峯」、左が「舞之袖」と「井出ノ里」です。上2点は花が6裂 (野生品は5裂) 、左下は花が極小の奇品です。本書は見返しに寛政年間 (1789~1800) の作成とあり、全58品。著者渋江長伯は幕医で、幕府の巣鴨薬園などを管理し、また綿羊を飼育しました。


2010年5月25日火曜日

ホオズキ

Physalis alkekengi var. franchetii
『大和本草』には,ほおずき(ほほつき)の語源として,「ホホという臭虫(カメムシ)が好んでこの葉を食べる」からとある.現在も「ホオズキカメムシ」という名前のカメムシがいるが,ホオズキの旧音(旧かなづかい)は「ほほづき」であり,たとえば和名類聚抄(931-938, 早稲田大学図書館蔵:http://www.littera.waseda.ac.jp/wamyou/index.html) では「酸漿」の項に和名として「保々豆岐」としている(「豆」は「づ」(du)音).この当時「づ」と「ず」は別の音であり,「ホホが好き」に由来するのであれば「ほほずき」となるはずであるので,この説は頷き難いとのこと.なお,『大和本草』には他に「“酸漿”はカタバミのことで,ホオズキには“酸醤”を充てるのが正しい.衣類の穢れを落とすのに用い,この色が着いたらムクロジの皮か赤小豆の粉で洗って落とす」と記され,この赤い実(漿果)が呪術的な意味合いを持っていた事が窺える.

家内が近くの小学校で行う「課外授業」の教材とするため,去年の春に種をまいた.二年草なので昨秋は実をつけず,冬を越し地下茎で広がってようやく花をつけた.実とは異なり,花の地味な事.

おまけの写真は数年前の秋に撮った 食用品種 ショクヨウホオズキ (Physalis pruinosa) 一名ブドウホウズキ.実は赤くならず,甘酸っぱく食用にされる.一株だけ田んぼのあぜ道に生えていた.どなたかが実をとるために栽培していたのかは不明. 味見する勇気はなかった.