Veronicastrum japonicum
2004年8月 八方尾根 |
琉球の薬用植物に関しての★呉継志『質問本草』 (しつもんほんぞう) は,寛政元年(乾隆五十四年、尚穆王三十八年、1789年)に完成した.
第一巻の序によると,「中山および掖玖(屋久のこと)諸島に産する草木、珍しくて名称もはっきりしないもの数百種を採集し正確に写生して、さらに草木そのものを傍に貼付した。註として草木の発芽、花季、結実などの消長を記した。別に根、実等数件をさらに裏付けした。年に70~80種に限って一帖とし、これを福省、北京や諸処の先生方に質問した。格別に判じにくいものは鉢に植えて送った。或いは(納得いかない場合)別名を挙げて再質問し、さらに別の先生に同じ質問をした。間違いを防ぐため柴胡(さいこ,サイコ)、芎藭(きゅうきゅう,川芎(センキュウ))、女貞(トウネズミモチ)等の確実疑いなきものを附した。」との事.
教えを乞うたのは,中国各地の本草家35名,その他に漂着した中国人10名にも聞いており,総勢45名から教示を得たことになる.
第一巻の「例言」には,「質問」は,乾隆四十六年から同五十年(天明元年~同五年、尚穆王三十~三十四年、1781~1785年)まで行なわれたと書いてある.質問帖は年ごとに一帖としている.例えば本文中に丙午帖というのが出てくるが,これは丙午(ひのえうま)の年(乾隆五十一年)の質問帖である.乾隆五十年に採集・作成した質問帖を翌五十一年(丙午)の進貢船に載せたのであろうが,おそらくこれが最後の質問帖である。
時の八代薩摩藩主島津重豪は,これをおおいに喜んで出版するつもりであったが,果たさないうちに死去.これを48年後に曾孫の十一代藩主島津斎彬が世に出したものである.中山呉子善著,薩摩府學蔵版として,天保八年(道光十七年,尚育王三年,1837年)に江戸の須原屋,山城屋等で刊行されている.
この書には二件の威靈仙の記事が収載されていて,先行した記事(外篇巻之三)では,威靈仙をセンニンソウ(サキシマボタンヅル)に比定し,後の記事(内篇巻之四)では,先行記事に対する疑問を質問し,その比定を訂正する形で,クガイソウに比定している.しかし,センニンソウ(サキシマボタンヅル)への比定の記事を残しているところを見ると,性状の「蔓性,鬚根」からはセンニンソウに,「葉が輪生,花が穂状」からはクガイソウにと,どちらとも決定できなかったのであろう,「地道(地域差)」という言葉で,両者の何れが真の威靈仙とも言っていない.『開宝本草』と『圖經本草』での混同が中国でも解決されていなかったことを如実に表したとも言えよう.
質問本草外篇巻之三
「威靈仙 大蓼 タカタデ ハボロシ
荒野中ニ生ス.拖蔓シテ而樹木上ニ妥附ス七八月花ヲ開ク
威靈仙性猛ニシテ神速ナルヲ言イテ之ニ名ク根苗花寔ノ形綱目與相ヒ符ス故ニ釆蔵載セ不根ヲ用フ味ヒ苦甘温ニシテ毒無シ手足ノ太陽經ニ入ルノ諸ノ風痛ヲ藥療シ五臓宣通ス腹冷痃癖癥瘕膀胱ノ蓄血蓄膿停經跌打瘀血ニ功効アリ酒ニ和シテ服シテ良ナリ 壬寅 陸澍
威靈仙 初生蔓ヲ作シテ方莖ナリ七月内ニ花ヲ開ク六出浅紫或ハ碧白色根稠密鬚多シ長キ者二尺許リ初時ハ黄黒色乾ハ則深黒 壬寅 潘貞蔚
威靈仙 辛丑 陳得功 楊国棟
名ヲ威靈仙ト喚フ載テ綱目ニ在リ 庚申 載道光 戴昌蘭」
「威靈仙 クガイサウ
敝邑別ニ威靈仙ト叫フ者有リ 今圖シテ以テ是非ヲ問フ 前年潘陸ノ諸氏薩摩方言仙人草ト呼フ者ヲ●(扌に上+日=指)威靈仙ト為故ニ再ヒ是ノ問ヒ有
威靈仙 於衆艸ノ之先ニ生ス 其ノ莖四方数葉相ヒ對ス 七月内花ヲ生ス、六出浅紫或ハ碧白色穂ヲ作ス 此ノ本圖内名テ威靈仙ト叫フ前ノ之問フ所ハ非也 葵卯 石家辰 潘貞蔚
此レ藥ニ入ル可シ 圖内之ヲ書ス
其ノ姓名ヲ記サ不
細ニ其ノ葉根ヲ観ルニ本草與相符ス 其レ實ニ之國中之威靈仙ナリ 是レ各方土産ニ係ル 方書地道**ノ之性ニ比ス可ニ非ス 採用ノ時各自變通佐使コトヲ要ス 差錯ニ至ラ不ルニ庻*(庶の灬が从)ラン 葵卯 宋宐 観 林大明」
*
庻 音読み:ショ,訓読み:もろもろ、こいねがう、ちかい
** 地道については,徐淮子靈の序に「葢に薬品地道有り 出産不同有り 砭針の窬を按し穴尋る便なる若きに非す」とある.地道というのは草木の薬効や成分の地域差とでもいう意味であろうか.
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