2015年8月26日水曜日

カラスノエンドウ-15 牧野『増訂草木圖説』『牧野日本植物図鑑』,サバティエ『日本植物目録』,『南蛮寺興廃記』イブキノエンドウ,学名シノニム,方言

Vicia sativa subsp. nigra
2015年5月
前記事の如く,★飯沼慾斎『草木図説前編』には,牧野富太郎による増訂版『増訂草木圖説』があり,この書における「新舊名稱對照表」を見ると,『草木図説』の「スヾメノヱンドウ 小巢菜」の項の「又一種」が,「ヤハズヱンドウ」とされていて,これが現在の「カラスノエンドウ」に該当する.一方牧野は『草木図説』の「カラスノヱンドウ 大菜」は,織田信長がキリスト教宣教師に薬草園として与えた伊吹山に残存する「イブキノエンドウ」と同定し,これらの知見は,『牧野日本植物図鑑』(1940)に反映された.そこでは,「からすのゑんどう」は誤稱で,「いぶきのゑんどう」が正しいとした.また,「ぜんまい」の項では「薇ヲぜんまいニ慣用セシト雖モ是レ誤ニシテ,薇ハすずめのゑんどうノ名ナリ」と薇=スズメノエンドウと考定した.

また,田中芳男と小野職愨による『新訂草木図説前編』(1874-75)の学名を指導したフランス人サバティエの『日本植物目録 (Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium)』(1873-1879)は,特に和名と図に関しては“So mokou Zousetz(草木図説)”と“Phonzo zoufou(本草図譜)”とを参考・引用している.そこでは,Vicia angustifoliaVicia sativa subsp. nigra synonym )の日本名に関して ” JAPONICE. - Karasu, Nojendowa, Nogendô” としている.

なお,欧州原産の「イブキノエンドウ」が伊吹山に野生化して簇生していることは,織田信長が1568年にキリスト教宣教師に伊吹山に薬草園を与えたとする文献の証拠と考えられている.

★牧野富太郎『増訂草木圖説』の〔補〕部分を示すと.
「カスマグサ (中略)
〔補〕本品ハカラスノヱンドウスズメノヱンドウトノ中間ニ立ツベキ相貌ヲ呈スルトシテ之ヲカスマグサト名ケシモノナリ然レドモ是レ固ヨリ該両種間ニ生ゼシ間種ニハアラズ(牧野)」

「カラスノヱンドウ 大菜 (中略)
〔補〕本種ハ江州伊吹山外多ク之ヲ生ズルヲ知ラズ蓋シ往時同山ニ藥園ノアリシ日,特リ同山ニ多キキバナノレンリサウト共ニ外国種ノ入リシモノナラン此両種ハ欧州ニハ普通ニシテ我邦ニハ極メテ罕(マレ)ナリ.カラスノヱンドウハ多年生ニシテ地下ニ根莖ヲ引テ繁殖シソノ外貌ハ多少諸州ノ近道ニ普通ナルヤハズノヱンドウVicia sativa L)ニ似タリト雖ドモヤハズノヱンドウノ如ク越年草ニアラズ(牧野)
また,図(右,NDL)にはその時点の学名が記載されている.(右図,NDL)

牧野『増訂草木圖説』 新舊名稱對照表
現一般和名
原版
新訂版
増訂版
スヾメノヱンドウ 小菜 即翹揺
スヾメノヱンドウ 小菜 即翹揺
スヾメノヱンドウ 小菜 即翹揺
スズメノエンドウ
前條一種 カスマグサ
カスマグサ
カスマグサ
カスマグサ
叉一種
ヤハズヱンドウ
ヤハズヱンドウ
カラスノエンドウ ヤハズエンドウ
カラスノヱンドウ
カラスノヱンドウ 大
カラスノヱンドウ 大
イブキノエンドウ


牧野植物園
★牧野日本植物図鑑(1940
「ぜんまい(紫萁)Osmunda japonica Thunb. (中略)我邦ノ學者従来漢名ノ薇ヲぜんまいニ慣用セシト雖モ是レ誤ニシテ薇ハすずめのゑんどうノ名ナリ.」

「からすのゑんどう(野豌豆)一名 やはずゑんどう・いらら Vicia sativa L. (中略)和名烏野豌豆ハ雀野豌豆ニ對シ其花葉竝ニ莢ノ大ナルヨリ云ヒ叉熟莢ノ黒色ナルモ亦烏ニ對シ頗ル適セリ.」(Vicia sativa subsp. nigra

「すずめのゑんどう(薇)一名 やはずゑんどう・いらら Vicia hirsuta Koch. (中略)和名ハ雀野豌豆ニシテ雀ノ豌豆ノ意ニハ非ズ,コノ草ハ野豌豆(からすのゑんどう)ニ似テ小形ナルニ由リ小鳥ナル雀ヲ其上ニ加ヘ草體ノ小ナルヲ表セリ.漢名 小巢菜竝ニ翹揺(共ニ誤用).」

「いぶきのゑんどう 誤稱 からすのゑんどう Vicia sepium L. (中略)本品ハ歐州ノ普通品ナレド我邦ニ於イテハ其野生トシテハ唯伊吹山下ニ之ヲ見ルニ過ギズ,蓋シ往昔外国ヨリノ渡来品ナラン.(後略)」

★サバティエ(ポール・アメデ・ルドヴィク,Paul Amédée Ludovic Savatier, 1830 1891)はフランスの医師・植物学者で,お雇い外国人医師として横須賀造船所に1866年から1871年まで日本に滞在し,また1873年から1876年に再度滞日した.自ら横須賀や伊豆半島で植物採集を行った他,植物学者伊藤圭介や田中芳男などと交流し,また彼らから標本を入手した.帰国後,フランシェ(アドリアンAdrien Franchet,,1834 - 1900)との共著で『日本植物目録  Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium 』を1873-1879年に出版した.

459. Angustifolia Roth. Tent. fl. Germ. 1, p. 310.V. sativa Miq.
Prol., p. 258.
HAB. in arvis, secus vias : Kiousiou, prope oppidum Kuane (Buerger), Nangasaki (Oldham). Nippon media, circa Yokoska (Savatier, n. 291).
JAPONICE. - Karasu, Nojendowa, Nogendô (ex Miquel).
Observ. - Cette espèce est très-variable ; nous pensons cependant qu’elle ne doit pas être réunie au V. sativa L., comme semble l'avoir fait M. Miquel. Cette dernière peut se rencontrer au Japon, où elle est sans doute cultivée, bien que nous ne l'y ayons jamais observée. On trouve fréquemment, échappé des cultures, le V. faba L., figuré dans le So mokou Zousetz, vol 13, tab., 13, sub : Sora Mame, et dans le Phonzo zoufou, vol. 45, lab. 18 recto. Sub : Sora Mame.

イブキノエンドウ 別名 カラスノエンドウ
1568年 織田信長ポルトガル人宣教師に,薬草を栽培するために伊吹山 50 町四方の土地を与,宣教師らはヨーロッパから薬草類を約3,000種程を移植したと,江戸時代に出版された「切支丹宗門朝記」「南蛮寺興廃記」に書かれている.しかし,出典が通俗書と言われる確かな歴史書ではないことと,現在の伊吹山中にこの薬草園の遺構が確認できず,この薬草園の信用性に疑問がもたれていた.しかし伊吹山に見られる自生する植物の中には,キバナノレンリソウ(Lathyrus pratensis),イブキノエンドウ(Vicia sepium )など,信長の時代に薬草とともに紛れて入って来たのではないかと考えられる欧州の雑草が数種類残っていることから,織田信長と薬草園の逸話は事実だったのではないかと考えられるようになった。

★雪窓・宗崔『南蛮寺興廃記』(慶応四年 (1868)序)

「(前略)不日ニ南蠻寺ヘ帰リ重ネテ信長ヘ訴達シテ曰天帝宗ハ普ク病難貧苦ヲ救テ起臥ヲ安シ法ヲ傳ハテ現安後樂ノ願望ヲ成就ス藥園ヲ給イテ藥種ヲ植其備ヲ成ンコトヲ願フ信長許諾シテ山城近國ノ内其地ヲ選フヘシト有ケレハ両イルマン江州伊吹山ヲ願ヒ得此山ニ登テ五十町四方切開キ藥園トシテ本國ヨリ三千種ノ藥草ノ苗ヲ取來シム伊吹山ニコレヲ植 此故ニ今二百年ノ後迄モ其根此山ニ止テ川芎艾ノ類此山ヲ以テ名産トス(後略)」(右図,NDL)
★シノニム(Wkipedia J., Y-List),V. segetalis, V. angustifolia, V. a. var. segetalis, V. sativa var. angustifolia, V. s. var. nigra, V. s. subsp. angustifolia var. segetalis

★方言,八坂書房編『日本植物方言集成』八坂書房(2001)には,カラスノエンドウの31種の地方名・方言が記録されている.
種子の硬さからか「いしえんどー 新潟(佐渡),いしまめ 鹿児島」
家畜の食草にしたのか「うきざのくさ 千葉(市原),うしえんど 熊本(玉名)」
莢の両端を切って吹いて鳴らす子供の遊びから「し-びび 石川(鳳至) 兵庫(淡路島・津名),しじび-ぴ一 長野(更級),しびび 福井(今立),しびび-やー 長野(更級),しょ-び- 島根(鹿足・益田市),なるまめ 愛知(知多),ぷ-まめ 鹿児島(出水)」
葉の形からか「はさみ 新潟(直江津),はさみくさ 山形(庄内) 三重(度会) 岡山 山口」
野生動物にちなんだ「かにのめのえんどー 新潟(直江津),からすのえんどう 兵庫(洲本・津名),からすのまめ 和歌山(有田),きつねまめ 山形(東田川・西田川・東村山),きつねんかみさし 熊本(玉名)」などがある.
他に「いせんど 能州,いらら 長州 筑前 山口(豊浦・厚狭),えんどーちゃ 岡山(岡山),かわらえんどー 岡山(御津),くさえんどう 千葉(安房),くつわくさ 岩手(盛岡),ざーるいっけん 岡山(御津),すベベ 福井(今立),つずらふじ 尾州,のえんどー 岡山(勝田・和気),はまえんど 香川(東部),ま-めんご 岡山(児島),やまじゃわり 岩手(二戸)」が記録されている.


2015年8月23日日曜日

カラスノエンドウ-14 飯沼慾斎『草木図説前編』ヤハズエンドウ,カラスノヱンドウ=イブキノエンドウ,田中芳男・小野職愨『有用植物図説』“Useful plants of Japan, described and illustrated.”

Vicia sativa subsp. nigra
画像提供:トミーさん
莢が着色し始めたシロバナカラスノエンドウ.2015年5月
飯沼慾斎『草木図説前編』(成稿 1852(嘉永5)ごろ,出版 1856(安政3)から62(文久2))は,草類1250種,木類600種の植物学的に正確な解説と写生図から成る。草部20巻,木部10巻。草部は1852(嘉永5)ごろ成稿,56(安政3)から62(文久2)にかけて出版された.
この書は,江戸末期の植物図譜としては,岩崎灌園の『本草図譜』九六巻と双璧をなす名著として評価が高い.『本草図譜』が蘭書を参考にしながらも,中国本草のシステムを脱し切れなかったのに対し,『草木図説』はリンネの分類体系を組み入れ,学名(ラテン名)を入れるなど,より近代の西洋植物学に範をとった.図も一般に流布している版の図は白黒の木版画ではあるが,植物の特長をよく表し,また,芸術性も高い.
明治になるとこの書は,田中芳男小野職愨(小野蘭山の孫)による「新訂版」,牧野富太郎による「増訂版」などの校訂を経て,日本の植物学の発展に大いに寄与した.

これらの書における「ノヱンドウ」類の記述を見てみると,「スヾメノヱンドウ 小巢菜」の項の「又一種」が,現在の「カラスノエンドウ」に該当し,後に「ヤハズヱンドウ」と,田中,小野,牧野によって校訂された.一方「カラスノヱンドウ 大菜」は後に牧野によって,織田信長がキリスト教宣教師に薬草園として与えた伊吹山に残存する「イブキノエンドウ」と同定された(次記事)

☆「飯沼慾斎(1782-1865)と岩崎灌園(1786-1842)は江戸時代末期のナチュラリストとしてまたボタニカルアーチストとして共に高く評価される.飯沼慾斎の『草木図説』草部二〇巻,岩崎灌園の『本草図譜』九六巻は日本の植物図説の金字塔である.『草木図説』木部は最近になって出版された.『本草図譜』は漢名,和名をあげるが『草木図説』はラテン語の学名や時にオランダ語を加えている.後者はリンネの分類に従い,前者の『本草綱目』による配列より近代化されている.慾斎に大きな影響を与えたのは宇田川榕菴の『植学啓原』と伊藤圭介(1803-1901)の『泰西本草名疏』である.後者はシーボルトに指導のもとツェンベリーの『日本植物誌』の学名をアルファベット順に並べ,これに和名をあてたものである.」(木村陽二郎『ボタニカルアートの世界 日本のボタニカルアート』1987
☆「『草木図説』は、刊行されたものは無彩色だが、原図はすべて色彩画であることは『本草図譜』と同じである。『本草図譜』は記述が簡単に図のなかに記してあるが、『草木図説』では解説は丁寧である。
『草木図説』の増訂第二版は『新訂草木図説前編』(一八七四~七五)として出版された。これは伊藤圭介の弟子田中芳男と小野蘭山の孫の小野職愨によるもので、学名については横須賀製鉄所の医官サヴァチエの意見を参考にしていた。
牧野富太郎校訂の『増訂草木図説』(一九〇七~二二)は四巻本として出版された。文には「補」として牧野の記事が加わり、学名の変更も多いが、牧野による部分図も多く加えられていることは注目すべきである。原図にも部分図のあるものが多く、このために慾斎はある場合は顧微鏡を用いた。灌園の図とくらべると、花部の描写は丁寧で正確である。リンネの分類体系のためには雄しべ雌しべを正確に数える必要があったことは、慾斎の図を立派にさせたのである。」(木村陽二郎『江戸期のナチュラリスト』1988
☆「中国の『本草綱目』に拠らない,西洋植物学的な植物図説の嚆矢と位置づけられている.」(大場秀章『植物学と植物画』2003
☆江戸時代わが国で著作された植物図譜のうち、岩崎常正の「本草図譜」は題名が 示すとおり、中国の博物学すなわち本草学に準拠するところが大きく、それをリンネによる近代的な二命名法を取り入れた本格的な植物図譜を目指したのが本書(『草木図説』)である。草部二十巻が出版され、その後明治8年に学名が補され「新訂草木図説」として同版にて出版*、さらに大正2年牧野富太郎により「増訂草木図説」として浄装本4冊にて出版。その後木部が原稿で残されていたので昭和52年木村四郎編注により浄装本2冊として出版され一具となした。(磯野直秀 NDL 『草木図説』解題)
  
★飯沼慾斎『草木図説前編(草部) 巻之十三』
①「スヾメノヱンドウ 小巢菜 即翹揺
NDL
原野ニ多ク秋深ク子生ス.方茎地ニ布テ一二尺鰭葉ヲ五生ス.吾郷邉大中小ノ三種アリ.本条ハソノ小アルモノニナリ.小葉七八對ヲ以テ一鰭ヲナシ.中筋頭一鬚アリテ二三岐ヲナシ.柄本二三尖ノ托葉アリ.小鰭ハ形披針状ニシテ.頭僅ニ平凹ニシテ中心一尖刺様ヲナス.葉腋寸餘ノ細茎ヲ出シ.上ニ四五花ヲ一側ニ房様穂状ニツク.萼長ニシテ五尖花蛾形.未開ノ時ハ白質微紫暈アレトモ開ニ至テ殆ト白色.只竜骨弁ニ微紅ヲ餘ス.蕋柱蛾形花ノ常套ニシテ後扁莢ヲ結フ.楕圜ニシテ長二三分内ニ二細子ヲ収ム.根ハ細鬚ノ間ニ小米粒ノ如キ珠塊ヲ多クツク.此類三種ミナ然リ.林氏 云.子ヲ煎服シテ痘瘡ヲ排泄シ.マタ咽頭病ニ称用シ.又子粉ヲ貼シテ腫瘍ヲ膿熟スルコト豆粉ノ如シ.附全花郭大葉背一倍圖
(エルフェル ヒルスュトコム)羅 (ロイゲ リンセン)蘭
 (テウェーデン ? ケレイ子 コロック)鐸氏 」

NDL

②「前条一種        カスマグサ
此種ハ前後二種ノ中間ニ立チ.五對小葉ヲ以テ一鰭ヲナシ.小葉尖鋭ニシテ頭末平
直尖刺ノ形ナク.中筋頭ノ鬚岐ヲナサズ.托葉一尖ニシテ分レズ.花梗寸餘ニシテ二花
或ハ一花.前条花ヨリ微大ニシテ.色稍濃ク.莢亦微大ニシテ四子ヲ収ム.叉一種白花ナ
ルアリ.附全花郭第圖 米里堅種ハ花葉全ク同形ニシテ莢濶短ノ興アリ故ニ只莢子ヲ圖ス
              第二種
(エルフェル テラスペルムニム) 羅 (ヒールサーヂフ リンセ)

NDL
③「又一種 (ヤハズヱンドウ)
スヾメノヱンドウ中ノ大葉ナルモノニシテ.披針状葉ノ四對或ハ五對ヲ以一鰭ヲナシテ互生シ.小鰭ハ頭平凹ニシテ中心一尖起アリ.中筋頭ノ鬚三岐ニ分レ.柄本托葉三四尖起ヲナス.葉腋毎ニ短梗一花ヲツク大サ三四分.色浅紅紫.後扁英ヲ結フ長寸餘内ニ十許子ヲ収ム.
Eersten(エールステン) of(又) Grooten(ゴローテン) Krock(コロツク) 鐸氏
鐸氏所載ノ圖説共ニ的當些異ナシ.按ニ林氏 Vicia(ヒシア) sativa (サチファ)羅 tamume(タムメ) Vitsen(ヒッテン)蘭 鐸氏ノ「エールステン.コロツク」ヲ併スレドモソノ説ク処ノ形状ニアツテハ,鐸氏ニ所載ト不同ルコトアリテ.鐸氏ノ的當ナルガ如クナラズ.故ニ今主トシテ鐸氏ノ名ヲ掲ク.」

*書中又時々鐸氏ト云フ是レ「ドドネウス」氏(Rembertus Dodonoeus 即チ R. Dodoenus)ニシテソノ書ハ Cruydt-boeck ナリ西暦一千六百十八年(元和四年)和蘭国「ライデン」府ニ於テ出版セルモノナリ.(牧野富太郎『増訂草木圖説』「巻末ノ言」)
**書中著者能ク林氏ト記セリ是レ和蘭國「ホッツイン」氏(F. Houttuyn)ノ著書ニシテ固ヨリ林氏即チ「リンネ」氏(Karl von Linne' 即チ Carl. Linnaeus)自身ノ著書ニアラズ唯「ホッツイン」氏ガ「リンネ」氏ノ學式ニ則テ以テ天物ヲ記述セルモノニシテ題シテ Linnaeus Natuurlyke Historie ト云ヒ全部三十四巻アリ西暦一千七百六十一年(寶暦十一年)ヨリ同一千七百八十一年(天明元年)ニ亙リテ同國「アムステルダム」府ニテ出版シタルモノナリ(牧野富太郎『増訂草木圖説』「巻末ノ言」)

NDL

④「カラスノヱンドウ 大
伊吹山麓最多ク生ス.草スヾメノヱンドウヨリ大.クサフジヨリ小ニシテ葉橢圓ニシテ頂ニ微缼アル五対ヲ以テ一鰭ヲナシテ互生シ.巻鬚二三岐.托葉二三尖.毎葉腋ニ短梗ニ花アツテ.スヾメノヱンドウノ如クナレトモ.萼彼ノ如ク長カラズ.花差ヤ大ニシテ淡紅帯紫色.後扁莢ヲ結ブ.長一寸餘.内ニ五六子ヲ収ムカラスノヱンドウノ名.古来サス処紛雑分明ナラズ.故ニ余ハ主トシテ此種ニ下ス.
按前条ノ同族ニシテ種名未詳.」

★田中芳男, 小野職愨 選 『草木図説目録 草部』明治7(1874)年
NDL 
「(四二)スヾメヱンドウ              小巢菜    〔荳科〕
  (42SUDZUMENO-YENDŌ           (LEGUMINOSAE.)
              VICIA HIRSUTA KOCH.
 (四三)カスマグサ                                      〔荳科〕
  (43KASUMAGUSA.                          (LEGUMINOSAE.)
              VICIA TETRASPERMA MOENCH.
(四四)ヤハズエンドウ                               〔荳科〕
  (44YAHADZU-YENDŌ.                    (LEGUMINOSAE.)
              VICIA ANGUSTIFOLIA l.
(四五)カラスヱンドウ              大巢菜    〔荳科〕
  (45KARASU-NO- YENDŌ. (LEGUMINOSAE.)

              VICIA SATIVA L.?」(左図)


飯沼慾斎『草木図説』には,羊歯植物の部はないが,『新訂草木図説前編』(1874-75)を出版した田中芳男・小野職愨による★『有用植物図説』服部雪斎,図画(1891)には,「ゼンマイ=薇」「スズメノエンドウ=小巣菜」「カラスノエンドウ=大巣菜」とされている.
以下和文は『有用植物図説 解説一』より,英文は大日本農會から出版された英訳されたこの書 “Useful plants of Japan, described and illustrated.” (1895) より引用した.

第二 葉食類
CHAPTER II. LEAF VEGETABLES.
『有用植物図説. 図画』 NDL 一部改変

九〇 ゼンマヒ                                 薇叉紫蕨
羊齒科ノ宿根草ニシテ山林原野ニ自生シ科根ヲナシ葉ヲ叢生ス春月新芽ヲ萌生スルヲ採リ瀹キテ食シ或ハ晒乾シ或ハ醃貯シ叉新芽ニ被ル所ノ綿ヲ紡ギテ織物トスベシ
90. Osmunda regalis, L., var. japonica. Jap. Jenmai;
a perennial herbaceous plant of the order Filices growing wild on mountains and woody places and forming a large clump. In spring young coiling fronds are eaten boiled or preserved dry or in salt. The white fibres covering the young fronds are woven into clothes.

第十一 畜食類
CHAPTER XI. FORAGE PLANTS.

二六三 スヾメノヱンドウ
荳科ノ越年草ニシテ自生多シ細莖地ニ敷キ叉他物ニ寄ル高二尺餘ニ至リ初夏細梗上ニ小白花ヲ開キ後小莢ヲ結ブ
263. Vicia hirsuta, Kock., Jap. Sudzume-no-yendo ;
a biennial herb growing wild. Its slender stems creep on the ground or climb to other things, being about 2 fts. long. In early summer it bears small white flowers on fine peduncles, being succeeded with small pods.

二六四 カラスノヱンドウ
菜(二六三)ト形状相似テ彼ヨリ大キク花紫色莢長大ナリ
264. Vicia sativa, Miq., var. angustifolia, Jap. Karasuno-yendo ;
it resembles the former, but is larger. Its flower is purple, and pod larger.

二六五 カスマグサ
菜(二六三)ノ一種形状相似テ細梗上ニ淡紫色ノ二花ヲ着ク
265. Vicia tetrasperma, Maench., Jap. Kasumagusa;
a variety of No. 263, resembling in shape, with two light purple flowers on a fine peduncle.

2015年8月17日月曜日

カラスノエンドウ-13 薇はゼンマイ?ハマエンドウ?イノデ?本草図譜,百品考初編,薬品手引草

Vicia sativa subsp. nigra 
2015年5月
江戸後期に刊行された岩崎灌園17861842)による『本草図譜』(刊行1828-1844) は,野生種,園芸種,外国産の植物の巧みな彩色図を掲げ,余白に名称・生態などについて説明を付し,『本草綱目』の分類に従って排列している.草本を主とした巻は文政131830)年に江戸の須原屋茂兵衛,山城屋佐兵衛によって刊行された.また,大正五~十年には活版版(白黒)が本草図譜刊行会によって刊行され,これには白井光太郎校訂の和名,大沼宏平考定の学名が追記された.

この書に於いても,「薇」は朱子による詩経の考釈にしたがい,ゼンマイと考定され,さらに,小野蘭山の考察を踏襲し,本草綱目で時珍が「以藿乃菜之者也」と云っているのは,「」に本草綱目の次の項「翹揺」に記すべき記事を誤記入したのだとして,「=ゼンマイ」を強引に正当化している.さらに,大菜はノエンドウ(カラスノエンドウ),菜及び沙菀蒺●(くさかんむり+梨)はスズメノエンドウ)と考定している.
なお,各図譜記事の文末の()には白井・大沼によって校訂された和名・学名を記す.

一方,山本亡羊は李時珍の記述を優先し「=ハマエンドウ」と考定し,加地井高茂は貝原益軒説に従い「=イノデ」とした.

本草図譜 巻二十 湿草類
図① NDL           図② NDL
「沙菀蒺●(くさかんむり+梨)しゃをんしつり 集解
すずめのゑんどう
又ひめゑんどうともいふ原野草奔中に多し春月實より生す葉は蒺藜に似て小く大巢菜ノヱンドウの如くにして小く先に細き鬚あり花大豆花に似て甚ダ小き紫色後小き莢を結ぶ中の子内腎の形に似たり」
(〔和名〕すゞめのゑんどう. 〔學名〕Vicia hirsuta Koch. 〔荳科〕)図①

本草図譜 巻四十九 菜部 柔滑類二
「水蕨
いので 大和本草に其初生野猪の手に似たる故に名つく
くさぜんまい
鹿蕨草 救荒本草
山野道傍水邉に多し蕨葉に似て小く嫩苗紫色を帯ふ軟々にして薄く日光にてハ春月芽出を摘て胡麻を加へてあへ物にして食ふ山こゞみ澤こゞみの二種ありといふ又羽州米沢にてハ春芽を開ざるとき採て食用とす一種きんぎょじたと云ハいのての葉先花叉をなして魚尾の形をなすをいふ」
(〔和名〕ゐので。大和本草 一名 こゞみ.日光 一名 くさぜんまい〔學名〕未詳)(現学名: Osmunda japonica Thunb.) 図②

図③ NDL
(び) ぜんまい 紫綦(蕨の条下) 迷陽(詩經朱傳) 芽児拳(救荒野譜芽名) 金櫻芽(鄭樵通志)
山野陰地に生ず根ハ貫衆(しヽかしら)に似て春月葉に先て花の莖を生ず小児の拳綿の如き黄褐色毛を被り漸く長ずれバ枝を生じ黄色の粉あり.これ花なり准て葉を生し初生は紅紫色長ずれバ緑色棟(アフチ)の葉に似て鋸歯なし又出羽の産に円葉の物あり春月嫩芽をとり熟して菜となし或は塩蔵し,或は乾して遠に寄るは朱傳に似蕨而差大有芒而味苦山間人食之謂之迷蕨といふ物はぜんまいなり時珍の説に許慎が説分を引き以藿乃菜之者也と云に准て次の翹揺を此條に混入せしなり」
(〔和名〕ぜんまい.一名 ぜんご 上総〔學名〕Osmunda regalis l. var japonica Milde. 〔薇科〕)(現学名:Osmunda japonica Thunb.)図③

図④ NDL
「翹揺(げうやう) はまえんどう(大和本草) くさふじ ときハふぢ こまめ きつねまめ(松前) メナシハル(蝦夷) メナシャル(仝)
武州川崎海濱砂地に生ず春宿根より苗を発し蔓延し豌豆に似て稍小粉緑色夏月葉の間に小穂を生じ數花を開く形紫藤(フジ)の花に似て深紫色後角を結ぶ又豌豆に似て頗る小なりにかに実あり赤小豆に似て褐色ナリ蝦夷人実を食す」
(〔和名〕はまゑんどう. 大和本草 一名 ときはふぢ. 一名 きつねまめ. 松前 一名 くさふぢ. 薩州.一名 こまめ. 一名 メナシハル. 蝦夷〔學名〕Lathyris marotois Bigel 〔荳科〕)(ハマエンドウの現学名:Lathyris japonica)図④

図⑤ NDL
「大菜(だいさうさい)(釈名陸放翁) いらら(大和本草) のゑんどう からすのゑんどう
秋月実より生ゑ春に至りて蔓延す長サ二三尺葉ハ苦参(クラヽ)に似て狭く長く末に細き鬚を出し物に紆ふ春月葉の間に穂を生じ豆の花に似たり紅紫色花を開き後角を結ぶ大サ五六分中に小さき実あり」
(〔和名〕いらら.大和本草 一名 のゑんどう. 一名 からすゑんどう. 〔今名〕つるふぢばかま〔學名〕Vicia amoena Fisch. Var. lanata Fr. et Sav. 〔荳科〕)図⑤

図⑥ NDL
「小菜(せうさうさい)(釈名陸放翁)
すずめのゑんどう かにのめ いぬゑんどう エロムハラキナ(蝦夷) ヲロヒュス(羅甸) コトートコロックエルヘン(荷蘭) 漂揺草(山堂肆考) 野蠶(同上) ●(糸+系)蕎々(救荒本草) 沙菀蒺藜(湿草部)
菜の一種なるのにして原野砂地にあり春月実より生じ形状菜に似て小く花人茎一花莢を結ぶ角中に一二實あり」
(〔和名〕すゞめのゑんどう. 一名 かにのめ. 一名 いぬゑんどう. 一名 エロムハラキナ. 蝦夷〔學名〕Vicia hirsute Koch. 〔荳科〕)図⑥

山本亡羊(17781859)『百品考初編』(1838跋刊)
NDL
一名野豌豆一名大
和名ハマヱンドウ
本草綱目,李時珍曰,即今野豌豆,蜀人謂之菜,蔓生莖葉氣味,皆似豌豆,其作蔬入羹皆宜,項氏云,菜有大小二種,大者即,乃豌豆之不實者,小者即蘓東坡所云脩菜也,此説得之
救荒本草,野豌豆生田野中,苗初就地,拖秧而生,後分生莖叉,苗長二尺餘,葉似胡豆葉稍大,叉似苜蓿葉大,開淡粉紫花,結角似家豌豆角但秕小,味苦,
ハマエンドウ 宮城県野蒜海岸
ニ両説アリ詩傳ニ以蕨而差大有芒而味苦ト云ハ即紫萁ニシテ和名ゼンマイナリ本草ニト云ハ即大菜ニシテ救荒本草ノ野豌豆ト同物ナリ.海濱湖邊ノ砂地ニ自生多シ蔓草ナリ豌豆ニヨク似テ葉數多ク黄蓍ニ似テ大ナリ浅緑色ニシ一穂ニ濃淡相交リテ麗シ後莢ヲ結ブ中ニ豆アリ緑豆ヨリ微大ニシテ褐色ナリ古説ニカラスノヱンドウヲ大菜トシスヾメノヱンドウヲ小菜トス.謬ナリ此レ土地ノ肥瘠ニ因リテ大小アルナリ共ニ小菜ナリ」とあり,カラスノエンドウを大菜,スズメノエンドウを小菜としているが誤りで,単にやせ地で生育のよくない菜(ハマエンドウ)が菜(スズメノエンドウ)であるとしている.

山本亡羊は江戸後期の本草家.儒医山本封山の次男として京都に生まれる.父に儒医学を学び,16歳で小野蘭山に入門して本草学を学ぶ.医業のかたわら儒学,本草学を講義し,家塾を読書室と称して毎年のように読書室物産会を開催.この物産会は亡羊没後は子の榕室,弦堂に継がれ,文化五 (1808)年から文久三 (1863)年にかけて計48回開かれた.深い学識と篤実な人柄で門人は千数百人を数え,蘭山なきあとの京都本草学派の主導者となり,文政九年(1826)には江戸参府途次のシーボルトとも京都で会見している.

加地井高茂 []『薬品手引草 下』(1843)