2012年4月17日火曜日

クサノオウ (1/3) 白屈菜 救荒本草,大和本草,和漢三才図会,広益地錦抄,東莠南畝讖,尾崎紅葉,泉鏡花『白屈菜記』

Chelidonium majus
春に石垣や民家に近い野を彩る鮮黄色の花をもつケシ科の植物.ケリドニンなどのアルカロイドを含む有毒植物だが,古くは「白屈菜」の名で,救荒植物として食用にも用いられた.切り口から出る乳液を皮膚病やイボ,できものの治療に使われたほか,江戸時代には庭に観賞用として植えられた.

明時代に周憲王が編纂した『救荒本草』(飢饉の際,食用となりうる植物を絵図を加えて注疏したもの)に「白屈菜」が記載され(左図,茨城多左衞門等刊 享保元),食用とすることは出来るが,十分な前処理によって有毒成分の除去が必要とよめる.この「白屈菜」が日本にも原生している「クサノオウ」と同定され,記述が日本の本草書に受けつがれた.

クサノオウが現存する日本の文献に現れたのは,日葡辞書(1603-4)とされる(磯野直秀).

貝原益軒『大和本草』 (1709) 巻之九雑草類の「白屈菜クサノワウ」の項には『救荒本草』の引用に続き,「葉は菊に似て大なり.菊の葉よりうすし.一葉毎に五にわかれたる内に又岐あり.三四月に小黄花を開く.花四出なり.実を結んで一房に四五莢あり.莢の内に子ある.うえて生じやすし.其茎葉を折れば黄汁いづ.味苦し.今俗に草の王と云.よく瘡腫を消す.その葉をもみてつくる妙薬也」とある(下図右).花は小さいと『救荒本草』と異なる記述をしているのが注目される.

寺島良安『和漢三才図会』(1713頃) 巻第九十四の末 (湿草類)の記述は『救荒本草』ほぼそのままで,図まで剽窃と思われる(右図左).「『農政全書』に、「白屈菜は田野に生える。苗の高さ一、二尺。初めは叢生で、茎・葉はみな青白色。茎に毛刺(はり)がある。梢の頭で叉が分かれ、上に四弁の黄花が開く。葉は大へん山芥菜の葉に似ていて、花叉も極めて大きい。また漏慮(ろうろ)の葉にも似ていて色は淡い.(荒政草部)」とあるが,特に薬用や食用に関しては言及していない.(現代語訳 島田勇雄,竹島淳夫,樋口元巳訳注,平凡社-東洋文庫)

一方,伊藤伊兵衛『広益地錦抄』(1719)巻之四では,「草王(くさのわう) 菜ハ切レ有てうすくやハらかに四季共にあり.葉をつミきれは黄色成汁出る.瘡腫(そうしゅ)にぬりてよくけす妙薬なり.はな黄色春より秋まて段々にさく.實多クありこまふしてはへやすし.一本うゆれば其後ハたねをまかずして多く生る也.実を手にふるれば必鼻ひてくさめをせり.」(下図右)と観賞用・民間薬用として栽培されていいたことをうかがわせる記述がある.

確かに十分な肥料が与えられて大きく咲いた花はエキゾチックで美しいが,欠点は一つの花の咲いている時期が短く,花びらが直ぐに落ちること.左図左は,毘留舎那谷(びるしゃなや)『東莠南畝讖(とうゆうなんぼしん)』(1731)よりの図.


明治の文豪,尾崎紅葉が胃がんで苦しんでいたとき,弟子たちはこの草に薬効があるとのことで探し回ったことが,泉鏡花が明治36年に書いた『白屈菜記』に,「白屈菜採集に就ては、殆ど總出にて、百方渉獵したりけれど、いづれも平生、垣根に琴の主を差覗く風流と、晦日に落ちたるを拾ふ慾心を禁じたるを以て、道のべの草の風情を解せず。折からの萩桔梗こそ夜目にも知れ、草の王の實の小かなるを探り得で、いたづらに、嫁菜の花の紫を歎ち、名さへ狐ざゝに欺かるゝを悔ゆるのみ。云々」と述べられている.実際の効き目は鎮痛作用くらい.
(つづく)

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