ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis (鵯,ヒヨドリ科)
我が家の庭の主.他の鳥のみならず,私が庭に出ても大きな声でしかりつける.気は強いが,警戒心も強く,いい写真が撮れない.やかましい「ピィーヨ,ピィーヨ」(縄張り宣言)だけではなく,可愛らしい声や,美しいといえる声でも鳴く.(ヒヨドリの 色んな鳴き声はここで聞ける.
http://www.youtube.com/watch?v=7SBoY1GKNsQ )
波の様に上下動して飛ぶ.30年ほど前は,秋から冬にかけて林から都会に出てくる鳥だったが,現在は一年中いる都市鳥の代表格になった.分布がほぼ日本国内に限られているため,日本を訪れる海外のバードウォッチャーにとっては日本で観察したい野鳥のひとつとなっている.仔飼いにすると非常によく慣れ,飼い主を見分けることから平安時代は貴族の間で現在の競走馬のように個体名が付けられたりして愛玩され,鳴き声の競技会も行われた.
鎌倉時代,伊賀守橘成季によって建長六年 ( 1254年)に編纂された世俗説話集 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には少なくとも 4 話のヒヨドリの話(巻第十六 興言利口 第五六三話 「僧円慶ひえどりの毛をむしるに、家隆詠歌の事」,巻第二十 魚虫禽獣 第六九〇話 「承安二年五月、東山仙洞にして公卿侍臣以下を左右に分ちて鵯合せの事」, 第七〇四話 「宮内卿家隆秘藏の鵯荻葉を侍從隆祐に預くる事」,第七〇五話 「後久我太政大臣通光秘藏の鵯おもながを壬生家隆に贈る事」)が載っている.
特に第六九〇話は高倉天皇の治世1172(承安二)年5月2日、東山仙洞(後白河法皇の御所)で行われた大掛りな「鵯合(ひよどりあわせ)」の記事で,
(後白河法皇の臨席の元)左方、伊予の守親信朝臣、右方、右中将定能朝臣、御前に参る。左右の鳥、同時に持参すべきよしを仰す。即ち両方の鳥を持参して、南の階の間のすの子に置く。一番、左、右衛門の督の鳥、字(あざな)無名丸、左少将盛頼朝臣持参す。
右、五条の大納言の鳥、字(あざな)千与丸、右少将椎賢朝臣持参す。左右ともにうそ(口笛)をふく。その興なきにあらず。(後略)
と法皇の前で貴族らが左右に分かれて持参した鵯を披露しあい、その鳴き声の優劣を競ったとされている.
後白河法皇はことのほかこの「鵯合」を好んだようで,建春門院中納言の日記「たまきはる」(1219年頃)には,
中将光能(みつよし)が鳥合はせられたるに、二(ふたつ)ながらすべて声もせず。さはとて、取り出だす折、うそ吹きたりとて、たゞ一声に勝つを、院の御方に、「主に似て、忍びやかに勝ちぬ」と仰せられしも、おかしう聞こゆ。
とある.
この出来事を井上靖は「後白河院」(1972年出版)で
「中将光能卿が鳥を合せました時、光能卿の鳥も相手の鳥もいつまでも声を出さず、それで引き分けということになり、互いに鳥籠に仕舞おうという時になって、光能卿の鳥だけがひと声鳴きまして、それで勝負は決まりました。その時院は光能卿に、ぬしに似て、しのびやかに勝ったなと仰せになりました。わたくしは、この時初めて、間近かで院のお声というものを聞き、お言葉をお出しになる時のお顔を拝しました。光能卿はさすがに少しだけお顔を硬くされましたが、いかにも院のおっしゃり方には容赦ないところがございまして、聞く側の者には心をえぐられるような、はっとするものがございました。光能卿は院のご寵臣として聞えておりました方だけに意外なことでございました。」と書いて,後白河法皇の性格を印象づける一場面としている.
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8 年前