2014年5月8日木曜日

オキナグサ (4/5) ツンベルク,シーボルト,川原慶賀,伊藤圭介,カーチスのボタニカル・マガジン

Pulsatilla cernua (Syn. Anemone cernua)
2007年4月 茨城県南部 植栽
Thunberg "Flora Japonica"
オキナグサにラテン名を付けて西欧に紹介したのはリンネの弟子で,出島のオランダ商館の医師として1775 – 1776年滞日したスエーデン人のカール・ツンベルク (Carl Peter Thunberg, 1743-1828) .彼は『日本植物誌』(Flora Japonica, 1784)に この植物を Anemone cernua として記載した(左図)が,後に Berchtold et J.Presl によって 1820 年に Anemone 属から Pulsatilla 属に転属され,現行の学名となった.

シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン,Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 – 1866,日本滞在 1823 – 1829, 1859 – 1862.) はオキナグサに注目し,1827年の329日に,長崎近郊の岩屋山(標高 475 メートル)に調査に出かけて,「長崎近郊の海抜五百~八百フィートのところにある草木が生えていない尾根では,いつも見かけられる数少ない草地以外,つまり優美なオキナグサや可愛らしいセンボンヤリ,そして香のいいコスミレ,それら三種類以外の植物,草地は,今のこの高さでは例外なく生えないのである.」と記録した.(石川禎一『シーボルト 日本の植物に賭けた生涯』里文出版 (2000))

彼はまた,江戸参府(18262-7月)の途上から見た日本の自然について,日本の植物相は「その多様性と美しさにおいて,世界の他の国々に例を見ないほどである」として,月毎に花咲く木々や鑑賞に適した植物を事細かに観察記録した.その記述の内には「二月は,スミレ・コマスズメ・サワオグルマ・オキナグサ・タンポポ・ムサシアブミ・センボンヤリ・スゲの花々がこれに加わる.」[月は太陽暦]とある(同書).

一方『江戸参府紀行』ジーボルト著 斎藤信訳,平凡社 東洋文庫 87 (1967) の「長崎から小倉への旅」の「二月二〇日〔旧一月一四日〕」の項には,「南と東南に向かって横たわっている前山の麓には、恵み深い太陽がもう日本の植物群の春の使いを誘い出していた。スミレ・コマメズメ(Komame sume)・サワオグルマ・タンポポ(Tambo)・ムサシアブミ,センボンヤリ・スゲの花が咲き始めていた。」とあり,サワオグルマとタンポポの間のオキナグサの記述がない.

そこで,シーボルトの “Nippon” (1897) の原文の該当部を見たところ,
I.2 REISE NACH DEM HOFE DES SJO¯GUN IM JAHRE 1826, Reise von Nagasaki bis Kokura, 20. Februar” An den gegen Süden und Südost gelegenen Vorbergen hatte die wohlthätige Sonne bereits einzelne Frühlingsherolde der japanischen Flora ervorgelockt ; Veilchen, Cinerarien, Anemonen, Löwenzahn 27, Arum ringens (Musasi afumi), Perdicium tomentosum (Sen-bon-jari) und unsere Luzula fingen an zu blühen.
とあり,その脚注には
27. Viola Patrinii DC. (Sumire), V. japonica Langsd. (Komame sume), Cineraria japonica Thunb. (Sawawo guruma), Anemone cernua Thunb. (Sjak masaiko), Taraxacum sinense Dec. (Tanb¯o). 
とあるので,原文にはオキナグサの記述があることが確認できた.

さらに,彼の畢生の大冊,『日本植物誌』(Flora Japonica, 1835 -1870) には,オキナグサが美しい絵(右図,右側)とともに収められ,「4.オキナグサ Sjaguma-Saiko, Kawara-Saiko, Wokina-Gusa Anemone cerunua Thunb. ex Muray
この美しい植物は、軟毛でおおわれた茎といい、帯状に深裂した軟毛のある葉といい、また横向きに開く花が、我々のアネモネ・プラテンシスに実によく似ているが、海抜六五から六五〇メートルの日の当たる乾いた山の草地に生える。春の初め、芳香のあるスミレ類やキネラリア・ヤポニカ、いくつかのスゲなどと一緒に花をつける。日本の園芸では、庭園にしつらえた石組に植えられる。根はシナと日本では苦味剤として有名である。」とフランス語の覚書が付加されていて(『シーボルト 日本の植物』瀬倉正克訳,八坂書房 (1996),日本では赤熊柴胡(シャグマサイコ),河原柴胡(カワラサイコ),翁草(ヲキナグサ)と呼ばれるとしている.

川原慶賀 ホトケサウ
彼が実際に採取したかは分からないが,長崎の稲佐山で採取されたオキナグサの腊葉が,牧野標本館のシーボルトコレクションに現存し(上図,左側),その台紙には,「Anemone cernua Thb., mont. Inasa Nagasaki, シャグマザイコ, 白頭翁(ハクトウオウ)」と書かれている.なお「DATA PAPERにシャグマザイコ、白頭翁(ハクトウオウ)と記したのは郭成章。」との注釈が付けられている.

シーボルトに西洋画描法の指導を受けた川原慶賀は,日本の風俗や多くの植物を描き,その絵はシーボルトが持ちかえり『日本』や『日本植物誌』の挿絵の原画としても使われた.この絵はライデン国立民族学博物館に収蔵されていて,その多くがネットで公開されているが,そのなかに美しいオキナグサの絵がある(左図).但し名称は「ホトケサウ」となっており,この植物が広く親しまれていたためであろう,地方や個人で,種々の名前で呼ばれていたことが分かる.

『泰西本草名疏』は,伊藤圭介 (1803-1901) が,文政11(1828) に長崎にてシーボルトより贈られたツンベルクのFLORA JAPONICA(日本植物誌)をもとに日本産植物の学名(ラテン語)をABC順に並べ,対応する和名と漢名を記した出版物で,リンネの性分類体系にもとづく日本で最初の著作である.伊藤圭介は長崎でシーボルトの指導を受け,分類学の知見を深めていった.圭介が受けた指導は類推するしかないが,シーボルトを通して,植物の体系的な理解と植物自体を正確に記載する方法とその意義を知ったと思われる.『泰西本草名疏』の上梓はその成果のひとつである.その巻上には,「ANEMONE CERNUA.TH. シヤグマザイコ 白頭翁」とある(右図,NDL).オキナグサと言う名が一般的ではなかったのであろう.

この様に,シーボルトとは縁の深いオキナグサではあったが,残念ながら彼が欧州にこの植物を導入したという記録は見出せなかった.

1902年には,英国のキュウ植物園で咲いたと,カーチスのボタニカルマガジンに図(TAB. 7858Anemone cernuaNative of Manchuria and Japan)とともに記されているが,誰がいつ持ち込んだかについては,さだかではない.

その記述文には,オキナグサの花の色(red-brown)が,その仲間としては非常に珍しいこと,サバティエとフランシェが記録した日本のアネモネの仲間の数(23)が,欧州・ロシア(26)・インド(15)などに比べて多いとした.

その上で,「オキナグサ (Anemone cernua) は,日本(Japan),本州(Island of Nipon)の開けた日当たりのよい場所,また,サハリンや朝鮮半島の同様な場所,また満州一帯で見られる.サイズは大小さまざまで,また,多かれ少なかれ,美しく柔らかい絹のような毛で覆われ,また,萼の色も濃いのも薄いのもある.絵に描かれた標本は 1900年に Max Leichtlin 氏から提供され,王立キュウ植物園の高山植物用の冷室で 1902 年に花開いた.」とある.(左図,Figs. 1 and 2, stamens; 3, immature achene: - all enlarged.


オキナグサ (5/5) 宮沢賢治「おきなぐさ」,うずのしゅげ-語源,春と修羅,岩手の地方名(翁・媼)

オキナグサ (3/5) もう一つのオキナグサ. 花壇地錦抄,広益地錦抄,大和本草,和漢三才図会,東雅,用薬須知,東莠南畝讖,絵本野山草,物類品隲,物類称呼,本草綱目啓蒙,物品識名,梅園草木花譜,増補古方薬品考,薬品手引草,本草図譜,八翁草,草木図説,原色日本薬用植物図鑑

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