2010年10月7日木曜日

アオジソ

Perilla frutescens var. crispa f. viridis
青紫蘇の花に蜜蜂集ひ来てつぶらむらさきほろほろ散るかも 中 勘助


日本では生食や天ぷらにアオジソを使うので,「オオバ」の名で野菜としてスーパーなどで売られているが,韓国や,紫蘇の原産地の中国では紫のシソが主流.中国ではシソを以下の様に細かく分類し,日本では青紫蘇が刺身などに添えられていることを特筆している(維基百科,自由的百科全書).
· 回回蘇(カイカイソ,huihuisu)Perilla frutescens var. crispa
  · 紅皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. atropurpurea
  · 皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. crispa
  · 斑紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. rosea
  · 紅紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. purpurea
  · 青紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. viridis
  · 青皺紫蘇 Perilla frutescens var. crispa f. viridi-crispa

江戸時代の本草書には紫のシソだけしか記載されていない.その内容はほぼ同じでたとえば『広益地錦抄』 巻之五 薬草五十七種の「紫蘇」では
若葉はへ出てより料理にす葉おもてむらさきうらうす白くしらけたる悪敷両面共に紫紅にしてあつくちりめんのごとくにしぼあるを上とす葉茎實共に薬種に用
とあり,葉の両面が紫のものを上品としている.

紫のシソの主な色素は、アントシアニンでその70%程度がマロニルシソニン.アオジソにはその色素はほとんど含まれない.東京生薬協会のHP 『常用和漢薬集』 の ソヨウ(蘇葉)[紫蘇葉] には
漢方処方用薬:去痰・鎮咳・健胃・発汗・解熱・解毒(抗アレルギー)作用があり、感冒、気管支炎、神経痛、不眠、魚蟹中毒の嘔吐腹痛の薬方に配合される。通例、アオジソ、チリメンアオジソは使用しない。 とある.

アオジソは戦後に岡山近辺から出荷されてから一般的になって,西日本の一部では「青蘇(せいそ)」とも言われている.確かに青蘇は黒白鳥の様に矛盾している.

庭ではこぼれ種で毎年生えてくるが,抜くのを忘れるとかなり大きく頑丈になり根を張る.そう大量に消費するものでもないので,ほんの数本を残して除去.

2010年10月5日火曜日

サルビア・コクシネア “Lady in red”

Salvia coccinea cv. “Lady in red”Salvia coccinea はメキシコ原産.そこから中央アメリカや合衆国南部に拡がった野草で,米国ではTexas sage, scarlet sage, tropical sage, blood sage と呼ばれている.Salvia coccinea の品種としてはLady in Red の他に白花の‘Snow Nymph’,花の上側が白に近い薄ピンクで下側がサンゴ色 (coral-pink) の‘Coral Nymph’ があるが,赤色の‘Lady in Red’ が原種に近そう.一般にサルビアといわれているサルビア・スプレンデンスとは異なり,ガクは小さく緑色で観賞価値はないが,花は繊細で女性的.一個一個の花の寿命は短いが下から順に咲きあがるので,美しい時期は長い.米国南部での野生種はハチドリの蜜源として知られ,また中国での名前はいかにも漢字の国らしく「朱唇」.


10年以上前,’Lady in Red’ , ‘Snow Nymph’ と ’Coral Nymph’ を種で購入して育てた.それから毎年数個体がこぼれ種で開花.現在では ’Lady in Red’ と ’Coral Nymph’ が細々と花をつける.
右は育種一年目の様子.手前の赤色の繁みは紅葉したコキア(ホウキグサ). 右の赤い小さな花はセンニチコウ”ストロベリー・フィールズ”





おまけはインディアナ州の友人 Dan-san の息子さん,Michael-kun の動画(YouTube)へのリンク.学校の環境クラブ(Habitat club)でオオカバマダラを育て,放蝶した場面("Freedom of a monarch".).ベースボールだけでなく,自然への興味を持っていてくれてうれしい.大きくなった.お父さんに似てハンサム.

2010年10月4日月曜日

タコノアシ

Penthorum chinense 日本のほか東アジア一帯に分布.湿地や沼,休耕田など湿った場所に生育していて,そう珍しいものではなかったが,生育区域の開発と,同じような環境を好むセイタカアワダチソウとの生存競争に負けたためか,多くの県で絶滅危惧2類に指定されている.国のレッドデータブックによると総個体数約6万で,100年後の絶滅確率は約2%,約300年後には絶滅すると予測されているが,最近整備された湿地に一気に繁殖した光景もみられた.

草丈は1mほど,秋に放射状に数本に分かれた茎に薄緑色の丸い小さな花をつけ,上から見ると吸盤のついた蛸の足のよう.晩秋になるとさく果が熟しまた全草が紅葉し,ゆで蛸のようになる.中国では扯根菜 che gen cai と呼び,若葉を食用とするとの事.

里山として保存活動をしていた水田の水路に生育していた個体の種をバケツに播いたら発芽.順調に成長し,花も咲き,結実.落ちた種からの発芽率は良いようだ.
左:水路に成育している個体の花
右:晩秋の湿地でのゆでダコ

2010年10月2日土曜日

番外編 サフラン(1) "La Botanique de J. J. Rousseau" P J Redoute, J J Rousseau, Roussea simplex

Crocus sativus


P.J. Redouté 『J. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau』 (1805) 多色銅版

18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778)は,フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした数多くの著作で知られるが,特に後半生は植物学にも多大の興味を持ち,余暇は近隣の森林草原水辺で植物観察をし,記録をとるのを無上の喜びとした.1762年に『エミール』がその「サヴォワの助任司祭の信仰告白」がもとで宗教界の反発をうけ,パリ当局から禁書にされ逮捕状も出たため,パリを脱出しスイスに渡ってイヴェルドン,次いでモティエに逃れた.

1762年からの3年間,彼は当地の医師ディヴェルノワから植物学の体系的な指導を受け,以降この学問に熱中した.彼は,市民権を取ったヌーシャテルのサン・ピエール島で毎日のように植物を観察採集し,咲き誇る野草たちに孤独な心を慰めたのだった.

1770年にパリに帰った後は王立植物園の勉強会に参加し,リンネとの手紙のやり取りをし,『植物学に関する手紙 Lettres sur la botanique 』(1771年から1774年まで知人のドレッセール夫人に宛てて,彼女が幼い娘に身のまわりの植物を説明できるよう,植物学の基礎を教えるために送られた8通の私信),や『植物学用語辞典のための断片 Fragments pour un dictionnaire des termes d'usage en botanique 』といった学術的な著作をも執筆した.

彼の死後,これらの著作を基にした「基礎植物学に関する書簡」(Lettres élémentaires sur la Botanique,1782年ジュネーヴで初版)が出版された.その反響は極めて大きく、パリ王立植物園の A. L. ジュシューはルソーの試みを高く評価し、また、イギリスでは、ケンブリッジ大学植物学教授の T. マーティンによって続編をふくむ英訳 'Letters on the elements of Botany' が1785年ロンドンで初版が刊行され大きな成功を収めた.

上に述べたルソーの植物学の著作及び T. マーティンの英訳は "Biodiversity Heritage Library" のRousseau, Jean-Jacques のサイト(http://www.biodiversitylibrary.org/creator/15)からDLできる.

また,ルソーと植物学に関しては小林拓也教授の以下の報文が興味深い(Articles en japonais).
«Jean-Jacques Rousseau botaniste: à l'aune de ses annotations sur La Botanique de Regnault», Études de langue et littérature françaises, 90, 2007, p. 154-167.

「花の画家」「花のラファエロ」として王侯貴族から愛され,花のように華やかな人生を送った P. J. ルドゥーテの代表作『バラ図集』『ユリ図集』『多肉植物図集』は当時の植物図の最高のものといわれるが,これらに描かれた華やかな園芸花卉や珍奇な外来植物とは一線を画す,ありふれた花を描いた美しい図譜に『J. J. ルソー氏の植物学 La Botanique de J. J. Rousseau (1805)』がある.

荒俣宏氏の『花の図譜』 ルドゥテ伝 によると
表紙とムラサキツメクサ(Trifolium pratense)図,  MoBot
「ルドゥテが恩人レリティエの図書室でJ-J. ルソーの植物学の著作と出会った逸話は興味ぶかい.あるときレリティエは書棚からルソーの著作を示し,「これは,実にすばらしい書物だ.いつか君は,この本のために植物の図版を制作するべきだね.」しかしルソーと聞いたルドゥテは,「とんでもありません」と叫んだ,と評伝 “THE MAN WHO PAINTED ROSES - Pierre-Joseph Redoute” の著者アントニア・リッジ Antonia Ridge は書いている.
「ルソーといえば危険思想の持ち主で,しかも自分の子を平気で捨てる鬼のような男だというではありませんか.そんな人物に,すばらしい植物学書が書けるはずはありません」彼はそう言って,ついにルソーの本を開こうとしなかった.
しかしその後,植物図の大家となったルドゥテはふとしたきっかけでルソーの著作を読み,全編にあふれる優しさと自然への愛に接して涙を流した.鬼のような男とばかり思っていたルソーが,実はこのようにすばらしい自然史学者であったとは!
彼は若き日の短慮を後悔し,レリティエの予言通り,1805年にこの本のために65葉のスティップル・エングレーヴィング(stipple engraving ,点刻彫版法)の技法を駆使した美しい多色銅版画を挿絵とした四折大判の 『J. J. ルソー氏の植物学 La botanique de J.J. Rousseau :ornée de soixante-cinq planches, imprimées en couleurs d'après les peintures de P.J. Redouté.』 を制作出版した.」

なお,この本の全文・全画譜は ”Botanicus Digital Library” の http://www.botanicus.org/title/b12074470 で閲覧・DLできる.

この書の表紙に描かれている植物は,英国の James Edward Smith  (1759-1828) によって,J J ルソーに献名された,モーリタニア島特産のエスカロニア科(Escalloniaceae)の Roussea simplex である.

この植物はつる性の灌木で,熱帯性の美しいヤモリ(Phelsuma cepediana)によって,受粉・種子撒布されていて,爬虫類が花粉運搬者という珍しい植物として有名である.種はヤモリの腸を通過することによって,種の表面を覆っている発芽抑制物質が除去され,芽を出すことが出来る.現在では,島に持ち込まれた外来生物によって,絶滅に瀕している.

J. E. Smith はこの属と種の原記載文献(Pl. Icon. Ined. 1: t. 6. 1789)で,「息絶えるまで,植物を研究する喜びを手紙の形で記した,かの有名な J J ルソーを記念してこの名をつける.彼はリンネとも手紙で度々交流していた.云々(訳に自信なし)」と命名の理由を記した(左図 MoBot).
“In memoriam celeberrit Jean Jacques Roussau, qui epistolas amoenissimas de re botanica scripsit, & amabilem scientiam ad extremum usque halitum coluit & ornavit. Linnaeus, qui saepius cum illo per epistolas consilia communicabat, in manuscriptis planiam nomini suo consecraverat. Cum vero haec, ex Linnaei filii hallucinatione, alio nomine (Russelia) evulgata est, genus novum pulcherrimum & maxime singulare Rousseam dixi.”

また,Roussea simplex Phelsuma cepediana の美しい生態画像は Plants & Fungi At Kew (http://www.kew.org/science-conservation/plants-fungi/roussea-simplex) で見ることが出来る.

番外編 サフラン(2) リンネ・ルソー・ルドゥーテ・ラスキン・漱石 Linne, P J Redoute, J J Rousseau, J Ruskin, Soseki

2010年9月30日木曜日

シロバナマンジュシャゲ

Lycoris ×albiflora Koidzシロバナマンジュシャゲは1924年に小泉源一が栽培品を基に新種として記載し,奄美大島を原産地と推定したものである.九州地方及び済州島に自生するとも言われている.開花直後は赤味や黄味が目立つが,やがて白花となる.外部形態の特徴から牧野はヒガンバナとショウキズイセンの雑種と考えたが,その後の染色体の研究から牧野説が裏付けられた.種は出来ず,球根(鱗茎)が分かれて増える.

山口の姉からもらった球根が増えた.関東地方では珍しいらしい.庭の個体は親のヒガンバナとショウキズイセンの血の濃さに従ってか,咲き始めは赤味が濃い個体や黄味が濃い個体があり,終わりになっても真っ白になることはない.咲く時期はヒガンバナよりやや早く,葉は幅広い.花茎の色はやや紫がかっている.


左は2009年秋の小石川植物園のヒガンバナと共に咲くシロバナマンジュシャゲ .純白に近い.

ヒガンバナの仲間の生物学(特に染色体)・文化史については以下の栗田子郎千葉大学名誉教授のHPが非常に興味深い.

~ ヒガンバナ属と呼ばれる植物 ~
http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/lycoris.contents.htm
ヒガンバナの民俗・文化誌 Folkculture of Lycoris radiata
http://www5e.biglobe.ne.jp/~lycoris/folklore-ethnobotany.htm

2010年9月27日月曜日

ゴジカ

Pentapetes phoenicea
現在では,あまり見かけないが,古くから栽培されていた熱帯アジア原産の多年草(日本では春蒔き一年草として扱う).室町時代にはかなりポピュラーだったと見えて,伝 土佐広周(1492年没)の『四季花鳥図屏風』 (サントリー美術館) の左隻 中央部に描かれている.また,1645年本年刊の「毛吹草」に名が出て,種類と呼称が広まっていた事を示す.

江戸時代の園芸書・博物書では
寺島良安の『和漢三才図会』(1713頃)には
「金銭花(ごじくは) 夜-落-金-銭  子午花
    倭名抄俗ニ云 古-無-軟
    今云 午子花

画譜に云ふ、外国より出づ。梁の時、外国より花を進(たてまつ)る。朶は銭の如く亭として愛すべし。
倭名抄に云ふ、梁の簡文帝に金銭花の賦有りと。
 △按ずるに、金銭花は葉狭く長く、鋸歯有り。五六月に花を開く。深紅色、形円くして銭の如く、其の色状甚だ愛すべし。日午(ひる)盛んにして夜子(よる)落つ。俗に呼んで午時花と曰ふ。金盞花を以って金銭花と為すは甚だ誤りなり」として,花の形も色も甚だ愛すべしと,左図の様に高く評価されている.

貝原益軒『花譜』(1694)巻之下 七月
「午時紅
瓶史に出たり.篤信曰,倭俗に午時花という.舊根よりは出ず.毎春種子(たね)を下す.日中に花ひらく,故名づく.」

貝原益軒『大和本草諸品図』 (1709)上
「六七月紅花を開く.俗に午時花と云」 (下図,左下)

伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)
後時花(こしくわ) 花形よし色上々くれなひ此花日中ニひらき明朝落ル故二午時花共又五時花共書りすべて花ハちりてはしぼむならいなり後時花ハ落花久敷しぼむ事なし故ニ落花を盆上ニのせ花籠に入て見物する又此花数多(あまた)あつめてさらりとちらすに地に落て百(もも)に一ツも下へむかず

伊藤伊兵衛三之丞画・同政武編『草花絵前集』 (1699) (左図,右)
よく特徴を捉えた挿絵.テキストには
午時花
〇花の色くれない、此花日中に開,其夜中たもち、明朝落花せり、其次のつぼみ段々左のごとく、〇五時花とも、○後時花とも書り。又鼓子花といふ草ありて、牽牛花のやうに花もろくして色くれなひなれば、午時花の事かといへり。本草を按るに鼓子花は田野中に甚だ多く、鋤芠芟すれども又生すこと、しからば此事にあらず、午時花は一年草にてくさきりて生す。 とある.

数年前に種をタキイから買って育てた.花色は珍しい朱紅色.一日花で,しぼまずに散るが,バランスの関係か,落ちた花は全て上を向く.まさに花壇地錦抄の記述通り.
垣根に仕立てたのが上の写真.継代に失敗し今は育てていない.

2010年9月26日日曜日

ヒガンバナ

Lycoris radiate
白い花なら百合の花
黄色い花なら菊の花
悲しい恋なら何の花
真赤な港の彼岸花

(後略)
『港の彼岸花』 歌:浅川マキ 詩:浅川マキ,なかにし礼 曲:鈴木薫

中国からの史前帰化植物.日本にあるものは三倍体で実を結ばず,球根で増える.原産地(中国長江流域以南)では二倍体(コヒガンバナ)と混在するとのことなので,ここで四倍体との交配で誕生し,大きな繁殖力を得たと思われる.球根(鱗茎)にはリコリンなどのアルカロイドを含むため有毒.日本には稲作と共に移入され,ノネズミの害を防ぐために畦などに植えられたのが野生化したと考えられる.

鱗茎に澱粉を含み,十分な毒抜きをすると食用になる救荒植物であるが,植松黎著『毒草を食べてみた』に拠ると決して美味しくはない.花は不吉な花として嫌われこともおおいが,江戸時代の園芸書 伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695) 巻四・五「草花秋之部」に「曼朱沙花(まんしゅさけ) 花色朱のごとく花の時分葉ハなし此花何成ゆへにや世俗うるさき名をつけて花壇などにハ大方うへず」 とあり,また,同人の『広益地錦抄』(1719) 巻五「薬草五十七種」に「石蒜(せきさん)是もさんしこのごとくなれども花ハ八月中の比ひらく色極朱紅花しべ長ク多く出ル俗に曼珠沙花(マンジュサケ)といふ根ハ水せんのことくなるたまなり此根をこまかにすりて粘(ノリ)におしまぜ屏風ふすまの下張に用れはいつまても蟲はむ事なしとて多く表具細工に用ユ」とある (「さんし」とはナツズイセンのこと).

古くから身近にあって歌謡でも親しまれているが,個人的には2010年1月17日に急逝された浅川マキさんの『港の彼岸花』が耳に残る.また,マキさんの名曲 『赤い橋』 詞:北山修 曲:山本幸三郎 に歌われる「赤い花」は彼岸花だろうと信じている.

不思議な橋が この町にある 渡った人は 帰らない
昔、 むかしから 橋は変わらない 水は流れない いつの日も
不思議な橋が この町にある 渡った人は 帰らない

いろんな人が この町を出る 渡った人は 帰らない
赤く赤く 塗った 橋のたもとには 赤い赤い花が 咲いている
不思議な橋が この町にある 渡った人は 帰らない
(後略)

上から見ると,雄しべ雌しべが放射状につき出ていて,種小名 radiate がなるほどと思われる(左).