2011年1月30日日曜日

ヒヨドリ,古今著聞集 鵯合(ひよどりあわせ),後白河法皇,たまきはる.井上靖「後白河院」

ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis (鵯,ヒヨドリ科)

 我が家の庭の主.他の鳥のみならず,私が庭に出ても大きな声でしかりつける.気は強いが,警戒心も強く,いい写真が撮れない.やかましい「ピィーヨ,ピィーヨ」(縄張り宣言)だけではなく,可愛らしい声や,美しいといえる声でも鳴く.(ヒヨドリの 色んな鳴き声はここで聞ける.
http://www.youtube.com/watch?v=7SBoY1GKNsQ

 波の様に上下動して飛ぶ.30年ほど前は,秋から冬にかけて林から都会に出てくる鳥だったが,現在は一年中いる都市鳥の代表格になった.分布がほぼ日本国内に限られているため,日本を訪れる海外のバードウォッチャーにとっては日本で観察したい野鳥のひとつとなっている.仔飼いにすると非常によく慣れ,飼い主を見分けることから平安時代は貴族の間で現在の競走馬のように個体名が付けられたりして愛玩され,鳴き声の競技会も行われた.

 鎌倉時代,伊賀守橘成季によって建長六年 ( 1254年)に編纂された世俗説話集 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には少なくとも 4 話のヒヨドリの話(巻第十六 興言利口 第五六三話 「僧円慶ひえどりの毛をむしるに、家隆詠歌の事」,巻第二十 魚虫禽獣 第六九〇話 「承安二年五月、東山仙洞にして公卿侍臣以下を左右に分ちて鵯合せの事」, 第七〇四話 「宮内卿家隆秘藏の鵯荻葉を侍從隆祐に預くる事」,第七〇五話 「後久我太政大臣通光秘藏の鵯おもながを壬生家隆に贈る事」)が載っている.

特に第六九〇話は高倉天皇の治世1172(承安二)年5月2日、東山仙洞(後白河法皇の御所)で行われた大掛りな「鵯合(ひよどりあわせ)」の記事で,
 (後白河法皇の臨席の元)左方、伊予の守親信朝臣、右方、右中将定能朝臣、御前に参る。左右の鳥、同時に持参すべきよしを仰す。即ち両方の鳥を持参して、南の階の間のすの子に置く。一番、左、右衛門の督の鳥、字(あざな)無名丸、左少将盛頼朝臣持参す。
右、五条の大納言の鳥、字(あざな)千与丸、右少将椎賢朝臣持参す。左右ともにうそ(口笛)をふく。その興なきにあらず。(後略)

と法皇の前で貴族らが左右に分かれて持参した鵯を披露しあい、その鳴き声の優劣を競ったとされている.

 後白河法皇はことのほかこの「鵯合」を好んだようで,建春門院中納言の日記「たまきはる」(1219年頃)には,

中将光能(みつよし)が鳥合はせられたるに、二(ふたつ)ながらすべて声もせず。さはとて、取り出だす折、うそ吹きたりとて、たゞ一声に勝つを、院の御方に、「主に似て、忍びやかに勝ちぬ」と仰せられしも、おかしう聞こゆ。

とある.

この出来事を井上靖は「後白河院」(1972年出版)で
「中将光能卿が鳥を合せました時、光能卿の鳥も相手の鳥もいつまでも声を出さず、それで引き分けということになり、互いに鳥籠に仕舞おうという時になって、光能卿の鳥だけがひと声鳴きまして、それで勝負は決まりました。その時院は光能卿に、ぬしに似て、しのびやかに勝ったなと仰せになりました。わたくしは、この時初めて、間近かで院のお声というものを聞き、お言葉をお出しになる時のお顔を拝しました。光能卿はさすがに少しだけお顔を硬くされましたが、いかにも院のおっしゃり方には容赦ないところがございまして、聞く側の者には心をえぐられるような、はっとするものがございました。光能卿は院のご寵臣として聞えておりました方だけに意外なことでございました。」と書いて,後白河法皇の性格を印象づける一場面としている.

2011年1月22日土曜日

Narciss Japonicus Rutilo Flore 日本赤花水仙,ネリネ・サルニエンシス,ガーンジー・リリー,コルニュ,ケンペル,リンネ,ツンベルク・熊楠

Nerine sarniensis 南アフリカ原産のこの花は,日本原産と誤解された上,長い間ヒガンバナと混同されていた.

17世紀,鎖国前の日本から帰路についていた英国あるいはオランダの船がイギリス海峡で難破し,ガーンジー島(旧名サルニエ島)に荷物が流れ着いた.数年後,この「きわめてまれな悲しい事故のおかげで」……その地の海岸の砂浜に「この花が華麗な美しきで咲き誇る」ことになった.
日本から来たと考えられたこの花は1634年の10月にパリの庭園で咲き,その次の年にはジャック・フィリップ・コルニュ (コルヌトゥス,1606 - 1651)の『カナダ植物誌』("Canadensis plantarum historia":1635)に ” Narciss I(J)aponicus Rutilo Flore (日本赤花水仙)”として「楽しく好ましい図」と共に記載された(左*1).
しかし,本当はこの球根は,難破した船が途中に寄港した南アフリカで積み込んだもので,JAPONICUS の名は,全くの誤解からであった.

さらに混乱は深まる.1690-2年日本に滞在したケンペルは『廻国奇観』(1712)で,石蒜(ヒガンバナ)はコルニュのいう Narciss Japonicus Rutile Flore と同じであるとした(右下図上:京都大).

その後ダグラスは、英名がガーンジー・リリー(Guernsey Lily)であるこの花を、島の古名に因みリリウム・サルニエンセ(Lilium sariniuense)と命名し、原産地は日本だとした(1725年*2).

さらにリンネは『植物の種 Species plantarum』の1753年版のp293において,これをアマリリス・サルニエンシス(Amalyris sarniensis)としている。

リンネの弟子で1775 – 1756年日本に滞在したツンベルクは,日本の植物を始めて学名で紹介した『日本植物誌 Flora Japonica』(1784年)で,長崎で見たヒガンバナを,このアマリリス・サルニエンシスと同定した(右図下;ハーバード大).

この誤解はずっと生き続け,冒頭に示した Curtis の『 Botanical Magazine 』の Guernsey Lily の図譜(1795年,銅版手彩色)のテキストにおいても,コルニュ,ケンペル,ツンベルクの著作が引用され,この植物の原産地は日本であるとされている.一方学名はHerbard W. によって立てられたNerine 属の Nerine sarniensis とされた(1820年, International Plant Names Index).
あの博学な南方熊楠も大正4年(1915年)の『日本及日本人』の元旦号に発表された『石蒜の話』で,日本原産説をよしとして「本種(ガーンジー・リリー)は石蒜たること疑いを容れず」との立場をとったとの事(*2).

ところが、その後の再検討により、コルヌチのいう「赤花日本水仙」はヒガンバナではなく,南アフリカはケープ地方原産のネリネ・サルニエンシスであり,ヒガンバナとは異なることが明らかになった(Gray 1938年 Muntschick 1983年*2,).
最初からアフリカが原産の植物だったのであるが,ケンペルもツンベルクも同定を誤ったことになる.

*1:ウィルフリッド・ブラント『植物図譜の歴史-芸術と科学の出会い』森村健一訳 八坂書房 1986
*2:栗田子郎 千葉大学名誉教授  ヒガンバナの民俗・文化誌 http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/higanbana-minzoku.bunka-6.html



ガーンジー・リリーはその名の通り,イギリス王室属領ガーンジー島のシンボルとなり,貨幣や切手のモチーフとなっている.

私が,この植物に興味を持ったのは,Curtis の Botanical Magazine にどんな日本の植物が取り上げられているか知りたいと,そのテキストを Japan or Japon で検索した時,この植物がヒットした.Description では "native in Japan" となっているが,図譜を見たところヒガンバナと良く似ているが,何か雰囲気が違う.そこで調べたところ,『植物図譜の歴史』の挿図とその記述や,栗田子郎先生の興味深いお話に遭遇し,この植物の歴史を知る事となった.

ぜひ,この図譜を手に入れたいと思っていたが,昨年暮れに e-Bay のオークションで英国のディーラーから $34.00 で購入できた.

2011年1月18日火曜日

スズメ Who killed Cock Robin? I, said the Sparrow,

スズメ Passer montanus (スズメ科)

             それがしは 案山子にて候 雀殿        漱石
 大分住宅地化が進んだといえ,利根川に流れ込む小川,田畑や屋敷林,休耕田のある当地ではカワセミやアオサギ,セグロセキレイ,カルガモ,シロハラなど,野鳥が多く見られる.庭にもキジバトをはじめ,スズメ,ヒヨドリ,ジョウビタキ,ムクドリ,コゲラなどが訪れ,道路ではセキレイも愛嬌のある歩きを披露する.近くの遊歩道にはこれらの鳥のほか,シジュウカラやメジロも多く,先日はアオジとゴジュウカラが見られた.
 最近はスズメの少子化が話題になっているが,今の時期,この付近で見る限りスズメは大家族.ヒヨドリが庭のサクラの木を占拠するまでは,朝の鳴き声がうるさい程だった.

 ユーラシア大陸の広い範囲に分布する小鳥.西はポルトガル,東は日本,北は北緯六十数度まで.南はボルネオ島,スマトラ島,ジャワ島などの熱帯または亜熱帯の地域にも分布するが,インドではほとんど見られない.
 日本での生息地は,都市,農村,里などの人の居住域付近であり,人間が住み始めた集落にはスズメも居着き,逆に人間が離れ集落が無人になるとスズメも見られなくなるという傾向がある.一方ヨーロッパでは主に農耕地帯や林でみられるため Tree Sparrow と呼ばれ,イエスズメ (House Sparrow, P. domesticus) など別のスズメがいる都市部にはほとんどいないという棲み分けがされている.

 マザーグースの有名な唄," The Courtship, Marriage, and Pic-Nic Dinner of Cock Robin & Jenny Wren " ("Death and Burial of Poor Cock Robin") で,主人公コック・ロビン(コマドリ)を自分の弓と矢(arrow)で殺したと告白したスズメ(Sparrow)は挿絵の頭部の模様から見ると House Sparrow の様だ.(左図: The Project Gutenberg License included online at www.gutenberg.net)

(前略)
Who killed Cock Robin?
I, said the Sparrow,
with my bow and arrow,
I killed Cock Robin.

(中略)
Who'll toll the bell?
I, said the Bull,
Because I can pull,
I'll toll the bell.

(後略)

また,この唄で葬儀の鐘を鳴らすため綱を引く Bull は,一般的には牡牛と考えられているが,この場面だけ大きな獣が現れるのは不自然なので,これは Bull Finch (ウソ Pyrrhula pyrrhula)だとの説もある.

2011年1月13日木曜日

Pierre-Joseph Redoute “Le Roses”, second octavo edition (2) ルドゥテ『バラ図譜』オクタヴォ-第二版 Rosa Pimpinellifolia Flore Variegato

Rosa Pimpinellifolia Flore Variegato

ピンピネリフォリア系-ヨーロッパに広く分布するロサ・ピンピネリフォリアの変種または本種をもとに改良された一連の系統をさす。

「花のラファエロ」ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ Pierre-Joseph Redoute (1759 - 1840)は,また多色刷りのスティップル・エングレーヴィング [ stipple engraving ] (点刻彫版法)を発明し,それを植物図譜に適用した最初の人としても知られる.スティップル・エングレーヴィングは,後世の印象派の点描技法に通じる,点の集合で陰影を表現する非常に高度な技術と労力を要する彫版技法で,それによって銅版画特有の硬い輪郭線を排除し,植物の自然な姿を表現できる.

 ルドゥーテの版画作品は,その無数の点を刻んだ一枚の銅版に,様々な色の絵の具をプーペ(タンポ)などで載せ印刷し,更に,手彩色で仕上げるという,途方もない手間をかけて制作されている.「多色印刷をするためにわれわれが 1796 年に発明した工程は,独自のやり方で一枚の版に必要なインクを盛り分けることからなる.それによって(中略)水彩絵の具のもつあらゆる柔らかさと華やかさを印刷物に与えることに成功したのである.(ルドゥーテ)」*1

この技法の見事な例を『J. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau』 (1805) のサフランの多色銅版図譜(番外編 サフラン(1) ルソー・ルドゥーテ・ラスキン・漱石)で見ることが出来る.
*1 『植物図譜の歴史』 W・ブラント著,森村謙一訳,第14章 「ルドゥテの時代」

「バラ図譜」においてこの技法はフォリオ版ならびにオクタヴォ版の第1版に用いられた(右図,ニューヨーク公共図書館).

しかし,図譜の拡大図を見ると分かるように,オクタヴォ版の第2版以降では,黒あるいは黒灰色一色で印刷し,それに手彩色をほどこすという簡便な技法が用いられた.従って,美しさの点では価値は第1版より大分落ちる.(前記事参照)

 ここに掲げた図版はオクタヴォ版の第2版.Rosa Pimpinellifolia Flore Variegato; Variete du Rosier Pimprenelle á fleurs panachees [Rosa pimpinellifolia L. var. ciphiana] の図譜.2006年6月にe-Bayのオークションで 53.00 ドルで落札した.
 
 なお,「バラ図譜」のフォリオ版の全図譜はニューヨーク公共図書館( NYPL )のデジタルギャラリーで鑑賞することが出来る.
 おまけは2002年3月に撮影した NYPL の入り口.この図書館は映画「ゴーストバスターズ」で最初の怪奇現象が現れる舞台となった.

2011年1月10日月曜日

Pierre-Joseph Redoute “Le Roses”, second octavo edition (1) ルドゥテ『バラ図譜』オクタヴォ-第二版 (1) Rosa Rubiginosa Aculeatissima

Rosa Rubiginosa Aculeatissima

 最も有名な花の肖像画家 ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ Pierre-Joseph Redoute (1759 - 1840)は,南ネーデルラント出身のベルギーの画家.18世紀後半にパリに移り,植物学の基本を学び,ルイ16世王妃マリー=アントワネットの博物蒐集室付画家の称号を得た.
 その後,フランス革命を生き延び,ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌ等の庇護を受けながら,『花のラファエロ』『バラのレンブラント』と称される程,ユリやバラなどを描いた美しいボタニカルアートを残している.

 ルドューテはいくつかの植物図譜を著したが,その中でもジョゼフィーヌがあつめたマルメゾン城のバラを描いた「バラ図譜(Les Roses)」フォリオ判(二折判)は最高傑作といわれる.「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版された.これには169種のバラが精密に描かれ,芸術的価値が高いだけではなく,植物学上も重要な資料となっている.

 「バラ図譜」オクターヴォ版(八つ折判)はフォリオ版の出版後,サイズを小さくして出された普及版で,少なくとも3回出版されている.オクタヴォ版各版の出版年と収録図数は下記のとおり.
Le Roses 第一版 NYPL
初版 1824年(-26年) 160図
2版 1828年-30年(29年) 180図(181図,182図の記録もあり)
3版 1835年 183図(180図の記録もあり)

LES ROESバラ図譜[普及版]河出書房新社 (2012) 岐阜県立国際園芸アカデミー学長 上田善弘氏による解説 ルドゥーテ『バラ図譜』について によれば 
『バラ図譜』と植物画技法
『バラ図譜』は、181724年にかけて30分冊で初版のフォリオ判(2つ折判)がパリのフィルマン・デイド一により刊行された。その後出版社を変え、新版として182426年にかけて小さいサイズのオクタヴオ判(8つ折判)の初版が刊行され、1828年に第2版、1835年に第3版が、内容はそれぞれ若干異なるものの、同じサイズで刊行されている。フォリオ判の初版には、バラの絵169枚とバラの花輪の口絵、計170枚の原画がルドゥーテによって描かれ、パリ・リンネ学会会員の植物学者クロード=アントワーヌ・トリーによる解説が添えられている。これらの図版のすべてのバラが現存するわけではないので、その当時のバラを知る貴重な記録となっている。ルドゥーテは植物学的に精密度の高い植物画を措いたと同時に、イギリスで開発された高度な銅版画法である、ステイツプル・エングレーヴィング(点刻彫版)を改良し植物画に応用した。通常の銅版画技法が線で描く線刻であるのに対し、細かな点の集合である点描により表現する技法である。大変手間の掛かる作業ではあるが、銅版画に特有の硬い輪郭線がなくなり、柔らかい微妙な陰影を出すことができるため、植物の質感も感じられるような、より自然に近い姿を表現できるようになった。すべての図版の下には名前が記されており、左端に原画を描いたルドゥーテ、真ん中には摺り師であるレモン、右端にはそれぞれ担当した彫り師の名が印刷されている。各パートで一流の職人が集まって腕をふるい、制作されたのである。さらに『バラ図譜』は多色刷りの印刷の上から、水彩絵の具で手彩色が施されている。ほとんど黒を用いずに印刷されたのち、一枚ずつ丁寧に着彩することにより、植物画の芸術性を一段と高めた。しかしながら、オクタヴオ判の第2版と第3版に関しては制作の手が抜かれ、黒一色で印刷した上に着彩されたものが多く、質が劣り、全く違った印象のものに仕上がっている

ここに掲げた図版はオクタヴォ版の第2版.Rosa Rubiginosa Aculeatissima; Rosier rubigineux tres epineux [Rosa rubiginosa L. var. umbellata] の図譜.2009年10月に e-Bay のオークションで 38.89 ドルで落札した.

2011年1月5日水曜日

Japanese flower by P. J. Redoute (2) ロウバイ

Calycanthus proecox
最近購入した,この叢書「新デュアメル」(Nouveau Duhamel)に含まれるルドゥーテが原画を描いた日本由来の植物の図譜は,今を盛りと香っているロウバイのそれ.

デュアメル・デュ・モンソーHenri Louis Duhamel du Monceau(1700-1782) は,当時の有名な農学者・科学者・植物学者で,研究は農作物の生育法だけでなく,そこから発展して土壌の研究・気象の研究など広い範囲に及び,とりわけ気象研究の成果は,航海術に活かされ,デュアメル自身,海兵学校の設立にも携わったといわれている.また,フランス重農主義者の一人でもあり,国の発展は農業の発展あってこそと,農業研究の重視や農産物の貿易自由化を唱えた. "France's outstanding dendrologist of the mid-eighteenth century" (Stafleu). この『フランスで露地栽培される喬木と灌木についての概論』(初版)は当時のフランスの木々を植物学的に分類整理した学術書で,ナポレオン夫人ジョセフィーヌに献呈された.

新版には日本由来とされる5種の樹木が掲載されているが,実際にはそのうち3種は中国原産.

Sophora Japonica = Sophora du Japon.  エンジュ(中国原産)
Mespilus Japonica = Neflier du Japon.  ビワ(中国原産)
Aucuba Japonica = Aucuba du Japon. アオキ
Calycanthus proecox = Calycant du Japon. ロウバイ(中国原産)
Rosa rubrifolia = Rosier à feuilles rou ハマナス

なお,著者の Duhamel については Wiki の英語版に詳しく,また,新版の全図譜は ニューヨーク公共図書館( NYPL )のデジタルギャラリーで見ることが出来る.

前回掲載したアオキの図譜は 2007 年に 147.50ドルで,このロウバイの図譜は 2010 年に77.01ドルで,何れも e-Bay のオークションで入手した.最近のドル安円高は海外からの購入にはありがたい.

Japanese flower by P. J. Redoute (1) アオキ Aucuba japonica