2014年8月27日水曜日

ヒャクニチソウ-4 金井紫雲『草と芸術』,美術・短歌・俳句

Zinnia elegans
2014年 7月
百日草を描いた日本画家の作品はそれほど多くはない.
大正・昭和時代の美術記者の★金井紫雲1888-1954『草と芸術』1931)芸艸堂(左,挿画 福田 豊四郎1904-1970NDL)

メキシコ原産の草 (略)
花期の長い草 (略)
帝展に出た百日草の繪
繪畫には,最近非常にいろ/\の方面で畫かれるやうになつた.此の花ばかりを畫いたものもあるが,人物畫の添景などには殊に多い.近い例でいへば,帝展の第八回には,榊原縫子氏の『野分』には,ダリヤと共に畫かれ,九回には,田中針水氏が童謡踊をかいた『歌ふまゝに』の中,十回には諫山芳惠氏の『幼き日の夢』の中に向日葵と共に畫かれてゐる如き,何れも少年や少女の畫に添へられてゐるのである.
院展の「盆栽」
藤井啓玉 百日草
日本美術院の方では,十六回展覧會に,宮崎東里氏の出品,『盆栽』の中に,百日草が描かれているし,村田泥牛氏の『母子』と題した作の手に持たせられてゐるのが,此の草である.この『盆栽』といふ作は手法にも新しい處があつて評壇の注意を集めた作である.
「浦島草」の名
最近での力作としては,昭和五年の新興大和繪會展覧会で受賞した藤井啓玉氏の『浦島草』と十七回院展に第二賞を得た高橋周桑氏の『秋草』である.前者の作は,忠實なる寫生であつたが,よく此の花の氣分を捉へていた.後者は線が自由に活躍して,手法の上に新味を見せて好評だった.
洋畫の方面でも,静物として花瓶に挿されたりしたものを描いた作は澤山あるので,一々擧ぐるまでもない.
シニヤツクとマンギヤンの作
曾て,佛蘭西美術展覧会に出品された,シニヤツクの素描『花』は,此の百日草であつたが,花ばかりを壷に挿して葉を入れない處など如何にも日本人とは趣味の異なるところである.
それから,大正十二年に開かれた同展には,マンギヤンの花がある.これは矢張り百日草であつたが,この方にはいろいろの色彩を取交ぜた美しい作であつた.兎に角,洋畫の方では,形より色彩を主とする關係上,此の花やダリヤなどが比較的多く描かれるのである.」
とある.金井紫雲は他にも『花と芸術』『鳥と芸術』『魚と芸術』などの書に,美術・文學に描かれた自然物を記しているが,百日草の項は他の項に比べて短く,美術のみに偏っている.

熊谷 守一
近代では,熊谷守一の単純化された色のはっきりとした画風に合うのか,彼の絵に多く題材として取り上げられている.

★谷上廣南(18791928)『ジンニア,ジンジャー』「西洋草花図譜より」(1917
★熊谷守一(1880-1977)『百日草』『百日草と揚羽蝶』
★山村耕花(本名は豊成,1886-1942)『壺と百日草』
★藤井啓玉(1898-1980)『百日草』(http://www.co-terra.com/library/byobu2005/)

夏の花「百日草」は,短歌には相性が良くないらしく,花言葉「別れた友を思ふ」に誘起された少数の歌を見出し得ただけであった.

天を仰ぎよく笑いたる友ありきヒャクニチソウが咲けば想わる  鳥海昭子 
百日を咲きつぐ草に想ふなり離れゆきたる友ありしこと  木村草弥

熊谷 守一
夏の季語の「百日草」には,多くの句が作られているが,真夏に長く咲く百日草の花を,その力強さや洗練されていない佇まいをポジティブに,あるいはやや疎ましく受け止める俳人の感慨がほの見えて興味深い.たとえば.「百日草百日の花怠らず 遠藤梧逸」「これよりの百日草の花一つ 松本たかし」に対照的なのは,「ああ今日が百日草の一日目 櫂未知子」.

 海鳴の冥さに慣れて百日草 ほんだゆき
 百日草百日の花怠らず 遠藤梧逸
 自得して百日草は愚の如し 遠藤梧逸
 蕊とれし百日草の花一つ 京極杞陽
 尼寺やすがれそめたる百日草 軽部烏頭子

 
谷上廣南 部分
 百日草園児の描く絵さまざまに 行廣すみ女
 中年や百日草に日蔭なく 高橋さえ子
 蝶歩く百日草の花の上 高野素十
 百日草今どきこんな花咲かせ 高澤良一
 百日草咲いて質屋の定休日 高澤良一

 百日草凡の生活をいとしみつ 根岸善雄
 百日草ごうごう海は鳴るばかり 三橋鷹女
 毎日の百日草と揚羽かな 三輪一壺
 物陰や百日草の今も咲く 正岡子規
 百日草腰の低さが腹だたし 南村健治

 製麺所休んでゐたり百日草 秋山幹生
 これよりの百日草の花一つ 松本たかし
 坩堝なす落暉を沖に百日草 松本幹雄
 朝の職人きびきびうごき百日草 植村通草
 一つ咲き百日草のはじめかな 瀬野直堂
 
 物書いて声錆びつかす百日草 清水衣子
 百日草ひと日ひと日を丁寧に 石川文子
 八十路まだ夢みる日々や百日草 千原満恵
 心濁りて何もせぬ日の百日草 草間時彦
 百日草芯よごれたり凡詩人 草間時彦

山村耕花
 情事なき中年百日草咲くよ 草間時彦
 病みて日々百日草の盛りかな 村山古郷
 もの古りし百日草の花となり 大石暁座
 百日草澄江堂の書の装幀 瀧春一
 百日草百日強し荷車曳き 中山純子

 程遠くなりし妻の忌百日草 中村葦水
 水替へるはじめ仏間の百日草 長谷川久々子
 百日草がんこで知れる父と母 坪内稔典
 百日草がんこにがんこに住んでいる 坪内稔典
 百日草在りしごとくに書を重ね 徳田千鶴子

 百日草に魚鱗浴びせて島ぐらし 能村登四郎
 百日草子供の干衣竿に高く 富安風生
 雨やみし百日草に蝶多し 武田操
 会議果ての週末百日草の一枚畑 福富健男

2014年8月20日水曜日

ヒャクニチソウ-3 随筆 閑村,子規,綺堂,河上肇,宮本百合子,岡本かの子,原田光子

Zinnia elegance
2014年 7月
ヒャクニチソウ(百日草)を取り上げた文芸作品は数多いが,そのいくつかを紹介する.
閑村の作は花言葉をモティーフにしているだけで,見るべきものではない.子規の庭には,鴎外から贈られた種からはヒャクニチソウだけが芽吹いたと,その強健さがうかがえる.
綺堂は,園芸家には笑われるが,色鮮やかで花期が長いヒャクニチソウに爽快感さえ感じて非常に愛すると告白している.
河上肇は放翁(中国南宋(1213世紀)の詩人・陸游)の引退後の東籬(庭)にあこがれながら,庭には無花果と紅梅,そして竹を少々植え,余地には「百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、さうした昔から日本にある種類の」「草花を一面に植ゑたい。」と記している.彼の中では幕末の渡来種でありながら,百日草が日本の風土に溶けこんでいたのであろう.
吉井勇は,入院時の6月にはまだ「黒い鱗形のある蕾」であった百日草が,退院した8月には「ちょうど花の真っ盛りの時で、なんだか西陣あたりで出来る織物の精巧なものを見てゐるやうに思われて美しかった。」とその旺盛な生命力の発露が,自分の回復を祝福するように思われたのであろう.

女性文学者の見方は興味深い.宮本百合子は百日草の花は派手ながら,洗練されていない,暑苦しい花と捉えているようだが,岡本かの子は,現代女性の社会進出のためには,あきらめない事が重要だとの認識からか,桜や牡丹のような「直ぐ散ってしまう花には同情が持てない。枯れてもしがみ付いている貝細工草や百日草のような花に却って涙がこぼれる。」とエールをおくる.
百日草の文として出色なのは,クララ・シューマンなどの音楽研究家として名高い原田光子の,没後刊行された『美の愉しさ 随筆集』中の百日草であろう.若いうちは派手で逞しく無神経と思っていた花が,30才を過ぎてからは,逞しく強烈なる故に、ひとしお寂しく深い味のある花と思われるようになった.との感慨は女性として成熟し,この花に自分の人生を重ね「己を識つた三十女の烈しい意欲の情熱」を感じたかったからであろう.ただ,残念ながら,彼女の感慨に反して,ヒャクニチソウは古代オリエントには,ましてや飛鳥には知られていなかった.

平岡閑村『旅路の菫 : 抒情小曲』集文堂(大正15, 1926
花言葉 百日草  別れた友を思ふ
百日草
静かに更け行く/秋の夜の/机上に淋し/百日草
今日も忘れで/過ぎし日の/いとしき君を/物語る
静かに更け行く/秋の夜に/ひとり淋しく/物語る

正岡子規(1867-1902)『小園の記』「ホトトギス」[1898(明治31)年]
我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。始めてこゝに移りし頃は僅に竹藪を開きたる跡とおぼしく草も木も無き裸の庭なりしを、やがて家主なる人の小松三本を栽ゑて稍物めかしたるに、隣の老媼の与へたる薔薇の苗さへ植ゑ添へて四五輪の花に吟興を鼓せらるゝことも多かりき。
(中略)
 去年の春彼岸やゝ過ぎし頃と覚ゆ、鴎外漁史より草花の種幾袋贈られしを直に播きつけしが百日草の外は何も生えずしてやみぬ。中にも葉鶏頭をほしかりしをいと口をしく思ひしが何とかしけん今年夏の頃、怪しき芽をあらはしゝ者あり。去年葉鶏頭の種を埋めしあたりなれば必定それなめりと竹を立てゝ大事に育てしに果して二葉より赤き色を見せぬ。嬉しくてあたりの昼照草など引きのけやう/\尺余りになりし頃野分荒れしかばこればかり気遣ひしに、思ひの外に萩は折れて葉鶏頭は少し傾きしばかりなり。扶け起して竹杖にしばりなどせしかば恙なくて今は二尺ばかりになりぬ。痩せてよろ/\としながら猶燃ゆるが如き紅、しだれていとうつくし。二三日ありて向ひの家より貰ひ来たりとて肥え太りたる鶏頭四本ばかり植ゑ添へたり。そのつぐの日なりけん。朝まだきに裏戸を叩く声あり。戸を開けば不折子が大きなる葉鶏頭一本引きさげて来りしなりけり。朝霧に濡れつゝ手づから植ゑて去りぬ。鶏頭、葉鶏頭、かゝやくばかりはなやかなる秋に押されて萩ははや散りがちなりしもあはれ深し。薔薇、萩、芒、桔梗などをうちくれて余が小楽地の創造に力ありし隣の老嫗は其後移りて他にありしが今年秋風にさきだちてみまかりしとぞ聞えし。
ごて/\と草花植ゑし小庭かな

岡本綺堂(1872-1939)『我が家の園芸』(昭10・3「サンデー毎日」, 1935
桔梗(ききょう)や女郎花(おみなえし)のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄(すすき)、それに次いでは日まわりと鶏頭(けいとう)である。
 こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々(ばんばん)承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
(中略)
 次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々(そうそう)として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花(ほうせんか)などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
 炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下(もと)に咲き誇っているのは、いかにも鮮(あざや)かである。しょせんは野人の籬落(まがき)に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
(後略)

河上肇1879-1946閉戸閑詠 第一集 起丁丑七月 尽辛巳十月』
〔昭和十二年(一九三七)〕
野翁憐稚孫
余この歳六月十五日初めて小菅刑務所より放たる
膝にだく孫の寝顔に見入りつつ庭の葉陰に呼吸ついてをり
                       七月七日

〔昭和十四年(一九三九)〕
(中略)
ことし春の彼岸、郷里より取寄せて百日草、風船かづら、花びし草、朝鮮朝顔などの種子を蒔けり。庭狭ければ思ふに任せざれども、この頃いづれもそくばくの花をつけたり。中につき百日草は、祖母の住み給ひし離家の庭前に咲き乱れ居るを、幼時より見慣れ来し花なれば、ひなびたれどもいと懐し
ふるさとの種子と思へばなつかしや百日草の庭隅に咲く
                      八月七日
(後略)

国立国会図書館
河上肇小国寡民』(昭和二十年九月一日稿)「思ひ出 : 断片の部・抄出」,日本民主主義文化連盟(1946(昭和21)年)
「小国寡民
放翁東籬の記*にいふ、「放翁告帰(退官して隠居すること)の三年、舎東の茀地(草の生ひしげれる土地)を闢く。南北七十五尺、東西或ひは十有八尺にして贏び、或は十有三尺にして縮まる。竹を挿んで籬と為す、其の地の数の如し。五石瓮(かめ)を藝め、南北七十五尺、東西或ひは十有八尺にして贏び、或は十有三尺にして縮まる。竹を挿んで籬と為す、其の地の数の如し。五石瓮(かめ)を藝め、泉を潴めて池と為し、千葉の白芙蕖()を植う。又た木の品若干、草の品(品は類といふほどの意)若干とほさきを雑え又た木の品若干、草の品(品は類といふほどの意)若干とほさきを雑え植う。之を名けて東籬と曰ふ。放翁日に其間に婆娑(歩き廻はること)、其の香を接り以て臭ぎ、其の潁を擷み以て玩ぶ。朝には灌ぎ、莫には組す。凡そ一甲埒(草木の新芽を包める薄き皮の開けること)一敷栄(花のしげり咲くこと)、童子皆な来り報じて惟だ謹む。放翁是に於いて本草を考へ、以て其の性質を見、離騒を探り以て其の族類を得、之を詩爾雅及び毛氏郭氏の伝に本づけ、以て其の比與を観、其の訓詁を窮め、又た下っては博く漢魏晋唐以来を取り、一篇一詠も遺す者なく、古今体制の変革を反覆研究す。
間亦た吟諷して長謡、短章、楚調、唐律を為り、風月煙雨の態度に酬答す。蓋し独り身目を娯み、暇日を遣るのみにあらず。昔は老子書を著し末章に曰ふ、「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽む。隣国相望みて、雞犬の声相聞ゆるも、民、老死に至るまで相往来せず。」と。其の意深し矣。老子をして一邑一聚を得せしめば、蓋し真に以て此を致すに足らむ。於庠、吾の東籬、又た小国寡民の細なる者か。開禧元年四月乙卯記す。」

*東籬 陸遊《東籬記》:“放翁告歸之三年,闢捨東茀地,南北七十五呎,東西或十有八呎而贏,或十有三儘/盡而縮,插竹為籬。如其地之數,薶五石甕,潴泉為池,植韆葉白芙蕖,又雜植木之品若,草之品若,名之曰東籬。放翁曰婆娑其間,掇其香以臭,擷其穎以玩。朝而讙,暮而鉏。凡一甲坼、一敷榮,童子皆來報惟謹。放翁于是攷本草以見其性質,探離騷以得其族類,本之詩而雅,及毛氏郭氏之傳,以觀其比興,窮其訓詁,又下而博取漢魏晉唐以來,一篇一詠無遺者,反復研究古今禮製之變革,間亦吟諷為長謠短章、楚調唐律,酬答風月煙雨之態度,蓋非獨身目,遣暇日而已。昔老子著書末章:自小國寡民,自甘其食,美其美,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死不相往來。’其意深矣!使老子而得一邑一聚,蓋真足以至此,于虖吾之東籬,又小國寡民之細者歟!開禧元年四月乙卯記。”

私はこの一文を読んで、放翁の年に於ける清福を羡むの情に耐へない。私は元から宏荘な邸宅や華美な居室を好まないが、殊に晩年隠居するに至つてからは、頻りに小さな室が二つか三つかあるに過ぎない庵のやうな家に住みたいものと、空想し続けてゐる。(中略)
 放翁は更に樹木の類若干と草花の類若干とを雑へ植ゑたと云つてゐるが、これこそ私の最も真似したく思ふところである。私は大学生時代、下宿に居た頃には、縁日で売る草花の鉢をよく買つて来て、机の上や手摺のあたりに置いて楽んだものである。その頃、そんなことをする仲間は殆ど一人も居なかつたので、君は花が余程すきだと見えるなと、人から云はれ/\してゐたものだ、今、晩年に及んで、もし私をして好む所を縦まにするを得せしめたなら、私は自分の書斎を取巻くに様々なる草花を以てするであらう、私は松だの木槲だのを庭へ植ゑようとは思はない。総じて陽を遮る樹木の類は、無花果だけは私の好物なので例外だが、なるべく少いのが望ましい。紅梅の一株、たゞそれだけで事は足りる。花もつけず実もつけないものでは、私はたゞ竹だけを愛する。しかしそれも脩竹千竿などいふやうな鬱陶しいものは、自分の住ひとしては嫌ひだ。書斎の丸窓の側に、ほんの二、三本の竹があればよいと思つてゐる。その余の空地には、人為的な築山など作らず、石燈籠なども置かず、全部平地にしてそこへ草花を一面に植ゑたい。草花といつても、私は西洋から来たダリヤなど、余り派手なものは好まない。百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、さうした昔から日本にある種類のものが好ましい。さうはいふものの、今の私にとつては、死んでしまふまで、たとひどんな小さな庵にしろ、自分の好みに従つて経営し得るやうな望みは絶対にない。たゞ放翁の文など読んでゐると、つい羨ましくなつて、はかなき空想をそれからそれへと逞くするだけのことである。
 放翁の東籬は羨ましい。だが、老子の小国寡民はまたこれにも増して羨ましく思はれる。
(後略)
げにコーカサスこそは、老子の「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽む」と言へるものの模型と謂つて差支あるまい。私は宏荘な邸宅に住むよりも、小さな庵に住むのを好むと同じやうに、軍国主義、侵略主義一点張りの大国の一員たるよりも、かうした小国寡民の国の一員たることを、寧ろ望ましとする人間なので、これから先きの日本が、どうなるか知らないが、ともかく軍国主義が一朝にして崩壊し去る今日に際会して、特殊の喜びを感ぜざるを得ないのである。
 あゝコーカサス! 京都の市民の数倍にも足らぬ人口から成る小さな/\共和国、冬暖かに夏涼しく、食甘くして服美しく、人各々その俗を楽しみその居に安んずる小国寡民のこの地に無名の一良民として晩年書斎の傍に一の東籬を営むことが出来たならば、地上における人生の清福これに越すものはなからうと思ふ。今私はスターリンやモロトフ等の偉大さよりも、窃に、これらの偉人によつて政治の行はれてゐる聯邦の片隅に、静かに余生を送りつゝあるであらう無名の逸民を羨むの情に耐へ得ない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043595)(http://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/4299_14360.html

吉井勇(1886 - 1960)『随筆 百日草』桜井書店, 1943(昭和18)年
百日草
私の今住んでいる白河の里は,昔から名高い花賣女の出るところで,今でも花畑がかなり多い.朝になると飛び白の三布の前掛けを締め,脚絆に草履がけといふ身ごしらえの,大原女と同じやうな姿をした女房や娘が,頭の上には佛に供へる美しい花切を,一杯積んだ籠を載せて,町中の方へ出かけてゆく.(中略)
さういつた花の中でも,私はここに来てから知った百日草の花に,何となく心を惹かれてゐたのであるが,今度入院するやうになつた六月のはじめには,まだ黒い鱗形のある蕾を,穂の尖に附けてゐるだけで,花を見ることは出来なかつた.しかし八月に入ってから,六十一日ぶりで退院して帰ってきて見ると,それは丁度花の真っ盛りの時で,何だか西陣あたりで出来る織物の精巧なものを見てゐるやうに思われて美しかった.
   黒い鱗形のある蕾
それで今度命拾ひをした再生紀念として,病気が快くなりかけた六月二十一日から,手術のために再入院をする前日の九月二十八日まで,百日間の日記的随筆を集めるに當り,「百日草」と題したも,不圖その美しい花を思ひ出したためなのであって,別に深い意味があるわけではない.
以上後記代わりとして,この随筆集に「百日草」と題した所以をしるして置く.(九月二十八日)

岡本かの子(1889-1939)『現代若き女性気質集』「岡本かの子全集 第十二卷」冬樹社,1976(昭和51)年920日初版第1刷発行
 これは現代の若き女性気質の描写(びょうしゃ)であり、諷刺(ふうし)であり、概観(がいかん)であり、逆説である。長所もあれば短所もある。読む人その心して取捨(しゅしゃ)よろしきに従い給(たま)え。
(中略)
  牡丹(ぼたん)や桜のように直ぐ散ってしまう花には同情が持てない。枯(か)れてもしがみ付いている貝細工草(かいざいくそう)や百日草(ひゃくにちそう)のような花に却(かえ)って涙がこぼれる。
(後略)

宮本百合子(1899-1951)『一本の花』「改造」1927(昭和2)年12月号
        四
 続いて二日、秋雨が降った。
 夜は、雨の中で虫が鳴いた。草の根をひたす水のつめたさが、寝ている朝子の心にも感じられた。
 晴れると、一しお秋が冴えた。そういう一日、朝子は荻窪に住んでいる藤堂を訪ねた。雑誌へ随筆の原稿を頼むためであった。
 ひろやかに庭がとってあって芝が生え、垣根よりに、紫苑、鶏頭、百日草、萩、薄などどっさり植っていた。百日草と鶏頭とがやたらに多く、朝子は目の先に濃厚な絨毯を押しつけられたように感じた。
(後略)

宮本百合子(1899-1951)『町の展望』「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社、1981(昭和56)年530
 町から、何処に居ても山が見える。その山には三月の雪があった。――山の下の小さい町々の通りは、雪溶けの上へ五色の千代紙を剪りこまざいて散らしたようであった。製糸工場が休みで、数百の若い工女がその日は寄宿舎から町へぶちまけられた。娘、娘、娘、素朴でつよい百日草のような頬の娘達が、三人ずつ、五人ずつ到るところに動いて居る。共同温泉が坂のつき当りにパノラマ館のようなペンキの色で立って居た。入口のところで、久しぶりに悠(ゆっ)くり湯で遊んで来た一人の小娘が、両膝の間でちょっと風呂敷包を挾んだ姿で余念なく洗髪に櫛を通して居た。髪はまだ濡れて重い。通りよい櫛の歯とあたたかそうな湯上りの耳朶を早い春の風が掠める。……空気全体、若い、自由を愉しむ足並みで響いて居るようであった。今日は書き入れ日だ! プーウ、プカプカ、ドン、プーウ。活動写真館の音楽隊は、太鼓、クラリネットを物干しまで持ち出し、下をぞろぞろ通る娘たちを瞰下しつつ、何進行曲か、神様ばかり御承知の曲を晴れた空まで吹きあげた。
(後略)

原田光子(1909-1946)『美の愉しさ 随筆集』北斗書院, 1947(昭和22)年
「百日草
百姓家の裏庭や片田舎の停車場の柵のあたりに、夏になるとよく咲いてゐる平凡な草花であるが、この花の個性的な不思議な美しさに氣づいたのは最近である。熱帯地方の花を想はせる、毒毒しいまでに強烈な色彩も、線が堅くて強靭そのものゝ花辧や莖も、私の感覺にはあまりに逞しくあくどく思われて、眞夏の烈しい太陽の光りにたじろぎもせず眞直に空を向いて咲いてゐるこの花には、ついぞ親しみを感じたことがなかつたのである。形の單純で整つた花も色彩も、なんとなく佛くさい花であることも、頭からあつかましい花だと毛嫌ひして、よく観察しようとしない原因だつたかもしれない。百日草叉は千日草と云はれるやうに、一度咲いたら永く散らず、何處にでも育つし、切花にしても丈夫でほつたらかしておいても容易に萎れないから、仏壇に備ヘるに極めて實用的であるから、色彩感が幼稚で、配色に無關心な人々が、あのあくどい赤い色をも平氣で植ゑてゐるのだと、勝手にきめこんでゐたのであつた。
 ところが近年私はこの花に對する考へをすつかり變へてしまつた。逞しく強烈なる故に、ひとしほ寂しく深い味のあるこの花の風情に、いつとなく目醒めたのは、私が三十になつて此の世の儚さと苦しさと、人間の救い難い弱さを識り、なほも眞實に何ものにもめげず明く生きてゆく信念の強さを求めるやうになつたからかもしれない。百日草には人生が薔薇色に思はれる、夢見る乙女の可憐な美しさは求められないが、己を識つた三十女の烈しい意欲の情熱が感じられる。
 百日草の花と莖や葉のつくる極めてシンメトリカルな美は、一寸見ると日本的な花の美しさではなくて、インド的なペルシャ的な遠く西亜地方の香を持ってゐる。印度更紗の圖案のモティーフにしたいやうな花なのである。平安期以降文學に現われたところによると、日本人は櫻や梅、菊桐の如く高貴な花は別にとして、萩、藤、山吹、秋の七草など、どつちかといえばものゝ哀れをたたへた、淡く床しい曲線的な花の美を好む傾向があるのだが、一度目を遠くはるかなる飛鳥、白鳳、天平時代にむけると、灼熱の太陽に向かつて首をもたげてまじろぎもせず咲くこの花の強い美が生き/\と耀いてくるやうな氣がする。白と朱の堂々として單純な古代の建築を背景に、ゆるやかな衣をまとつた健康で明るい飛鳥乙女が、百日草の花を一輪手にした姿は、想像するだに豊かでおゝらかな情景である。そんなことを空想してゐると正倉院の御物の裂地の中にも、有名な鶏頭を圖案化した錦*などとともに、百日草を圖案化したしたものなど或はまじつてゐるのではなかといふような氣までしてくる。
 群がつて咲いていたり、束にしたり、他の花と活けたりすると、毒々しくつてなじめぬ花であるが、あまり大輪でないのを一輪か二輪、ふいりの萱の細葉数本を添へて、無造作に竹籠に活けたりすると、心にくいまでにすつきりとした野趣が溢れてきて愉しい。百日草の八重のものがあるが、これはこの花のあくどさを強調して一層見る人をやりきれなくさせる。あまり土のよくない納屋の裏などに咲いて花も小さく、莖も風にまがつたやうなのが、活けるとかへつて趣があるのである。(十七年八月)」
*鶏頭金襴 鶏頭の花のような、作土文様(作土(つくりつち)草花紋や草花動物紋に、その根付いた土壌までを単一の紋様として配したもの)を並べた図柄の布(上図,東京国立博物館)

ヒャクニチソウ-4 美術・短歌・俳句

ヒャクニチソウ-2 明治・大正・昭和初期の園芸書,四季の花園,園芸十二ケ月,栽培秘訣園芸節用,わが家の園芸

2014年8月17日日曜日

ヒャクニチソウ-2 明治・大正・昭和初期の園芸書,四季の花園,園芸十二ケ月,栽培秘訣園芸節用,わが家の園芸

Zinnia elegans 
2014年 7月
幕末に移入されたヒャクニチソウは,日本の風土にあい,丈夫で花期が長く,色も豊富なことから,短期間で普及した.しかし,あまりにも華美で,日本古来の美意識に合わなかったためであろうか,明治末には「俗っぽい,洗練されていない」とマイナスの評価もされていたようだ.明治・大正・昭和初期の園芸書でのヒャクニチソウの記述を NDL で目次として検索できる書で追跡してみた.

小川安村 編『四季の花園 前編 十二』(明治24年,左図,NDL)には「○百日草 一名浦島草(うらしまさう)と云丈夫なる一年草にして春月種子を蒔付夏月高二尺許に達し七月中旬より十月下旬に至る迄絶へず花を開く紅。白。黄。桃色八重等ありて甚美麗なり切花となすが宜し。」と,庭花としても切花としても評価が高い.

久田賢輝『園芸十二ケ月』(明治39年,右下図,NDL)には,
「八月 ジニヤ 一重もあれば八重もあり、毬のやうなものもあれば藥玉のやうな濃艶なのもある。それに白も黄も赤も紅もあつて、花期長く、花辧丈夫に、夏秋の花壇になくてはならない花です。明治の初年ごろ此の花は田舎でも河原菊叉は浦島草と呼び作って居ましたが、皆一重のものばかりでした。然るに近年米国から種々なのが輸入されたので、亜米利加百人草の名と共に廣く傅はり、各處の花壇を飾るやうになりました。莖は二三尺のものですが、花の形が徑二寸もあらうといふ見事な一年草で、之も春四五月中に蒔くと、二三回の薄肥を施したばかりで、今頃より秋晩くまで咲き誇ります。

九月 ジニア
日本流の風韻をやかましくいふ人には、俗な花だとて顧みられませんが、近来輸入せられました欧米種(おうべいだね)は、なかなか美はしく大きく、花の直徑は三四寸もありまして、赤、黄、紅、緋、白など濃艶な色合は誠に見事で、なかなかそんな理屈を云って居(を)られません。それに大きな株の梢頭(せうとう)に長く咲いて居て、しかも丈夫ですから夏秋の花壇を飾るになくてはならぬ花です。なほ切花としてもよく、また前庭後園のところどころに植ゑて住居をうつくしするも、ふさはしい眺めです。
この花には一重八重藥玉咲などいろいろありますれど、最初輸入せられた時分は一重ばかりであつたらしいのです。さうして何時頃初めて輸入せられたのか分かりませんが、なんでも餘程古いことでせう。その證拠らしのはこの二十餘年前(ぜん)から、越中の山村にカーラギク(唐菊(からぎく)を訛つて河原菊に當てたのらしい)の名で四五本づゝ作り初められて居るといふ事實であります。なほこの花は花期が長いので百日草と呼ばれて居りますが、別に浦島草とも云ひます.これは天竺牡丹*の別名だともいふから、どっちが實際かよく存じません。それに英名はユースエンドエージですが、学名のジニアはゴツチンゲンの植物学者ジョンブレーゴツドジン氏の名誉を祈念するためにつけられたのだそうです。元来墨西其(メキシコ)の半灌木、叉は草本の菊科植物で一属十二三種もあるそうですが、一般に栽培されるのはジニアエレガンス(Zinnia Elegans)といふもの。即ちこの百日草であります。
◈さてこれを培養しますには(以下略)」
と既に一重の花については「俗な花」との評価もあるが,八重の花はそんな理屈を云っていられないほど見事だといっている.*ゼラニウム

田口勝『栽培秘訣園芸節用』(大正3年,左図 NDL)には,「九月の花 / 百日草は墨哥西(まま、メキシコ)原産の丈夫なる一年草で、花期極めて長きより其名を獲、また浦島の故事に擬(なぞら)へて浦島草とも呼ばれ、夙に渡来して洽(あまね)く培養された花であるが、今は殆ど舊名を用ゐるものなく、却つて洋名ジニアを稱呼(しょうこ)として、新来の花の如くに歓迎されてゐる。草の高さ二尺ばかりなるを常とするも、短矮五六寸に充たぬものあり、その中間に位して一尺二三寸に伸びる品類もある。葉腋より枝を分かつこと頗(すこ)ぶる多く、六七月より秋の末に至るまで殆ど絶間なしに花を開く。花は其形状(かたち)菊の如くにして一重あり八重あり千重あり、狂咲きをなすもあれば毬のやうに圓く咲くもあり、色形(くわけい)のまちまちなると共に色彩も多様で、紅白黄樺藍紫色など濃淡も一様でない。而して花の最も大輪なるは直徑三四寸に達し、数日を經(ふ)るも褪色変態せぬので、切花となし盛花に用ゐるのに適し、然(しか)も甚だ美事(みごと)である。
播種(以下略)」
とこの時点で広く栽培されているが,百日草より高級そうなジニアの名で,種々の品種が栽培され,歓迎されていることを記している.

野崎信夫『わが家の園芸』(昭和18年,右図 NDL)の,「第二編 草花と花木/春まき(春うゑ)草花」には,「ひゃくにちさう(百日草) きく科の一年草 別名「浦島草」種子は春に蒔付ける
僕の家ではみんなが百日草が大好きで、毎年のやうに百日草を作つてゐます。初夏から晩秋まで、ほんとうに百日くらゐの長い間、美くしい花を咲きつゞけるので花壇で眺めて楽しむばかりでなく、佛様の花や生花にも利用してゐます。僕の姉さんは百日草の投入れや籠挿しが上手なやうです。
これまで小輪のポンポン咲(作り易くて花の数が多い)も栽培してみましたが、花が立派なのはやはり大輪咲ですね。大輪咲の中でもマンモス(花の直径一五糎位の萬重咲)、ダリア咲、カクタス咲(花辧が筒型の大輪)などは、花の色にも紅・赤・樺・白などがあつて、とても美くしいと思いました。また中輪咲の黄花も良いと思ひました。
作り方(以下略)」
と子供向けの園芸書ながら,栽培のし易さや花の美しさを強調している.

今年我が家で育てたヒャクニチソウの種袋の惹句は「百日草 中輪咲混合,長期間花を楽しめる 68cmの花が咲き、草丈は約80cmになります。花色は赤、桃、鮭、黄、白などの混合です。切花を切ると、次から次へと新しい花をたくさんつけます。」
「百日草(ジニア) ポンポン咲混合,花径約4cmの小輪で、多くの花弁が重なるかわいらしい半球型の花型です。草丈約50cmで、切った後の芽吹きが早く、真夏でも咲き続ける丈夫な品種です。鮮やかで豊富な色彩の混合種です。」

残念ながら,花が咲き始めて最盛期直前に,うどん粉病が蔓延して,全て処分せざるを得なかった.最近はうどん粉病に耐性のある品種も開発されている.また,別種のやや背が低く,花の小さい Z. marylandica や,交配種の種が市販されている.


ヒャクニチソウ-3 随筆 閑村,子規,綺堂,河上肇,宮本百合子,岡本かの子,原田光子

ヒャクニチソウ-1 万延元年遣米使節,新渡花葉図譜,遠西舶上画譜,植物図説雑纂,方言

2014年8月13日水曜日

ヒャクニチソウ-1 万延元年遣米使節,新渡花葉図譜,遠西舶上画譜,植物図説雑纂,方言

Zinnia elegans
 
2014年 6月
メキシコ原産のこの花の種子は,江戸幕府が万延1 (1860) 年に日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに派遣した遣外使節(万延元年遣米使節*)が日本に最初にもたらしたとされている.この使節が持ち帰った種子の中には,ヒャクニチソウの他にもマツバボタン・ペチュニア,スイートピー,カッコウアザミ,パンジー等の観賞価値が高い草花や,アカツメクサやリクチメン,サトウダイコンのような有用植物が新来された**
ヒャクニチソウは,花色が豊富な大きな花を咲かせ,花期が長く水揚げも良く,種が多数とれて,日本の風土に適していて丈夫で育て易いため,比較的短期間で一部の好事家だけでなく,全土の一般家庭に広がったと考えられる.
 
左;新渡花葉図譜 写 (NDL),   右:遠西舶上画譜(東京国立博物館)
★馬場大助『遠西舶上画譜』安政乙卯*叙, には「ジンヤ 亜米利加州?○キスト 地名 ノ産 葉ハツユクサニ似テ短ク二葉相對ス 薄紅花ヲ開ク 上六辧ヨリ七八辧 真?○定メナシ 心蕋多ク先ニ辧ノ黄花ノ細カイモノヲ○ス 花ノ○長クサ○○○レドモ不凋セス 文久二実生シテ白花ヲ生ス」とある(○は解読不能文字).
馬場大助(1785-1868)は江戸後期の旗本・本草家.富山藩主前田利保が江戸で主宰した本草同好会「赭鞭会」の有力会員であった.麻布飯倉の自邸内に多数の舶来植物を植え,それらを実物から彩色写生し,形状や渡来年などを注記した本画譜は,袋綴の間紙に用いた薄墨色の紙が,淡彩の画に微妙な効果を与えているが,注記が読みにくい欠点がある.(*安政2年,1855

★尾張の又日菴『新渡花葉図譜 乾の巻,七十八』には「メリケン産 シンヤイルガンス 花戸ノ名 文久二年壬戌*横濱ヨリ来ル 赤紫色ノ花 又白花黄花薄紅色々アリ 樺色モアリ」とある.*1862
又日菴(ゆうじつあん)は尾張藩の家老をつとめた渡辺規綱(のりつな)(1792-1871),通称半蔵、別号楽々軒.乾巻は天保末年~元治元年(1864),坤巻は元治元年~明治3年(1870)).
添付した圖は,大正3年(1914)に伊藤圭介の孫伊藤篤太郎が母の小春(圭介の五女で,画才があった)に転写してもらった書からである.

とこの時代には,まだ百日草の名前はなかったことが分かる.

磯野直秀『参考書誌研究 第59号(2003) 研究ノート 伊藤圭介編著『植物図説雑纂』について 』 には,文政9年(1826)頃から明治前半に活躍した伊藤圭介(1803-1901)が編集した草類の大資料集.『植物図説雑纂』の二百三十二巻には「百日草ハ近畿花戸ノ称ニシテ、又長生菊・・・我邦ヘハ文久[安政?]七年創(ハジ)メテ米種ヲ伝フ」、「文久二年、仏***」文久二戌、重弁ノ品ノ種子、フランスヨリ持帰レリ***」とあり,米国のみならず,フランスからも八重種を含めて園芸種が渡来していた.残念ながら NDL のデジタルコレクションでは,この巻の閲覧はできなかった.
谷上弘南, 西洋草花図 (1917)

* 万延元年遣米使節:幕末,万延1 (1860) 年日米修好通商条約の批准書交換のため,江戸幕府がアメリカに派遣した最初の幕末遣外使節.安政7118日(186029日)に米船米国海軍のポーハタン号に乗船し,122日(213日)出港し,ハワイ経由で38日(328日)にサンフランシスコに到着した.パナマ地峡を陸路横断後,ワシントンには閏325日(515日)に到着した.批准書交換後, 512日(629日),ニューヨークからナイアガラ号で帰国の途についた.途中サン・ヴィセンテ島ポルト・グランデ(現カーボベルデ),ルアンダ(アンゴラ)を経由し, 711日(827日)には喜望峰を通過し,バタヴィア(現ジャカルタ),香港を経由し927日(119日)に品川沖着,翌日下船し帰国した.

** 磯野直秀「明治前園芸植物渡来年表」慶応大学日吉紀要・自然科学 No.42, 27-58 (2007) には,以下の文献が引用されている.遠藤正治「遣米・遣欧使節齎来の植物を記載した「草木図説遺稿」の発見」,90号,「遣米使節齎来の植物を記載した「草木図説遺稿」の発見」慾齋研究会だよりNo.90 (2000),「慾斎が山本榕室に贈った遣米使節齎来の植物」同誌No.91(2000),「慾斎が山本榕室に贈った遣欧使節齎来の植物」No.93(2001)

*** 文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節),文久元年(1862) - 文久二年(1863),江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と,ロシアとの樺太国境画定交渉のため,文久元年(1862年)に欧州に派遣した最初の使節団が持ってきた思われる.

明治以降に普及した移入花卉としては全国各地に方言が多く(八坂書房編『日本植物方言集成』には37個),古くから一般家庭でも親しまれていたことが分かる.

2014年 7月
花期と一個一個の花の鑑賞期間が長いことから「いつまで:長崎(壱岐島),じゅーにかげつ:鹿児島(鹿児島市・日置),ときしらず:長野(長野)」

浦島と係る名前も多く「うらしま:青森(津軽・八戸・三戸)岩手(上閉伊)山形(東田川)新潟 愛知(尾張)岡山(苫田・御津・岡山)熊本(玉名),うらしまそー:青森(八戸)岩手 山形(東置賜),うらしまのはな:青森(津軽)」とある.これも花の命が長いことに由来するのかも知れない.

花の特長や,形が帽子(シャッポ)に似ていることから「かさねばな:山形(西田川),くるまそー:静岡(志太),しゃっぷばな:山形(庄内),しゃっぼぎく:和歌山(海草),しゃっばばな:静岡(小笠)富山(東礪波・西礪波)岐阜(飛騨・吉城)愛知(知多)和歌山(日高),しゃっぽんぎく:福井(大飯・今立),しゃっぽんのぎく:福井(今立),しゃっぽんばな:福井(大飯)奈良 和歌山(新富・日高),しゃっぽんばな:和歌山(日高),しゃんぽんぎく:奈良(南大和)」

多くの色の花を咲かせることからか,実生から親とは異なる色の花が咲くからか,「ななぼけ:和歌山(海草)島根(出雲),ななへんげ:島根,へんげばな:島根(邑智・仁多)」,美しいことから「びじんそー:鹿児島(肝属),びぞんそ:鹿児島(肝属)」とあり,仏壇に供えるのに適し,またお盆の時期まで咲くことから「ほとけばな:山形(東田川・飽海),ぼんばな:栃木 栃木(安蘇)」とある.

異国情緒をまとっていることからか「おらんだそー:静岡(小笠),おらんだばな:鹿児島(肝属),かごしまばな:鹿児島(肝属),てんじくそー:京都(竹野),とーじんそー:愛知(海部),よこはまぎく:千葉 千葉(長生)」.また,「こごめぐさ:加賀,さっかいそー:山形(北村山),じごくばな:和歌山(西牟婁),せこんどばな:鹿児島,せんだんくわ:鹿児島(鹿児島),ちんだんか:鹿児島(鹿児島市)」の名も記録されている.

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